マタイによる福音書 QT7 20210119火【わたしについて来なさい】マタイ4章 12~25

マタイ4章 12~254:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。4:18 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」4:20 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。4:21 イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。4:22 彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。4:24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。4:25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。   マタイの福音書は時間の流れに沿って記述された本ではありません。イエス様が荒野での試みを受けた後、時間が経過しました。その間、バプテスマのヨハネは牢屋に閉じ込められます。その背景には、ヨハネの福音書の方が詳しく述べています。領主ヘロデが弟の妻ヘロデヤを取ったことを批判したことで、権力を欲しがっていたヘロデヤがヘロデにヨハネを殺すことを願ったからです。   イエス様はその時から疎外された辺境、イスラエル北部に移動して、公生涯を始めます。ヨハネが荒野で悔い改めを促し、天の国を説教したように、イエス様も辺境で悔い改めと天の御国を伝えます。ヨハネの働きもイエスの働きも改革を始めたことでした。   改革は、エルサレムとローマで始まったものではなく、ナザレとガリラヤから始まって、エルサレム、ローマと広がっていきました。磁石が荒野と辺境に置かれていても磁場の影響を受けたのはみな磁石の周りに集まってきます。神様が選んだ民はみな救いを受けるでしょう。まるで磁石にしがみつきようにイエス様に従った人の話しが続いて出てきます。   イエス様はガリラヤ湖のほとりで魚をとる漁師たちを弟子として呼ばれました。マタイの記述を読めば、ペテロとアンデレの兄弟、そして共同経営者のヤコブとヨハネの兄弟が召されましたが、たちまちすべてを置いて従うことがわかります。網も船も捨て、父も捨て、イエス様についていきます。   何かに憑かれたようについて行きますが、この背景についてはルカが詳細に伝えます。彼らがイエス様について行ったのは魚をとれなかったからではなく、むしろ魚をとれたからです。魚をとることができなかった無能な彼らに魚をとることができるような根源的な力が現れましたが、それがイエス様のみ言葉だったからです。   ということで彼らがイエス様を従った後、海辺には網と船だけではなく満船になった魚も残されました。それらを惜しげもなく捨てたのは、彼らがすでに磁石に導かれていたからです。磁石に長くくっ付いている鉄は磁力ができ、また、自分の磁場を形成していきます。   個人的には22節が描くことが悲しいと思いました。風の海に一人として残された父…イエス様は捨て従うようにしましたし、彼らは捨てていきました。しかし、イエス様は彼らの家族を捨てませんでした。戻ってペテロの義母の熱をおさめ。癒してくださったし、ヤコブの母も、イエス様に従う人になりました。   神様の召しは磁石のようです。磁石の磁は、仁慈の慈から生まれました。鉄を引き寄せる磁石がまるで母親が子を抱く慈しみを思い起こさせるということで磁石になりました。   船と魚があれば家庭の経済力は守れるかもしれませんが、それを捨てる献身は、家族を救うことになりますた。捨てるとこによってとるというのは逆説です。皆が恵みを求めますが、献身しなければ、その恵みを体験することができないかもしれません。   神様の恵みと人の献身をもって取り引きをするつもりではありません。恵みと献身は、本質が同じではありませんか?漁を取っていた漁師たちがイエス様に従うようになったのは、献身であるし、同時に恵みでもありました。

마태복음 QT7 20210119화【나를 따라 오너라】마태4장 12~25

마태4장 12~254:12 예수께서 요한의 잡힘을 들으시고 갈릴리로 물러 가셨다가4:13 나사렛을 떠나 스불론과 납달리 지경 해변에 있는 가버나움에 가서 사시니4:14 이는 선지자 이사야로 하신 말씀을 이루려 하심이라 일렀으되4:15 스불론 땅과 납달리 땅과 요단강 저편 해변 길과 이방의 갈릴리여4:16 흑암에 앉은 백성이 큰 빛을 보았고 사망의 땅과 그늘에 앉은 자들에게 빛이 비취었도다 하였느니라4:17 이 때부터 예수께서 비로소…

マタイによる福音書 QT6 20210118月【サタンは誘惑はどのように来るのか】マタイ4章 1~11

マタイ4章 1~114:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。   悪魔がイエス様を試みましたが、それを受けた場所は荒野であり、荒野に導いたのは御霊です。イエス様が受けた誘惑というのは今の私たちにおいても変わらず脅威的な誘惑であります。聖霊は、悪魔の力を根本的に取り除くのではなく、悪魔の策略を知らせ、それから打ち勝つことができるように霊的な耐性に養います。   最初の誘惑は、石をパンにすることです。悪魔は一番弱いところを狙います。40日間の断食で飢えを覚えているイエス様に食べものの誘惑は致命的なものです。イエス様が石をパンにするとしたら、先にご自分の当面の飢えを解決することになります。悪魔が、まずイエス様が自分のために食べることによって、イエスをパンで生きるものにしたいという試みです。   空腹であるなら食べものを切に求めるし、満腹になったらよりよい美味しいものが食べたいという貪欲が起こります。歴史上、今のような消費時代はありませんでした。消費中毒の人々は、お金を使えないということに深刻な不安を感じています。食べものの確保、経済戦争が、人生の唯一の目的になってしまったのは久しいことです。   経済力を持てという悪魔に向かって、イエス様は、人間は経済力のみで生きるのではなく人間らしく生きるものであって、それは神様の御言葉を通して、人間の本来にあるべき姿を回復し、目指すべき目的を見つけることだと答えられました。   最初の試みがお金のことであったなら、第二の試みは、力の誘惑です。神殿という場所はへりくだった人間が神様を礼拝するための場所です。悪魔は、イエス様を、その神殿の頂に立たせ、スーパーマンのように飛び降り、自分の能力を誇るようにと誘惑します。   超越を追い求める信仰は、現実と乖離した神秘主義を生み出します。教会は力を追い求め、それを誇るところではありません。教会の上に掲げている十字架が大きくなればなるほど、それは宗教の力が大きくなっていくのではなくて、悲惨な人間に与えられた神様の恵みが大きくなるということを覚えなければなりません。   第三の試みは、この世のすべての王国とその栄華を与えるという悪魔のうそです。すべての王国とその栄華とうことも実際、悪魔のものでもありません。無断に持ち主ふりをするだけですが、悪魔は自分にひれ伏し、拝むなら世界と栄光を与えると言うのです。悪魔にひれ伏し、拝む人はいません。しかし、世とそれがもたらす栄光に膝をまずくす人は大勢います。その栄光に心を奪われること、それがすなわち悪魔にひれ伏し、拝むということです。   イエス様はこれらの誘惑に対して、人はパンで生きることではなく、神様の口から出る言葉によって生きると答えられ、神様を試みないようた答えられ、ただ神様のみ礼拝するように答えられした。悪魔の試みはすべて聖書的な根拠を持っていますが、すべて文脈を考慮していない恣意的かつ断片的な根拠でした。   神様の御言葉は切り取って財布に収めるお守りではなく、年明けのくじ引きで当たる宝くじでもありません。文脈と状況の中で言葉の意図と目的を理解し、その精神を聖徒の生活の価値観にするのです。神様の御言葉によって人生の態度と求める価値が変わるなら、それがまさに最大の神秘であり、力ではないでしょうか。  

마태복음 QT6 20210118월【마귀의 유혹은 어떻게 오는가】마태4장 1~11

마태4장 1~114:1 그 때에 예수께서 성령에게 이끌리어 마귀에게 시험을 받으러 광야로 가사4:2 사십 일을 밤낮으로 금식하신 후에 주리신지라4:3 시험하는 자가 예수께 나아와서 가로되 네가 만일 하나님의 아들이어든 명하여 이 돌들이 떡덩이가 되게 하라4:4 예수께서 대답하여 가라사대 기록되었으되 사람이 떡으로만 살것이 아니요 하나님의 입으로 나오는 모든 말씀으로 살 것이라 하였느니라 하시니4:5 이에 마귀가 예수를 거룩한 성으로…

マタイによる福音書 QT5 20210116土【悔い改めにふさわしい実】マタイ3章 1~10

マタイ3章 1~103:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。   バプテスマのヨハネが荒野に叫ぶ者として登場した時、イスラエルの宗教は植民地政府の下手人になって社会的利益を維持していました。ヨハネは「まむしの子」という厳しい言葉で彼らを批判しました。ヨハネは「悔い改めなさい」ではなく、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」といいました。口ではなく、観念でもなく、実践して悔い改めの証拠を示すということです。示すためのものであれば本当の悔い改めではないかもしれませんが、本当に悔い改めているなら必ず変化があるからです。   バプテスマのヨハネの叫びについては、ルカの方がはマタイより具体的に述べています。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」服を二着以上持ってはいけないということではないです。周りに貧しい人々の裸を見ながら、より良いもの、より多くのことをむさぼることに対する戒めです。社会は経済的な弱者の権利を分配する必要があります。   「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。」公権力を用い、国民を怖がらせずに法を利用し、不当に国民のことを奪うず、それを権力と利益の道具として使わないという言葉です。「自分の給料で満足しなさい。」正当な報酬のほか、他の不正な利益を取ってはいけないことです。   すべて礼拝堂の外で起こることです。ヨハネの説教の対象というのは、社会と宗教が分離されていません。いずれの場合も、宗教は社会と分離されません。いや、宗教は社会に必ず属し、その社会をリードしなければなりません。社会的な責務において宗教が例外になることがありません。   韓国では伝染病予防のために教会の集会が強制的に禁止され、教会が困難を覚えています。それは教会だけではありません。この時代に生きる誰もが同じです。それに対して宗教弾圧、教会破壊という利己的な宗教、幼稚的な独善を言う人たち見ながら絶望感に陥らざる得ないです。神様の御言葉は読まず、自分たちの利益のみを黙想するから、教会が間違った場方向に走っているのです。   アウグスティヌスの信仰に大きな影響を与えたというアンブロシウスは、皇帝がミラノ大聖堂に入ろうとしていたときに、教会も天国も悔い改めていない人は、入ってはいけませんと言って、悔い改めてない皇帝が教会に入らないようにしたという話があります。それは皇帝の道徳的反省を求めたことではなく、王であるなら定義と公平を決断し、それを政治に反映、実行するようにという社会的な求めでした。   「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』3」主の道を用意し、その道をまっすぐにすることに参加したい聖徒がいますか?彼らはより広い神学的な主題と、その解釈と実践を行われなければなりません。それこそが人生の価値と信仰の価値が分離されず、一つとして一元化していくことだと思います。  

마태복음 QT5 20210116토【회개에 합당한 열매】마태3장 1~10

마태3장 1~103:1 그 때에 세례 요한이 이르러 유대 광야에서 전파하여 가로되3:2 회개하라 천국이 가까왔느니라 하였으니3:3 저는 선지자 이사야로 말씀하신 자라 일렀으되 광야에 외치는 자의 소리가 있어 가로되 너희는 주의 길을 예비하라 그의 첩경을 평탄케 하라 하였느니라3:4 이 요한은 약대 털옷을 입고 허리에 가죽띠를 띠고 음식은 메뚜기와 석청이었더라3:5 이 때에 예루살렘과 온 유대와 요단강 사방에서 다…

マタイによる福音書 QT4 20210115金【殺す王、生かす王】マタイ2章 13~23

マタイ2章 13~232:13 彼らが帰って行くと、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った。「立って幼子とその母を連れてエジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」2:14 そこでヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに逃れ、2:15 ヘロデが死ぬまでそこにい た。これは、主が預言者を通して、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と語られたことが成就するためであった。2:16 ヘロデは、博士たちに欺かれたことが分かると激しく怒った。そして人を遣わし、博士たちから詳しく聞いていた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺させた。2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。2:18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが夢で、エジプトにいるヨセフに現れて言った。2:20 「立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちを狙っていた者たちは死にました。」2:21 そこで、ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。   イスラエルの王が生まれると言われたヘロデは、当時に生まれた男の子を虐殺します。モーセが生まれた時代にもヘブライ民族の拡張を警戒していたエジプトの王が、ヘブライ人の家庭に生まれた男の子をみな殺した出来事がありました。同様に、イスラエルの王が生まれたということを聞いたヘロデ王は、王になる赤ちゃんが誰なのか分からないので当時生まれた赤ちゃんをみな殺したのです。   ヘロデという王は絶対君主がありません。ローマ帝国の皇帝が植民地のユダヤを治めるために任命した領主です。雇われた王です。自分の位置を維持するために、常に皇帝の顔色を伺う人です。自分の政治的生存のために生まれたばかりの赤ちゃんの生存権を無残に奪ったのがヘロデの幼児虐殺です。   韓国で養子となった子どもを虐待して死亡してしまった事件が起こり、社会全体が公憤しています。小さな利益の欲のために子どもを入籍し、自己暴力によって子どもの生存権を奪ったのです。貪欲と暴力は人間の本性です。それは犯罪者が新たに作られたものではなく、制御できないとき、活性化してしまう人間の本性の断面です。   すべての人間に貪欲があり、暴力性があります。ポンプに少しの水を注げば、水が絶えなく出てくるように暴力という水を注げば、暴力はアクティブになって絶えず繰り返され、さらに発展します。繰り返され、深化された暴力、人間性が制御できない悪魔性を受け、子どもは死に至りました。   自分の生存と貪欲のために誰かを利用し、暴力を振る舞い、命をも殺すことができるという悪魔性は、認めたくないですが、誰にでもあるものです。それを使い始めると、その暴力性は活性化します。家庭、学校、職場という組織の内で習慣的に行われる暴力は人間性を破壊する悪魔のものです。破壊は、加害と被害の両方で起こります。誰であっても誰かの生きる権利を奪う権利はありません。罪を制御しなければ両方死にます。   ここに、殺そうと王と救って生かす王がいます。白い馬と黒い馬が自分の中で戦うとき、どちらが勝つのでしゅか?私が勝ちなさいと命令する馬が勝ちます。自ら低くなり、貪欲と暴力の罪を代わりになって十字架で死ぬために王がきました。心の中にそれを信じる信仰が勝たなければならいます。貪欲と暴力、利己主義が秩序になってしまった世の中で王と王の言葉に仕える人には、それを制御する力、愛と平和という回復された創造の秩序が与えられます。  

마태복음 QT4 20210115금【살리는 왕, 죽이는 왕】마태2장 13~23

마태2장 13~232:13 저희가 떠난 후에 주의 사자가 요셉에게 현몽하여 가로되 헤롯이 아기를 찾아 죽이려하니 일어나 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 피하여 내가 네게 이르기까지 거기 있으라 하 시니2:14 요셉이 일어나서 밤에 아기와 그의 모친을 데리고 애굽으로 떠나가2:15 헤롯이 죽기까지 거기 있었으니 이는 주께서 선지자로 말씀하신바 애굽에서 내 아들을 불렀다 함을 이루려 하심이니라2:16 이에 헤롯이 박사들에게…

マタイによる福音書 QT3 20210114木【もう一人の博士】マタイ2章 1~12

マタイ2章 1~122:1 イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」2:3 これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。2:4 王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」2:7 そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。2:8 そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。2:9 博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。2:11 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。2:12 彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。   東方の博士は三人いたと推測されますが、ヘンリー・ヴァン・ダイクが書いた小説の中には「もう一人の博士」という話があります。もう一人の博士の名前はアルタバンで職業は医師でした。火災によって愛する家族を失ってから、星を研究していたある日、メシアの星を見て礼拝することを心に決めます。ささげものとしてサファイア、ルビーと真珠を用意しました。   出発する日にアルタバンは道ばたで死にかかっているお年寄りに会います。彼の最期を見届けたため、出発の約束時間に遅れてしまいます。アルタバンはサファイアを売ってラクダを買い一人で出発します。ベツレヘムに着いたとき、すでにキリスト・イエスは生まれ、3人の博士は礼拝をささげた後でした。   アルタバンは、キリストと会えず、避難のためエジプトに下る赤ん坊イエスとすれ違います。その道でヘロデの兵士たちの幼児虐殺をするのを見て、自分が持っていたルビーを賄賂として与え、母さんと赤ちゃんたちを救いました。   最後に残った真珠も貧しい人々に分けて与え、病気の人を治療しながら貧しい町に20年間とどまります。そんなある日、自分では治せなかった盲目の少年が、エルサレムでイエスに会い、目を開けてもらったという叫びを聞きます。   アルタバンは同行していた奴隷を解放し、イエスに会うために旅を再開します。最後の晩餐をされた家に辿り着いたのですが、イエス・キリストはいませんでした。ゲッセマネに行ってみましたが、ペテロが一人で泣いているだけでした。イエス・キリストは十字架を背負ってゴルゴタの丘を歩いていました。   年を取って弱まったアルタバンは倒れ、死境をさまよっていたときに、復活したイエス・キリストが現れました。いよいよイエスに出会ったのです。アルタバンはイエス・キリストに言います。「申し訳ありません。礼拝したいのですが、もうささげものがありません。」   イエス・キリストは言われました。「わたしはあなたがささげた贈り物をすべて受け取りました。死にかけていたヘブライの老人を大切にしてくれたこと、ベツレヘムの赤ちゃんとお母さんたちを死から救ってくれたこと、貧しい村の病気の人を助けてくれたこと、奴隷を自由の身に解放したこと、そして故郷の友人の一人娘を救ってくれたことです」と言われました。   アルタバンはその言葉を聞いて息を引きとりました。小説を書いたヘンリー・ヴァン・ダイクは牧師でもありました。「もう一人の博士」の礼拝は、人生全体を通してささげた礼拝であり、その人生は、神様が受けとるようなものでした。アルタバンはやがてメシアを拝みました。この話が単なるフィクションに聞こえないのは、アルタバンの人生が、キリストの人生と最も似ているからです。  

마태복음 QT3 20210114목【네 번째 동방박사】마태2장 1~12

마태2장 1~122:1 헤롯왕 때에 예수께서 유대 베들레헴에서 나시매 동방으로부터 박사들이 예루살렘에 이르러 말하되2:2 유대인의 왕으로 나신 이가 어디 계시뇨 우리가 동방에서 그의 별을 보고 그에게 경배하러 왔노라 하니2:3 헤롯왕과 온 예루살렘이 듣고 소동한지라2:4 왕이 모든 대제사장과 백성의 서기관들을 모아 그리스도가 어디서 나겠느뇨 물으니2:5 가로되 유대 베들레헴이오니 이는 선지자로 이렇게 기록된바2:6 또 유대 땅 베들레헴아 너는…