出エジプト記 QT65 210702金【モーセの特権】出エジプト記 33章 12~23

出エジプト記 33章 12~2333:12 さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。33:13 今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」33:14 主は言われた。 「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 」33:15 モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。33:16 私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」33:17 主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出したのだから。」33:18 モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」33:19 主は言われた。「わたし自身、わたしのあらゆる良きものをあなたの前に通らせ、主の名であなたの前に宣言する。わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」33:20 また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」33:21 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。33:22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。33:23 わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」   モーセは、神様にご計画を教えていただくために祈りながら、イスラエルの民を神の民として受け入れてくださるようにと、とりなします。共同体を神様の御心の中に置いておくなら、それより安全なことはないからです。たとえイスラエルが罪を犯し、懲らしめの中にいても、神様がイスラエルの民をご自身の民とし、彼らとともにおられるなら、それよりも安全なことはありません。モーセのとりなしは、イスラエルに対して堅かった神様の心を変えます。神様はモーセのとりなしの祈りを聞き、イスラエルの民を受け入れます。   モーセという存在は、神様の意志までも変えることができる特権を持っているのでしょうか?モーセというと特別な存在が祈ると、神様の意志までも変えられるということではありません。モーセの特権は、自分自身を放棄するまで共同体のためにとりなしの祈りする愛の力です。民が罪を犯している時も、モーセはとりなして祈っていました。神様はモーセという特別な存在の祈りを特別に聞いてくださったのではなく、モーセの特別なとりなしの祈り、特別な愛の祈りを聞いてくださったのです。   そのような意味でモーセは特別でした。聖なる神様に会って生き残る者はいませんが、神様の同労者モーセは一瞬でも神様に出会いその栄光を味わいました。とりなしの祈りは利他的な祈りです。利他的祈りの中で神様の心を共感することができます。神様の資源を自分自身に引っ張るための祈りではなく、神様の御心を知り、神様と動労者になることがとりなしの祈りです。   自分の必要のための祈ってもてもすぐに祈りの言語が断たれます。人のために、共同体のために祈り始めると、神様は、その特別な祈りに言語と心を与えてくださいます。自分が神様の働きをすれば、神様は自分の働きをしてくださいます。熱心に祈っても利他的な祈り、執り成しの祈りがなければ祈りを学ぶことはできません。神様の声を聞くこと、神様に出会うことは、すべての信仰の人において究極の課題です。今日ここで実践する愛に基づいたとりなしを通して、その道を見つけることを願います。   「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。13:1-3」

출애굽기 QT65 2100702금【모세의 특권】출애굽기 33장 12~23

출애굽기 33장 12~2333:12 모세가 여호와께 고하되 보시옵소서 주께서 나더러 이 백성을 인도하여 올라가라 하시면서 나와 함께 보낼 자를 내게 지시하지 아니하시나이다 주께서 전에 말씀하시기를 나는 이름으로도 너를 알고 너도 내 앞에 은총을 입었다 하셨사온즉33:13 내가 참으로 주의 목전에 은혜를 입었사오면 원컨데 주의 길을 내게 보이사 내게 주를 알리시고 나로 주의 목전에 은총을 입게 하시며 이…

出エジプト記 QT64 210701木【飾り物を取り外す】出エジプト記 33章 1~11

出エジプト記 33章 1~1133:1 主はモーセに言われた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、ここから上って行って、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地に行け。33:2 わたしはあなたがたの前に一人の使いを遣わし、カナン人、アモリ人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、33:3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。」33:4 民はこの悪い知らせを聞いて嘆き悲しみ、 一人も飾り物を身に着ける者はいなかった。33:5 主はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」33:6 それでイスラエルの子らは、ホレブの山以後、自分の飾り物を外した。33:7 さて、モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れたところに張り、そして、これを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのを常としていた。33:8 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、それぞれ自分の天幕の入り口に立って、モーセが天幕に入るまで彼を見守った。33:9 モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て、天幕の入り口に立った。こうして主はモーセと語られた。33:10 雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝んだ。33:11 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。モーセが宿営に帰るとき、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が天幕から離れないでいた。   モーセの切ないとりなしの祈りを通して神様はイスラエルの罪を赦してくださいました。だからといって完全に元に戻ったのではありません。神様はイスラエルに対する怒りをおさめただけであって、神様がイスラエルに信頼を置かれたわけではありません。「乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせる。しかし、わたしは、あなたがたのただ中にあっては上らない。あなたがたはうなじを固くする民なので、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼしてしまわないようにするためだ。33:3」   信仰があれば、神様に近づくことができますが、信仰がなければ、神様との距離は離れます。神様は罪を捨てないイスラエルと距離を持っておられます。それでもイスラエルに乳と蜜の流れる地を与えたいのが、神様の御心です。乳と蜜の地が与えられれば、イスラエルはそれを信じて、神様を信じません。神様はそれを警戒し、警告しておられるのです。   神様を信じて神様に必要を求めますが、その必要が満たされるとそれに神性を与えてしまいます。貧しくて神様に恵みを求めましたが、富が与えられるとそれと神様を取り変えてしまうことです。カナンの地に入ったイスラエルにおいても、世界史に登場した国々においても、一人の人間の歴史においても常に繰り返されることです。プレゼントを受けとってプレゼントをくださった方は捨てます。   信仰は、文字通りに信頼の問題です。神様を完全に信じられないのが問題であり、神様を信じないのは、神様と自分との間に何か他に信じることがあるということです。「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。ガラテヤ6:7」心に信じることは言葉になり、行動になり、形になります。何も信じない人は誰もいません。それによって人間は神様を離れます。   イスラエルの民は、飾り物を身から取り外さなければなりません。それにはもともと宗教的意味があります。自分を守ってくれるという一種のお守りです。お守りを作り、飾りそのものに神性を与えるのです。神様は、人間が作ったいかなる形にも入られません。神様を置き換えることができると思われるもの、目で確認できるもの、手に握られるもの、所有することができるものに置いた心を捨てて、神様の御言葉を信じる信仰に戻らなければなりません。

출애굽기 QT64 2100701목【단장품을 제하라】출애굽기 33장 1~11

출애굽기 33장 1~1133:1 여호와께서 모세에게 이르시되 너는 네가 애굽 땅에서 인도하여낸 백성과 함께 여기서 떠나서 내가 아브라함과 이삭과 야곱에게 맹세하기를 네 자손에게 주마 한 그 땅으로 올라가라33:2 내가 사자를 네 앞서 보내어 가나안 사람과 아모리 사람과 헷 사람과 브리스 사람과 히위 사람과 여부스 사람을 쫓아내고33:3 너희로 젖과 꿀이 흐르는 땅에 이르게 하려니와 나는 너희와 함께…

出エジプト記 QT63 210630水【主につく者】出エジプト記 32章 25~35

出エジプト記 32章 25~3532:25 モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。32:26 そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。32:27 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」32:28 レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。32:29 モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、主に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」32:30 翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は主のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」32:31 そこでモーセは主のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。32:32 今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」32:33 主はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。32:34 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。 」32:35 こうして主は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。   イスラエル民は金の子牛の事件の責任を負わなければなりませんでした。責任のない信仰はないからです。イエス・キリストの贖いは、罪を負って十字架で死んでくださった責任です。神様の憐れみを自分の都合のいいように解釈してはいけません。その恵みを言いながら、自分の行動に対して無責任であるなら、それは偽りか、矛盾です。恵みと無責任を混同してはなりません。自分で罪をが犯し、自分で赦されたと勝手に言​​うことではありません。口で言うのではなく、悔い改めを選びです。本当に赦される人であれば、赦しという結論を言わずに、悔い改めという過程ににとどまります。   モーセは主につく者を呼び出します。主につく者というのは金の子牛を崇拝することと、その過程で起きた乱れで堕落した行為に参加しなかった人をいいます。多くの人々は、声の大きい者に従って偶像を崇拝しました。最近は皆やってますのような甘い言葉に惑わされます。周りの人々が基準になってしまうのです。神様の御言葉ではなく、文化を基準にしてしまいます。目に見えるもの、手にするものが祝福であると思い込みます。だから金の子牛を作り、それに神様と名づけします。神様を信じないと言う人はいませんでした。しかし、皆が偶像に仕えていました。   モーセが呼び出した人は、神様が自分の側だと言い張る人ではなく、神様の側に立つことを選択する人です。自分が神様の方にいると口で言い張る必要はありません。説明も要りません。生活の中で何を選択するかによってそれは如実に現われるからです。今日一日も数多くの判断と分別、選択をしなければなりません。何を選ぶのかによって、金の子牛に仕えるのか、神様に仕えるかが分かれます。   金の子牛に拝まなかったレビ族が、モーセの前に出てきました。彼らは偶像に惑わされる文化に妥協せず、仲間と兄弟を懲戒するところに立ちました。その日、イスラエルの民の中三千人がなくなります。泣かない人はいなかったと思います。しかし、彼らは神様を選択しました。神様の側に立てる人は、世に流されない人、痛いにもかかわらず神様を選択をする人です。   コリントの手紙の一か所が浮かびました。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。Ⅱコリント5:21,6:1」

출애굽기 QT63 2106030수【하나님의 편에 서기】출애굽기 32장 25~35

출애굽기 32장 25~3532:25 모세가 본즉 백성이 방자하니 이는 아론이 그들로 방자하게 하여 원수에게 조롱거리가 되게 하였음이라32:26 이에 모세가 진문에 서서 가로되 누구든지 여호와의 편에 있는 자는 내게로 나아오라 하매 레위 자손이 다 모여 그에게로 오는지라32:27 모세가 그들에게 이르되 이스라엘의 하나님 여호와께서 이같이 말씀하시기를 너희는 각각 허리에 칼을 차고 진 이 문에서 저 문까지 왕래하며 각…

出エジプト記 QT62 210629火【堕落した神観】出エジプト記 32章 15~24

出エジプト記 32章 15~2432:15 モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。32:16 その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。32:17 ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」32:18 モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」32:19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。32:20 それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。32:21 モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。 」32:22 アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。32:23 彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』32:24 それで私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」   シナイ山から下ってきたモーセはイスラエル民が金の子牛を作って崇拝していることを見て激怒し、神様からいただいた律法の板を投げ捨ててしまいます。神様の怒りが現われたのです。モーセは金の子牛という偶像を火で焼き、それを粉々に砕き、水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませました。存在もしない虚像は、目の前で消えてしまいます。   偶像というのは形として造られただけで本来人の中にいます。神様に満足できない人の貪欲が偶像になってきます。神様を信じると言いながら、その信仰の名乗って神様ではない、貪欲を求めます。自分のために神様を利用するのです。それを正当化するために、人間は神を変えます。様様を歪曲してしまいます。自分の欲を合理化するために神観を歪曲し、神様の言葉を変えます。そのようにして自分の偶像が造られます。   神様はこのようなイスラエルのに対して、7節で「堕落した」と言われました。「主はモーセに言われた。さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。7」堕落とは、神様を正しく知っていないことです。そして9節では、それを「うなじを固くする民」としました。神様に対して学ぼうとせずに、自分にとって便利な神を作ってしまうことです。   最大の問題は、問題を問題として認識しないことです。モーセは、イスラエルの霊的リーダーとして立てられたアロンを追及しますが、アロンは民に責任を転嫁します。世論が偶像を正当化することはできません。人のために神を作ってはいけません。唯一生きる道は、神様に対する正しい理解を追い求め、常に自分を否定し、神を知る知識に回帰することしかありません。

출애굽기 QT62 2106029화【부패한 신관】출애굽기 32장 15~24

출애굽기 32장 15~2432:15 모세가 돌이켜 산에서 내려 오는데 증거의 두 판이 그 손에 있고 그 판의 양면 이편 저편에 글자가 있으니32:16 그 판은 하나님이 만드신 것이요 글자는 하나님이 쓰셔서 판에 새기신 것이더라32:17 여호수아가 백성의 떠듦을 듣고 모세에게 말하되 진중에서 싸우는 소리가 나나이다32:18 모세가 가로되 이는 승전가도 아니요 패하여 부르짖는 소리도 아니라 나의 듣기에는 노래하는 소리로다…

出エジプト記 QT61 210628月【アロンが作った金の子牛】出エジプト記 32章1~14

出エジプト記 32章1~1432:1 民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」32:2 それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」32:3 民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。32:4 彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は主への祭りである。」32:6 彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。32:7 主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。32:8 彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」32:9 主はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。32:10 今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」32:11 しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。32:12 どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」32:14 すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。   ヘブル人への手紙ではモーセよりも優れたお方としてキリストを強調していますが、それは著者がイエス・キリストとモーセの序列を作ろうとしているのではなく、モーセという人物が将来来られるべきキリストを象徴する存在と役割として旧約に表示されているからです。ですからヘブル人へに手紙の著者はユダヤ人に、モーセの実体は、イエス・キリストに現れたことを言っているのです。そういう意味で、今日の本文の中のモーセという名を、イエス・キリストという名に変えて読んでみれば、今日、私たちに与えてくださる現在的意味をより明確に解釈することができると思います。   今日の本文は、モーセがシナイ山で律法を受けていた間に、イスラエルの民がモーセを待たずに金の子牛は作り、それに拝む場面です。人々は、その時も今も神様と自分との間をつなぐ何かの媒体を探ります。それが、牧師であり、神父であり、教皇であります。預言など特別な賜物を持っていると言われる神秘主義にも流れることもあります。大きな教会の牧師や有名な牧師に祈りを受けることが、自分が祈ることよりも大きな効果があると思います。それは、そうであるかもしれませんし、そうではないかもしれません。   神様の前に出ていくためには牧師を通すのではなく、イエス・キリストを通さなければならないということは、当然の話しですが、実際には多くの人が誤解するものでもあります。神様と自分をつなぐ唯一の媒介は、イエスです。どんなものもその代わりになることはありません。信仰の主体性という言葉をよく言うことは、主体的でなければ、信仰はできないからです。健康な教会とは、聖徒の各自がイエス・キリストとつながっていてその人々が集まったところです。天国は教会の名乗った団体で入ることではなく、一人一人の入場券を持った人が集まったところです。   イスラエルの民はモーセが見えない間に依存することがなくなり、不安になりました。信じるのは信じますが、誰かがリードしてくれないと不安になる。ですから目に見えるものを作ります。言葉では神様を信じていると言うが、神様が目に見えないから目に見える形を作ってそれを信じようとします。それが金の子牛でした。なぜ金の子牛か?金の子牛は誰が見ても富の象徴です。人間は自分が求めていることを偶像にします。だから、偶像崇拝はすなわち自己崇拝です。   彼らは金の子牛の名札に偶像と書いたでしょうか?違います。金の子牛の名札には、神様と書きます。自分のための偶像を作っておいて、それは神様と呼び、名札をつけて拝むのです。金の子牛という偶像を他宗教や未信者を非難するための用いてはいけません。金の子牛の出来事は、神様を信じている人たち、しかもその信仰に熱心な人々によって起こった出来事だからです。   私たちは、今まで出エジプト記を通じて神様がアロンを祭司として立てられることの具体的な定めを読んきました。神様はアロンに多くの権限を与えます。ところが、アロンへの配慮と恵みがある所に、アロンは民を扇動して偶像を作ります。それがアロンでした。モーセの不在の間、アロンは自分と民を背教と堕落を導きます。そうであるなら、聖書は、この時点からすでに人間の祭司アロンに期待をかけていません。期待をかけるような存在ではないからです。   牧師は、自分で聖別した生活を営み、模範を示さなければならない責任から免れることはできません。弱いがゆえに恐れますが、そのように召されています。だからといって牧師は聖徒と違う全く違う人でもありません。アロンと民は何も変わりません。その時に倒れたアロンは今も倒れつつあります。それがアロンの実体です。アロンは、一時的な祭祀として一時的な職務を受けたもので、まだ不完全で、弱い存在でした。   結果的に、モーセが来て神様の前にとりなしをすることで、神様の怒りから全滅を免れます。それはアロンによるものではなく、モーセによるものです。牧師によるものではなく、イエス・キリストによるものです。今日の本文の御言葉を一次的に解釈し、牧師がとりなすならば、祈りの効き目がいいと思いますが、そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。   この話しの中であえて牧師に役割を与えるなら、それはモーセではなくアロンです。とりなしは、牧師の祈りではなく、キリストの贖いです。もしモーセの執り成しが必要とするならば、イエス・キリストのところに行かなければなりません。もちろん牧師にとりなしの祈りを頼むことはありますし、牧師はとりなしの祈りをすることもできます。そして聖徒も牧師のためにとりなしの祈りをすることができます。しかし、いかなる場合にも、イエス・キリストがいなければ、すべてが不可能です。神様と私の間にただイエス・キリストのみがおられることを願います。

출애굽기 QT61 2106028월【아론이 만든 금송아지 우상】출애굽기 32장 1~14

출애굽기 32장 1~1432:1 백성이 모세가 산에서 내려옴이 더딤을 보고 모여 아론에게 이르러 가로되 일어나라 우리를 인도할 신을 우리를 위하여 만들라 이 모세 곧 우리를 애굽 땅에서 인도하여 낸 사람은 어찌 되었는지 알지 못함이니라32:2 아론이 그들에게 이르되 너희 아내와 자녀의 귀의 금고리를 빼어내게로 가져 오라32:3 모든 백성이 그 귀에서 금고리를 빼어 아론에게로 가져 오매32:4 아론이 그들의…