요한삼서 QT1 20210111월【네 영혼이 잘 됨같이】요한삼서1장 1~15

요한삼서1장 1~151:1 장로는 사랑하는 가이오 곧 나의 참으로 사랑하는 자에게 편지하노라1:2 사랑하는 자여 네 영혼이 잘 됨같이 네가 범사에 잘 되고 강건하기를 내가 간구하노라1:3 형제들이 와서 네게 있는 진리를 증거하되 네가 진리 안에서 행한다 하니 내가 심히 기뻐하노라1:4 내가 내 자녀들이 진리 안에서 행한다 함을 듣는 것보다 더 즐거움이 없도다1:5 사랑하는 자여 네가 무엇이든지 형제…

Ⅰヨハネ QT4 20210109土 【命のための祈り】Ⅰヨハネ5章 13~21

Ⅰヨハネ5章 13~215:13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。5:14 何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。5:15 私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。5:16 だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。5:17 不義はすべて罪ですが、死に至らない罪もあります。5:18 神から生まれた者はみな罪を犯さないこと、神から生まれた方がその人を守っておられ、悪い者はその人に触れることができないことを、私たちは知っています。5:19 私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。5:20 また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。5:21 子どもたち、偶像から自分を守りなさい。   ヨハネは死に至る罪と死に至らない罪を区別しています。ユダヤの宗教的背景では、知らずに犯す罪と意図的な罪を区別しました。誤って犯した罪のためには犠牲のささげものをささげることができますが、そこに故意性が見つかると、その罪のために犠牲をささげることはできませんでした。故意に罪を犯してそれのために他の命を犠牲にさせるということはできないからです。それが当然のように行われることを厳格に禁じたのです。   ところが、初代教会の状況においては再解釈されます。初代教会の聖徒は、すでに血を流すささげものをしていませんでした。血のささげものをしていないということは、キリストがささげものとなり、完全な贖罪を成し遂げたということを信じるからです。それならヨハネが教会に対して死に至る罪と言っているのは、贖罪の手段がないことを意味します。すなわち、ヨハネはイエスが十字架で死なれたことを信じると言いながら、故意に罪を犯し、贖罪を繰り返していることを真の意味での信仰とは認めることができない、と言ったのです。   ヨハネが死に至る罪と死に至らない罪を区別して言うとき、確かにこれらを念頭に置いています。罪をどのように認識するかの問題です。罪を認識するには、自力では力不足です。罪に気づくのは、神の恵みによってです。だから、聖霊の照らしが必要です。光は闇を赤裸々にさらします。聖徒の信仰とは、その光に従う意志と勇気です。光を慕うなら光によって罪が現れることを許容しなければなりません。現われた罪を光の中で憎まなければなりません。それが悔い改めです。   ヨハネはヨハネの福音書で「この命は人の光」と言いました。罪を認識していないこと、犯罪を認めないこと、告白しないことは、光が照らそうとしても闇を愛し、光を避けて隠れることです。ヨハネの厳しい懲らしめはこれです。キリストの死因は罪なので聖徒がその罪を携え、喜びながら、キリストと同行することができないからです。   形式的な礼拝と惰性的な信仰生活がこれに該当します。罪の緊張と恐れを抜きにして、恵みと救いの言葉を言い表すことが指摘されています。ヨハネは、愛と信仰を訴える手紙の最後に、それらを脅かす一つの言葉をもってに手紙を締め括っています。手紙の全体は、この最後の言葉が言う危険から立ち返えなければならないからです。それが命のためのヨハネの祈りです。「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。21」、私たちは必ず何かに仕えます。罪を犯すということは、自分の中に、神に代わる偶像があるからです。  

요한일서 QT4 20210109토【생명을 위한 기도】요한일서5장 13~21

요한일서5장 13~215:13 내가 하나님의 아들의 이름을 믿는 너희에게 이것을 쓴 것은 너희로 하여금 너희에게 영생이 있음을 알게 하려 함이라5:14 그를 향하여 우리의 가진 바 담대한 것이 이것이니 그의 뜻대로 무엇을 구하면 들으심이라5:15 우리가 무엇이든지 구하는 바를 들으시는 줄을 안즉 우리가 그에게 구한 그것을 얻은 줄을 또한 아느니라5:16 누구든지 형제가 사망에 이르지 아니한 죄 범하는 것을…

Ⅰヨハネ QT3 20210108金 【神から出たもの】Ⅰヨハネ5章 1~12

Ⅰヨハネ5章 1~125:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はみな、その方から生まれた者も愛します。5:2 このことから分かるように、神を愛し、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちを愛するのです。5:3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。5:4 神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。5:6 この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。水によるだけではなく、水と血によって来られました。御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。5:7 三つのものが証しをします。5:8 御霊と水と血です。この三つは一致しています。5:9 私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。御子について証しされたことが、神の証しなのですから。5:10 神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。5:11 その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。   カルヴァンが「キリスト教綱要」の始まりに書いたように、「神を知ることが、自分を知ることであり、自分を知ることが、すなわち、神を知ること」です。神様を知れば知るほど、人間の存在は、絶望的なものであり、その悲惨な現実を自覚したときに、聖なる神様に対する知識は大きくなります。自分について知りたいなら、神様を探らなければならないし、神様について知っていくと、自分が誰なのかがわかります。相互補完的な知識であり、循環する知識です。   ヨハネは同様の構造で兄弟を愛することは神様を愛することを語ります。4:20以下で、「神を愛していると言いながら兄弟を憎むと嘘をつくのだから、神を愛する者は、兄弟を愛しなさい」と言いました。   そして、5章の始めに「神を愛する人が兄弟も愛することができる」と言いました。どっちが先なのか判断に困りますが、これも神様と自分を知っていく知識と同様に、順序的に矛盾しているのではありません。兄弟を愛すればそれが神様を愛することであって、神様を愛すると、それが兄弟を愛することです。   神様の恵みを受けると、神様への信仰が生じ、成長します。そして、その信仰があったからこそ恵みはより大きくなってきます。相互補完で、循環します。多くの恵みを受けた人が多くの従順をすると、恵みは広がり循環します。順序的に矛盾しません。   これで、私たちの信仰を成している形を確認することができます。自ら神様への信仰であると定めているものがあれば、それが兄弟愛にどう関係しているのかを点検するのです。神様を愛する心と兄弟を愛する心が表されたものが信仰でなければならないからです。例えば、礼拝は神様と交わる場所ですから、礼拝は神様を愛することであり、そのための奉仕というのは、皆の礼拝、つまり兄弟のための奉仕となりますから、この二つの愛を満たすことになります。   4章の兄弟愛は5章につながっています。4:21の「神」と「兄弟」は、5:1で、「生んでくださった方」と「生まれた者」という言葉に変わります。(神:兄弟=生んでくださった方:生まれた者)です。存在の出所を明らかにしています。3節以下を言い換えれば「神様を愛することは、兄弟を愛することであって、それは決して難しいことではない。なぜなら、出所が神様である人々はみな、世(愛ではないもの)に打ち勝っているからです。 」   愛せないようにする世にある悪に対して、既にキリストが私たちの兄弟になって愛のゆえに死なれました。4章で霊を見分けることについて読みましたが、それも兄弟を愛することと別々ではありません。そのように5:5以下のキリストへの信仰も、兄弟愛と別のテーマで扱っているものではありません。   キリストが再び来られるとき、これを確認するでしょう。「イエスを信じれば救われる」は、「イエスの愛を信じれば救われる」ということです。そして、その信仰は聖徒の愛に現われます。愛するということに恐れを持ちますが、愛は重いいびきではありません。愛は神様から出たものによってより大きなものになって循環していきます。    

요한일서 QT3 20210108금【하나님의 사랑에서 난 사람】요한일서5장 1~12

요한일서5장 1~125:1 예수께서 그리스도이심을 믿는 자마다 하나님께로서 난 자니 또한 내신 이를 사랑하는 자마다 그에게 난 자를 사랑하느니라5:2 우리가 하나님을 사랑하고 그의 계명들을 지킬 때에 이로써 우리가 하나님의 자녀 사랑하는 줄을 아느니라5:3 하나님을 사랑하는 것은 이것이니 우리가 그의 계명들을 지키는 것이라 그의 계명들은 무거운 것이 아니로다5:4 대저 하나님께로서 난 자마다 세상을 이기느니라 세상을 이긴 이김은…

Ⅰヨハネ QT2 20210107木 【愛し合うために】Ⅰヨハネ4章 13~21

Ⅰヨハネ4章 13~214:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。4:15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。4:16 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。4:17 こうして、愛が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。4:18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。4:21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。   使徒ヨハネの神学は愛で一貫されています。愛で神様を認識し、愛で信仰を実現します。使徒ヨハネがエペソで晩年を送るとき、すべての説教には、例外なく、互いに愛し合うという勧めがあったそうです。愛の中に神様を知ることと神様を信じてことがすべて含まれているからです。   ヨハネ4章は、霊をわきまえることの勧めから始まります。だから4章は、霊をわきまえることと、互いに愛すること、この二つの主題が混ざっているように見えます。しかし、この二つのお勧めは同じことを言っています。悪霊は互いに愛し合うことを妨げる方法で共同体を脅かすからです。 もし、正しさと正当の論理に陥って兄弟を憎んでいるなら、それは善と悪を見分けることではなく、霊をわきまえず騙されているということです。霊をわきまえることと互いに愛することは同じことだからです。   「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。19」愛の根拠は、神様が「先に」愛されたからです。神様の「先に」は、私たちの「互いに」になります。だから「互いに」愛そうとする人は、必ずその属性上、「先に」愛さなければありません。そうでなければ、結局愛することはできなくなります。   「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。20」神様を愛しているという告白は、兄弟を憎むことで偽りであることが明らかになります。口では神様を愛すると言いますが、先に兄弟を許さなければ、それは神様を知らないこと、また神様を愛していないことです。その信仰は虚しさに直面してしまいます。   先制的に愛することによって互いに愛するをところに達することができます。それが先に愛してくださった神様の愛を知ることであり、その愛に対する真実な告白になります。ヨハネが語る愛は積極的です。互いに愛するということは、先に愛することであり、先に愛するということは、兄弟の存在を容認して受け入れることです。  

요한일서 QT2 20210107목【서로 사랑하려면】요한일서4장 13~21

요한일서4장 13~214:13 그의 성령을 우리에게 주시므로 우리가 그 안에 거하고 그가 우리 안에 거하시는 줄을 아느니라4:14 아버지가 아들을 세상의 구주로 보내신 것을 우리가 보았고 또 증거하노니4:15 누구든지 예수를 하나님의 아들이라 시인하면 하나님이 저 안에 거하시고 저도 하나님 안에 거하느니라4:16 하나님이 우리를 사랑하시는 사랑을 우리가 알고 믿었노니 하나님은 사랑이시라 사랑 안에 거하는 자는 하나님 안에 거하고…

20210102 Ⅰヨハネ QT1 20210102土 【恵みの執行】Ⅰヨハネ2章 1~11

Ⅰヨハネ2章 1~112:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。2:3 もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は、偽り者であり、その人のうちに真理はありません。2:5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。2:6 神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません。2:7 愛する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。2:8 私は、それを新しい命令として、もう一度あなたがたに書いているのです。それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です。闇が消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。2:9 光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。2:10 自分の兄弟を愛している人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。2:11 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。   律法については二つの誤解があります。一つは、人間が律法を守ることで救いに至るという功労主義、すなわち自らの努力で罪を克服したり、罪から分離することができるという考えです。それからもう一つの誤解は、律法は、愛とは無関係形式ばかりで抑圧にすぎないから廃棄すべきだという考えです。両方とも偏った理解です。すべての人間において、やってはいけないことと、やらなければならない原則的な規範が存在します。私たちの中にある罪は避けるべきものであり、私たちに欠けている他人と社会への尊重と配慮は、指向すべきものです。   神様が与えた律法は、善いものであり、それは人間の内面と社会と信仰を守るという原理で作動します。規範と戒めというものが大切な価値であるという理解がある一方で、律法は救いの方策、つまり罪を根本的に解決する手段にはならない不完全性をも理解しなければなりません。律法の中で救いを論じるのは気が早すぎます。律法の精神は、神様を愛し、隣人を愛することです。   律法を守ることによって救われるのではない。キリストの恵みによって救われるという救済論について誰も異議を述べません。ヨハネも同じです。ヨハネが命令を守るようにと強調しているのは、律法に戻るということではなく、キリストの愛にふさわしくなるためです。律法は兄弟を愛することであるため、律法は愛とは衝突しません。ただ、神様を信じるといいながら自己本位的、利己的に信じている人は、信じることと行うことがぶつかります。   愛とは何ですか?愛しなさいという言葉の反対側にある言葉を通して一次的にヨハネが語っている愛が何であるかがわかります。「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです。9 しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が目を見えなくしたからです。11」   愛は、まず憎まないことです。心の中で憎むのではなく、誰かを憎むしかない分の感情を憎み、兄弟を赦し、受け入れることです。決して簡単なことではありません。私たちは経験によって、それがどれほど難しいことなのかをよく知っています。それが容易ではないことを少しでも知ることによって、キリストの愛の大きさがどれほど大きいことなのかを実感することができます。マタイ5章でイエス様が「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。46」と言われたことを覚えます。   「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。2」イエスが罪のための宥めのささげ物、つまり和解のいけにえとしてささげれらたということを信じる人であれば、当然のことにいけにえのささげものを受けてきて和解を告げるべき人を招き、聖餐に分かち合い、ともに食べます。互いに赦し合って、受け入れます。十字架は法的根拠です。その十字架の恵みが、私たちの中で執行されるのは、私たちがお互いに赦すときです。ヨハネの福音書に復活されたイエス様は、弟子たちに、その恵みを執行することを求めました。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。20:23」  

20210102 요한일서 QT1 20210102토【은혜의 집행】요한일서2장 1~11

요한일서2장 1~112:1 나의 자녀들아 내가 이것을 너희에게 씀은 너희로 죄를 범치 않게 하려 함이라 만일 누가 죄를 범하면 아버지 앞에서 우리에게 대언자가 있으니 곧 의로우신 예수 그리스도시라2:2 저는 우리 죄를 위한 화목 제물이니 우리만 위할 뿐 아니요 온 세상의 죄를 위하심이라2:3 우리가 그의 계명을 지키면 이로써 우리가 저를 아는 줄로 알 것이요2:4 저를 아노라 하고…

Ⅱペテロ QT5 20201231木 【終末の日に】Ⅱペテロ 3章 10~18

Ⅱペテロ 3章 10~183:10 しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。3:11 このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、あなたがたは、どれほど聖なる敬虔な生き方をしなければならないことでしょう。3:12 そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。3:13 しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。3:14 ですから、愛する者たち。これらのことを待ち望んでいるのなら、しみも傷もない者として平安のうちに神に見出していただけるように努力しなさい。3:15 また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。愛する、私たちの兄弟パウロも、自分に与えられた知恵にしたがって、あなたがたに書き送ったとおりです。3:16 その手紙でパウロは、ほかのすべての手紙でもしているように、このことについて語っています。その中には理解しにくいところがあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。3:17 ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。3:18 私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。   一年の終わりの日にペテロの最後の部分を介して世界の終わりを読みます。末尾にペテロがパウロを言及したのは、福音の理解において急進的に律法が与える規範さえも廃棄しようとする人たちを警戒したからです。パウロがキリストの救いの恵みを強調しながら、ユダヤの伝統的な律法の価値を相対化したのは確かです。しかし、それは救いの方法を証するためであって、律法の規範を廃棄しようとしたのではありません。ペテロもパウロに反対するのではなく、パウロに従う人たちの中でまだ未熟で急進的な人々を気にしているのです。   神様の恵みが人間を放蕩にし、非常識な堕落に追い込むことはありません。偽預言者たちがどのような超越と祝福を語っても人間性に反対するのは偽りです。イエス様の再臨という超越は、超越をきちんと理解していない人々によって不誠実な生活の態度に歪んだり、そのような信仰に対して懐疑的になったりします。再臨信仰の間違いが原因となった社会的事件は、再臨信仰そのものではなく、それを信じていた人々の生活の態度が問題でした。手紙の冒頭で、ペテロが言ったこの問題と戦うための力、すなわち、信仰、徳、知識、節制、忍耐、信心、兄弟愛、愛を加えなさいといったことを覚えなければなりません。