ルカの福音書 QT22 220202水【信仰告白,その後】ルカ 9章 18~36

ルカ 9章 18~369:18 さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちも一緒にいた。イエスは彼らにお尋ねになった。「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」9:19 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たち、昔の預言者の一人が生き返ったのだと言う人たちもいます。」9:20 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えた。「神のキリストです。」9:21 するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた。9:22 そして、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない、と語られた。9:23 イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。9:24 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。9:25 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか。9:26 だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます。9:27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」9:28 これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。9:29 祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。9:30 そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで、9:31 栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。9:32 ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた。9:33 この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。9:34 ペテロがこう言っているうちに、雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。9:35 すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。弟子たちは沈黙を守り、当時は自分たちの見たことをいっさい、だれにも話さなかった。   20節でペテロが「神のキリストです」と告白しましたが,マタイ16章では,「あなたは生ける神の子キリストです。16」と伝えています。この短い告白に従って告白することができれば、安定と平和があります。「あなた」は遠くにいる神的存在ではなく、人間として来られ、今、私たちの隣におられるイエス様です。そのイエス様は人間の救いのために来られた「キリスト」であり、キリスト・イエスは本来「神の子」であるからです。   これを信じることができれば、これ以上の安定と平和はありません。イエス(Ιησου) キリスト(Χριστο) 神様の(Θεου) 子(Υιο) 救い主(Σωτηρ) のギリシャ語の頭文字を取ってみると「イクトゥス(ΙΧΘΥΣ)」になりますが、意味は「魚」です。ということで迫害された初代教会の時代には、魚の表示でお互いに信仰告白を確認しました。それは今まで続いています。   ペテロが信仰告白をした後、イエス様の会話は急進的に展開していきます。まだ、言われたこともなかったイエス様の使命とビジョンを初めて弟子たちに共有されます。信仰告白の上で起こったことです。神様の御心を知るためには、まず、自分の信仰の実在を告白しなければなりません。弟子たちはまだ理解できませんが、イエス様は気にせず、神様のご計画の全貌を知らせます。信仰告白の上に教会を立てなければならないからです。   22節で「苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目によみがえる」という受難と復活について,23節では直接「十字架」に言及しました。さらに、弟子たちに「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」という強い献身を求められました。私たちにとって、「十字架」という言葉は慣れているかもしれませんが、当時の弟子たちにとっては、十字架は禅問答のような言葉でした。神様の御心を知り、それに従う聖徒であるなら、自分の信仰告白を常に更新しなければなりません。告白する信仰の言葉の上に神様の御言葉が与えられ、御旨が現れるからです。告白の言葉を整えていきたいと思います。  

누가복음 QT22 220202수【신앙고백 그 이후】누가복음 9장 18~36

누가복음 9장 18~369:18 예수께서 따로 기도하실 때에 제자들이 주와 함께 있더니 물어 가라사대 무리가 나를 누구라고 하느냐9:19 대답하여 가로되 세례 요한이라 하고 더러는 엘리야라 더러는 옛 선지자 중의 하나가 살아났다 하나이다9:20 예수께서 이르시되 너희는 나를 누구라 하느냐 베드로가 대답하여 가로되 하나님의 그리스도시니이다 하니9:21 경계하사 이 말을 아무에게도 이르지 말라 명하시고9:22 가라사대 인자가 많은 고난을 받고…

ルカの福音書 QT21 220201火【伝道者と五つのパン、二匹の魚】ルカ 9章 1~17

ルカ 9章 1~179:1 イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。9:3 「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。9:4 どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。9:5 人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」9:6 十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。9:7 さて、領主ヘロデはこのすべての出来事を聞いて、ひどく当惑していた。ある人たちは、「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」と言い、9:8 別の人たちは、「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人たちは、「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」と言っていたからである。9:9 ヘロデは言った。「ヨハネは私が首をはねた。このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか。」ヘロデはイエスに会ってみたいと思った。9:10 さて、使徒たちは帰って来て、自分たちがしたことをすべて報告した。それからイエスは彼らを連れて、ベツサイダという町へひそかに退かれた。9:11 ところが、それを知った群衆がイエスの後について来た。イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒やしを必要とする人たちを治された。9:12 日が傾き始めたので、十二人はみもとに来て言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから。」9:13 すると、イエスは彼らに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか。」9:14 というのは、男だけでおよそ五千人もいたからである。しかし、イエスは弟子たちに言われた。「人々を、五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい。」9:15 弟子たちはそのとおりにして、全員を座らせた。9:16 そこでイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ、それらのゆえに神をほめたたえてそれを裂き、群衆に配るように弟子たちにお与えになった。9:17 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二かごあった。   本文にはイエス様が教えてくださった伝道者の生き方、そして五つのパン、二匹の魚の記事があります。それぞれ異なる話しが一日の本文にあるので難しいです。まず、伝道者の生き方について考えてみました。「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。3‐5」準備してかた出発しても地元で調達しても、源泉的な供給策は神様であるからです。これのゆえに伝道者が神様の働きをする自信を持ちます。人のしたいことなら人が準備しなければならず、神様の働きなら神様がご用意くださいます。その中で人が神様の働きに用いられるということです。   人と財政は宣教の主体ではありません。宣教の主体は神様であり、人と財政は神様が用いられる道具です。それで、神様の働きをする人は、神様のご用意されたものの上で自分の人生を生きるので、不安の理由がありません。信仰のゆえに不安であるならばそれは矛盾です。信仰ではないかもしれません。「杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません」と言われたのは、杖に頼らず、パンに頼らず、お金に頼らず、少し備蓄した生活の余裕にも頼ってはいけないということです。神様を信じるということは、神様ではないものを信じないということです。   長い留学生活を終えて神学校に入る時、もう家族がおり、お金は一杯もありませんでした。日本政府と大学から多くの恩恵を受けて勉強した私としては、4年間支払わなければならない神学校の学費は現実的に不可能な金額でした。入学すると仕事はできず、貯えもありませんでした。神学校で私を相談したスタッフは、神学校に入るような信仰があるのかチェックして、それから財政状況をチェックしました。私はそれが同じことだと思いましたが、別々に聞かれました。信仰はあるようですが、お金はないようですので、学費について信仰を強調せずに、学費をきちんと準備するようにと言われました。周りにも大変心配をかけました。しかし、私は「今でなければ信仰で生きる機会はない」と宣言しました。   その時も今も同じ考えを持っています。「私が行けば、私が準備しなければならない、しかし神様が召されれば、神様がご用意なさる。」私は4年間、今朝の本文に出てくる五つのパン、二匹の魚を食べて生活しました。毎朝、神様がくださるマナを食べて生きました。どこから来たのかわかりませんが、授業料と生活費は与えられました。ぎりぎりではありませんでした。かえって困っている神学生を助け、財政にも教会を精一杯仕えました。個人的に宣教師もサポートしました。神様の働きは、持っているものを分けて使うことではなく、神様の働きにささげ、そのうえに神様与えられるものを持ってしていきます。宣教の主体は神様であるからです。それが五つのパン、二匹の魚の奇跡です。そういえば、伝道者の生き方と五つのパン、二匹の魚の奇跡は、異なるテーマではないかもしれません。

누가복음 QT21 220201화【전도자와 오병이어】누가복음 9장 1~17

누가복음 9장 1~179:1 예수께서 열 두 제자를 불러 모으사 모든 귀신을 제어하며 병을 고치는 능력과 권세를 주시고9:2 하나님의 나라를 전파하며 앓는 자를 고치게 하려고 내어 보내시며9:3 이르시되 여행을 위하여 아무 것도 가지지 말라 지팡이나 주머니나 양식이나 돈이나 두 벌 옷을 가지지 말며9:4 어느 집에 들어가든지 거기서 유하다가 거기서 떠나라9:5 누구든지 너희를 영접지 아니하거든 그 성에서…

ルカの福音書 QT20 22031月【娘よ】ルカ 8章 40~56

ルカ 8章 40~568:40 さて、イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。みなイエスを待ちわびていたのである。8:41 すると見よ、ヤイロという人がやって来た。この人は会堂司であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した。8:42 彼には十二歳ぐらいの一人娘がいて、死にかけていたのであった。それでイエスが出かけられると、群衆はイエスに押し迫って来た。8:43 そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべてを費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女の人がいた。8:44 彼女はイエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。すると、ただちに出血が止まった。8:45 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。大勢の人たちが、あなたを囲んで押し合っています」と言った。8:46 しかし、イエスは言われた。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出て行くのを感じました。」8:47 彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出て御前にひれ伏し、イエスにさわった理由と、ただちに癒やされた次第を、すべての民の前で話した。8:48 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」8:49 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」8:50 これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます。」8:51 イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。8:52 人々はみな、少女のために泣き悲しんでいた。しかし、イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです。」8:53 人々は、少女が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。8:54 しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。「子よ、起きなさい。」8:55 すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった。それでイエスは、その子に食べ物を与えるように命じられた。8:56 両親が驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。   本文でイエス様が二人の女性を救われます。女性の名前は不明ですが、ただ一人は12歳で、その父はユダヤ人の会堂司ヤイロです。もう一人の女性は長血をわずらっている病気の人です。12歳の少女が病気になって死にかかっています。父ヤイロは、イエス様に駆け寄って助けを求めました。それでイエス様はヤイロの家に向かわれます。   この話が終わる前にもう一人の女性が出てきます。彼女は12年間長血をわずらい、すべてを失ったかわいそうな人でした。長血というのは、下血が止まらない婦人病です。12年間、いわば不正な病気にかかって疎外されたので、家族も財産も残っていなかったと思います。彼女は少なくとも中年です。ヤイロよりも年うえかもしれません。一人は12歳の少女で、もう1人は12年を闘病した中年の女性です。二人ともその事情が悲しいです。少女は幼くて悲しく、中年の女性はその長い喪失の時間が悲しいです。   長血の女性が人々の間に手を差し出してイエス様の裾に触れました。ヤイロがイエス様なら娘を生かされると思ったように、女性もイエス様の服に触れることだけて癒されるという信仰を持っていたからです。女性がイエス様の裾に触れた時、イエス様がその場で止まりました。おそらくイエス様が止まってからすぐに話をした人はヤイロだったとおみます。 「イエス様!なぜ、止めますか?時間がないです。私の娘が死んでいきます。急いで行かなければなりません。」   この女性は、イエス様の前に出てきて、恐れています。長血にわずらっていたので、ぼろぼろの女性の服には血痕が付いていたかもしれません。女性は人々が注目している中で身の置く所なく立っていました。ヤイロは娘のためにイエス様を促していましたが、このの女性のために何かをしてくれる人は誰もいませんでした。女性は、そんな悲しみの中で幼いごろのお父さんを思い出したかもしれません。この女性も12歳の時があったでしょう。お父さんはもうすでに亡くなり、娘も老いて病気です。自分のために泣いてくれる、助けてくれるお父さんはいません。うんざりしていたかもしれません。   死んでいく娘を生かしてもらいたいと隣で促しているヤイロ、老いて頼るところのない病気の女性、その間に立っていたイエス様がこの女性を呼びます。「娘よ」と呼ばれます。イエス様が娘よ!と呼ばれたのは、病気だけを見たのではなく、心も見たことです。イエス様は「娘」の体と心を癒した後、ヤイロの娘も生かします。かわいそうな女性に「娘」と呼んだイエス様の声帯の響きが耳元に長く残っていました。

누가복음 QT20 220131월【딸아】누가복음 8장 40~56

누가복음 8장 40~568:40 예수께서 돌아오시매 무리가 환영하니 이는 다 기다렸음이러라8:41 이에 회당장인 야이로라 하는 사람이 와서 예수의 발 아래 엎드려 자기 집에 오시기를 간구하니8:42 이는 자기에게 열 두살 먹은 외딸이 있어 죽어감이러라 예수께서 가실 때에 무리가 옹위하더라8:43 이에 열 두 해를 혈루증으로 앓는 중에 아무에게도 고침을 받지 못하던 여자가8:44 예수의 뒤로 와서 그 옷가에 손을…

ルカの福音書 QT19 22029토【信仰の家族】ルカ 8章 19~25

ルカ 8章 19~258:19 さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、大勢の人のためにそばに近寄れなかった。8:20 それでイエスに、「母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられます」という知らせがあった。8:21 しかし、イエスはその人たちにこう答えられた。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです。」8:22 ある日のことであった。イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、弟子たちは舟を出した。8:23 舟で渡っている間に、イエスは眠り始められた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、彼らは水をかぶって危険になった。8:24 そこで弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と言った。イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。8:25 イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」   マタイの福音書10章にある、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。37」を読んで、信仰の初期に引っ掛かったことがあります。神様より家族を愛してはならないという制限は、受け入れ難いものでした。   周りに聞いてみましたが、明解な答えはありませんでした。読み続けるうちにさらに厳しい言葉もありました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。ルカ14:26」   高齢の親に仕えることはせずに、遺産をめぐって兄弟と争い、子どもは自分の代理満足とする時代の群衆 を考えると、家族を愛するためにイエス様を愛することができないというのはまったく言い訳であることに気づきました。愛に制限容量というものはありません。イエス様に仕えるなら、今よりもっと家族に仕え、、さらに愛することもできます。   イエス様の家族が訪れましたが、イエス様は彼らを追い払い、信仰の共同体が本当の家族であると言われました。これはイエス様が家族を愛していないからでしょうか。イエス様は、十字架の上で、苦しみの中で母の老後を思い、ヨハネに母マリアを頼みました。イエス様の家族は、後にみな信仰の家族になります。   利己主義の中で最も厳しい利己主義は家族利己主義です。自分の家族を愛するなら、隣人とその家族も愛される存在であります。その共感のうえに自分の家族も社会と共同体の中で守られます。共同体において家族利己主義を克服する人が、誰よりも幸せで、互いに愛する暖かい家庭を築きあげることができると思います。

누가복음 QT19 220129토【믿음의 가족】누가복음 8장 19~25

누가복음 8장 19~258:19 예수의 모친과 그 동생들이 왔으나 무리를 인하여 가까이 하지 못하니8:20 혹이 고하되 당신의 모친과 동생들이 당신을 보려고 밖에 섰나이다8:21 예수께서 대답하여 가라사대 내 모친과 내 동생들은 곧 하나님의 말씀을 듣고 행하는 이 사람들이라 하시니라8:22 하루는 제자들과 함께 배에 오르사 저희에게 이르시되 호수 저편으로 건너가자 하시매 이에 떠나8:23 행선할 때에 예수께서 잠이 드셨더니…

ルカの福音書 QT18 22028금【種を抱く地】ルカ 8章 1~18

ルカ 8章 1~188:1 その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。8:2 また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。8:4 さて、大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。8:6 また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。8:7 また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。8:8 また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」8:9 弟子たちは、このたとえがどういう意味なのか、イエスに尋ねた。8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。8:12 道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。8:13 岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。8:14 茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。8:15 しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。8:16 明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。8:17 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。8:18 ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」   本日は、種まきは人のたとえ話です。イエス様はこのたとえ話をした後に解釈もしてくださいました。種は神様の御言葉であり、地はそれを受ける人の心です。最初のたとえは、道端に落ちた種です。皆が聴覚的には聞くことができますが、それが神様の御言葉を聞くことではありません。みことばは耳で聞ききますが、それを考えません。御言葉を噛み砕いて悟らなければ、道端に散らばれた種です。二つ目は、岩の上に落ちた種です。岩の上の種が芽を出すことがありません。聞くことに根がないからです。文字通り御言葉を受ける根性がありません。だから、状況に応じて揺れ動きます。信じているようですが、状況を変われば、状況に沿って行ってしまいます。三つ目は茨の真ん中に落ちた種です。これも同じです。「生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません」のように御言葉を悩まず、世とお金の心配が多いです。現実が恐いので、神様の御言葉を信じるようがはありません。   たとえ話の最後は良い地に落ちた種です。イエス様は良い地についてこう言われました。「彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。15」神様の言葉は説明しません。時代や状況に関係なく、その場で宣言されます。ですから、それを聞いて自分の時代と自分の人生に解釈して適用することを省略しては、誰も良い地になって神様の御言葉を受けることができません。牧師の説教に群がる時代には、神様の御言葉はありません。自分が神様の御言葉を聞くことができる人が、牧師の説教からも神様の御言葉を聞くことができます。   「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」の時、「腐心」という言葉を思い出しました。心が腐るということです。地が種を抱かなければ芽は出ないように、人が御言葉を抱かなければ、神様の御言葉が実を結びません。麦は腐りますが、その中にある種目が次の命を発芽させます。自分で腐心して自分の御言葉として発芽させなければ、どんなに聞いてもそれは他人のものです。今日のたとえ話を文脈で位置を確認してみると、多くの人々がイエス様に集まった時です。イエス様は、多くの人々が集まったときに聴衆が多くなったことを喜ばれたのではなく、御言葉を聞くことに対する真偽について警告されたわけであります。今、どの地でいても、それは運命的に固定されていることではありません。心を腐らせ、御言葉を悩むことができる人なら、神様の御言葉をその人に人生の中で実を結ぶ良い地になっていくでしょう。  

누가복음 QT18 220128금【씨를 품은 땅】누가복음 8장 1~18

누가복음 8장 1~188:1 이 후에 예수께서 각 성과 촌에 두루 다니시며 하나님의 나라를 반포하시며 그 복음을 전하실새 열 두 제자가 함께 하였고8:2 또한 악귀를 쫓아내심과 병 고침을 받은 어떤 여자들 곧 일곱 귀신이 나간 자 막달라인이라 하는 마리아와8:3 또 헤롯의 청지기 구사의 아내 요안나와 또 수산나와 다른 여러 여자가 함께하여 자기들의 소유로 저희를 섬기더라8:4 각…