創世記 黙想14【アブラハムの自信感】220914(水) 枝川愛の教会
創世記 24:1~924:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。24:2 アブラハムは、自分の全財産を管理している、家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。24:3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私はカナン人の間に住んではいるが、あなたは、その娘たちの中から、私の息子の妻を迎えてはならない。24:4 あなたは、私の国、私の親族のところに行って、私の息子イサクに妻を迎えなさい。」24:5 しもべは彼に言った。「もしかしたら、その娘さんが、私についてこの地に来ようとしないかもしれません。その場合、ご子息をあなたの出身地へ連れて戻らなければなりませんか。」24:6 アブラハムは彼に言った。「気をつけて、息子をそこへ連れて戻ることのないようにしなさい。24:7 天の神、主は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、『あなたの子孫にこの地を与える』と誓われた。その方が、あなたの前に御使いを遣わされるのだ。あなたは、そこから私の息子に妻を迎えなさい。24:8 もし、その娘があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの、私との誓いから解かれる。ただ、私の息子をそこに連れて戻ることだけはしてはならない。」24:9 それでしもべは、主人であるアブラハムのももの下に自分の手を入れ、このことについて彼に誓った。 アブラハムが家の最年長のしもべに、アブラハムの故郷ハランに行ってイサクの妻になる人を連れてくるように命じます。遠いところまで行って嫁さんを見つけることも大変ですが、見つかったとしても、カナンの地まで来る人がいるでしょうか?しもべはそれを懸念して、イサクをハランに住ませ、そこで結婚させてもいいでしょうかと尋ねますが、アブラハムはできないと答えます。このようにイサクが結婚するためには条件が厳しいですが、神様の約束を信じるべき時の現実と状況というのはいつも厳しいです。その厳しい現実から神様が働かれるからです。今回においてもアブラハムに必要なのは実力ではなく、信仰です。 アブラハムは変わりました。24章の初めに、「主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた」と言いました。アブラハムはその間、あらゆるところで神様を経験してきたのです。老年のアブラハムは確かな信仰を持っています。信じようと努力するのではなく、神様の人格性がアブラハムの中にあって、神様のみことばを約束を信頼する信仰があります。常識と合理の目から見ると、可能性のない無謀なことかもしれませんが、アブラハムは、神様がイサクの妻になる女性を備えられていることを信じています。 神様はアブラハムに生まれ故郷と家族を離れるように命じました。それから繁栄の祝福を約束されます。その約束のときからイサクが生まれることは決まっていますし、イサクの妻になる人も決まってします。信仰の人は信仰と持ってそれを取る人です。信仰が明らかになるために、現実は暗いのです。神様が働かれます。信仰があればそれを得ますが、信仰がなければ何も得られません。 アブラハムはしもべに神様が備えられている人を見つけ、連れてくるように言います。これがみことばに従い、約束に生きる人の自信感です。約束のある人の堂々に歩みます。信仰があるので、心配の代わりに余裕を持ち、不安の代わりに平安を保ちます。神様が選ばれ、召され、約束されたことを経験すると、信仰はますます成長します。疑わしくいらいらしているから、神様を経験することができません。行けばきっと見つけるという信仰の自信感を持つためには、神様の約束の中に生きる従順が前提になります。