열왕기하 묵상 【대표성의 원리】 20240624(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 3:13~273:13 엘리사가 이스라엘 왕에게 이르되 내가 당신과 무슨 상관이 있나이까 당신의 부친의 선지자들과 당신의 모친의 선지자들에게로 가소서 이스라엘 왕이 저에게 이르되 그렇지 아니하니이다 여호와께서 이 세 왕을 불러 모아 모압의 손에 붙이려 하시나이다3:14 엘리사가 가로되 내가 섬기는 만군의 여호와의 사심을 가리켜 맹세하노니 내가 만일 유다 왕 여호사밧의 낯을 봄이 아니면 당신을 향하지도 아니하고 보지도…

列王記第二 黙想 【別れからの祝福】 20240621(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

列王記第二 2:1-14 2:1 主がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。 2:2 エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。主が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。 2:3 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。 2:4 エリヤは彼に「エリシャ、ここにとどまっていなさい。主が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコにやって来た。 2:5 するとエリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「今日、主があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。 2:6 エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。主が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。 2:7 一方、預言者の仲間たちのうち五十人は、行って遠く離れて立った。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、 2:8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。 2:9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。 2:10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」 2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。 2:12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。 2:13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。 2:14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。      中世時代に腐敗したキリスト教の歴史の中には、純粋な信仰を守るための闘いもありました。それは修道院運動です。修道院は世俗のものを捨て、修道院に入り、その中で敬虔な生活を学び、実践する場所でありました。教会が世俗化され、聖職者たちが腐敗して、自ら信仰を守ることが難しかった者たちにとって、その修道院という場所は夢みたいな場所であったでしょう。  御言葉を教えてくれる先生がいて、一緒に訓練する仲間たちがいて、どこでも誰とでも深い信仰の話ができる場所は、今の私たちにも夢みたいに思われる場所かもしれません。  エリヤの弟子としてその後ろをついていったエリシャの人生もそうだったでしょう。心強い先生がいて、仲間預言者たちがいて、いつも信仰の道について学べるところ、それがエリヤの隣でした。そして、今日の箇所と非常に似ている内容、その隣を離れたくない弟子たちの話は、新約聖書のイエス様の弟子たちを通しても見ることができます。  二つの話の重要な共通点は、先生との別れの時に与えられる神様の力です。  先生の隣を離れるということは、これから自分が誰かの先生になること、今まで先生の後をついていった道を、これからは自分が先に歩まなければならないということです。そのような思い責任を負うことになる弟子たちの不安と恐れは、彼らの足を止めるに十分なのでしょう。  しかし、夢みたいな修道院生活、夢みたいな先生の隣の場所は、いつか離れなければならない場所です。私たちは学んだことを私たちの中に止まらせるのではなく、学んだことを他人に与えなければならない者たちであるからです。  その旅に立つ者たちには神様が彼の霊を注いでくださいます。イエス様は私たちがその霊を通してイエス様ご自身がなさったことより、もっと大きなこともできると言われました。実際、私たちの最大の祝福、その夢みたいな瞬間は、修道院に住む時も、先生の隣にとどまる時にあるのではありません。その場所と分かれてからこそ初めて、私たちに最大の祝福が与えられるのです。  分かれるということ、その不安と恐れに向き合って世の中に進んでいく決断をしたイエス様の弟子たちを、神様は決して一人にさせません。新しい力を与えてくださり、新しい出会いを与えてくださり、その中でいつも彼らと共におられるのです。https://youtu.be/WZ39YWJU5pA?si=-24vz9taSVRHiWpE

열왕기하 묵상 【떠남 속에 주어지는 축복】 20240621(금) 최종석 전도사

열왕기하 2:1-14 2:1 여호와께서 회오리 바람으로 엘리야를 하늘로 올리고자 하실 때에 엘리야가 엘리사와 더불어 길갈에서 나가더니 2:2 엘리야가 엘리사에게 이르되 청하건대 너는 여기 머물라 여호와께서 나를 벧엘로 보내시느니라 하니 엘리사가 이르되 여호와께서 살아 계심과 당신의 영혼이 살아 있음을 두고 맹세하노니 내가 당신을 떠나지 아니하겠나이다 하는지라 이에 두 사람이 벧엘로 내려가니 2:3 벧엘에 있는 선지자의 제자들이…

Ⅱ列王記 黙想 【三度目の五十人隊長】 20240620(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 1:9~181:9 そこでアハズヤは、五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長がエリヤのところに上って行くと、そのとき、エリヤは山の頂に座っていた。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王のお告げです。下りて来てください。」1:10 エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。1:11 王はまた、もう一人の五十人隊の長を、その部下五十人とともにエリヤのところに遣わした。隊長はエリヤに言った。「神の人よ、王がこう言われます。急いで下りて来てください。」1:12 エリヤは彼らに答えた。「私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたとあなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。1:13 王はまた、第三の五十人隊の長と、その部下五十人を遣わした。この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。「神の人よ、どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちをお助けください。1:14 ご承知のように、天から火が下って来て、先の二人の五十人隊の長とそれぞれの部下五十人を、焼き尽くしてしまいました。今、私のいのちをお助けください。」1:15 主の使いがエリヤに「彼と一緒に下って行け。彼を恐れてはならない」と言ったので、エリヤは立って、彼と一緒に王のところに下って行き、1:16 王に言った。「主はこう言われる。『あなたが使者たちをエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに遣わしたのは、イスラエルにみことばを伺う神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」1:17 王は、エリヤが告げた主のことばのとおりに死んだ。そしてヨラムが代わって王となった。それはユダの王ヨシャファテの子ヨラムの第二年のことであった。アハズヤには息子がいなかったからである。1:18 アハズヤが行ったその他の事柄、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。   韓国語では、一度行くと連絡が取れず戻ってこないことを「咸興差使」(ハムンチャサ)と言います。朝鮮初期、太宗が政権を握る過程で非道な行為を行ったため、父である太祖李成桂が故郷の咸興に下ってしまいました。太宗は咸興に使者を送り迎えに行かせましたが、李成桂は馬に乗って使者を殺したと伝えられています。勅命を受けて使者として行ったが殺されたので、可哀そうなことです。その後、行ったきり戻ってこない人を「咸興差使」と呼ぶようになりました。後に李成桂が信頼していた無学大師が説得して漢陽に連れて行きました。無学大師は李成桂をうまく説得して問題を解決しました。   今日の本文でアハズヤはまるで太宗のように何度も使者をエリヤに送りますが、エリヤの火が下り、アハズヤが送った五十人隊と長が行く度に死んでしまいます。まるで咸興差使のようにエリヤのところに行くと戻れないのです。三度目に使者として行った五十人隊長は、自分も殺されるだろうと思い、不安だったことでしょう。実際、その時にはエリヤとエリヤの神様を認めざるを得なかったのです。三度目の五十人隊長はエリヤに自分たちを殺さないようにお願いします。その時に神様がエリヤに命じてエリヤの心を変え、アハズヤに会いに行きます。こうして三度目の五十人隊長は死なずに、エリヤをアハズヤのもとに連れて行くことができました。   三度目の五十人隊長は神様の力を知っていました。彼の役割はエリヤの心を変える機会を提供しました。しかし、滅びるものには滅びる理由があります。アハズヤは父アハブが滅びるのを見て、自分もまた滅びながら、なぜ滅びるのか分からずに滅びます。エリヤがカルメル山でバアルとその預言者を殺す時も分からず、五十人隊長が火の中で滅びる時も分かりませんでした。三度目の五十人隊長は賢明な人です。利害関係が異なる二つの勢力の間で仲裁役を果たす柔軟性を持つ人を「ブリッジビルダー(Bridge Builder)」と言います。橋を架ける人です。状況を判断し、神と世の間に橋を架けられる柔軟な人が必要です。  

열왕기하 묵상 【세 번째 오십부장】 20240620(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 1:9~181:9 이에 오십부장과 그 오십인을 엘리야에게로 보내매 저가 엘리야 에게로 올라가서 본즉 산꼭대기에 앉았는지라 저가 엘리야에게 이르되 하나님의 사람이여 왕의 말씀이 내려오라 하셨나이다1:10 엘리야가 오십부장에게 대답하여 가로되 내가 만일 하나님의 사람이면 불이 하늘에서 내려와서 너와 너의 오십인을 사를지로다 하매 불이 곧 하늘에서 내려와서 저와 그 오십인을 살랐더라1:11 왕이 다시 다른 오십부장과 그 오십인을 엘리야에게로…

Ⅱ列王記 黙想 【アハズヤの失足】 20240619(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅱ列王記 1:1~81:1 アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。1:2 アハズヤは、サマリアにあった彼の屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥った。彼は使者たちを遣わし、「行って、エクロンの神、バアル・ゼブブに、私のこの病が治るかどうか伺いを立てよ」と命じた。1:3 そのころ、主の使いがティシュベ人エリヤに告げた。「さあ、上って行って、サマリアの王の使者たちに会い、彼らにこう言え。『あなたがたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。1:4 それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」そこでエリヤは出て行った。1:5 使者たちがアハズヤのもとに戻って来たので、彼は「なぜおまえたちは帰って来たのか」と彼らに尋ねた。1:6 彼らは答えた。「ある人が私たちに会いに上って来て言いました。『自分たちを遣わした王のところに帰って、彼にこう告げなさい。主はこう言われる。あなたが人を遣わして、エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」1:7 アハズヤは彼らに尋ねた。「おまえたちに会いに上って来て、そんなことを告げたのはどんな男か。」1:8 彼らが「毛衣を着て、腰に革の帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤは「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。   アハブ王は悪い王でしたが、無能な王ではありませんでした。アハブの時代、モアブはイスラエルに支配され、貢ぎ物を捧げていました。アハブ王が亡くなった後、イスラエルは弱まり、アハブの子アハズヤが王位につくと、モアブはイスラエルから独立を目指して反乱を起こしました。ルーヴル美術館にあるメシャ碑文は、当時モアブがアハブのイスラエルに支配されていたことを記録していると言われています。これは今日、第二の列王記 1章1節でも確認できます。「アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた。」とあります。   その時、アハズヤ王は屋上の部屋の欄干から落ちて大怪我をしました。その病気が回復するかどうかを尋ねるため、アハズヤはエクロンの神、バアル・ゼブブに使者を送りました。すると神様の使いがエリヤに現れて、アハズヤが神様を無視して異教の神に尋ねることを責め、アハズヤが必ず死ぬという預言を告げさせました。エリヤが王の使者に会い、そのことを伝えると、使者たちは帰り、王にその事実を報告します。アハズヤはそれを知らせた者がエリヤがであることに気づきます。   アハズヤが足を踏み外して怪我をしたということですが、それだけではなく、彼の人生の大切な局面で足を踏み外したことであります。よく言われることは、状況が厳しくなると、神様を求めると言われますが、必ずしもそうではないようです。状況が良いときは信仰の領域にとどまっていますが、状況が悪くなると焦って他の助けを求めていなくなります。世の中でつまずけば神様が立ち上がらせますが、神様につまずけば世に飲み込まれます。失足せず、一足一足主とともに歩みます。    

열왕기하 묵상 【아하시야의 실족】 20240619(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기하 1:1~81:1 아합이 죽은 후에 모압이 이스라엘을 배반하였더라1:2 아하시야가 사마리아에 있는 그 다락 난간에서 떨어져 병들매 사자를 보내며 저희더러 이르되 가서 에그론의 신 바알세붑에게 이 병이 낫겠나 물어 보라 하니라1:3 여호와의 사자가 디셉 사람 엘리야에게 이르시되 너는 일어나 올라가서 사마리아 왕의 사자를 만나서 저에게 이르기를 이스라엘에 하나님이 없어서 너희가 에그론의 신 바알세붑에게 물으러 가느냐1:4 그러므로…

オバデヤ 黙想 【質量保存の法則】 20240618(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

オバデヤ 1:15~211:15 なぜなら、主の日がすべての国々に近づいているからだ。おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。1:16 おまえたちがわたしの聖なる山で飲んだように、すべての国々も絶えず飲み続け、飲んだり、すすったりする。彼らはまるで、いなかった者のようになる。1:17 しかし、シオンの山には、逃れの者がいるようになる。そこは聖となり、ヤコブの家は自分の領地を所有するようになる。1:18 ヤコブの家は火となり、ヨセフの家は炎となる。エサウの家は刈り株となり、火と炎は刈り株に燃えつき、これを焼き尽くす。エサウの家には生き残る者がいなくなる。」主がこう告げられたのである。1:19 ネゲブの人々はエサウの山を、シェフェラの人々はペリシテ人の地を占領する。また彼らはエフライムの野とサマリアの野を占領し、ベニヤミンはギルアデを占領する。1:20 イスラエルの人々に属する、この一群の捕囚の民はカナン人の地をツァレファテまで占領し、セファラデにいるエルサレムからの捕囚の民はネゲブの町々を占領する。1:21 救う者たちは、エサウの山をさばくため、シオンの山に上る。こうして、王国は主のものとなる。   オバデヤが受けた神託は、ヤコブを火、ヨセフを炎、エサウを刈り株とするということです。火と炎は刈り株に燃えつくように、イスラエルがエドムを征服し、エドムが消滅することを預言しています。しかし、実際の歴史において、イスラエルがエドムを完全に征服し消滅させたわけではありません。エドムは他の強大な帝国の侵略と支配によって弱体化し、新約時代にはローマの支配を受けるようになりましたが、イスラエルによって消滅させられたわけではありません。ただ、エドムが存在していた地域は現在、ヨルダンとイスラエルの一部となっています。   エサウの山、つまりエドムの土地は南部の人々、平地の人々、ベニヤミンなど他の民族のものにあります。しかし、刈り株のようなエドムが火に焼かれて消えでも、全体の質量は変わらないでしょう。エドムが滅び、刈り株のように火に焼かれて灰と煙になっても、すなわち、人間が勝ち負けすること、人間が所有し失うことに神様の総量が変わりません。人間の欲望は滅亡で終わりますが、神様の世界の総量は不変です。定められた総量の中で、信仰はどのように生きるかを決めなければなりません。罪と不義が世にはびこっても、最終的には神様の公義と秩序が必ず勝つというのは、神様が総量の中で公義を保っているからです。神様の側に立つ一片であることを望みます。  

오바댜 묵상 【질량보존의 법칙】 20240618(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

오바댜 1:15~211:15 여호와의 만국을 벌할 날이 가까왔나니 너의 행한대로 너도 받을것인즉 너의 행한 것이 네 머리로 돌아갈 것이라1:16 너희가 내 성산에서 마신 것 같이 만국인이 항상 마시리니 곧 마시고 삼켜서 본래 없던 것 같이 되리라1:17 오직 시온산에서 피할 자가 있으리니 그 산이 거룩할 것이요 야곱 족속은 자기 기업을 누릴 것이며1:18 야곱 족속은 불이 될 것이요…

オバデヤ 黙想 【シャーデンフロイデ】 20240617(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

オバデヤ 1:1~141:1 オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう言われる。──私たちは主から知らせを聞いた。使節が国々の間に送られてこう言った、と。「さあ、立ち上がれ。エドムと戦おう」──1:2 「見よ。わたしはおまえを国々の中で小さい者、ひどく蔑まれる者とする。1:3 岩の裂け目に住み、高い所を住まいとする者よ。おまえの高慢は、おまえ自身を欺いている。おまえは心の中で言っている。『だれが私を地に引きずり降ろせるのか』と。1:4 鷲のように高く上っても、星々の間に巣を作っても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──主のことば。1:5 盗人がおまえのところに来るなら、しかも夜に、荒らす者が来るなら、──いかに、おまえは荒らされることか──彼らは欲しい分だけ盗んで行くではないか。ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろうか。1:6 ああ、エサウは捜し出され、その秘宝は見つけ出される。1:7 おまえと同盟を組む者たちがみな、おまえを国境まで送り返し、親しい友がおまえを欺いて征服する。おまえのパンを食べていた者が、おまえの足もとに罠を仕掛ける。こんなおまえに英知はない。1:8 その日には、──主のことば──わたしは、エドムから知恵ある者たちを、エサウの山から英知を消し去らないであろうか。1:9 テマンよ、おまえの勇士たちは気をくじかれる。虐殺され、エサウの山から一人残らず断ち切られる。1:10 おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる。1:11 他国人がエルサレムの財宝を奪い去り、外国人がその門に押し入り、エルサレムをくじ引きにして取ったその日、おまえは素知らぬ顔で立っていた。おまえもまた、彼らのうちの一人のようであった。1:12 おまえは兄弟の災難の日に、それを見ていてはならない。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜んではならない。その苦難の日に大口をたたいてはならない。1:13 おまえは彼らのわざわいの日に、わたしの民の門に入ってはならない。ほかでもないおまえが、彼の破局の日に、そのわざわいを眺めていてはならない。彼の破局の日に、彼らの財宝に手を伸ばしてはならない。1:14 その逃れる者を断つために、別れ道に立ちふさがってはならない。その苦難の日に、彼らの生き残った者を引き渡してはならない。   エドムは、レンズまめ煮物一杯で長子の権利を売ったヤコブの双子の兄、エサウの子孫の国です。エドムはイスラエルとしばしば対立し衝突しましたが、彼らが同じ血を分けた兄弟であることは間違いありません。そんなエドムが、イスラエルがバビロニアに攻撃される際にバビロニアと連携し、積極的にイスラエルの苦め、それを楽しみました。さらにイスラエルを略奪し、イスラエル人がバビロニアの侵略者から逃げるとき、彼らを助けるどころか捕まえてバビロニアに引き渡したことまでしました。エドムは高地の要塞にあり、その地理的条件に自惚れて自分たちは安全だと思い込んでいましたが、彼らの生き方から見れば彼らは安全ではありませんでした。「おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる。10」神様はオバデヤを通してエドムに懲罰を預言されます。   イスラエルとエドムはそれほど親しくありませんでした。民数記20章によると、イスラエルの民が出エジプトする際、エドムを通過したいと願いましたが、エドム王はそれを許さず、サウルの時代にはイスラエルとエドムの間で頻繁に戦争が起き、ダビデとソロモンの時代にはエドムを支配したこともありました。第二サムエル記の8章には、ダビデ軍がエドム人を多く殺したと記されています。ヤコブと血を分けたエサウの国であっても、国際的な利益の衝突があれば対立し、戦うこともあるでしょう。それは理解できます。しかし、バビロニアによってユダが滅びるとき、バビロニアに味方して血を流すユダの苦痛を楽しみ、略奪したことは卑劣だと思わざるを得ません。競争関係においても、礼儀と倫理があるはずです。戦争で殺さざるを得ない場合でも残忍であってはならず、裏切るとしても卑劣な形であってはならないでしょう。複雑な状況でも人間性を基準に考えれば答えが見つかります。   心理学では、嫉妬して隣人を裏切り、その苦痛を楽しむ行動を「シャーデンフロイデ(Schadenfreude)」と言います。ドイツ語で害を意味するシャーデン(Schaden)と喜びを意味するフロイデ(Freude)が合わさった言葉です。最近、日本のインターネット世界では「メシウマ」という俗語がよく登場しています。ご飯がおいしいという意味ですが、他人の不幸を見て楽しむ文脈で使われる言葉で、シャーデンフロイデと同じ意味です。人間はそうなり得ます。他人を不幸から救うこともあれば、楽しむこともあり、他人の成功を妬み、嫉妬することもあります。望ましくはありませんが、人間にそのような悪魔性があることを否定することはできません。しかし、人間であれば、一方で違うこともできます。感情の攻防を止め、哀れみ、助けの手を差し伸べることもあります。人間にとってはどちらも可能です。ただ、どのような人間として生きるかを決めるだけです。「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、心躍らせてはならない。主がそれを見て心を痛め、彼への怒りをやめられるといけない。箴言 24:17-18」