Ⅰヨハネ QT2 20210107木 【愛し合うために】Ⅰヨハネ4章 13~21

Ⅰヨハネ4章 13~214:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。4:21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。   使徒ヨハネの神学は愛で一貫されています。愛で神様を認識し、愛で信仰を実現します。使徒ヨハネがエペソで晩年を送るとき、すべての説教には、例外なく、互いに愛し合うという勧めがあったそうです。愛の中に神様を知ることと神様を信じてことがすべて含まれているからです。   ヨハネ4章は、霊をわきまえることの勧めから始まります。だから4章は、霊をわきまえることと、互いに愛すること、この二つの主題が混ざっているように見えます。しかし、この二つのお勧めは同じことを言っています。悪霊は互いに愛し合うことを妨げる方法で共同体を脅かすからです。 もし、正しさと正当の論理に陥って兄弟を憎んでいるなら、それは善と悪を見分けることではなく、霊をわきまえず騙されているということです。霊をわきまえることと互いに愛することは同じことだからです。   「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。19」愛の根拠は、神様が「先に」愛されたからです。神様の「先に」は、私たちの「互いに」になります。だから「互いに」愛そうとする人は、必ずその属性上、「先に」愛さなければありません。そうでなければ、結局愛することはできなくなります。   「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。20」神様を愛しているという告白は、兄弟を憎むことで偽りであることが明らかになります。口では神様を愛すると言いますが、先に兄弟を許さなければ、それは神様を知らないこと、また神様を愛していないことです。その信仰は虚しさに直面してしまいます。   先制的に愛することによって互いに愛するをところに達することができます。それが先に愛してくださった神様の愛を知ることであり、その愛に対する真実な告白になります。ヨハネが語る愛は積極的です。互いに愛するということは、先に愛することであり、先に愛するということは、兄弟の存在を容認して受け入れることです。  

요한일서 QT2 20210107목【서로 사랑하려면】요한일서4장 13~21

요한일서4장 13~214:13 그의 성령을 우리에게 주시므로 우리가 그 안에 거하고 그가 우리 안에 거하시는 줄을 아느니라4:14 아버지가 아들을 세상의 구주로 보내신 것을 우리가 보았고 또 증거하노니4:15 누구든지 예수를 하나님의 아들이라 시인하면 하나님이 저 안에 거하시고 저도 하나님 안에 거하느니라4:16 하나님이 우리를 사랑하시는 사랑을 우리가 알고 믿었노니 하나님은 사랑이시라 사랑 안에 거하는 자는 하나님 안에 거하고…

20210102 Ⅰヨハネ QT1 20210102土 【恵みの執行】Ⅰヨハネ2章 1~11

Ⅰヨハネ2章 1~112:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。2:3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。2:5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。2:6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。2:7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。2:8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。2:9 光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。2:10 自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。2:11 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。   律法については二つの誤解があります。一つは、人間が律法を守ることで救いに至るという功労主義、すなわち自らの努力で罪を克服したり、罪から分離することができるという考えです。それからもう一つの誤解は、律法は、愛とは無関係形式ばかりで抑圧にすぎないから廃棄すべきだという考えです。両方とも偏った理解です。すべての人間において、やってはいけないことと、やらなければならない原則的な規範が存在します。私たちの中にある罪は避けるべきものであり、私たちに欠けている他人と社会への尊重と配慮は、指向すべきものです。   神様が与えた律法は、善いものであり、それは人間の内面と社会と信仰を守るという原理で作動します。規範と戒めというものが大切な価値であるという理解がある一方で、律法は救いの方策、つまり罪を根本的に解決する手段にはならない不完全性をも理解しなければなりません。律法の中で救いを論じるのは気が早すぎます。律法の精神は、神様を愛し、隣人を愛することです。   律法を守ることによって救われるのではない。キリストの恵みによって救われるという救済論について誰も異議を述べません。ヨハネも同じです。ヨハネが命令を守るようにと強調しているのは、律法に戻るということではなく、キリストの愛にふさわしくなるためです。律法は兄弟を愛することであるため、律法は愛とは衝突しません。ただ、神様を信じるといいながら自己本位的、利己的に信じている人は、信じることと行うことがぶつかります。   愛とは何ですか?愛しなさいという言葉の反対側にある言葉を通して一次的にヨハネが語っている愛が何であるかがわかります。「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。9 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。11」   愛は、まず憎まないことです。心の中で憎むのではなく、誰かを憎むしかない分の感情を憎み、兄弟を赦し、受け入れることです。決して簡単なことではありません。私たちは経験によって、それがどれほど難しいことなのかをよく知っています。それが容易ではないことを少しでも知ることによって、キリストの愛の大きさがどれほど大きいことなのかを実感することができます。マタイ5章でイエス様が「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。46」と言われたことを覚えます。   「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。2」イエスが罪のための宥めのささげ物、つまり和解のいけにえとしてささげれらたということを信じる人であれば、当然のことにいけにえのささげものを受けてきて和解を告げるべき人を招き、聖餐に分かち合い、ともに食べます。互いに赦し合って、受け入れます。十字架は法的根拠です。その十字架の恵みが、私たちの中で執行されるのは、私たちがお互いに赦すときです。ヨハネの福音書に復活されたイエス様は、弟子たちに、その恵みを執行することを求めました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。20:23」  

20210102 요한일서 QT1 20210102토【은혜의 집행】요한일서2장 1~11

요한일서2장 1~112:1 나의 자녀들아 내가 이것을 너희에게 씀은 너희로 죄를 범치 않게 하려 함이라 만일 누가 죄를 범하면 아버지 앞에서 우리에게 대언자가 있으니 곧 의로우신 예수 그리스도시라2:2 저는 우리 죄를 위한 화목 제물이니 우리만 위할 뿐 아니요 온 세상의 죄를 위하심이라2:3 우리가 그의 계명을 지키면 이로써 우리가 저를 아는 줄로 알 것이요2:4 저를 아노라 하고…

Ⅱペテロ QT5 20201231木 【終末の日に】Ⅱペテロ 3章 10~18

Ⅱペテロ 3章 10~183:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。3:11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。3:12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。3:17 ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。3:18 私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。   一年の終わりの日にペテロの最後の部分を介して世界の終わりを読みます。末尾にペテロがパウロを言及したのは、福音の理解において急進的に律法が与える規範さえも廃棄しようとする人たちを警戒したからです。パウロがキリストの救いの恵みを強調しながら、ユダヤの伝統的な律法の価値を相対化したのは確かです。しかし、それは救いの方法を証するためであって、律法の規範を廃棄しようとしたのではありません。ペテロもパウロに反対するのではなく、パウロに従う人たちの中でまだ未熟で急進的な人々を気にしているのです。   神様の恵みが人間を放蕩にし、非常識な堕落に追い込むことはありません。偽預言者たちがどのような超越と祝福を語っても人間性に反対するのは偽りです。イエス様の再臨という超越は、超越をきちんと理解していない人々によって不誠実な生活の態度に歪んだり、そのような信仰に対して懐疑的になったりします。再臨信仰の間違いが原因となった社会的事件は、再臨信仰そのものではなく、それを信じていた人々の生活の態度が問題でした。手紙の冒頭で、ペテロが言ったこの問題と戦うための力、すなわち、信仰、徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛、愛を加えなさいといったことを覚えなければなりません。

베드로후서 QT5 20201231목【종말의 날에】베드로후서 3장 10~18

베드로후서 3장 10~183:10 그러나 주의 날이 도적같이 오리니 그 날에는 하늘이 큰 소리로 떠나가고 체질이 뜨거운 불에 풀어지고 땅과 그 중에 있는 모든 일이 드러나리로다3:11 이 모든 것이 이렇게 풀어지리니 너희가 어떠한 사람이 되어야 마땅하뇨 거룩한 행실과 경건함으로3:12 하나님의 날이 임하기를 바라보고 간절히 사모하라 그 날에 하늘이 불에 타서 풀어지고 체질이 뜨거운 불에 녹아지려니와3:13 우리는…

Ⅱペテロ QT4 20201229水 【与えられた時間の中で】Ⅱペテロ 3章 1~9

Ⅱペテロ 3章 1~93:1 愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。3:2 それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。3:3 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、3:4 こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」3:5 こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、3:6 そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。3:7 しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。3:8 しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。3:9 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。   クリスマスが過ぎて年末を迎えました。イエス様を信じることの確かな証拠は、クリスマスを楽しむことより、再び来られることを心に信じることです。再び来られるということに対して、私たちは習慣のように、「いつ」と問います。初代教会は迫害と苦難の中で、今すぐにでも来られるイエス様を待ちましたが、イエス様は来られませんでした。   私たちは、「いつ」を問う前に、まず「時間の正体」を問わなければなりません。神様が世界を造られたとき、時間という秩序を造られました。神様の創造は、時間の中で行われたのではなく、時間とともに創造されたのです。だから時間も創造主の被造物であり、創造主の意志により消滅できるものです。   人生は無常だという言葉は、すなわち時間が無常たということです。厳密に言えば、現在という時間はありません。現在と認識して、それを言ってたら、すでに過去になってしまいます。時間の根拠が「ない」(無常である)からである。だから時間の中に生きている人間は、常に不安と虚しさに苦しまなければならない存在です。   アウグスティヌスは、『神の国』で時間と永遠の悩みました。歴史とは、時間の上にあるものであり、それは神様から始まって審判と終末で終わるものです。しかし、神の国は、不変で永遠なものであるから、歴史的時間、すなわち世俗にとらわれないものと言います。時間の中に生きている人に、これだけが唯一の希望です。   ところで、人間は永遠ということを知覚することができません。時間の概念ではないからです。永遠は無時間性です。毎日のように生まれる赤ちゃんは時間の中に入り、死ぬ人は時間の外に出ていきます。いつ来られるかと尋ねるのは、我々が時間の中にとどまっているからでありますが、神様は時間を支配しても、その中に属される方ではありません。私たちが「たとえ」時間の中に生きていても、イエス様が再び来られる時に時間は消えるでしょう。   ペテロはその時間の中で堕落の生活を送っている人たちに言います。「愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。」   神様が未だに時間を維持しておられるのは、永遠に連れて行くべき救いの魂のためです。しかし、時間は永遠ではありません。2020年の残り時間もあまりありません。時間がある間に、悔い改めに至らなければなりません。  

베드로후서 QT4 20201230수【주어진 시간 안에】베드로후서 3장 1~9

베드로후서 3장 1~9 1 사랑하는 자들아 내가 이제 이 둘째 편지를 너희에게 쓰노니 이 둘로 너희 진실한 마음을 일깨워 생각하게 하여2 곧 거룩한 선지자의 예언한 말씀과 주 되신 구주께서 너희의 사도들로 말미암아 명하신 것을 기억하게 하려 하노라3 먼저 이것을 알찌니 말세에 기롱하는 자들이 와서 자기의 정욕을 좇아 행하며 기롱하여4 가로되 주의 강림하신다는 약속이 어디 있느뇨…

Ⅱペテロ QT3 20201229火 【自由になるためには】Ⅱペテロ 2章 12~22

Ⅱペテロ 2章 12~2212 ところがこの者どもは、捕えられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。13 彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。14 その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。15 彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。16 しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の気違いざたをはばんだのです。17 この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。18 彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、19 その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。20 主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。22 彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。   ペテロは偽教師を「理性のない動物」と批判し、またベオルの子バラムにたとえました。バラムは神によって始めましたが、偽預言者で終えた人です。霊によって始め、肉によって終えた人です。13節以下で見ると、彼らは昼夜を問わず貪欲と淫乱を行ったようです。そのような人に騙された人に対しペテロは「犬は自分の吐いた物に戻る、豚は身を洗って、またどろの中にころがる」と批判します。ペテロの口調には、かなりの怒りと断固さがあります。   本能は生活を営む上で必要な基本的ニーズを知らせるアラームのようなものです。その設定は、設計し造られた神様がしたものです。同時に、神様はその本能を制御することができる理性と呼ばれる機能をも与えてくださいました。ということで獣は本能的な自己欲求に基づいて生きますが、人間は理性に基づいて、自分自身を制御することができる力を持っています。神様が息を吹き込む、霊的な存在として造られた人間のみが、この機能をもっています。本能は良いものに違いありませんが、理性を忘れ、本能によって生きれば、決して良い人生にはなりません。   このように人間は動物とは異なり、自己統制力を持っているので自由という権利を享受することができます。暴力性によって自由が抑圧され、権利が剥奪されると人間性は後退します。一方、自由が与えられても自己制御ができなければまた人間性は後退してしまいます。現代が近代的な秩序を解体していく中で、これまで抑えられてきた人権を回復する機能をしていますが、一方絶対性と権威を否定することによって自己制御を欠いた感覚的な本能を自由だと考えてしまう傾向が強いのも確かです。   私たちが生きている現代という時代は、考えを放棄した時代と言っても過言ではありません。近代に入って資本と産業が起こり、個人や市民の地位が向上しました。長い間、宗教に縛られていた世界は新しい期待感、理性と科学が人間を啓発させ、解放させると思いました。神の代わりに幸せをもたらすと信じていた人々は、知識と文明の発達が二度に渡った世界大戦で全世界を虐殺することを目撃しました。   それにもかかわらず、人々は神様に戻りませんでした。現代が選んだ生き方は、今日一日を懸命にそして楽しく生きる、ということです。いつの時代よりも人々は学校に長く通いますが、愚かさは昔余よりも深刻です。始まりや終わり、目的や理由を聞くことは許されません。考えてはいけません。すでに世界を支配した資本は、それを考える時間すら与えません。ありのまま、感情に充実し、今を楽しめと言います。   多様性を認める発言だけが現代的なもののような錯覚をしますが、多様性と均一性の反対語ではなく、絶対性に属している言葉です。神様の中で多様にあることはできます。しかし、神様なしに自らが多様になることはできません。神様がくださった自由を抑圧し、剥奪するものに対しては尊厳な自由を守るために抵抗しなければなりませんが、神様が造られた秩序には、それを認め、保つことによって自由は守られます。

베드로후서 QT3 20201229화【자유를 누리기 위해서】베드로후서 2장 12~22

12 그러나 이 사람들은 본래 잡혀 죽기 위하여 난 이성 없는 짐승 같아서 그 알지 못한 것을 훼방하고 저희 멸망 가운데서 멸망을 당하며13 불의의 값으로 불의를 당하며 낮에 연락을 기쁘게 여기는 자들이니 점과 흠이라 너희와 함께 연회할 때에 저희 간사한 가운데 연락하며14 음심이 가득한 눈을 가지고 범죄하기를 쉬지 아니하고 굳세지 못한 영혼들을 유혹하며 탐욕에 연단된…