Ⅰコリント 黙想20【ユニバサル・チャーチ】220528(土) 枝川愛の教会
Ⅰコリント 12:12~2012:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。 国民と国家は、自由意思によって契約を結んでいる関係です。もし国家権力が国民のための契約を履行しなければ、国民は抵抗することと契約を破棄することができ、代替することもできます。それがルソーの社会契約論です。もちろん、国民は国家に対する義務を負います。国家があるから国民を支配するのではなく、国民がいるから国家が存在するのです。同様に、パウロは教会の働きの主体であり、有機的存在としての聖徒の位置を定めています。教会は神様のものであり、地上の教会の形成と運営には必ず聖徒の共同体性が反映されなければなりません。体を体と呼びますが、体は、部分が集まった総和を呼ぶ名です。そういう意味で、教会とは聖徒の集まりです。したがって、聖徒は教会に対する共同体の権利を持ち、同時に責任を負わなければなりません。 体を成す各部分がそれぞれ教会性を持ち、(ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。12)国籍、文化、言語、社会的身分はそれを制限しません。(私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。13)体には目と耳、足と手が必要で、その役割は異なりますが、どれも主体的かつ有機的な共同体性の責任と権利を持っています。そのためには、聖徒の成熟が必要です。ある人は階級化し、所有しようと図り、ある人は自分のことではないと無責任になるから、教会が立てられません。 優越性も無責任もいけません。互いに責任を持ち、互いを尊重するとき、聖なる公同の教会、聖徒の交わりのある神様の教会、地上の普遍的教会(Universal Church)を成すことができます。