ルカの福音書 QT62 220321月【ペテロのトラウマ】ルカ 22章 54~62

ルカ 22章 54~6222:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。22:55 人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。22:56 すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」22:57 しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」22:60 しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。22:61 主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。22:62 そして、外に出て行って、激しく泣いた。   人は、否定的な記憶を長く持ち続けます。かなり時間が過ぎた後にも、危なかった記憶を思い出してくらっとしたり、失敗した記憶、誰かに非難された記憶、恥ずかしかった記憶を忘れずに覚え、後々まで苦しみます。精神医学では、自己防御のために脳が働く基本原理を「生存指向性(survivalorientation)」といいますが、否定的な経験を長い間、覚えるのは、自分を防御して生き残るための脳の戦略であると言います。私たちがよく使う精神的な外傷という意味の「トラウマ(trauma)」は、痛みやショックの記憶を持ち続け、再びそのような状況が再現されると恐れる症状です。それも自分を守ろうとする生存指向性であると思います。個人的に私もトリウマというものがあると思いますが、人々がトラウマという言葉と適用を乱発して日常に消極的に変わる傾向はないかという疑いを持っています。   アドラーの『嫌われる勇気』という本では、フロイトの根本的な思想であるトラウマを否定します。フロイトは「あなたがトラウマのために苦しんでいるのは、あなたには間違いではありません」と言うのです。つまり、原因が自分にあるのではなく、状況にあるということです。ですからトラウマ云々する人は状況と人の言い訳をします。これに対してアドラーは「人生を決めるのはトラウマではなく、過去の経験、特に否定的な経験にどのような意味を与えるかによるもの」と言います。精神分析と心理学については、いくつかを引用するだけで知識はありませんが、確かなことは、自分以外は誰も、何も、覚えていないということです。イエス様がマタイ16章でペテロに教会を立てるという使命を与えられたとき、「あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます19」と言われました。ペテロは地上で縛られたものを地上で解かなければならないことを迎えました。   つい直前までイエス様が執権すれば、自分たちが要職を占めるという勢いを持っていた弟子たちは、信じていたイエス様が無力に逮捕されるとたまがって逃げました。ペテロは,自分が共犯とみなされるとイエス様を知らないと三度否定し,それを正当化するためにイエス様について呪いの言葉までかけました。それを聞いたイエス様は、裏切られた悲しみより、ペテロが背負って生きなければならない自責の重さのために悲しまれたと思います。イエス様の預言どおり、鶏が泣く前に、ペテロはイエスを三度否定し、ペテロの呪いの言葉が終わると、夜明けに鶏が泣きました。   肉体は弱いです。ペテロは恐かったから裏切りましたが、その裏切りは自分自身に苦しめ、外に出て激しく泣きました。ペテロは生涯にこれを覚えて苦しんでいました。夜明けに鶏が泣くたびに、そのことが思い出し、庭に出て泣いたと伝えられます。しかし、ペテロは「トラウマに閉じ込められず、その経験に意味を与え」やがて教会を建てました。ペテロが教会を立てた根拠は、自分の完全無欠、忠誠奉仕の信仰ではなく、罪人を赦し、召される福音のためです。泣くならば自己憐憫のために泣かず、福音のために泣かなければならないと思うところです。失敗せず、自分に挫折せず、肉体に絶望せずに福音を知るというのはありません。私たちには、福音があり、倒れる絶望のたびに起き上がる希望も与えられています。信仰の根拠は弱いからです。

누가복음 QT62 220321월【베드로의 트라우마】누가복음 22장 54~62

누가복음 22장 54~6222:54 예수를 잡아 끌고 대제사장의 집으로 들어갈쌔 베드로가 멀찍이 따라가니라22:55 사람들이 뜰 가운데 불을 피우고 함께 앉았는지라 베드로도 그 가운데 앉았더니22:56 한 비자가 베드로의 불빛을 향하여 앉은 것을 보고 주목하여 가로되 이 사람도 그와 함께 있었느니라 하니22:57 베드로가 부인하여 가로되 이 여자여 내가 저를 알지 못하노라 하더라22:58 조금 후에 다른 사람이 보고 가로되…

ルカの福音書 QT61 220319土【一番偉い者】ルカ 22章 24~38

ルカ 22章 24~3822:24 また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。22:28 あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。22:29 わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。22:30 そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」22:35 それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。22:36 すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。22:37 あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」22:38 彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。   十字架が目の前に近づいていますが、弟子たちは気づかず、「だれが一番偉いのだろうか」をめぐって争っていました。イエス様の人気は絶頂に達し、エルサレムに入られた時に民たちが歓声をあげたことを見て弟子たちの心は高まっていたと思います。イエス様の最側近と認められることが出世が保障されることだと思い、前もって権力紛争を始めていたのです。   いわゆる「献身」ということにも動機が異なることがあります。本当の献身をしてそれを守る人がいれば、他の目的で献身ぶりをする人がいれば、純粋だった献身が変質してしまうこともあります。弟子たちはイエス様に対する献身を武器にして自分が一番偉い者だと戦っていますが、実は彼らは皆、資格のないうちに恵みで召された人々です。イエス様だけで満足できず、イエス様を通して何かを得なければならないと思ったので愚かになります。その結果が裏切りだったということを恐れをもって覚えなければなりません。   イエス様は、仕える者が一番偉い者であるいと言われます。弟子たちはまもなく献身から倒れます。献身の目的が状況に揺れるときに倒れます。彼らは自信感と期待感で満ちていますが、まもなくイエス様を捨て、逃げて自己嫌悪と絶望に陥ります。イエス様に対する人々の人気は呪いと怒りに変わり、弟子たちの期待感と自信感は、泡のように消えます。今までイエス様の人気のおかげで受けたすべてはなくなります。真の献身はその時から始まります。   イエス様はペテロが倒れることを予告しますが、ペテロは決してそのようなことはないと自信を持って言いました。しかし、ペテロは朝の鶏が鳴く前にイエス様を捨てて逃げます。イエス様はあらかじめペテロに言いました。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。32」ペテロが倒れる前にイエス様はペテロにために祈られました。確かに倒れますが、立ち直ったら、他の兄弟たちの信仰と献身の回復のために仕えなさいということです。仕える者が偉い者はですが、より偉い者は倒れてもまた立ち直って仕える人です。それによって福音を持っている真偽が確認できます。  

누가복음 QT61 220319토【제일 큰 사람】누가복음 22장 24~38

누가복음 22장 24~3822:24 또 저희 사이에 그중 누가 크냐 하는 다툼이 난지라22:25 예수께서 이르시되 이방인의 임금들은 저희를 주관하며 그 집권자들은 은인이라 칭함을 받으나22:26 너희는 그렇지 않을지니 너희 중에 큰 자는 젊은 자와 같고 두목은 섬기는 자와 같을지니라22:27 앉아서 먹는 자가 크냐 섬기는 자가 크냐 앉아 먹는 자가 아니냐 그러나 나는 섬기는 자로 너희 중에 있노라22:28…

ルカの福音書 QT60 220318金【過越の祭と聖餐式】ルカ 22章 14~23

ルカ 22章 14~2322:14 その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。22:15 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。22:16 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」22:17 そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。22:18 あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。22:21 しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。22:22 人の子は、定められたとおり去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。」22:23 そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。   イエス様が捕われる前日の最後の晩餐です。ユダヤ人は過越の祭の夕方に家族が集まって夕食の時間を持ちます。その食卓で犠牲になった子羊を食べます。羊が犠牲になったので、家族共同体は救いと安息を楽しめます。それによって罪と死は過ぎ越していきます。その時、父は子どもたちに過越の祭の内容と神様の救いを教えます。子羊の肉を分けて食べる食卓で、子羊の犠牲を通して救いを記念するのです。   パウロはコリント人への手紙でこう言いました。「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。5:7」イエス様は、最後の過越の祭を弟子たちと一緒に過ごしましたが、イエス様自身が子羊の血と肉であるということを宣言されます。つまり、パンとぶどう酒を持ち、それがご自身の血であり、肉であること、また、聖餐を通して記念することを命じられましたのです。   過越の祭の最後の晩餐は私たちにとって聖餐式となりました。イエス様の血というのは、血液のことではなく、命のことです。命というのはすなわち生きることです。イエス様の血というは、死が私たちを支配できないように、私たちの人生の門柱に付けなければならない「イエス・キリストの生き方」です。   イエス様の最後の過越の祭の晩餐は、私たちにとって最初の聖餐式になりました。まもなく渇いていた枝から花が復活します。2月には聖餐式ができませんでしたが、3月27日は聖餐式をして教会は遠足に行きます。イエス様の最後の晩餐は、私たちの聖餐と交わりにつながります。聖餐に参加した信仰共同体は、イエス・キリストの救いのための犠牲を記念し、それを子どもたちに教え、また救われた「聖徒の信仰の原点」に立ち戻ります。  

누가복음 QT60 220318금【유월절과 성찬식】누가복음 22장 14~23

누가복음 22장 14~2322:14 때가 이르매 예수께서 사도들과 함께 앉으사22:15 이르시되 내가 고난을 받기 전에 너희와 함께 이 유월절 먹기를 원하고 원하였노라22:16 내가 너희에게 이르노니 이 유월절이 하나님의 나라에서 이루기까지 다시 먹지 아니하리라 하시고22:17 이에 잔을 받으사 사례하시고 가라사대 이것을 갖다가 너희끼리 나누라22:18 내가 너희에게 이르노니 내가 이제부터 하나님의 나라가 임할 때 까지 포도나무에서 난 것을…

ルカの福音書 QT59 220317木【過ぎ越しの日を備える子羊】ルカ 22章 1~13

ルカ 22章 1~1322:1 さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。22:2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。22:3 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。22:4 ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。22:5 彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。22:6 ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。22:7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。22:8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。22:9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、22:10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」22:13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。   イスラエルが出エジプトするとき、神様による九つの災いにあってもエジプトのファラオは悔い改めず、頑なにしてイスラエルの民を解放しませんでした。やがてエジプトとファラオは、長者の死という最後の災いに遭います。神様がエジプトのすべての家に長男と家畜の初子を打たれ、長者が死ぬ災いを下されたのです。   ところが、すべてに救済の対策はあります。災いから救われる唯一の救済対策は「子羊をとり、その血を自分の家の門柱に塗りつけること」です。災いが家の前にやってきて、子羊の血を見ると、その家を過ぎ越えていきます。罪の報酬は死であるし、血を流さない罪の赦しはありません。子羊の血というのは、神様の怒りを子羊がすでに受け、その血を通してその家が贖われたということです。災いの免除ではなく、子羊が代わりに血を流し、死んだから贖われたのです。   イスラエル人であっても,子羊をとり、その血を自分の家の門柱に塗りつけなかった人は,長子の死から免れ、エジプト人であっても子羊を血を付けたなら災いが過ぎ通りました。すでに出エジプトの時から救いは、聞き従うことにあり、人種ではありませんでした。神様の災いを恐れ、聞き従う人だけが救われます。イスラエルは災いが過ぎ越したということで「過越節または過越節」と呼ばれ、今まで最も大切な祭りとしてこの日を記念しています。   イエス様は弟子たちと一緒に宿を定め、一緒に食べる子羊を備えて過越の祭を待っておられましたが、当時、イスカリオテ・ユダはすでにイエス様を祭司長らに売るための取き引りをしていました。神様の救いを喜ぶ過越の祭にイエス様の弟子と神様を信じると言う宗教は、イエス様の殺人を模擬していました。イエス様は弟子に裏切られ、悔しく死なれたように思われますが、それは人間の失敗ではなく、神様の贖いです。イエス様が私の門柱に塗らなければならない血を流すことのできる唯一の子羊であるからです。   バプテスマのヨハネは、ヨハネの福音書でイエス様に対して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。1:29」と預言しました。イエス様は、世の罪を取り除くために過越の祭の子羊になって血を流されたのです。子羊の血を塗りつけた家だけが死の災いが救われたように、イエス・キリストの十字架の血が自分の死に当たる罪の贖いであることを告白できる人は救われます。今年のイスラエルの過越の祭は、4月15日に始まり、23日に終わります。私たちは過越の祭を記念していません。4月17日がイースターです。私たちは、子羊のイエス・キリストの苦難と死を黙想し、死を打ち破り、よみがえられた主イエス・キリストを祝い、喜びます。子羊の血の力を伝えたい人を招きましょう。  

누가복음 QT59 220317목【유월절을 준비하는 어린 양】누가복음 22장 1~13

누가복음 22장 1~1322:1 유월절이라 하는 무교절이 가까우매22:2 대제사장들과 서기관들이 예수를 무슨 방책으로 죽일꼬 연구하니 이는 저희가 백성을 두려워함이더라22:3 열 둘 중에 하나인 가룟인이라 부르는 유다에게 사단이 들어가니22:4 이에 유다가 대제사장들과 군관들에게 가서 예수를 넘겨 줄 방책을 의논하매22:5 저희가 기뻐하여 돈을 주기로 언약하는지라22:6 유다가 허락하고 예수를 무리가 없을 때에 넘겨 줄 기회를 찾더라22:7 유월절 양을 잡을…

ルカの福音書 QT58 220316水【その日のための今日】ルカ 21章 25~38

ルカ 21章 25~3821:25 それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。21:26 人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。21:27 そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。21:28 これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」21:29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。21:30 木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。21:31 同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい。21:32 まことに、あなたがたに言います。すべてのことが起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。21:33 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。21:36 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」21:37 こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。21:38 人々はみな朝早く、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとにやって来た。   自然は明らかに神様が造られた秩序でありますが、神様は自然の外でも働かれます。自然を作った方だからです。神様は自然の秩序まで創造的に統べ治める方です。「太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。25」というのは、自然が秩序を失い、混乱に巻き込まれる時、イエス様は来られるということです。自然が奇現象を起こしている今がいちじくの木の芽が出る夏が近づいているのではないかと思うと恐くなります。しかし、イエス様は31節「これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい」と言われました。その恐ろしいことがすなわち神の国が近づいてきたのであれば、キリストの中にある聖徒はそれを恐れて警戒するものではなく、慕って待ち望まなければならないことになります。   「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。34」「放蕩や深酒」は、人間の倫理と生活の秩序を妨げます。「生活の思い煩い」が人を愚かにします。地に縛られているからです。貪欲があり、それが「放蕩や深酒」で出たり、「生活の思い煩い」で出てくるのです。「しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。36」これは来る日を知るためでもなく、来ることを恐れているからでもありません。今日、地に縛られずに、生きていくためです。   やがて来る終末は、神様が人間の歴史に侵犯されることではありません。そもそも歴史が神様のものです。それを忘れ、地に執着してはいけません。天と地はいつかはなくなります。しかし、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。33」と言われました。地のものを目を止めることではなく、今日、私に与えられた神様のみことばを信じていかなければならないと思います。

누가복음 QT58 220316수【그날을 위한 오늘】누가복음 21장 25~38

누가복음 21장 25~3821:25 일월 성신에는 징조가 있겠고 땅에서는 민족들이 바다와 파도의 우는 소리를 인하여 혼란한 중에 곤고하리라21:26 사람들이 세상에 임할 일을 생각하고 무서워하므로 기절하리니 이는 하늘의 권능들이 흔들리겠음이라21:27 그 때에 사람들이 인자가 구름을 타고 능력과 큰 영광으로 오는 것을 보리라21:28 이런 일이 되기를 시작하거든 일어나 머리를 들라 너희 구속이 가까왔느니라 하시더라21:29 이에 비유로 이르시되 무화과나무와…