Ⅰペテロ QT8 20201221月 【身を慎むということ】 1ペテロ 5章8~14

1ペテロ 5章8~148 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。12 私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。13 バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。14 愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。   ペテロは苦難と迫害の中にいる聖徒たちの信仰を強くするために、「悪魔がほえたけるししのように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回るから堅く信仰に立って立ち向かいなさい。8、9」という最後の勧めで手紙を終えています。   闇は物理的に存在せず、物理的に実在する光が消えたら、その場が闇になります。そのように、神の実在する恵みという光が消えれば、その場には不安と不信仰という闇が残ります。   悪魔は、実際的な力を持っていることではありません。悪魔がすることは恵みをブロックすることです。隠し、欺くことです。恵みを遮断すると、人間は不安と落ち込みの中で生きるからです。光がなければ暗になるということと同じです。   だから、悪魔が新たに地獄を設計する必要はありません。この世界から神の慈悲を抜き、私たちの心から神の恵みを除けば、それが地獄です。   だから、悪魔と戦うことは虚空に向かって棒の振る舞うようなことではなく、本文8節が言うように「身を慎む」ことです。身を慎むの原語(Νήψατε;ネプサテ)の意味は、しっかりと気を張り詰める状態を言います。すなわち恵みを忘れやすい私たちの心の中に常に警戒心を持ちなさいということです。   「天路歴程」で主人公のクリスチャンが狭い道に入った時、二匹の獅子が現れました。二匹の獅子の名前は「不信仰」と「臆病」です。驚いて戻っていこうとしたクリスチャンに「警戒(Watchful)」という名前が付いている門番が「勇気がない」と責めながら獅子は縛られているから恐れることはないと言います。クリスチャンがその道を通るとき、獅子はうなりましたが、実際は何も害を与えることもできませんでした。   「敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」自分の目の前に悪魔の口が大きく開くのは自分の心の中に神の恵みが小さくなったからです。世の力に怖がっているからです。神様に離れれば離れるほど獅子のほえたける声はさらに大きくなります。   今朝祈祷会の説教は箴言22章14節でした。 「他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。」神様の恵みから落ちてしまうと、世の誘惑の罠にはまります。誘惑に陥って神様から離れるのではなく、神様から離れたため、誘惑に陥るのです。   パウロはエペソ人への手紙でこれらのために備えるべきものを兵士の武装に例えました。 「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣」の6つのです。武装をつけた兵士は大胆になります。武装していない兵士が戦場に出るのは勇気がない、てからげんきにすぎません。   厳密に言えば、悪魔の誘惑と攻撃が強いからで武装が必要なのではなく、神様の恵みを守るために武装が必要なのです。悪魔は暗闇であるから、恵みという光が消えたところに闇をつくります。   誠に恐ろしいことは、神様の無関心と放置です。 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。10」聖徒の道は神様の恵みの中で成熟されていきます。苦難によって人格が練られ、揺れうごく信仰を堅く立っていきます。   2020年の最後に、使徒ペテロが私たちに残す挨拶、身を慎むべきことが何なのか覚えていきたいです。 「この恵みの中に、しっかりと立っていなさい…互いにあいさつをかわしなさい…キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」  

베드로전서 QT8 20201222화【근신해야 할 것】벧전 5장 8~14

벧전 5: 8-148 근신하라 깨어라 너희 대적 마귀가 우는 사자같이 두루 다니며 삼킬 자를 찾나니9 너희는 믿음을 굳게 하여 저를 대적하라 이는 세상에 있는 너희 형제들도 동일한 고난을 당하는 줄을 앎이니라10 모든 은혜의 하나님 곧 그리스도 안에서 너희를 부르사 자기의 영원한 영광에 들어가게 하신 이가 잠간 고난을 받은 너희를 친히 온전케 하시며 굳게 하시며 강하게…

Ⅰペテロ QT7 20201221月 【職分と謙遜】 1ペテロ 5章1~7

1ペテロ 5章1~7 1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。 2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。 4 そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。 5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 共同体の拡大は必然的に組織を形成し、役割を分担することになります。出エジプトの直後には法律的、組織的な体制を備えていなかったため、共同体はあらゆることをモーセの判断に頼っていました。それで荒野のイスラエルの社会は葛藤と争いに包まれていましたが、モーセの舅エテロの提案により、イスラエル社会は中間リーダーを立ててリーダーシップを分割し、組織体制を整備するようになります。 初期エルサレムの教会も、共同体が拡大していました。教会は貧しい人々に配食をしていましたが、役割が分担されていなかったので使徒たちが配食の働きをしていました。それで使途たちがみ言葉と祈りに専念することができなくなったので教会は初めて執事を立てることになります。 だからといって配食のために執事を立てたことではありません。それをきっかけにして共同体の役割分担の必要性を分かったのです。執事は聖霊の満たされた人を選び取って立てました。その中の一人であったステパノの説教(使徒7章)を読んでみると、彼は知的にも霊的にも優れた教師の能力を持っていたことがわかります。 牧師と聖書教師は必ずしも一致することではありません。礼拝を執り行う牧師はもちろんのこと聖書教師を兼ねますが、牧師でなくても、聖書を教える職務はできます。聖徒が聖徒を教え、導くことができます。実はそのようにしなければありません。それは上下の構造ではなく、立体的な構造です。すべての聖徒はみ言葉において主体性を持たなければなりません。学ぶことと教えることが同時に行われます。教え合い、学び合うのです。 本文に出る当時の長老とは、現在の長老教会で教会の政治に参加する長老を言うことではありません。だからといって、牧師を指すことでもありません。当時に牧師や牧師を養成する神学校があったこともありません。いわゆる聖職と信徒を問わず、聖徒の群れを導かなければならない立場にある人を指します。 聖職者と平信徒という言葉は、言葉そのものに矛盾を含んでいます。牧師の職と信徒の職が当然違いますが、それが「聖」は「平」を区別されるものではないからです。信徒であれば信徒であれ、平信徒という言葉は、聖書的に矛盾であり、聖職主義という階級的文化の所産です。 多くの場合、牧師とは神学校を卒業して、所属教団の牧師試験を受け、按手を受けた人でありますが、あくまでも牧師を立てる主体は教会です。牧師は教会共同体が立てます。ですから、教会共同体によって建てられた牧師のリーダーシップの確保は、教会共同体によって守られます。 そうであるように、教会が聖書の教師として立てた人には、教会によってその権威と職務が確保されなければありません。もちろん、必須なのは、それに召されている使命の認識です。ペテロはその職を召されている人に対して召しを確かめさせ、一方共同体にはその権威の認めと従うことを求めます。そして6節ではへりくだることを願います。それは、上位と下位の概念ではないからです。

베드로전서 QT7 20201221월【직분과 겸손】벧전 5장1~7

벧전 5:1-71 너희 중 장로들에게 권하노니 나는 함께 장로 된 자요 그리스도의 고난의 증인이요 나타날 영광에 참예할 자로라2 너희 중에 있는 하나님의 양 무리를 치되 부득이함으로 하지 말고 오직 하나님의 뜻을 좇아 자원함으로 하며 더러운 이를 위하여 하지 말고 오직 즐거운 뜻으로 하며3 맡기운 자들에게 주장하는 자세를 하지 말고 오직 양 무리의 본이 되라4 그리하면…

Ⅰペテロ QT6 20201219土 【愛は罪をおおう】 1ペテロ 4章1~11

1ペテロ 4章1~111 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。   ニコデモが訪ねてきたとき、イエス様は、「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言われました。また、パウロがコリントに手紙を送ったときは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と言いました。これが重生、生まれ変わること(Born Again)です。   重生とは、まず死ぬことを前提とします。聖徒は一度死に、再び生まれ変わります。つまり罪と咎で死に、神がキリストにあって生かすことによって生まれ変わります。パウロは、ローマ人への手紙で 「罪の報いは死」と言いきりました。死の原因は罪であって、それは肉体と魂が永遠の死ぬことを意味します。そこから生まれ変わらなければならないというのは、肉体が二度生きることではなく、死んでしまった魂が生き返ることなのです。   死んだ者が、自ら自分を生かすことはできません。すでに死んでいるので生きることに関しては徹底的に無能です。罪のゆえに死んだ魂を生き返ることができるなら、それは罪のない神の哀れみの力しかありません。ですから生まれ変わるというのは、自分の力ではなく、聖霊によるものであります。聖徒は神様の選びと召しを受け、聖霊の恵みにとって生まれ変わります。   それなら、目に見えない聖霊をどのように認識し、何をもって生まれ変わりの自覚と確認をとることができるでしょうか?今日の本文で、ペテロは重生の前と後を比較しています。それが重生を分ける標識になります。ペテロによると以前の人は 「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝」です。すべてが自分のためのものです。   ところが、生まれ変わった聖徒には 「祈りのために、心を整え身を慎むこと」を求めます。祈りと心の整えというのは、「互いに熱心に愛し合い、つぶやかないで、互いに親切にもてなし合い、それぞれの賜物を用いて互いに仕え合うこと」です。このような聖徒の生活から聖霊があらわれるのです。   「愛は多くの罪を覆う」と言われました。 「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」 と告白するように、他人の罪を赦す時、自分の罪をも赦されます。愛が罪を覆うということが、すなわち十字架の原理です。自分のための利己的な十字架は存在しません。罪の反対語は愛です。「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」神様の言葉と神様の力は、生まれ変わった人々によって互いに仕え共同体の中に現われます。  

베드로전서 QT6 20201219토【사랑은 허다한 죄를 덮느니라】벧전 4장1~11

벧전 4:1-111 그리스도께서 이미 육체의 고난을 받으셨으니 너희도 같은 마음으로 갑옷을 삼으라 이는 육체의 고난을 받은 자가 죄를 그쳤음이니2 그 후로는 다시 사람의 정욕을 좇지 않고 오직 하나님의 뜻을 좇아 육체의 남은 때를 살게 하려 함이라3 너희가 음란과 정욕과 술 취함과 방탕과 연락과 무법한 우상 숭배를 하여 이방인의 뜻을 좇아 행한 것이 지나간 때가 족하도다4…

Ⅰペテロ QT5 20201217金  【希望の理由】 1ペテロ 3章13~22

1ペテロ 3章13~2213 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。17 もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。   この世は派手で強い力をもっています。そういうことで私たちはしばしば卑怯になることがあります。しかし、目指すべき信仰は大胆です。繁栄の道であれ、苦難の道であれ、大胆な信仰は障害に会っても軽はずみにふるまうことはしません。ペテロが手紙を送った時は、苦難の時代であり、また恐れの時代でした。そんな中でペテロは、「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。14」と言っています。   苦難を加える者が聖徒に「なぜ恐れないのか、なぜ妥協しないのか」と尋ねると、ペテロはそれに答えなさいと言います。 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。15」 希望には理由があるから、その希望の理由をいつでも言えるようにしなさいということです。信仰の理由について言えないならば、それは口下手だからではなく、信仰の理由が不明だからであり、もしくは大胆さがないからです。   すなわち、福音を信じないか、それを信じることを恥ずかしがるからです。15節の 「心の中でキリストを主としてあがめる」 ことがないからです。イエスを信じることをあざける人は昔でも今でもいくらでもいます。彼らは救いと復活、天国への信仰を嘲笑います。しかし、彼らも信じていることであって 「何もない、または何も知らない」 ことを信じることです。誰でも何かは信じています。   ペテロは恐れてはいけないと言いながら、希望の理由を言うときは 慎み恐れなさいと言います。ここでの恐れは、14節の世の力への恐れではなく、神様への恐れです。私たちは世を恐れるか、神様を恐れるかとちらかを恐れています。   私たちは世を恐れるということが何であるかよく知っています。自分の利益と安定に関する不安です。そして、神様への恐れが何であるかは、16節が教えています。「正しい良心」です。良心は現実的に、私たちの利益と安定を後退させることがあります。私たちがそれを知っているからこそ恐れます。ということで、四則演算に早い人々は、神様と良心より世を恐れます。良心とは道徳的なことばかり言うものではありません。 21節を読むと、良心が神様にたどりつく道であると説明しています。   大胆な信仰は、神様の前に立っ恐れと私たちに与えられた神の秩序、正しい良心です。そして、ペテロが恐れとともに求めたもう一つの価値は、「優しさ」です。柔和です。イエス様はマタイの5章の山上の垂訓の中で言われました。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。5:5」 怒りを持って、神様の働きをすることはできないからです。  

베드로전서 QT5 20201218금【소망의 이유】벧전 3장13~22

벧전 3:13-2213 또 너희가 열심으로 선을 행하면 누가 너희를 해하리요14 그러나 의를 위하여 고난을 받으면 복 있는 자니 저희의 두려워함을 두려워 말며 소동치 말고15 너희 마음에 그리스도를 주로 삼아 거룩하게 하고 너희 속에 있는 소망에 관한 이유를 묻는 자에게는 대답할 것을 항상 예비하되 온유와 두려움으로 하고16 선한 양심을 가지라 이는 그리스도 안에 있는 너희의 선행을…

Ⅰペテロ QT4 20201217木 【信仰が建てる尊重】 1ペテロ 3章1~12

1ペテロ 3章1~121 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、11 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」   歴史上、キリスト教の信仰は人類の半分の女性の権利伸張において大きな影響を与えましたた。教会が私たちの社会に入ってきて、初めて女性の名前を呼んでくれました。誰々のママと呼ばれていた女性に名前を付けて執事と呼んだとき、それは初めて経験する社会的、また個人的な尊重でした。   聖書が男性優越主義というのは誤解です。二千年から五千年にまでさかのぼる古代のコンテキストを理解すると、聖書が言う女性の地位はまさに革命的な進歩といえます。聖書を唯一の生活の規範とする人々を通して、今も公平と定義に基づいた人間の権利は、さらに進んでいます。   一部の男性優越主義や一部の被害意識に偏ったフェミニズムは、この本文を取り囲んで神経戦を繰り広げますが、今日の本文は、男女の優劣を決める対決の本文ではありません。要約すると、女性と男性が互いに尊重しながら仕え合うことです。支配したり、一方的に教えることではなく、仕え合うことによって家庭と教会に徳を高めます。それが真実なものであるならば、命の実、すなわち宣教の実をも結ぶのです。   それは隣人においても同様です。クリスチャンの実力行使というのは、変わらない神様の愛を変わりつつある世においてどのようなコードに変換して流すかということです。信仰の真正性は、家庭、職場、共同体の関係性の中で結ばれる実として表します。   朝のQTのみ言葉はダニエルに続いてⅠペテロを読んでいて、水曜礼拝にはⅡペテロの1章から聖徒の成長について読んでいます。それから今朝の祈祷会のみ言葉は箴言の「心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。22:11」でした。 最近、繰り返し、重なっていただくみ言葉の共通のテーマは「建徳」です。徳を高めること、正否を定めることよりも耐えぬき、抱いていくことです。私たちは、教会の建物の購入を推進しています。教会を立てるということは、地域と時代に神様の徳を高めることです。神様の素晴らしい徳を高く宣伝する一日になることを願います。  

베드로전서 QT4 20201217수목【믿음이 세워가는 존중】벧전 3장1~12

벧전 3:1-121 아내 된 자들아 이와 같이 자기 남편에게 순복하라 이는 혹 도를 순종치 않는 자라도 말로 말미암지 않고 그 아내의 행위로 말미암아 구원을 얻게 하려 함이니2 너희의 두려워하며 정결한 행위를 봄이라3 너희 단장은 머리를 꾸미고 금을 차고 아름다운 옷을 입는 외모로 하지 말고4 오직 마음에 숨은 사람을 온유하고 안정한 심령의 썩지 아니할 것으로 하라…