詩篇 40:1~1040:1 私は切に主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け助けを求める叫びを聞いてくださった。40:2 滅びの穴から泥沼から主は私を引き上げてくださった。私の足を巌に立たせ私の歩みを確かにされた。40:3 主はこの口に授けてくださった。新しい歌を私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ主に信頼するだろう。40:4 幸いなことよ主に信頼を置き高ぶる者や偽りに傾く者たちの方を向かない人。40:5 わが神主よなんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶ者はありません。語ろうとしても告げようとしてもそれはあまりに多くて数えきれません。40:6 あなたはいけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたはお求めになりませんでした。40:7 そのとき私は申し上げました。「今私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。40:8 わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」40:9 私は大いなる会衆の中で義を喜び知らせます。ご覧ください。私は唇を押さえません。主よあなたはご存じです。40:10 私はあなたの義を心の中におおい隠さずあなたの真実とあなたの救いを言い表します。私はあなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。 滅びの穴と泥沼というのは、自分では抜け出せない絶望的な危機です。穴と泥沼の時制は過去です。過去にそのようなことがあったということです。その時にダビデは祈り、ついに死にそうだった穴と泥沼から這い出ることができました。多くの人は緊急な状況が終わると、神様の救いを忘れ、自分の世界に戻りますが、神様を経験したダビデは神様の支配下にいることを幸せに思います。ということで4節で神様に謙遜に屈服する者が幸い、すなわち「幸いなことよ主に信頼を置き高ぶる者や偽りに傾く者たちの方を向かない人」と言います。 詩篇から読むダビデの対尺点というのは、おそらくあぶれものではないと思います。ダビデの時代にダビデの敵になったものはイスラエルを取り巻く周辺勢力ではなく、内部の嫉妬と裏切りです。言い換えれば、彼らが持っている宗教的背景はダビデのものと同じです。なので今に例えて言うなら、皆が教会に通う人々の中で起きることです。しかし、彼らには宗教の形は持っていますが、神様の御言葉という中身がないから宗教を背負って悪を行います。 形は中身を入れる器です。形式と内容の優劣を論じるのは無意味です。どちらも重要です。しかし、形式主義、功労主義に流れると、結局は信仰という内容は入れなくなります。礼拝に出席し、献金をするということがすなわち信仰であるとは言えません。同様に、信仰がなければ、形式は退屈で不便だと思うようになります。信じればいい、なぜ礼拝に行かなければならないのか、なぜ献金を出さなければならないのかと思うのです。考えてみればダビデより神様に時間とささげものをささげた人はいません。それはダビデの信仰の結果であってそれを持って信仰を測ることはできません。 神様は従順を望んでおられます。神様に属する人は、神様の御言葉に従うことを幸いに思います。ということで9節以下で救いの恵みを受けたものは当然にその恵みを証ししなければならないと言います。儀式としての礼拝よりも、献物の大きさよりも、大切なことは、御言葉に従うことであり、神様の救いを伝えなければならないということです。滅びの穴と泥沼から救出されたことでなければ、それを救いとは言えませんし、救いと言ってもいけません。その救いの感激のある人に求められるのは、御言葉に対して服従することと、神様の救いを証しすることです。