마태복음 QT65 210327토【유다의 입맞춤】마태 26장 47~56

마태 26장 47~56 26:47 말씀하실 때에 열 둘 중에 하나인 유다가 왔는데 대제사장들과 백성의 장로들에게서 파송된 큰 무리가 검과 몽치를 가지고 그와 함께 하였더라26:48 예수를 파는 자가 그들에게 군호를 짜 가로되 내가 입맞추는 자가 그이니 그를 잡으라 하였는지라26:49 곧 예수께 나아와 랍비여 안녕하시옵니까 하고 입을 맞추니26:50 예수께서 가라사대 친구여 네가 무엇을 하려고 왔는지 행하라 하신대…

マタイによる福音書 QT64 20210326金【ゲツセマネの祈り】マタイ 26章 36~46

マタイ 26章 36~46 26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」   イエス様は苦しまれる前にエルサレムの東にあるオリーブ山の下のゲッセマネという所で一晩中お祈りしました。ゲツセマネという名は油を絞るという意味であり、実際にゲッセマネにはオリーブ山で生産したオリーブを絞るところがあったと言われます。   オリーブオイルは、オリーブの実を圧搾して数日間の油を絞って得られます。イエス様は当時に心境を「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と表現しました。オリーブを絞るようにイエス様も体を絞りながら祈られたのです。イエス様を含むすべての人間は、肉の弱さと恐怖という感情を持っています。イエス様は孤独で恐れのあまり、弟子たちにとりなしの祈りを頼みましたが、彼らは疲れて寝ていました。   イエス様の祈りは「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」で始まります。怖れの十字架ではなく、他の方法での使命を果たすことができる道を願ったのです。しかし、イエス様の祈りは、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」という従順を決断する祈りにつながります。神様の御心を確認したからであります。   その祈りは逮捕される直前まで続きました。肉体は貪欲であったり、卑怯てあります。自らはそれを放棄しません。十字架で死ぬということはまず神様の前で自分の肉体が死ぬということです。イエス様は祈りの中で、自分の思いと願いを下ろしました。それが祈りの結果であり、答えです。祈りの理由は、神様の御心を知ってそれに従うためです。  

마태복음 QT64 210326금【겟세마네의 기도】마태 26장 36~46

마태 26장 36~4626:36 이에 예수께서 제자들과 함께 겟세마네라 하는 곳에 이르러 제자들에게 이르시되 내가 저기 가서 기도할 동안에 너희는 여기 앉아 있으라 하시고26:37 베드로와 세베대의 두 아들을 데리고 가실쌔 고민하고 슬퍼하사26:38 이에 말씀하시되 내 마음이 심히 고민하여 죽게 되었으니 너희는 여기 머물러 나와 함께 깨어 있으라 하시고26:39 조금 나아가사 얼굴을 땅에 대시고 엎드려 기도하여 가라사대…

マタイによる福音書 QT63 20210325木【パンの祝福、杯の感謝】マタイ 26章 17~35

マタイ 26章 17~3526:17 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」26:18 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」26:19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。26:20 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。26:21 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」26:22 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。26:23 イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。26:24 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。26:26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」26:27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」26:30 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。26:32 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」26:33 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」26:35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。   過越の祭りは正月14日の夕方であり、次の日の正月15日が種なしパンの祭りの日です。過越の祭りを、種なしパンの祭りの最初の日と言うのは、過越の祭りが種なしパンの祭りと一緒に始まるからです。種なしパンの祭りは今日のように木曜日です。   今朝の本文の中に重要な内容が集まっているのは、QT編集が十字架の時間を合わせているからだと思います。弟子たちは、イエス様の人気が最高に盛り上がったと思っていましたが、実は十字架が近づいていました。時間的には、一日後にイエス様は十字架にかけられます。   イエス様の一行も過越の食事をしました。それが私たち聖餐式の典型になります。イエス様は、自分の引き裂かれる体を食べ、流す血を飲まずには、互いに関係がないと言われました。神学的な意味で、教会の成立要件と言われる二つは、「御言葉の宣言」と「聖礼の執行」です。聖餐がない教会は教会ではないということです。今は伝染病の時代の中で聖餐さえ停止していますが、一日もはやく聖餐の喜びが回復することを祈ります。   青年の時代に断食祈祷会に参加したときのことです。日程が終わる朝におかゆを食べるに予定でしたが、奉仕が入り、おかゆを食べないまま朝の礼拝に出席しました。その礼拝には聖餐があってみんなはおかゆを食べて元気付けた後、聖餐にあずかりましたが、私は空腹のままで聖餐を受けました。   小さなカップに入っているブドウジュースが喉を下り、毛細血管の隅々まで吸収されていた気持ちが忘れられません。飢え渇いて貧しさを覚えている体は、イエス様の裂かれた体と流された血を全身を持って吸収しました。聖餐式は、ただ儀式的な行為ではありません。私たちを回復する聖餐を望んでいきたいと願います。

마태복음 QT63 210325목【떡의 축복, 잔의 사례】마태 26장 17~35

마태 26장 17~3526:17 무교절의 첫날에 제자들이 예수께 나아와서 가로되 유월절 잡수실 것을 우리가 어디서 예비 하기를 원하시나이까26:18 가라사대 성안 아무에게 가서 이르되 선생님 말씀이 내 때가 가까왔으니 내 제자들과 함께 유월절을 네 집에서 지키겠다 하시더라 하라 하신대26:19 제자들이 예수의 시키신대로 하여 유월절을 예비하였더라26:20 저물 때에 예수께서 열 두 제자와 함께 앉으셨더니26:21 저희가 먹을 때에 이르시되…

マタイによる福音書 QT62 20210324水【香油の壺】マタイ 26章 1~16

マタイ 26章 1~1626:1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。26:5 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。   ヨハネ12章を参考にすれば香油を注いだ女性は、ラザロの姉妹であり、名前はマリアです。「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。ヨハネ12:3」   ヨハネはイスカリオテのユダがイエス様に注いだナルド香油の価格が三百デナリと言います。当時一日の賃金が一デナリだったと言いますから、三百デナリであれば一年値の年俸に相当する高額です。ナルドは、揮発性が強くて壺を開けてしまうと再び利用することはできません。   それを見ていたイスカリオテのユダは悔しく思います。貧しい人々のために救済することができる多額のお金を浪費してしまったからです。しかし、ユダが貧しい人々を考えていたのではありません。お金がもったいないと思っだけけす。礼拝の価値については考えていません。マリアは自分の最も貴重な三百デナリの香油をもって礼拝し、ユダはたっだ三十シェケルで、イエス様を売ってしまいます。   もちろん、教会の機能には、救済もあり、宣教も、交わりもあり、礼拝もあります。その中一番の目的は、神を礼拝することです。すべてが礼拝の上になさらなければなりません。マタイは、香油の壺の出来事を言う前に、その時が過越祭であった時間的背景とイエス様が苦しみ受けると予言したことを配置して、香油の壺の出来事の意味がイエス様の死を備える礼拝だということをあらわしています。 神様にささげるものは、残りものや捨てるものではありません。余裕の中からのものでもありません。最も大切なことを先に区別してささげなければなりません。その時、いつもの意識の礼拝が、真心の礼拝になります。マリアの香油の中には、毎日の労苦が含まれています。マリアが純粋なものを完全な方法でささげた香油、それは礼拝をささげようと思うすべての人が持つべき礼拝の典型なのです。

마태복음 QT62 210324수【향유옥합】마태 26장 1~16

마태 26장 1~1626:1 예수께서 이 말씀을 다 마치시고 제자들에게 이르시되26:2 너희의 아는 바와 같이 이틀을 지나면 유월절이라 인자가 십자가에 못 박히기 위하여 팔리우리라 하시더라26:3 그 때에 대제사장들과 백성의 장로들이 가야바라 하는 대제사장의 아문에 모여26:4 예수를 궤계로 잡아 죽이려고 의논하되26:5 말하기를 민요가 날까 하노니 명절에는 말자 하더라26:6 예수께서 베다니 문둥이 시몬의 집에 계실 때에26:7 한 여자가…

マタイによる福音書 QT61 20210323火【最も小さい者たちの一人にしたこと】マタイ 25章 31~46

マタイ 25章 31~4625:31 人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。25:32 そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、25:33 羊を自分の右に、やぎを左に置きます。25:34 それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。25:35 あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、25:36 わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』25:37 すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。25:38 いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。25:39 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』25:40 すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』25:41 それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。25:42 おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、25:43 わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』25:44 すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』25:45 すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』25:46 こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」   「羊を自分の右に、やぎを左に置きます33」25章の最後に、最終的に区分される二つの部類、すなわち羊とやぎの話につながります。人の子の日に、まるで羊飼いが羊とヤギを分かれるように人々は右と左に分けられます。   その区分の基準となるのが、「最も小さい者たちの一人にしたこと」です。小さい者といった対象は、「これらのわたしの兄弟たち」ですから、弟子たちを指すものであり、それは、イエス様との関係に基づいた兄弟愛の実践を促すものであります。   しかし、これはイエス様に従っていたイエス様の共同体だけに適用されるのではありません。私たちが接するすべての隣人という意味に拡大しなければなりません。イエス様は、イエス・コミュニティを越えて社会というすべての隣人を対象にした慈悲を拒んだことがないからです。   一方、ヤギつまり左に分類された人々は、他人のための犠牲に関心を持ったことのない人です。ここでイエス様と小さな者は同一視されていて、イエス様にしてない者は、小さな者にもしてない者であって、最終的に自分自身だけにした者になります。   救いが憐みによって与えられます。その救いをいただいた者が、あわれみを覚える利他的で自己中心的な考え方で、イエス様への信仰を実現できる方法はありません。それは、教会の内でも外でも同様です。小さな者に関心を持って行う小さな配慮が小さい者には励ましに、神には栄光、聖徒と教会には信仰の喜びになることを願います。  

마태복음 QT61 210323화【지극히 작은 자 하나에게 한 것】마태 25장 31~46

마태 25장 31~4625:31 인자가 자기 영광으로 모든 천사와 함께 올때에 자기 영광의 보좌에 앉으리니25:32 모든 민족을 그 앞에 모으고 각각 분별하기를 목자가 양과 염소를 분별하는것 같이 하여25:33 양은 그 오른편에, 염소는 왼편에 두리라25:34 그 때에 임금이 그 오른편에 있는 자들에게 이르시되 내 아버지께 복 받을 자들이여 나아와 창세로부터 너희를 위하여 예비된 나라를 상속하라25:35 내가 주릴…

マタイによる福音書 Q609 20210322月【タラントの終末論】マタイ 25章 14~30

マタイ 25章 14~3025:14 天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。25:19 さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。25:20 すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』25:21 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』25:22 二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』25:23 主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』25:24 一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。25:25 それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』25:26 しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。25:27 それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。25:29 だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。25:30 この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』   25章では、3つの比喩があります。まずは昨日の本文の十人の処女たちの比喩であり、次が今朝のタラント比喩、最後に羊とヤギの比喩です。これには、終末論という一連の主題があります。十人の処女たちのたとえが言う核心は、時を予測する緊張状態ではなく、花婿がきて欲しいという期待する心でした。来られるならばいいと思えば、もし遅くなっても寧に準備しますが、来ないでほしいとなっれば、すぐ来られるとしても、先延ばしてしまうからです。   タラントを受けたしもべの心も同様です。主人を待っている心の問題です。五タラントと二タラントを受けたしもべは商売して利益を残し、賞賛を受けました。その日が恐いから緊張し生きたのではなく、その日に主人が来て喜ぶこと、賞賛してくださることを期待しながら生きました。   だから五タラントと二タラントを受けたしもべの賞賛は、文字一つも違わないで同じです。たくさんの利益を残したもの、少ない利益を残したものは利益の量の差は重要ではありません。与えられたのは、異なりますが、それぞれの能力に基づいて評価は公平です。もしそれが自己所有になるならば、不公平だとを言えるかもしれませんが、すべてのものが主人のものであると認めるなら不公平はありませんし、主人の決算と評価がその量を測っているのではないから、完全に公平です。   しかし、一タラントを受けたしもべは、誤解しました。誤解というより意図的に悪です。神様にすべてを委ねた、と言いながら、与えられた信仰の責任を負わはない人です。無責任と怠惰を信仰に飾る場合です。そのような人に終末と再臨ということは面倒なフィクションに過ぎません。   何もしていないことが、神様の主権を認めたり、神様に任せたりしたことではありません。神様に任せたと言って、その時間に自分がしていること、その時間に自分が所有しているものは、すなわち偽となり、それが自分を支配している主人です。神様は、だまされません。   タラントの比喩には与えられた資源を責任を持って活用するという一次的な教訓は確かにあります。しかし、マタイの文脈は、資金運用や賜物の活用を教えようとしているのではなく、終わりを待っている聖徒の姿勢を扱っています。主を待つ心が信仰であり、その信仰があれば、人生に対する態度においても、与えられた賜物を活用する姿勢においても変わります。