창세기 묵상4【정녕 죽으리라】220804(목) 에다가와 사랑의 교회

창세기 2:4~172:4 여호와 하나님이 천지를 창조하신 때에 천지의 창조된 대략이 이러하니라2:5 여호와 하나님이 땅에 비를 내리지 아니하셨고 경작할 사람도 없었으므로 들에는 초목이 아직 없었고 밭에는 채소가 나지 아니 하였으며2:6 안개만 땅에서 올라와 온 지면을 적셨더라2:7 여호와 하나님이 흙으로 사람을 지으시고 생기를 그 코에 불어 넣으시니 사람이 생령이 된지라2:8 여호와 하나님이 동방의 에덴에 동산을 창설하시고 그…

創世記 黙想3【委ねられた創造】220803(水) 枝川愛の教会

創世記 1:24~2:31:24 神は仰せられた。「地は生き物を種類ごとに、家畜や、這うもの、地の獣を種類ごとに生じよ。」すると、そのようになった。1:25 神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた。1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」1:29 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。1:30 また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。1:31 神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。2:1 こうして天と地とその万象が完成した。2:2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。2:3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。   神様は陸地の生き物を造られた後、神様の似姿に人を造られ、人にその統治を委任されました。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」と言われたのはいわゆる「文化命令」です。文化と翻訳される「culture」は、本来、土地を耕作するという意味のラテン語から来た言葉です。耕作は神様の一次的資源を用い、二次的創造をする行為です。神様が創造された太陽の光と雨と地を同じく利用しても、研究し、実践し、挑戦する人と、そうでない人の結果は確かに異なります。   教育ではいつも創意的な教育ということを叫んでいますが、なぜ創造性が重要なのでしょうか。アイ・フォンを作ったスティーブ・ジョブは、すでにあったデザインを創造的に再生し、すでにあったプログラムをスマートフォンの中に集めました。人々は、彼を創造的であると言います。ないものを作ったのではなく、すでにあるものを創造的に活用したわけです。ソロモンの知恵が宣言したように、一次的資源という意味では、日の下に新しいものはありません。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を支配せよ。」ということは創造的なものであり、創造的でなければできないことです。現状を維持せよという言葉はどこにもありません。神様が人を造られたのは、決まった仕事をさせるためではありません。機械的に転落してしまった人間は自己存在の悲惨さを気づかなければなりません。   もちろん、すべての主権は神様にあります。人間が力を持っているからではなく、パウロの告白のように私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるからです。支配を委任された人間は統治のために物事を考えなければならず、主体的に挑戦し、作り出し、成し遂げていかなければなりません。神様を認めない人間の野望のことではありません。神様の主権を認める人間の責任ある創造的な使命を言うのです。宣教の究極の目的は、イエス・キリストを通して神様が創造秩序を回復することです。私たちの宣教が神様の中で創造的なものであり、それが生める、増える。地に満たすものになることを願います。

창세기 묵상3【위임된 창조】220803(수) 에다가와 사랑의 교회

창세기 1:24~2:31:24 하나님이 가라사대 땅은 생물을 그 종류대로 내되 육축과 기는 것과 땅의 짐승을 종류대로 내라 하시고 (그대로 되니라)1:25 하나님이 땅의 짐승을 그 종류대로, 육축을 그 종류대로, 땅에 기는 모든 것을 그 종류대로 만드시니 하나님의 보시기에 좋았더라1:26 하나님이 가라사대 우리의 형상을 따라 우리의 모양대로 우리가 사람을 만들고 그로 바다의 고기와 공중의 새와 육축과 온 땅과…

創世記 黙想2【神様の照明】220802(月) 枝川愛の教会

創世記 1:14~231:14 神は仰せられた。「光る物が天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。1:15 また天の大空で光る物となり、地の上を照らすようになれ。」すると、そのようになった。1:16 神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼を治めさせ、小さいほうの光る物には夜を治めさせた。また星も造られた。1:17 神はそれらを天の大空に置き、地の上を照らさせ、1:18 また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良しと見られた。1:19 夕があり、朝があった。第四日。1:20 神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」1:21 神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを良しと見られた。1:22 神はそれらを祝福して、「生めよ。増えよ。海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と仰せられた。1:23 夕があり、朝があった。第五日。   神様の照明により、世界は色とりどりに現れます。海の魚と空を飛ぶ鳥を照らす煌びやかな太陽光、夜空に輝くロマンチックな星光は、すべて神様がデザインされた作品です。詩篇 8篇 の星明かりの下に現れたダビデの感動が思い起こされます。   「水は、しだいに地の上から引いていった。水は百五十日の終わりに減り始めた。箱舟は、第七の月の十七日にアララテの山地にとどまった。一方、水は第十の月まで減り続け、第十の月の一日に、山々の頂が現れた。四十日の終わりに、ノアは自分の造った箱舟の窓を開き、烏を放った。すると烏は、水が地の上から乾くまで、出たり戻ったりした。またノアは、水が地の面から引いたかどうかを見ようと、鳩を彼のもとから放った。鳩は、その足を休める場所を見つけられなかったので、箱舟の彼のもとに帰って来た。水が全地の面にあったからである。彼は手を伸ばして鳩を捕らえ、自分がいる箱舟に入れた。시편8:3-9」   人間は自分を光を放そうしていますが、人間には自己発光の機能はありません。神様が光を照らしてくださる時、人間は尊く現れますが、光が消えてしまうと、まるでいないように退いていきます。人間が意味をもって輝くのは、神様が光に照らされる時です。見栄えのない小さいものにも、神様に光を照らされると、他のどんなものよりも美しく、優れたものになりえます。私が持っている小さなものにも、神様が照らしてくださることを祈ります。

창세기 묵상2【하나님의 조명】220802(화) 에다가와 사랑의 교회

창세기 1:14~231:14 하나님이 가라사대 하늘의 궁창에 광명이 있어 주야를 나뉘게 하라 또 그 광명으로 하여 징조와 사시와 일자와 연한이 이루라1:15 또 그 광명이 하늘의 궁창에 있어 땅에 비취라 하시고 (그대로 되니라)1:16 하나님이 두 큰 광명을 만드사 큰 광명으로 낮을 주관하게 하시고 작은 광명으로 밤을 주관하게 하시며 또 별들을 만드시고1:17 하나님이 그것들을 하늘의 궁창에 두어 땅에…

創世記 黙想1【恵みの始まり】220801(月) 枝川愛の教会

創世記 1:1~131:1 はじめに神が天と地を創造された。1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。1:4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。1:5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。1:6 神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」1:7 神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。1:8 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。1:9 神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。」すると、そのようになった。1:10 神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを良しと見られた。1:11 神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」すると、そのようになった。1:12 地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。1:13 夕があり、朝があった。第三日。   「地地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり2」創造前は「カオス」、つまり無秩序であり、神様の創造、「コスモス」の後には世界の秩序が整えられた。秩序とは、道徳的な規範を言うのではなく、世界が作動する原則です。光があって明るさと暗さ、昼と夜が分かれたので時間的な秩序ができました。だから、昼に休んでも夜に休まず働き続けると生体リズムが壊れます。人間は神様によって造られた時間の中で生きる存在です。時間は神様の創造物です。それが、人間が時間に仕えることができないことであり、自分の時間の中に神様を制限することができない理由です。   「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。6,7」大空の水を分けられたというのは、下の水である海や川の水と、上の水である雲など、大気中の水蒸気に分かれたということです。「天の下の水は一つの所に集まれ。乾いた所が現れよ。すると、そのようになった。神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。9,10」神様は下の水をまた一か所に集めて、地と海を区別して空間的秩序を造られました。地で生きるものと水で生きるものは、それぞれ自分の空間的秩序の中で命を営みます。水で生きるものを地に、地に生きるもの水に入れると、凄まじい恐怖と苦痛の中で死にます。神様の創造世界の秩序の中ですべての創造物は安定を保ちます。   「地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。12」植物の循環の秩序は、自然法則と言う前に、神様の創造秩序と言わなければなりません。偶然に実を結ぶのではなく、秩序の中で創造されます。地の秩序の上に、植物の秩序が芽を生えさせ、実を結ばせ、大空の秩序が雨を降らせ、昼夜の秩序が季節を変えます。ですから、実は神様によって結ばれるのです。世界が偶然にできたということを疑いないしに信じることは確かに偶然の発想です。今日も夏の秩序の中で、植物は成長し、水は循環し、時間が終わった生き物は分解されます。しかし、夜になると涼しい風が吹きます。神様の創造秩序の中で平安が保たれますように祈ります。

창세기 묵상1【은혜의 시작】220801(월) 에다가와 사랑의 교회

창세기 1:1~131:1 태초에 하나님이 천지를 창조하시니라1:2 땅이 혼돈하고 공허하며 흑암이 깊음 위에 있고 하나님의 신은 수면에 운행하시니라1:3 하나님이 가라사대 빛이 있으라 하시매 빛이 있었고1:4 그 빛이 하나님의 보시기에 좋았더라 하나님이 빛과 어두움을 나누사1:5 빛을 낮이라 칭하시고 어두움을 밤이라 칭하시니라 저녁이 되며 아침이 되니 이는 첫째 날이니라1:6 하나님이 가라사대 물 가운데 궁창이 있어 물과 물로 나뉘게…

Ⅱコリント19【恵みはあなたに十分である】2200729(金) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 12:1~1012:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。12:2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。12:3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。12:4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。12:5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。12:6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。12:7 その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。12:8 この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。12:9 しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。   パウロはいわゆる「第三の天」に入った話をしています。パウロの個人的で秘密の経験です。その栄光の経験が希望になり、この世で苦難と迫害をも耐えることができました。希望がなければ耐えられません。神様がパウロに地の栄光ではなく、天上の希望を見せてくださったので、パウロの人生は肉体を後にし、永遠の希望のために生きることができました。だからパウロの誇りはこの地のものではありません。神様の恵みは小さく、人生の不満ばかりの人生は、生きていく力をなくしますが、神様の恵みと救いの望みが苦しみより大きい人は、苦難に耐えられます。   パウロは持病を持っていましたが、それが何であるかを推測するだけ、病名ははっきりしていません。パウロは聖霊の恵みで多くの人を癒しましたが、自分自身の病気は直すことができませんでした。それで癒しのために神様に三度祈りましたが、神様の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」でした。パウロの弱さが、神様の力を経験する恵みのくだになるからです。それに気づいたパウロは、自分の弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜びます。暑い夏です。肉体はまるで枯れるようですが、神様の恵みは私に十分ですと告白したいです。与えられた希望がこの熱い地にあるのではないからです。痛い時も、疲れる時もさらに告白します。神様の恵みが私に足ります。

고린도후서 묵상19【은혜가 네게 족하도다】220729(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도후서 12:1~1012:1 무익하나마 내가 부득불 자랑하노니 주의 환상과 계시를 말하리라12:2 내가 그리스도 안에 있는 한 사람을 아노니 십 사년 전에 그가 세째 하늘에 이끌려 간 자라 (그가 몸 안에 있었는지 몸 밖에 있었는지 나는 모르거니와 하나님은 아시느니라)12:3 내가 이런 사람을 아노니 (그가 몸 안에 있었는지 몸 밖에 있었는지 나는 모르거니와 하나님은 아시느니라)12:4 그가 낙원으로 이끌려가서…

Ⅱコリント18【弱さを誇ります】2200728(木) 枝川愛の教会

Ⅱコリント 11:16~3311:16 もう一度言いますが、だれも私を愚かだと思わないでください。もし愚かだと思うなら、愚か者として受け入れてください。そうすれば、私も少しばかり誇ることができます。11:17 これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者として、自慢できると確信して話します。11:18 多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。11:19 あなたがたは賢いので、喜んで愚か者たちを我慢してくれるからです。11:20 実際あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、強奪されても、いばられても、顔をたたかれても、我慢しています。11:21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。11:29 だれかが弱くなっているときに、私は弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私は心が激しく痛まないでしょうか。11:30 もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。11:31 主イエスの父である神、とこしえにほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないことをご存じです。11:32 ダマスコでアレタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの人たちの町を見張りましたが、11:33 私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ、彼の手を逃れたのでした。   世は、世の基準を持って競争し、人を優劣に分けます。優越したかった偽りの者たちによってパウロは劣等に扱われ、パウロはそれにだまされたコリント教会の聖徒たちに自分を弁護しなければなりませんでした。パウロは自分の出身と履歴を語り、劣ってないことを明らかにしますが、その誇りは長く続きません。   パウロの誇らなければならなかったのは、肉体の誇りではなく、肉体の弱さでした。パウロは、苦しむたびに弱く恐れていました。神様を信じずに生きる人は自分の肉体を信頼しますが、痛みがあり、恐れを知る人は肉体を信じません。信頼できるものでがないということを知っています。だから、肉体を誇ろうとしても誇れません。パウロは肉体を誇る人々の前で自分の弱さを誇りました。神様はいつも隣におられますが、弱くなり、恐れを覚えると、とようやく隣におられる神様が見えて