マタイによる福音書 QT25 20210209火【安息日の主】マタイ 12章 1~21

マタイ 12章 1~2112:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。12:8 人の子は安息日の主です。」12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」   疲れ、重荷を背負った人を招き、安息を与えると言われたみ言葉は12章の安息日論争につながります。私のくびきは負いやすく軽いですといった言葉が安息日論争の中に入ると、信仰とは重荷を減らすものであって、それをさらに重くするものではないことを確認することができます。   安息日の朝に、弟子たちは畑を通りながら空腹を覚え、穂を切って食べました。当時は旅人が他人の畑の穂を切って食べることが制度的に許容されていました。かごに入れて持って帰らなければ大丈夫です。貧しい人と旅人のための慈悲と憐れみの制度です。   ですから誰もイエス様の弟子たちが他人の畑の穂を切って食べたということで問題を提起することはできません。ただし、穂を切って食べることがすなわち収穫と脱穀の行為であるということを問題視したのです。それが労働に該当し、労働を禁じている安息日の規定に違反するということです。みじめな話ですが、これが今朝の本文です。   イエス様はダビデの物語を引用し、わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない..と言われます。神様が人に6日間の労働を止め、安息を命じたのは、人を制限するためではなく、自由にするためです。いつも畑に置いている近視眼的視点は、自分も知らないうちに自分自身を縛ってしまいます。ですから、思い切って視線を天に置いて礼拝することが安息日の真の意味です。そうでなければ無意味なこだわりと欲に閉じ込められてしまうからです。   イエス様はまた、安息日に病人を癒しました。それに対してパリサイ人たちは、イエス様が安息日にしてはならない医療行為、すなわち労働をしたということで訴えます。イエス様は、安息日であってもあなたがたの財産を守ることについては働いているのではないかと言われ、貧しくて苦しい人の病気を癒したのが安息日の精神に反するのかと反問されました。当時は宗教権力は安息日に最も多くのお金を稼いていた時代でした。   このような精神を評価する際、イエス様を進歩的な博愛主義者であるとも言いますが、忘れてはならないことは、イエス様は受肉した神様であるということです。なので「人の子は安息日の主です」とされました。礼拝を受けられるべき方はイエス様ご自身です。   その方が人間を創造された方であって、安息日の礼拝を通して人間を人間らして守ってくださる方です。聖徒の位置づけはこれです。安息日の主はイエス様であり、主であるイエス様が最も大切にするのが人です。安息日は人を生かすための日であり、安息日の主は、人を生かすために来られた方です。  

마태복음 QT25 20210209화【안식일의 주인】마태 12장 1~21

마태 12장 1~2112:1 그 때에 예수께서 안식일에 밀밭사이로 가실쌔 제자들이 시장하여 이삭을 잘라 먹으니12:2 바리새인들이 보고 예수께 고하되 보시오 당신의 제자들이 안식일에 하지 못할 일을 하나이다12:3 예수께서 가라사대 다윗이 자기와 그 함께한 자들이 시장할 때에 한 일을 읽지 못하느냐12:4 그가 하나님의 전에 들어가서 제사장 외에는 자기나 그 함께한 자들이 먹지 못하는 진설병을 먹지 아니하였느냐12:5 또…

マタイによる福音書 QT24 20210208月【疲れた人、重荷を負っている人】マタイ 11章 20~30

マタイ 11章 20~3011:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。11:27 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」   なまけず、真面目に働くことは確かに良いことですが、仕事にも中毒というものあります。成り切っている人をほっとけば休まずに仕事に夢中になります。私の場合も、しばらくソファに座って休もうとすると、すぐに不安となり、ノートパソコンを探します。何かしなければならないという中毒症状です。休めない強迫は働かない怠惰と変わらない不幸な病気です。   神様はすべての人に「七」の周期で労働を休むとうにされました。現在、世界中のカレンダーはこれに従い、人が休むことなく労働することについては法律で禁じられています。7日を働いたら一日を休み、7年を働いたら一年を休み、七回を働いたら、一回を休むことです。   休むということは、疲れた肉体の労働を止めることではありますが、欲にブレーキをかけることでもあります。成り切ったところから立ち上がって世界を望むという意味でもあります。休むことににより、現在の位置と方向を把握し、動機と意味を確認することができます。そのような意味での旅行は、体を動かすことではありますが、休むことになります。   イエス様の言葉をよく聞いてみると、「あなたの重荷を下ろしなさい」で終わらず、「私のくびきは負いなさい」です。そしてイエス様のくびきは軽いと言われ、それからイエス様は、「わたしは心が柔和でへりくだっているから」と自己賞賛されます。   それはイエス様が柔和と謙遜という人格を誇るつもりではなく、負いやすく軽いくびきの性質について語られるのです。イエス様のくびきは柔和と謙遜で欲望による競争と紛争と高慢はありません。だからイエス様のものは軽いものであり、だから私たちのものは、そうでなく重苦しいのです。   イエス様が重荷を負った者を招待されたのは、人生の目的を変え、真の安息を味わせるためです。欲望により、休まない人間、休ませない世界を休ませるのが目的です。休みますが、神様の中で休むのです。同じ家に入って休むとしでもある人は快適に安息をとり、ある人にいらいらです。なぜなら、家主であれば楽ですが、他人の家に入ったのであれば不便だからです。私たちにおいてイエス様の人格がお家のような安息になることを願います。  

마태복음 QT24 20210208월【수고하고 무거운 짐진 자들아】마태 11장 20~30

마태 11장 20-~3011:20 예수께서 권능을 가장 많이 베푸신 고을들이 회개치 아니하므로 그 때에 책망하시되11:21 화가 있을진저 고라신아 화가 있을진저 벳새다야 너희에게서 행한 모든 권능을 두로와 시돈에서 행하였더면 저희가 벌써 베옷을 입고 재에 앉아 회개하였으리라11:22 내가 너희에게 이르노니 심판 날에 두로와 시돈이 너희보다 견디기 쉬우리라11:23 가버나움아 네가 하늘에까지 높아지겠느냐 음부에까지 낮아지리라 네게서 행한 모든 권능을 소돔에서…

マタイによる福音書 QT23 20210206土【剣をもたらすために】マタイ 10章 34~42

マタイ 10章 34~4210:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。10:35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。10:36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。10:40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。10:41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」   「平和ではなく剣をもたらすために来ました」というイエス様の言葉は、ルカ12章ではもう少し詳しく出てきます。ルカは、「地上に火を投げ込むために来ました49」で始まり、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です 51」につながります。「父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。53」は十戒の親を敬うことと衝突するように見えます。   現実的に福音を受け入れ、それを対外的に宣言することには、関係上の衝突を避けられません。その告白が純粋なものであればあるほど反対と葛藤は深まります。ルカはそれを克服することについて、「家族を憎まない場合…」という表現を使いましたが、マタイは、その誇張法的な表現を整理して「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」としました。家族中心の考え方から見れば、どのように理解しても困難を覚える言葉です。   私たちは、家族共同体のために利益共同体に参加して経済活動をします。家族には、経済的利益が発生しなくても重要な価値と見なして、献身します。イエス様が家族を憎むようにと求めた言葉に失望する人がいるかと思いますが、家族利己主義を切って断面をみると、自分の子どもを愛する利己的な愛の理由で自分を育ててくれた親や兄弟と争っている人がいます。こういう言葉に引っ掛かり、異議を提起する前に、どのように愛しているを振り返ってみるべきです。   イエス様が家族の愛を制限しているのではありません。大切な家族も偶像化してしまうなら、その視野は狭く、神様と隣人を愛することはできなくなるからです。偶像化した家族の利己主義は、家族のためにも真の意味の愛にはなりません。しかし、神様を愛すること、その愛は利己的なものではなく、不寛容なものでもないので、神様の愛の中で、家族は今よりももっと愛することができます。   40節以下に続く言葉はそのような覚悟と献身をもって伝道者の道を歩む人を受け入れなさいということにつながります。「預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます41」「わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。42」イエス様は、すべての人に広がった意味の愛と献身を求められます。共同体が、家族利己主義を克服し、宣教に献身した人を家族として受け入れることを通して群れは宣教共同体に生まれ変わるのです。  

마태복음 QT23 20210206토【검을 주러 왔노라】마태 10장 34~42

마태 10장 34~4210:34 내가 세상에 화평을 주러 온 줄로 생각지 말라 화평이 아니요 검을 주러 왔노라10:35 내가 온 것은 사람이 그 아비와, 딸이 어미와, 며느리가 시어미와 불화하게 하려 함이니10:36 사람의 원수가 자기 집안 식구리라10:37 아비나 어미를 나보다 더 사랑하는 자는 내게 합당치 아니하고 아들이나 딸을 나보다 더 사랑하는 자도 내게 합당치 아니하고10:38 또 자기 십자가를…

マタイによる福音書 QT22 20210205金【拒絶される福音】マタイ 10章 16~33

マタイ 10章 16~3310:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。   イエス様は福音伝道者が世の反対にぶつかり、迫害を受けることを予告されます。福音の働きのために公会議で裁かれ、会堂でむち打たれ、総督と王たちの前に連れて行かれます。これが阿鼻叫喚となり、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。恐ろしい預言です。   イエス様が言われているのは、福音のための苦しみます。歴史の中でその預言は成就され、また今もなお達成されているところです。キリスト教の信仰は、迫害という危機を迎えるたびに、福音の生命力がよみがえてくる神秘的な宗教でした。苦難を受けるたびに、信仰の本質が回復します。確かに苦難の予告は恐ろしいものですが、福音はそのような環境の中で生きていて救いの活動をします。   ところが、危機と苦難が消え、教会が社会の位置を獲得し始めると教会は力を失い、世俗化してしまいます。社会の中で生きなければならない教会が社会的信頼を失ってしまえば、教会の居場所もなくなります。それは福音のための苦しみではなく、偽の福音がもたらす世の拒絶です。宣教は、天国でするのではなく、この地においてしなければならないことだからです。地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。   福音を言うために何から始めれば福音の意味を伝えることができるでしょうか?病気の体の癒しと日常の必要が満たされる祝福を言ってみても、福音の恵みは届かず、かえって誤解されてしまいます。それによって福音を理解した人は、再び病み、乏しみ、困難にあえば離れてしまいます。しかし、福音は、そのような人と神様をつなげる恵みです。   伝道者が福音を語るためには、目に見える祝福を言う前に隠されている罪を言葉で言わなければなりません。救いは、罪からの救いだからです。罪を認識し、自覚していない人の福音はまだ福音がありません。ですから罪を指摘する福音は世によって憎まれ、また世の道徳基準をもっていない教会は、世によって拒絶されるのです。   福音を伝えることは、罪を告発し、非難するためではありません。福音は赦しを語っています。罪を知らないので当然赦しを受けいれる必要もありません。ということで福音は、今日も拒絶されます。イエス様は赦しのために十字架につけられましたが、それのために憎まれました。そのように、十字架の福音を伝えば、それのために嫌われるのです。しかし、赦された罪人の共同体は、それに負けず、それに恐れず、福音を告白し、宣言していきます。  

마태복음 QT22 20210205금【거절당하는 복음】마태 10장 16~33

마태 10장 16~3310:16 보라 내가 너희를 보냄이 양을 이리 가운데 보냄과 같도다 그러므로 너희는 뱀 같이 지혜롭고 비둘기 같이 순결하라10:17 사람들을 삼가라 저희가 너희를 공회에 넘겨 주겠고 저희 회당에서 채찍질하리라10:18 또 너희가 나를 인하여 총독들과 임금들 앞에 끌려 가리니 이는 저희와 이방인들에게 증거가 되게 하려 하심이라10:19 너희를 넘겨줄 때에 어떻게 또는 무엇을 말할까 염려치 말라…

マタイによる福音書 QT21 20210204木【伝道者のアイデンティティ】マタイ 10章 1~15

マタイ 10章 1~1510:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。   イエス様は十二弟子を派遣しながら伝道者のアイデンティティについて言われます。宣教において伝道者は主語ではありません。伝道の主体は聖霊様です。大学生伝道の情熱を持っていたキャンパス・クルセードが伝道について教える「成功的な伝道とは、聖霊の力の中で、キリストのみを伝え、その結果は神様に委ねること」としました。そうであれば、伝道者に与えられた使命は、結果を恐れずに伝え続けることです。伝道の愚かさ、すなわち、誰かの口から誰かの耳に渡っていかなければありません。   宣教の問題は、伝道をしても人々が信じないことではなく、そのような理由と言い訳を並べて何も伝えないことです。たましいを救うのは神様がなさることです。伝道者には伝える責任があるだけです。福音を伝えなければ罪はそのまま残り続けます。赦しの唯一の情報が配信されないからです。伝えると言っても皆がそれを聴いて信じるのではありませんが、伝えなければ救いは起こりません。自分の信仰を確かめたいと思ったら伝道をすべきです。伝道の言葉を口にしてみると、自分が何をどのように信じているかが明確に分かります。   公教会の聖徒が共有する一般的宣教論は必ずありますが、それぞれの地域と時代に与えられた宣教の有り様と形は、皆がそれぞれ異ります。伝道者はそれを悩まなければなりません。自分が置かれた地域と時代、神学的考察なしに、誰かが考案した教会成長セミナーなどに頼ることは意味のないことです。自分だけに与えられた状況と賜物をそのマニュアルが知るはずがありません。各自に与えられた宣教があります。それを見つけて従うのです。それに必要な人と財政は宣教の主体である神様が供給します。   ですから対象と方法などの具体的なことについては宣教の主体に聞き頼る必要があります。そのような脈絡で、イエス様は弟子たちに、伝道の範囲を制限し、さらに宣教に必要な財政の主権をも持って送られます。イエス様は宣教が始まる時に財布にお金を持たないようにとしました。信仰がないか、従われない場合は、この段階で離れていきます。お金がなくて座り込みます。神様が財政の主であるということを経験した人は分かります。お金があったからできるのではなく、始めるとお金がまかなわれること、神はそのような信仰を求められます。   お金の必要は現実的に常に切実なものです。宣教も財政が必要です。しかし、それが宣教の主体になることはできません。お金は信仰の真正性が確認された後にきます。伝道者は財政に頼ってはいけない、また、財政の不足のためにアイデンティティと誇りを忘れてしまってもいけません。何ごとにおいても正当な補償があることが神様の原則です。財政の必要が貪欲につながってはならないし、献身が欠乏の理由になってもいけません。財政から神様に出会うことが出来なかったら財政が常に神の座を占めようとするはずです。  

마태복음 QT21 20210204목【전도자의 정체성】마태 10장 1~15

마태 10장 1~1510:1 예수께서 그 열 두 제자를 부르사 더러운 귀신을 쫓아내며 모든 병과 모든 약한 것을 고치는 권능을 주시니라10:2 열 두 사도의 이름은 이러하니 베드로라 하는 시몬을 비롯하여 그의 형제 안드레와 세베대의 아들 야고보와 그의 형제 요한,10:3 빌립과 바돌로매, 도마와 세리 마태, 알패오의 아들 야고보와 다대오,10:4 가나안인 시몬과 및 가룟 유다 곧 예수를 판…