マタイによる福音書 QT7 20210119火【わたしについて来なさい】マタイ4章 12~25
マタイ4章 12~254:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。4:18 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」4:20 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。4:21 イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。4:22 彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。4:24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。4:25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。 マタイの福音書は時間の流れに沿って記述された本ではありません。イエス様が荒野での試みを受けた後、時間が経過しました。その間、バプテスマのヨハネは牢屋に閉じ込められます。その背景には、ヨハネの福音書の方が詳しく述べています。領主ヘロデが弟の妻ヘロデヤを取ったことを批判したことで、権力を欲しがっていたヘロデヤがヘロデにヨハネを殺すことを願ったからです。 イエス様はその時から疎外された辺境、イスラエル北部に移動して、公生涯を始めます。ヨハネが荒野で悔い改めを促し、天の国を説教したように、イエス様も辺境で悔い改めと天の御国を伝えます。ヨハネの働きもイエスの働きも改革を始めたことでした。 改革は、エルサレムとローマで始まったものではなく、ナザレとガリラヤから始まって、エルサレム、ローマと広がっていきました。磁石が荒野と辺境に置かれていても磁場の影響を受けたのはみな磁石の周りに集まってきます。神様が選んだ民はみな救いを受けるでしょう。まるで磁石にしがみつきようにイエス様に従った人の話しが続いて出てきます。 イエス様はガリラヤ湖のほとりで魚をとる漁師たちを弟子として呼ばれました。マタイの記述を読めば、ペテロとアンデレの兄弟、そして共同経営者のヤコブとヨハネの兄弟が召されましたが、たちまちすべてを置いて従うことがわかります。網も船も捨て、父も捨て、イエス様についていきます。 何かに憑かれたようについて行きますが、この背景についてはルカが詳細に伝えます。彼らがイエス様について行ったのは魚をとれなかったからではなく、むしろ魚をとれたからです。魚をとることができなかった無能な彼らに魚をとることができるような根源的な力が現れましたが、それがイエス様のみ言葉だったからです。 ということで彼らがイエス様を従った後、海辺には網と船だけではなく満船になった魚も残されました。それらを惜しげもなく捨てたのは、彼らがすでに磁石に導かれていたからです。磁石に長くくっ付いている鉄は磁力ができ、また、自分の磁場を形成していきます。 個人的には22節が描くことが悲しいと思いました。風の海に一人として残された父…イエス様は捨て従うようにしましたし、彼らは捨てていきました。しかし、イエス様は彼らの家族を捨てませんでした。戻ってペテロの義母の熱をおさめ。癒してくださったし、ヤコブの母も、イエス様に従う人になりました。 神様の召しは磁石のようです。磁石の磁は、仁慈の慈から生まれました。鉄を引き寄せる磁石がまるで母親が子を抱く慈しみを思い起こさせるということで磁石になりました。 船と魚があれば家庭の経済力は守れるかもしれませんが、それを捨てる献身は、家族を救うことになりますた。捨てるとこによってとるというのは逆説です。皆が恵みを求めますが、献身しなければ、その恵みを体験することができないかもしれません。 神様の恵みと人の献身をもって取り引きをするつもりではありません。恵みと献身は、本質が同じではありませんか?漁を取っていた漁師たちがイエス様に従うようになったのは、献身であるし、同時に恵みでもありました。