マルコの福音書 黙想 【良い地に蒔かれた種】20240109(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師
マルコの福音書 4:1~204:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。4:2 イエスは、多くのことをたとえによって教えられた。その教えの中でこう言われた。4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4:4 蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。4:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、4:6 日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。4:7 また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実を結ばなかった。4:8 また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」4:10 さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義が与えられていますが、外の人たちには、すべてがたとえで語られるのです。4:12 それはこうあるからです。『彼らは、見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはない。彼らが立ち返って赦されることのないように。』」4:13 そして、彼らにこう言われた。「このたとえが分からないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。4:15 道端に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばが蒔かれて彼らが聞くと、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを取り去ります。4:16 岩地に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、4:17 自分の中に根がなく、しばらく続くだけです。後で、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。4:18 もう一つの、茨の中に蒔かれたものとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたのに、4:19 この世の思い煩いや、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望が入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません。4:20 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」 マルコの福音書の種まき例え話は共観福音書に共通して出てくる話しです。この比喩についてあらゆる解釈はありますが、核心的なテーマは難しくありません。イエス様が4章後半に直接教えてくださった解釈があるからです。イエス様の解釈を無視して任意的で恣意的な解釈をしてはいけません。 イエス様の解釈によると、14節で種をまくということは御言葉を伝えるということです。そして15節で御言葉が道端に蒔かれたということは、御言葉を聞く人が聞こうともしないということです。救いの御言葉、命の御言葉でも聞き手が聞こうともしないので小言に過ぎません。確かに聞く機会はありましたが、聞きませんでした。それが道端です。もう物理的に排斥しました。だから自分の中に化学反応が起こる余地はありません。考えない人が神様を信じることはできません。 2つ目、岩地に蒔かれたということは、聞いたことは確かにあります。しかし、それを消化せずに吐き出してしまう人です。反対による不利益の恐れがあるからです。社会的かつ経済的な不利益です。イエス様を信じることに不利益が生じると、すぐに裏切り、去っていきます。それは最初から信じたことではありません。利害によって振り回される人は信仰の根を下ろすことができません。 3つ目は、茨の中に蒔かれたのです。礼拝堂に来て聞くことは聞きますが、礼拝堂の外に出れば、世の心配と経済の誘惑と欲が入り、変わってしまいます。欲が御言葉に勝ちます。価値観が違うからです。神様の御言葉を受けるためには価値観が神様の国の価値観に変えなければならないですが、世の中の価値観に留まっているから、神様の御言葉を裏切ることになります。。 20節の良い地に撒かれた御言葉は30倍と60倍と100倍の結実を結ぶと言いました。 これは、御言葉を心に留め、生活でに実践した人です。神様の御言葉を自分の価値化にした人です。解釈するまでもなく、この例えばなしぼ地は人の心です。聞こうともしない人はどんなに時間が経っても聞きませんし、聞き流してしまう人には何の変化も起こりません。聞いてから心に感動を受けても生活の心配があると、必ず神様の御言葉をあきらめます。 しかし、神の御言葉に従う人は100倍の実を結ぶことになります。これが信仰のチャンスです。力は人にあるのではなく、神にあります。私はそれを信じます。サタンは生活を食いしばります。私たちは神に仕えるか、生活に仕えるかのどちらかに仕えなけらばなりません。神様は信仰を見ておられます。そして実を結ばせる方は神様です。神様の御言葉に対して献身しない人は、決して神様を経験することはできません。