ダニエル QT23 20201210木【神を知る人は堅く立つ】ダニエル 11章20-35
ダニエル 11章20-3520 彼に代わって、ひとりの人が起こる。彼は輝かしい国に、税を取り立てる者を行き巡らすが、数日のうちに、怒りにもよらず、戦いにもよらないで、破られる。21 彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る。22 洪水のような軍勢も、彼によって一掃され、打ち砕かれ、契約の君主もまた、打ち砕かれる。23 彼は、同盟しては、これを欺き、ますます小国の間で勢力を得る。24 彼は不意に州の肥沃な地域に侵入し、彼の父たちも、父の父たちもしなかったことを行なう。彼は、そのかすめ奪った物、分捕り物、財宝を、彼らの間で分け合う。彼はたくらみを設けて、要塞を攻めるが、それは、時が来るまでのことである。25 彼は勢力と勇気を駆り立て、大軍勢を率いて南の王に立ち向かう。南の王もまた、非常に強い大軍勢を率い、奮い立ってこれと戦う。しかし、彼は抵抗することができなくなる。彼に対してたくらみを設ける者たちがあるからである。26 彼のごちそうを食べる者たちが彼を滅ぼし、彼の軍勢は押し流され、多くの者が刺し殺されて倒れる。27 このふたりの王は、心では悪事を計りながら、一つ食卓につき、まやかしを言うが、成功しない。その終わりは、まだ定めの時にかかっているからだ。28 彼は多くの財宝を携えて自分の国に帰るが、彼の心は聖なる契約を敵視して、ほしいままにふるまい、自分の国に帰る。29 定めの時になって、彼は再び南へ攻めて行くが、この二度目は、初めのときのようではない。30 キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。31 彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。32 彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。33 民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。34 彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。35 思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。 この本文を理解するには、紀元前2世紀のプトレマイオス王朝と、シリアのセレウコス王朝の間に起きた複雑な政治的状況と、その狭間に置かれていたユダヤの歴史を理解する必要があります。卑劣な者が王になるというのは、アンティオコス4世が卑劣に王位を簒奪することを意味しています。彼も王族ではありますが、卑劣な方法で王になるべき嫡子の甥を排除し、王位を奪います。彼は生まれながらの権謀術数によってエジプトとパレスチナまで征服します。 エジプトの政界を四分五裂にし、征服した後、帰り道でエルサレムでしばらく留まります。当時のユダヤは王がなく、政治的な実権を大祭司が握っていました。ユダヤ人ヤソンという者がアンティオコスに提案します。大祭司オニアスを追い出し、自分に大祭司職を与えるなら政治的な代価を払うという提案でした。つまり売国行為を犯したのでした。 アンティオコス4世は彼の提案どおりオニアスを大祭司で免職させ、ヤソンを大祭司に任じました。これを見たメネルラオスという者をまたアンティオコスに提案します。ヤソンよりも多くの代価を払うからヤソンを捨てて自分を大祭司にしてくださいということです。ユダヤはこのような機会主義者たちによって食い、食われの時代を送ります。アンティオコスも様々な卑劣な方法を使いますが損はしませんでした。 ところが、アンティオコスが立てたメネルラオスは、アロンの子孫ではなく、ベニヤミンの部族でした。これは、律法が定めた千年の伝統に背くことでした。メネルラオスはアンティオコスに捧げなければならない賄賂にかかる費用を充当するために、捧げものと神殿の聖物を売り出しました。メネルラオスはこれに抵抗する祭司とユダヤ人を殺し、アンティオコスはこれを傍観します。 迫害はますますひどくなり、アンティオコスは律法を廃止します。安息日遵守と祭り、いけにえ、割礼を禁止させ、さらに自分の誕生日に礼拝を強要します。律法書を燃やし神殿の祭壇で豚肉をささげ、ユダヤ人に豚肉を食べるように強制しました。 今日の本文は、今の時代にまで来る国際情勢の道のりを予言しています。このような強圧的な政策はユダには通用しませんでした。結果的に神聖冒涜をそれ以上耐えられなかったユダヤにはマカバイ革命というユダヤ独立戦争が起きます。権謀術数の政治と堕落した宗教の時代にも、礼拝の回復のために起こる人は必ずいます。