사무엘상 묵상5【사무엘이 들은 하나님의 음성】230127(금) 에다가와 사랑의 교회

사무엘상 3:1~143:1 아이 사무엘이 엘리 앞에서 여호와를 섬길 때에는 여호와의 말씀이 희귀하여 이상이 흔히 보이지 않았더라3:2 엘리의 눈이 점점 어두워 가서 잘 보지 못하는 그 때에 그가 자기 처소에 누웠고3:3 하나님의 등불은 아직 꺼지지 아니하였으며 사무엘은 하나님의 궤 있는 여호와의 전 안에 누웠더니3:4 여호와께서 사무엘을 부르시는지라 그가 대답하되 내가 여기 있나이다 하고3:5 엘리에게로 달려가서 가로되…

Ⅰサムエル 黙想4【神様を尊重すること】230126(木) 枝川愛の教会

Ⅰサムエル 2:22~362:22 さて、エリはたいへん年をとっていたが、息子たちがイスラエル全体に行っていることの一部始終を、それに彼らが会見の天幕の入り口で仕えている女たちと寝ていることを聞いていた。2:23 それでエリは彼らに言った。「なぜ、おまえたちはそんなことをするのか。私はこの民の皆から、おまえたちのした悪いことについて聞いているのだ。2:24 息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。2:25 人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころだったからである。2:26 一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。2:27 神の人がエリのところに来て、彼に言った。「主はこう言われる。あなたの父の家がエジプトでファラオの家に属していたとき、わたしは彼らに自分を明らかに現したではないか。2:28 わたしは、イスラエルの全部族からその家を選んでわたしの祭司とし、わたしの祭壇に上って香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエルの子らの食物のささげ物をすべて、あなたの父の家に与えた。2:29 なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。2:30 それゆえ──イスラエルの神、主のことば──あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や──主のことば──それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。2:31 見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはあなたの腕と、あなたの父の家の腕を切り落とす。あなたの家には年長者がいなくなる。2:32 イスラエルが幸せにされるどんなときにも、あなたはわたしの住まいの衰退を見るようになる。あなたの家には、いつまでも、年長者がいない。2:33 わたしは、あなたのために、わたしの祭壇から一人の人を断ち切らないでおく。そのことはあなたの目を衰えさせ、あなたのたましいをやつれさせる。あなたの家に生まれてくる者はみな、人の手によって死ぬ。2:34 あなたの二人の息子、ホフニとピネハスの身に降りかかることが、あなたへのしるしである。二人とも同じ日に死ぬ。2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。2:36 あなたの家の生き残った者はみな、銀貨一枚とパン一つを求めて彼のところに来てひれ伏し、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、パンを一切れ食べさせてください』と言う。」   祭司エリに神様の人が訪れます。彼が誰なのかわかりませんが、神様は彼を通してエリ家に約束された祭司職の使命を撤回します。それは警告ではなく、完全なる滅亡の宣言でした。「なぜあなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住まいで足蹴にするのか。なぜあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうちの、最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。29」民が神様にささげたものを奪って子どもを肥やしたエリは滅門の災いに遭うことになります。   神様より息子を重んじたということは、もののことだけではないと思います。子どもを大切にして神様の掟も人間の道もを教えませんでした。子どもが神のものを盗むことを傍観しました。神様はエリに与えた権利を剥奪し「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。30」と言われています。   神様を信じるという言葉はよく聞きますが、それが神様を尊重することと必ずしも一致するのかはわかりません。聖徒の大切な献金が透明に管理されず、一部の教会で起きる放蕩と私欲の不正は、それこそ神様を蔑むすることです。信仰と良心を持った聖徒は教会を不信し、離れざる得なくなります。   ところで問題はそれだけでしょうか?コロナ禍以降、教会に出席し、奉仕する時間と献金するお金が負担になって教会と距離を保っている人はいないのでしょうか?事実多くいます。それが教会を近づけない最も大きい理由です。そのため、破片化した人々は依然として教会の礼拝にに出ていません。 これは神様を尊重することでしょうか。   奉仕と献金がなくても維持できる教会を毎日のように考えます。それが負担になって人は神様から遠ざけるからです。毎日考えますが、毎日考えることを止めます。幾ら考えても仕え合うこととともに礼拝する共同体がなければ信仰もないからです。神様を尊重するという意味を悩み、実践的な答えを見つけたいと思います。

사무엘상 묵상4【하나님을 존중하는 것】230126(목) 에다가와 사랑의 교회

사무엘상 2:22~362:26 아이 사무엘이 점점 자라매 여호와와 사람들에게 은총을 더욱 받더라2:27 하나님의 사람이 엘리에게 와서 그에게 이르되 여호와의 말씀에 너희 조상의 집이 애굽에서 바로의 집에 속하였을 때에 내가 그들에게 나타나지 아니하였느냐2:28 이스라엘 모든 지파 중에서 내가 그를 택하여 나의 제사장을 삼아 그로 내 단에 올라 분향하며 내 앞에서 에봇을 입게 하지 아니하였느냐 이스라엘 자손의 드리는…

Ⅰサムエル 黙想3【子どもリスク】230125(水) 枝川愛の教会

Ⅰサムエル 2:12~212:12 さて、エリの息子たちはよこしまな者たちで、主を知らなかった。2:13 民に関わる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえを献げていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子弟が三又の肉刺しを手にしてやって来て、2:14 これを大鍋や、釜、大釜、鍋に突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。このようなことが、シロで、そこに来るイスラエルのすべての人に対してなされていた。2:15 そのうえ、脂肪が焼かれる前に祭司の子弟がやって来て、いけにえを献げる人に「祭司に焼くための肉を渡しなさい。祭司は煮た肉をあなたから受け取らない。生の肉だけだ」と言うので、2:16 人が「まず脂肪をすっかり焼いて、好きなだけお取りください」と言うと、祭司の子弟は、「いや、今渡すのだ。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。2:17 このように、子弟たちの罪は、主の前で非常に大きかった。この人たちは主へのささげ物を侮ったのである。2:18 さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。2:19 彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。2:20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。2:21 主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。   レビ族の祭司の息子はそれを受け継いで祭司長になります。エリの息子たちは祭祀になりますが、使命を学ぶ前に宗教的な特権意識を先に学びました。そして基本の人間的、倫理的な教育もされていませんでした。エリは子たちが不良であることを知っていましたが、教育はしませんでした。日曜礼拝で言いました「パイデイア(παιδεία)」の不在です。エリが神様のものを盗んでいる息子たちの手足を折って教育していたら、後日に子どものゆえに自分の首が折れて死ぬことはなかったと思います。   不良なエリの息子たちとは違って、まともなサムエルは対照的です。しかし、それも表面的なことでだけはないでしょうか。サムエルは士師時代を終え、王政時代を開いた人物です。時代が頼りにして尊敬を受けていた人ですが、後のサムエルの息子たちも変わりはありません。8章を読むと、サムエルの息子たちの不正行為が出てきます。彼らも特権意識にとらわれて無駄なことをしました。エリもサムエルもみんな「子どもリスク」を持っていました。   サムエルは堕落したサウルを廃位し、ダビデを立てましたが、ダビデの息子たちも悪さには負けません。堕落の程度で言えば、サムエルやエリの子たちとは比べものにもなりません。兄弟間で強姦し、父の妾を強姦し、父を殺して王になるとしました。信仰の歴史に名乗りましたが、子ども教育に成功した人はいません。   ところが、アイロニに悪だったサウルの子、ヨナタンだけが立派です。ここに一つの共通点を見つけました。エリとサムエルの子たちは自分たちの父に従って祭祀長になり、ダビデの子たちはダビデに従って王になります。その狭間に何かの問題が生じたのです。これらの子たちの悪さは、国家と礼拝、すなわち政治と宗教まで私有化できるという錯覚から始まったものです。   政治権力を世襲し、教会ですら権力を作り、それを世襲する、それを恥じとも思わない人間の時代と違いはありません。いわば父のチャンスを使うわきまえのない者らによって、国も教会も危険です。 サウルの子ヨナタンは王になることを拒否しました。だからヨナタンだけが人らしさを守っています。社会的に、経済的に、信仰的にも子どもを親と分離することこそ、子どもが神様の中で一人の人格として生きることができます。

사무엘상 묵상3【자녀 리스크】230125(수) 에다가와 사랑의 교회

사무엘상 2:12~212:12 엘리의 아들들은 불량자라 여호와를 알지 아니하더라2:13 그 제사장들이 백성에게 행하는 습관은 이러하니 곧 아무 사람이 제사를 드리고 그 고기를 삶을 때에 제사장의 사환이 손에 세살 갈고리를 가지고 와서2:14 그것으로 남비에나 솥에나 큰 솥에나 가마에 찔러 넣어서 갈고리에 걸려 나오는 것은 제사장이 자기것으로 취하되 실로에서 무릇 그 곳에 온 이스라엘 사람에게 이같이 할 뿐…

Ⅰサムエル 黙想2【ハンナの歌】230124(火) 枝川愛の教会

Ⅰサムエル 2:1~112:1 ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。2:2 主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。2:3 おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。2:4 勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。2:5 満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。2:6 主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。2:7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。2:8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。2:9 主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。2:10 主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」2:11 エルカナはラマにある自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。   ハンナが自分の誓願に従ってサムエルを神様に捧げたときの歌です。ハンナの信仰は、子どもを欲しがる祈福信仰ではありません。もちろん「祈福」という言葉の定義がまず必要です。根本的に信仰はすべて祈福、祝福を願います。救いの祝福を求め、この世においても必要を求めるということに誰でも逃れることはできません。しかし、懸念される祈福信仰というのは神様を通して受け取る何かが、神様の愛という人格を転覆させることです。神秘主義や祈福信仰はすべて神様の超越性を追い求めますが、人格性は見落としやすいです。ハンナは子どもを求めましたが、子どもがすべてではありませんでした。神様との人格的な約束を覚えています。ハンナは子どもをくださった神様のことを忘れなかったし、子どもを持ったからといって神様を捨てることをしなかったし、約束した神様を騙すことはしなかったです。何よりも自分自身をごまかしてないです。   世界には否定できない厳然たる秩序があります。人が死ぬこと、生まれること、興じること、滅びることを防ぐことはできません。歴史は川のように流れ、それに例外はありません。人間が高ぶれない理由、神様の絶対的な啓示は、世の中のすべては滅び、衰るということです。富と名誉も変わり、若い人は老い、老いた人は死に、また人は生まれてきます。ハンナは子どもに執着せず、子どもを抱き、このように告白しました。「主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。6,7」すべてが神様の中にあるので、神様を騙したり、自分を騙したりすることはできません。   ウィンストン·チャーチルの愛する本として知られたエドワード·ギボンの『ローマ帝国衰亡史(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire)』はチャーチルが覚えるほど読んだ本です。 その力がチャーチルの文章力につながり、政治家だったチャーチルはノーベル文学賞を受賞しました。「ローマ帝国衰亡史」はローマの繁栄とことではなく、衰亡のことを考えました。生きる日があれば死ぬ日があり、興じる日があれば衰える日もあります。本の一部分です。「ローマの衰退は帝国の巨大さがもたらして避けられない当然なことだった。繁栄が衰退の原理である。 征服地域が拡がり、破滅の原因も増えた。 それが偶然なのか必然なのか人為的に立てた柱が崩れることに連れ、この巨大な建築物は自体の重さのために崩れた。」言い換えれば、成功の中にすでに衰退が入っているということです。幸せの中に不幸が入っており、生の中に死が入っています。しかし、衰亡を読んだチャーチルは危機に陥ったイギリスを救いだしました。ハンナの祈りを持って育ったサムエルは、滅びつつある時代を閉じ、新しい時代を開く人になりました。

사무엘상 묵상2【한나의 노래】230124(화) 에다가와 사랑의 교회

사무엘상 2:1~112:1 한나가 기도하여 가로되 내 마음이 여호와를 인하여 즐거워 하며 내 뿔이 여호와를 인하여 높아졌으며 내 입이 내 원수들을 향하여 크게 열렸으니 이는 내가 주의 구원을 인하여 기뻐함이니이다2:2 여호와와 같이 거룩하신 이가 없으시니 이는 주 밖에 다른 이가 없고 우리 하나님 같은 반석도 없으심이니이다2:3 심히 교만한 말을 다시 하지 말 것이며 오만한 말을 너희…

Ⅰサムエル 黙想1【祈りを覚えているハンナ】230123(月) 枝川愛の教会

Ⅰサムエル 1:19~281:19 彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。1:20 年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。1:21 夫のエルカナは、年ごとのいけにえを主に献げ、自分の誓願を果たすために、家族そろって上って行こうとした。1:22 しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。1:23 夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。ただ、主がそのおことばを実現してくださるように。」こうしてハンナはとどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。1:24 その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。1:25 彼らは子牛を屠り、その子をエリのところに連れて行った。1:26 ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。1:27 この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。1:28 それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。   Ⅰサムエルはハンナの話から始まります。ハンナは不妊に苦しみ、神様に祈ります。息子が産まれるなら、神殿に仕える神様のしもべとして捧げるという誓願でした。その祈りは叶えられ、ハンナは息子のサムエルを産みます。そしてハンナはその祈りを覚えていました。サムエルが乳離れしたとき、神殿のエリに連れて行き、サムエルを神様にささげます。ということでサムエルは幼い頃から神殿で暮らし、祭司のエリのもとで祭司長の授業を受けることになります。   不妊だったハンナが子を妊娠し、出産することができたのは、創造主であり、命の主である神様がハンナの祈りに答えてくださった恵みのゆえです。誰でも急いでいるときは何かの祈りをします。しかし、その祈りが答えた後、人の心は変わります。多くの人は自分の祈りを覚えていません。約束ではなかったという言い訳、約束を守れない理由、自分が約束を守れなくても神様は自分を愛するという幼稚な無理強いだけが残ります。もちろん神様は愛するでしょう。でも、約束を守らなかった人がそれを正当化するために言えることばではありません。   ハンナは息子を産みましたが、乳離れする頃に赤ちゃんを手放さなければなりませんでした。生後1年くらいで乳離れます。母親と赤ちゃんに母乳を飲ませながら1年を過ごすと、赤ちゃんはさらに大切なものになります。私の娘は1歳をはるかに過ぎてまで乳を飲みました。そでから見ると、娘だけが求めることではなく、母親が止められなかったです。二人の命がへその緒でつながっていて、生まれてからは乳を飲ませながらつながっていることを確認し、安心するのです。   乳離れということも一つの喪失だと思いますが、ハンナは乳離れと同時に子と別れる決断をしなければなりませんでした。子どもをくだされば、子どもを神様に捧げるといった祈りを覚えているからです。これがハンナの偉大さです。祈ると神様がくださるということにポイントがあるのではなく、ハンナは祈りを覚え、約束通りに実行したことにポイントがあります。商売をする人は信用が命です。社会は約束を守らない人を相手にしません。神様にした約束、守らなければならないのではないですか。じっくりと思い出します。

사무엘상 묵상1【기도를 기억하는 한나】230123(월) 에다가와 사랑의 교회

사무엘상 1:19~281:19 그들이 아침에 일찌기 일어나 여호와 앞에 경배하고 돌아가서 라마의 자기 집에 이르니라 엘가나가 그 아내 한나와 동침하매 여호와께서 그를 생각하신지라1:20 한나가 잉태하고 때가 이르매 아들을 낳아 사무엘이라 이름하였으니 이는 내가 여호와께 그를 구하였다 함이더라1:21 그 사람 엘가나와 그 온 집이 여호와께 매년제와 그 서원제를 드리러 올라갈 때에1:22 오직 한나는 올라가지 아니하고 그 남편에게…

ピリピ人への手紙 黙想9【パウロの最後の祝祷】230120(金) 枝川愛の教会

ピリピ 4:14~234:14 それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。4:18 私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。4:19 また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。4:20 私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。4:21 キリスト・イエスにある聖徒の一人ひとりに、よろしく伝えてください。私と一緒にいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。4:22 すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。   今朝を持ってピリピへの手紙は終わります。パウロが56年と57年にピリピを訪問してからピリピへの手紙はその後パウロがローマの監獄に監禁された時、61年から62年の間に書き送られた手紙です。パウロがローマの投獄されると、ピリピ教会はエパフロディトという人をローマに送ってパウロの必要を満たしました。ところが、エパフロディトが重い病気になって危険でしたが、幸いに治ってピリピに帰れるようになりますが、「ピリピ人への手紙」はその時エパフロディトがピリピに持って行った手紙です。   ピリピ教会は、パウロがマケドニア、つまりヨーロッパ大陸に入って初めて開拓した教会で、ピリピの開拓後、テサロニゲを経由し、ギリシャ半島まで伝道した時、できたばかりのピリピ教会はパウロの財政的後援者になっていました。そういう意味で、ピリピ教会は一つの開拓地ではなく、アンディオクとヨーロッパをつなぐ重要な宣教的拠点の役割をしたのです。パウロにとって、ピリピ教会への感謝と愛情は特別なものだったと思います。   しかし、ピリピ教会の人々はこれ以上にパウロに会うことはできず、パウロの手紙を受け取ることもできませんでした。数年後、パウロは斬首刑で死ぬことになるからです。ネロ皇帝のキリスト教迫害の暗雲が始めた時でした。一時的に釈放されますが、パウロは最後の瞬間までヨーロッパの端、スペインまで行って伝道しようと思っていました。というわけで、今日の本文のお別れが、パウロが送るピリピ教会への最後のメッセージです。   イエス様と同じように、パウロも成功ではなく死刑で終わりました。しかし、それが失敗ではなく成功です。イエス様が成就し、パウロが伝え、私たちが伝えている救いの福音は肉体の成功のためのものではありません。命をかけて信じるのではなく、もともと福音は肉体の生命を超えた永生に関するものだからです。そのなかでも、ピリピに感謝の気持ちを持っているパウロは、ピリピ教会の聖徒たちに神様が報いてくださり、豊かになることを祝福しながら祈ります。宣教のために仕えるところが神様によって豊かに報われることをパウロに従って祝願します。   パウロに会えないピリピの聖徒たちは、その日にエパフロディトが持ってきたこの手紙を受け取って喜びと悲しみを持って読んだと思います。その重さが私たちに伝わっていただきたいと願います。パウロの最後の挨拶が余韻を残してピリピへの手紙は終わります。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。23」これ以上に良い祝福はありません。パウロが肉体の命と変えたそのキリストの恵みが私たちの心と霊の中にあることを願います。