ヨブ記 QT9 211011月【ヨブの答え】ヨブ記 6章 1~13

ヨブ記 6章 1~136:1 ヨブは答えた。6:2 ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。6:3 きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。6:4 まことに、全能者の矢が私に刺さり、その毒を私の霊が飲み、神の脅威が私に対して準備されている。6:5 野ろばが若草の上で鳴くだろうか。雄牛が飼葉の上でうなるだろうか。6:6 味のない物は塩なしに食べられるだろうか。卵の白身に味があるだろうか。6:7 私の喉はそれを受けつけない。それらは私には腐った食物のようだ。6:8 ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神が下さるとよいのに。6:9 神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、6:10 それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。6:11 私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは。どんな終わりがあるのだろうか。耐え忍ばなければならないとは。6:12 私の力は石の力なのか。私の肉は青銅なのか。6:13 私のうちには何の助けもないではないか。すぐれた知性は、私から取り払われている。   エリファズはヨブの苦難の理由を罪に定め、悔い改めを促す長い助言を終えました。エリファズが使っている言葉は重いものでありましたが、それは中からではなく、口から出てくるものなので軽いものでした。世界は不条理であって、人は罪に陥った存在なので正義の神様に照らすと、人の非難の素材はあふれます。ヨブが全存在をもって経験している苦しみは、エリファズの口から出る気の利いの言葉では相手にできないことでした。   痛みを通して神様に会うということは何度も聞きましたし、またそのように言ってきましたし、実際そうであると思います。それは、人間は苦痛に耐えられない存在ということでもあります。痛みを打ち勝てないので、神様に降伏し、痛みがなくなるように願います。それでも、痛みはなくならず、さらに思いものになり、人間が耐えられなくなると、人間は痛みからの回復ではなく、終わりを望みます。死の向こうには痛みのない安息があると思うからです。このような人間の弱さを考えると、人間は誠にかわいそうな存在です。耐えられない深刻な苦痛の人間が求められるのは、死ぬことしかありません。今この瞬間にも、多くの人が苦痛の中で死んでおり、医療ができる最善は麻薬によって痛みをほんの少し和らげることしかありません。   深海魚の釣りを見たことがあります。珍しい魚が釣られてきますが、海の中から出た魚は目玉と内臓が口の中から飛び出て死にます。圧力の差があるからです。同様に、浅い所の魚を深いところ入れると、その圧力に耐えられず縮ん入ってしまいます。本文は、苦痛と死との関係について言うことではありません。痛みという怪物の圧力に耐えられない人間の限界について言うのです。人間の意志がそれを耐えられるでしょうか?苦しんいるヨブに神学的な原因を取り調べることではなく、死ぬほどに大変な苦しみのヨブに少しでも共感できるな、ヨブ記の正しい読み方であると思います。   ヨブは目と内臓を飛び出るような苦痛の中でも死を超えている痛みのない世界を望みますが、それも神様を認め、神様を信頼しているからです。「それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。10」ヨブが悔い改めないことではありません。ヨブが神様の前でどのように生きていたのかが分かります。傷んでいるヨブはかわいそうですが、ヨブの信仰を読んでみると、痛みのない日常を生きている私の信仰がかわいそうに感じられます。

욥기 QT9 211011월【욥의 대답】욥기 6장 1~13

욥기 6장 1~136:1 욥이 대답하여 가로되6:2 나의 분한을 달아 보며 나의 모든 재앙을 저울에 둘 수 있으면6:3 바다 모래보다도 무거울 것이라 그럼으로 하여 나의 말이 경솔 하였구나6:4 전능자의 살이 내 몸에 박히매 나의 영이 그 독을 마셨나니 하나님의 두려움이 나를 엄습하여 치는구나6:5 들 나귀가 풀이 있으면 어찌 울겠으며 소가 꼴이 있으면 어찌 울겠느냐6:6 싱거운 것이…

ヨブ記 QT8 211009土【私なら】ヨブ記 5章 1~16

ヨブ記 5章 1~165:1 さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者はいるか。聖なる者のうちのだれのところにあなたは向かうのか。5:2 苛立ちは愚か者を殺し、ねたみは浅はかな者を死なせる。5:3 私は愚か者が根を張るのを見て、ただちにその住まいを呪った。5:4 その子たちは安全からはほど遠く、門で押しつぶされても、救い出す者もいない。5:5 愚か者が刈り入れた物は、飢えた人が食べ、茨の中からさえそれを奪う。渇いた人たちが彼らの富をあえぎ求める。5:6 まことに、不幸はちりから出て来ることはなく、労苦は土から生え出ることはない。5:7 まことに、人は労苦のために生まれる。火花が上に向かって飛ぶように。5:8 私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。5:9 神は、測り知れない大いなることをなし、数えきれない奇しいみわざを行われる。5:10 地の上に雨を降らせ、野の面に水を送られる。5:11 神は低い者を高く上げ、嘆き悲しむ者は安全なところに引き上げられる。5:12 神は悪賢い者たちの企みを打ち砕かれ、彼らの手は良い成果を得られない。5:13 神は知恵のある者を、彼ら自身の悪巧みによって捕らえ、彼らのねじれたはかりごとは突然終わる。5:14 彼らは昼間に闇と出会い、真昼でも、夜のように手探りする。5:15 神は貧しい者を剣から、剣の刃から、強い者の手から救われる。5:16 こうして弱い者は望みを抱き、不正は口をつぐむ。   エリファズはヨブの苦難に対して訓戒を続けます。彼が見るからには、ヨブの苦しみの原因はヨブの罪にありました。だからエリファズはヨブに神様に悔い改めを求めます。この時のエリファズの表現が、「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう8」です。「私なら」悔い改め、「私なら」神様に頼ると言っていますが、実際には「私なら」と言えるほどの共感をしたことがないのに、無責任に「私なら」という表現を使っているのです。   訓戒者のところに立つことが怖いのは自分の問題を忘却するからです。人々が他人の裏話をすると、様々な正しい言葉を吐き出し、誰かを非難しますが、その都度、自分はそうではない安定感を共有します。誰かを非難すると、すべては非難される人の問題であって非難する人は客観的な立場で公正な批判をしているものであり、自分たちは、健全で優れた人だと勘違いしてしまいます。   しかし、その瞬間に罪を犯す者は、非難される人ではなく、身の程を知らず、兄弟を非難し、断罪する人であることをわきまえません。エリファズは神様に対する理解について良い言葉は並べていますが、彼の心の中には優越感があり、自己陶酔に陥っています。これが教えることの落とし穴です。教えるところに立つと、自分はその教えにふさわしい人であると思ってしまうのです。   エリファズは「私なら」という表現で、自分の論旨を強調していますが、「ヨブなら」という視点、ヨブの立場に立って彼の痛みなどは考えない、過酷な訓戒者です。エリファズが言っている神様をエリファズ自身が会ったのではありません。そんな神様に会ったはずがありません。自分の論旨を強化するための材料にすぎないのです。司法的な因果応報の関係で神様に出会う人はいません。それを超えておられる慈悲と愛に触れられるとき、私たちは神様に会うことができます。

욥기 QT8 211009토【나 같으면】욥기 5장 1~16

욥기 5장 1~165:1 부르짖어 보아라 네게 응답할 자가 있겠느냐 거룩한 자 중에 네가 누구에게로 향하겠느냐5:2 분노가 미련한 자를 죽이고 시기가 어리석은 자를 멸하느니라5:3 내가 미련한 자의 뿌리 박는 것을 보고 그 집을 당장에 저주하였노라5:4 그 자식들은 평안한 데서 멀리 떠나고 성문에서 눌리나 구하는 자가 없으며5:5 그 추수한 것은 주린 자가 먹되 가시나무 가운데 있는 것도…

ヨブ記 QT7 211008金【サタンはどこにいますか】ヨブ記 4章 12~21

ヨブ記 4章 12~214:12 あることばが私に忍び寄り、そのささやきを私の耳がとらえた。4:13 夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、4:14 おののきと震えが私に降りかかり、私の骨々の多くがわなないた。4:15 ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けられなかった。しかし、その姿は私の目の前にあった。静寂。そして私は次のような声を聞いた。4:17 「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。4:18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、御使いたちのうちにさえ、誤りを認められる。4:19 まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、4:20 朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて、だれも顧みない。4:21 彼らの天幕の綱は確かに取り去られる。彼らは知恵がないために死ぬ。」   神様の御言葉とサタンの欺く言葉が明確に区別できる水と油のようなものであれば解釈と識別力というのは必要ありません。しかし、サタンは私たちより神様と神様の御言葉よく知っています。サタンは疑いのない、巧妙な方法で神様の御言葉を歪曲します。   エリファズの訴えには雄弁力があります。誰も反論することができません。いつも聞いていた神様の御言葉という色がついています。ところが、このような言語に注意しなければなりません。実体のない、観念的に使う宗教的な言語、誰も反論することはできませんが、それが何なのかを定義することさえできず、空中に浮いているような言語、それの捨てて自分の日常の言語で信仰生活をしなければなりません。それこそ、自分が信じているものの実体が何であるかを知ることができます。   エリファズの言語は厳粛でした。「「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。17…まして、ちりに土台を据えた泥の家に住む者はなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて、だれも顧みない。19,20」   誰がこれに反論しますか?「伝道者の書」に書かれていたら疑いのない人間論です。誰が神様を否定し、その前で、人間の地位を高めることがありますか?エリファズは、この言葉でヨブを批判し、悔い改めを促すます。しかし、ヨブの苦難の核心は、ヨブが自分の罪を告げるまで、神様が拷問をかけているのではありません。   悔い改めることに問題はありません。しかし、ここでエリファズの言っている悔い改めはヨブをさらに苦しめていることです。ヨブが悔い改めて解決できる問題ではないからです。よいことを行ったから祝福を受け、罪を犯したから罰を受ける応報神学はヨブ記において背馳します。   ここで気になることがあります。ヨブ記の中で最も緊張の中で登場したサタンは、今どこにいるのでしょうか?ヨブを粉々にして今は舞台から姿を消えたのでしょうか?サタンはヨブを痛めることが目的ではありません。ヨブが神様を裏切ることを目的としています。だからサタンがまだ活動しなければありません。ところが、サタンは今どこいるのでしょうか?   サタンがエリファズの仮面をかぶってヨブに現れているのです。エリファズに現われた存在は、神様ではなく、愚かな人間を欺くサタンです。人間が神様の御言葉を伝えるといい時は、そこには必ず偽善が含まれています。エリファズのように確信に満ちて雄弁するとき、断罪の剣が隠れているときは間違いなくそうです。 私たちは、士師記を読んできました。恐ろしいのは、悪ではなく、各自がそれぞれ正しいと思っていたことです。殺し合ったのは、善と悪ではなく、それぞれ自分が正しいと持っていたことの衝突でした。神様の御言葉を伝えることに人間の無知と偽善が含まれています。それを認めなければならないし、自分の思い通りに人を動かすために、神様の名前を濫用することを恐れなければなりません。

욥기 QT7 211008금【사탄은 어디로 갔나요】욥기 4장 12~21

욥기 4장 12~214:12 무슨 말씀이 내게 가만히 임하고 그 가는 소리가 내 귀에 들렸었나니4:13 곧 사람이 깊이 잠들 때쯤 하여서니라 내가 그 밤의 이상으로 하여 생각이 번거로울 때에4:14 두려움과 떨림이 내게 이르러서 모든 골절이 흔들렸었느니라4:15 그 때에 영이 내 앞으로 지나매 내 몸에 털이 주뼛하였었느니라4:16 그 영이 서는데 그 형상을 분변치는 못하여도 오직 한 형상이…

ヨブ記 QT6 211007木【エリファズの訓戒】ヨブ記 4章 1~11

ヨブ記 4章 1~114:1 すると、テマン人エリファズが話し始めた。4:2 もし、人があなたにことばを投げかけたら、あなたはそれに耐えられるか。しかし、だれが語らないでいられるだろう。4:3 見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけてきた。4:4 あなたのことばは、つまずいた者を起こし、くずおれる膝をしっかりさせてきた。4:5 しかし今、これがあなたに及ぶと、あなたはそれに耐えられない。これがあなたに至ると、あなたはおじ惑う。4:6 あなたの敬虔さは、あなたの確信ではないか。あなたの誠実さは、あなたの望みではないか。4:7 さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。4:8 私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。4:9 彼らは神の息吹によって滅び、御怒りの息によって消え失せる。4:10 獅子のうなり声、たける獅子の声がする。しかし、若獅子の牙は砕かれる。4:11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散っていく。   ヨブは神様に認められるほどの正しい人でしたが、自分を正しい人と思ってしまう間違いを犯していました。それにヨブの友人であるテマン人エリファズは、ヨブが受けている苦難を根拠にしてヨブが正しくなかったことを告発しています。ヨブに罪がなかったならば、神様がこのような呪いをかけたはずがないということです。ヨブ自身が以前に苦しんでいる人に忍耐を教えたのであれば、今自分が苦しみの中にいる時に忍耐しなければならないということです。   言っている意味は分かります。ところが、理解は不十分です。これが自分の中に閉じ込められた人の論理です。もちろん自分自身を省察し、悔い改めることは大切です。それは一理があります。しかし、一理というのは、一つの理という意味です。多くの理があり、その中の一つです。原因を究明することは大切ですが、泣いている人を攻めることが厳しいです。   他人に悔い改めを促すのは簡単ですが、人の痛みを共感する愛はとても難しいことです。さらに、ヨブの苦難は、ヨブの罪に対しる罰ではありません。エリファズは批判という物差しを持って状況を分析していますが、共感という物差しは持っていません。自分が持っている数式に世界のすべての現象を入れて正解を出すことはできません。   パウロはローマ人への手紙で「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。12:15」と言いました。一理によってといただす言葉より大切なのは打ち砕かれた心を共感する力です。友人が行為について追及しているので、ヨブは行為に対して潔白を言うしかありません。エリファズに悪意はないと思いますが、ヨブはそれによって痛みが重なります。教える言葉より理解して共感する言葉をさらに学びたいと思います。  

욥기 QT6 211007목【엘리바스의 훈계】욥기 4장 1~11

욥기 4장 1~114:1 데만 사람 엘리바스가 대답하여 가로되4:2 누가 네게 말하면 네가 염증이 나겠느냐 날지라도 누가 참고 말 하지 아니하겠느냐4:3 전에 네가 여러 사람을 교훈하였고 손이 늘어진 자면 강하게 하였고4:4 넘어져 가는 자를 말로 붙들어 주었고 무릎이 약한 자를 강하게 하였거늘4:5 이제 이 일이 네게 임하매 네가 답답하여 하고 이 일이 네게 당하매 네가 놀라는구나4:6…

ヨブ記 QT5 211006水【休む間もない苦しみ】ヨブ記 3章 11~26

ヨブ記 3章 11~263:11 なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。3:12 なにゆえ、両膝が私を受けとめたのか。乳房があって、私がそれを吸ったのか。3:13 今ごろ私は安らかに横になり、眠って安らいでいただろうに。3:14 自分たちのためにあの廃墟を築いた王たち、地の指導者たちと一緒に。3:15 黄金を持ち、自分の家を銀で満たした首長たちと一緒に。3:16 なぜ私は、ひそかに堕ろされた死産の子、光を見なかった嬰児のようにならなかったのか。3:17 かしこでは、悪しき者は荒れ狂うのをやめ、かしこでは、力の萎えた者は憩い、3:18 捕らわれ人たちもみな、ともに安らかで、激しく追い立てる者の声も聞こえない。3:19 かしこでは、下の者も上の者も同じで、奴隷も主人から解き放たれている。3:20 なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者にいのちが与えられるのか。3:21 彼らは死を待つが、死はやって来ない。隠された宝にまさって死を探し求めても。3:22 彼らは墓を見出したときに、歓声をあげて喜び楽しむ。3:23 自分の道が隠されている人、神が囲いに閉じ込めた人になぜ光が与えられるのか。3:24 まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。3:25 私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかったからだ。3:26 安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心は乱れている。   神様が許された苦難は、ヨブだけを試すための特別な出来事ではないと思います。神様はヨブという人物に苦難を与えたのではなく、すべての人生に虚無と苦労の時間を過ごさせました。肉体を持っている人生ならば誰でもヨブと同じような悩みと質問を持たなければなりません。それがなければ、人間は真の安息を手に入れることができないからです。ヨブが自分の命と存在を否定しながら、人生の懐疑を歌っているのは、その苦痛から離れ、真の安息に入りたいからです。安息を求めない人は、神様を見つけることはできず、苦しみの人生の旅路で人生が何かと悩まない人は神様に出会うことができません。   皆が安息を求めますが、体を休ませることが安息であると誤解します。求めるべき安息はそのようなものではありません。病院の患者は口を揃って「お家に帰りたい」と言います。弱った肉体の切実な願いの言葉です。病院にいる​​人間は皆不安です。だから、自分が住んでいた所、家族と一緒に食べていたところに帰りたいのです。安息を記憶しているからです。「安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心は乱れている。26」そういう意味で、人は皆ヨブのうめき声を持たなければなりません。   ヨブ記の多くは詩の形になっています。人間に対する質問を持っているもの、すなわち文学と哲学、芸術、そして神学までも、その原初的テーマは、「人生は何か」という質問です。ところが、最近では、このようなものを勉強すると、就職できないそうです。人生を悩むと人生は剥奪されます。ただお金を悩むことが大切になりました。今すぐ現金化できる技術と投資だけが社会的に認められます。だから人間群像はますます安息が何なのか知らず、安息を失っていきます。安息の必要性さえ知りません。聖書には、地獄の描写がほとんどありません。もしかして、それは現実をよく臨んでみればそこから地獄を見えてくるからではないでしょうか?   ヘブル人への手紙には神様の御言葉に従わなければ安息に入ることができないと語っています。ヘブル人への手紙の著者は、出エジプトしてから、カナンに入らず、荒野で死んでしまったイスラエルの民を安息に入らなかった事例として紹介しています。確かに悔しいケースです。厳しい苦労をしましたが、安息に入らずに死にました。ヨブが求める安息、否、神様がヨブに求めさせる安息というのは、苦難を受ける前の日常に復帰することではなく、人生と神様を再発見する上に与えられる真の安息です。  

욥기 QT5 211006수【쉴 틈 없는 고통】욥기 3장 11~26

욥기 3장 11~263:11 어찌하여 내가 태에서 죽어 나오지 아니하였었던가 어찌하여 내 어미가 낳을 때에 내가 숨지지 아니하였던가3:12 어찌하여 무릎이 나를 받았던가 어찌하여 유방이 나로 빨게 하였던가3:13 그렇지 아니하였던들 이제는 내가 평안히 누워서 자고 쉬었을 것이니3:14 자기를 위하여 거친 터를 수축한 세상 임금들과 의사들과 함께 있었을 것이요3:15 혹시 금을 가지며 은으로 집에 채운 목백들과 함께 있었을…