ヨブ記 QT19 211022金【自家撞着】ヨブ記 11章 1~11

ヨブ記 11章 1~1111:1 さらに、ナアマ人ツォファルが答えた。11:2 ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。11:3 あなたの無駄話は、人を黙らせるだろうか。あなたが嘲るとき、あなたに恥を見させる者はいないのだろうか。11:4 あなたは言う。「私の主張は純粋だ。私はあなたの目に清い」と。11:5 しかし、神が語りかけ、あなたに対して唇を開いてくださっていたなら、11:6 神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう。知れ。神があなたのために、あなたの咎を忘れてくださることを。11:7 あなたは神の深さを見極められるだろうか。全能者の極みを見出せるだろうか。11:8 それは天よりも高い。あなたに何ができるだろう。それはよみよりも深い。あなたが何を知り得るだろう。11:9 それを測ると、地よりも長く、海よりも広い。11:10 もし、神が通り過ぎたり、閉じ込めたり、あるいは法廷を召集したりするなら、だれが神を引き止められるだろう。11:11 確かに神は、不信実な者を知っておられる。不法を見て、それに気づかれないだろうか。   三番目の友人、ツォファルの考え方も因果応報に傾いています。ヨブの苦難は、その原因が罪にあり、悔い改めなければならないと非難する人するわけです。ツォファルは今までの二人の友人に比べて、露骨であり、攻撃的です。ツォファルが言っている義、恥、純粋、神のことば、知恵の奥義、知性の広さ、神の深さ、全能者の極み、天よりも高く、よみよりも深い、地よりも長く、海よりも広い等の表現は、果たしてツォファルの知識でしょうか?彼自らが経験した知識とは思えません。単純に耳で聞いた言葉を口にして並べているだけです。   このような人は、神様の義を語ることを好みますが、その裏には非難する目的があります。神様の愛を語っているようでも、自分の放縦と不従順を合理化しています。神様の全知全能を言っているようですが、自分は無責任であると主張するのです。信仰の言語は抽象的なものが多くあります。『禪林類聚』に「須弥山は高く頂きを見ることができず、海水は深く底が見えない。頭を回してぶつかるの自分自身」とあります。すなわち「お経を読みながら真理を求めますが、それは高く、広くて至らない、いつも自分自身にとどまっている」ということです。これが「自家撞着」の由来です。   神様のことを言いながら、自分が信じたいことを信じるのです。ツォファルの言葉そのものは間違っていないかもしれませんが、「自家撞着」であるが故、その言葉に力がありません。もし私たちの中に定義されないまま使っている抽象的な言語がなくなるならば、おそらく大きな空白が生じると思います。それが占めているところが大きいからです。しかし、その事実を知ることが大切です。それを認め、実体を知るために悩み続けることが、教会の課題です。そのような教会と信仰の告白は揺らぎません。

욥기 QT19 211022금【자가당착】욥기 11장 1~11

욥기 11장 1~11 11:1 나아마 사람 소발이 대답하여 가로되11:2 말이 많으니 어찌 대답이 없으랴 입이 부푼 사람이 어찌 의롭다 함을 얻겠느냐11:3 네 자랑하는 말이 어떻게 사람으로 잠잠하게 하겠으며 네가 비웃으면 어찌 너를 부끄럽게 할 사람이 없겠느냐11:4 네 말이 내 도는 정결하고 나는 주의 목전에 깨끗하다 하는구나11:5 하나님은 말씀을 내시며 너를 향하여 입을 여시고11:6 지혜의 오묘로…

ヨブ記 QT18 211021木【あきらめたいヨブ】ヨブ記 10章 13~22

ヨブ記 10章 1~1210:1 私のたましいはいのちを忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、たましいの苦しみのうちに私は語ろう。10:2 私は神にこう言おう。「私を不義に定めないでください。何のために私と争われるのかを教えてください。10:3 あなたが人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、悪しき者たちのはかりごとに光を添えることは、あなたにとって良いことでしょうか。10:4 あなたには肉の目があるのですか。あなたは人間が見るように見られるのですか。10:5 あなたの日々は人間の日々のようなのですか。あなたの年は人の年のようなのですか。10:6 それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。10:7 私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。10:8 あなたの手が私をかたどり、私を造られました。それなのに、私を滅ぼし尽くそうとされます。10:9 思い出してください。あなたは私を粘土のようにして造られました。私を土のちりに戻そうとなさるのですか。10:10 あなたは私を乳のように注ぎ出して、チーズのように固め、10:11 皮と肉を私に着せて、骨と筋で編まれたではありませんか。10:12 恵みをもって私にいのちを与え、あなたの顧みが私の霊を守りました。   インドのある青年が、自分を生んだという理由で自分の親を告訴したことが話題になったことがあります。自分の人生は痛みであり、その人生が始まった責任は、自分の同意も得ずに出産した、親にあるということです。とんでもないこじつけですが、その青年は、おそらく哲学の観点の一つ、社会運動の「反出生主義(anti-natalism)」に基づいている人です。   反出生主義とは、文字通り生まれることに反対し、否定する哲学です。生きることが痛みだからです。だからといって死ぬことを勧めているのでもありません。死も痛みだからです。ですから、反出生主義は痛みの問題です。苦しむ人間の混乱の哲学です。低出産、少子化の現象も出産と育児が苦痛であるという観点によるものです。   ヨブは反出生主義者のように、自分の出生を呪います。3章でも、ヨブは死にたいことを言いました。しかし、7章では、再び生きることの希望を言っています。10章に来て再び人生を懐疑し、死を願っています。ヨブは水火の苦しみの中で気絶を繰り返しているのです。   哲学が苦痛を考えるのではなく、痛みが哲学を産みます。ドイツの哲学者ショーペンハウアーが反出生主義者であることは、幼いときに親に虐待されたからです。痛みが耐えられないと生きていることを呪いますが、しばらくよくなって余裕ができると、再び生きる希望を持ちます。   痛みを乗り越えられないときがあります。頑張れという言葉に力はありません。鎮痛剤一粒が入って痛みを和らげると生きる希望を持ちはじめます。神様が少しだけヨブを助けてくださるならば、ヨブはきっと諦めたいという絶望から、生きる希望を抱くようになるでしょう。

욥기 QT18 211021목【포기하고 싶은 욥】욥기 10장 13~22

욥기 10장 13~2210:13 그러한데 주께서 이것들을 마음에 품으셨나이다 이 뜻이 주께 있은 줄을 내가 아나이다10:14 내가 범죄하면 주께서 나를 죄인으로 인정하시고 내 죄악을 사유치 아니 하시나이다10:15 내가 악하면 화가 있을 것이오며 내가 의로울지라도 머리를 들지못하올 것은 내 속에 부끄러움이 가득하고 내 환난을 목도함이니이다10:16 내가 머리를 높이 들면 주께서 사자처럼 나를 사랑하시며 내게 주의 기이한 능력을…

ヨブ記 QT17 211020水【正しいも美しいあなた】ヨブ記 10章 1~12

ヨブ記 10章 1~1210:1 私のたましいはいのちを忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、たましいの苦しみのうちに私は語ろう。10:2 私は神にこう言おう。「私を不義に定めないでください。何のために私と争われるのかを教えてください。10:3 あなたが人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、悪しき者たちのはかりごとに光を添えることは、あなたにとって良いことでしょうか。10:4 あなたには肉の目があるのですか。あなたは人間が見るように見られるのですか。10:5 あなたの日々は人間の日々のようなのですか。あなたの年は人の年のようなのですか。10:6 それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。10:7 私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。10:8 あなたの手が私をかたどり、私を造られました。それなのに、私を滅ぼし尽くそうとされます。10:9 思い出してください。あなたは私を粘土のようにして造られました。私を土のちりに戻そうとなさるのですか。10:10 あなたは私を乳のように注ぎ出して、チーズのように固め、10:11 皮と肉を私に着せて、骨と筋で編まれたではありませんか。10:12 恵みをもって私にいのちを与え、あなたの顧みが私の霊を守りました。   ヨブは自分に起こっていることを納得できず、神様に問いただします。誰にでも神様に向かって、「なぜ」と問う時が訪れます。自分の思いと神様の思いが違うので、それがぶつかり、混乱を起こします。   しかし、人生に現れた神様の恵みは歩みを振り返る時に悟られます。振り返るということは、もう当時に持っていた思いとは違う思いを持っているという意味です。その時に神様の御旨が悟られます。終わりだと思いましたが、振り返ってみると神様の始まりであったことに気づかされます   眺める視線が変わったからです。視線が変わると思いが変わり、それによって証しが残ります。イザヤはこう言いました。「「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。55:8、9」   作家の朴婉緖は、予期せぬ事故で息子を失いました。『一言てください』で毎晩獣のように泣き叫んだと言いました。しかし、その苦痛の後に予期せぬ信仰が与えられ、彼女は神様の御言葉を読み、それを書いた黙想を本に編んでいました。その本のタイトルは『正しいも美しいあなた』です。人生の局面は予期せず、様々な方法でやってきますが、神様を信頼できない状況というのはありません。    

욥기 QT17 211020수【옳고도 아름다운 당신】욥기 10장 1~12

욥기 10장 1~1210:1 내 영혼이 살기에 곤비하니 내 원통함을 발설하고 내 마음의 괴로운대로 말하리라10:2 내가 하나님께 아뢰오리니 나를 정죄하지 마옵시고 무슨 연고로 나로 더불어 쟁변하시는지 나로 알게 하옵소서10:3 주께서 주의 손으로 지으신 것을 학대하시며 멸시하시고 악인의 꾀에 빛을 비취시기를 선히 여기시나이까10:4 주의 눈이 육신의 눈이니이까 주께서 사람의 보는 것처럼 보시리이까10:5 주의 날이 어찌 인생의 날과…

ヨブ記 QT16 211019火【ヨブが求めていること】ヨブ記 9章 25~35

ヨブ記 9章 11~249:25 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、幸せを見ることはない。9:26 それは葦の舟のように通り過ぎる。獲物をめがけて舞い降りる鷲のように。9:27 たとえ「不平を忘れ、悲しい顔を捨てて明るくふるまいたい」と私が言っても、9:28 自分のあらゆる苦痛に私はおびえています。私はよく知っています。あなたが私を潔白な者となさらないことを。9:29 私はきっと、悪しき者とされるでしょう。なぜ私は、空しく労するのでしょうか。9:30 たとえ私が雪の水で身を洗っても、灰汁で手を清めても、9:31 あなたは私を墓の穴に沈め、私が着る服は私を忌み嫌います。9:32 神は、私のように人間ではありません。その方に、私が応じることができるでしょうか。「さあ、さばきの座に一緒に行きましょう」と。9:33 私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。9:34 神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。9:35 そうなれば、私は恐れず神に語りかけます。しかし今、私はそうではありません。   ヨブの言葉が無気力です。双方向ではなく、一方的だからです。神様には言葉届かず、友達とは言葉が通じないです。息苦しいヨブは自分と神様との間の仲裁者を求めます。「私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。神がその杖を私から取り去り、その恐ろしさが私をおびえさせませんように。33,34」神様と私の間に立ち、私の事情を知り、それを神様に執り成す人を探し求めていますが、そのような人はいません。   神様は神だからできなく、人は人だからできません。神様の神格を信じることはできます。人間が限界を認めることさえできれば、神様を信じることは難しくありません。しかし、人間が遠くにおられる絶対者を信じることでヨブの嘆きから逃れることはありません。絶対者なる神様は仲裁者なるイエス・キリストを通して会えるからであります。神格である神様は人格であるイエス・キリストを通して出会います。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。Ⅰテモテ2:5」   十字架は、神様であるイエス・キリストが神格を置いて、十字架に上がった人格の出来事です。神様の御言葉は人格的な啓示です。人格的な神様に出会ったということは、イエス・キリストに会ったということです。ヨブが切に求めていた仲裁者、イエス・キリストと話し合う一日をを祈ります。

욥기 QT16 211019화【욥이 찾고 있는 것】욥기 9장 25~35

욥기 9장 25~359:25 나의 날이 체부보다 빠르니 달려가므로 복을 볼 수 없구나9:26 그 지나가는 것이 빠른 배 같고 움킬 것에 날아 내리는 독수리와도 같구나9:27 가령 내가 말하기를 내 원통함을 잊고 얼굴 빛을 고쳐 즐거운 모양을 하자 할지라도9:28 오히려 내 모든 고통을 두려워하오니 주께서 나를 무죄히 여기지 않으실 줄을 아나이다9:29 내가 정죄하심을 입을진대 어찌 헛되이 수고하리이까9:30…

ヨブ記 QT15 211018火【血まみれ】ヨブ記 9章 11~24

ヨブ記 9章 11~249:11 神がそばを通り過ぎても、私には見えない。進んで行っても、気づかない。9:12 ああ、神が奪い取ろうとされるとき、だれがそれを引き止められるだろうか。だれが神に向かって、「何をするのか」と言えるだろうか。9:13 神は御怒りを翻されない。ラハブの仲間も、神のみもとに身をかがめる。9:14 まして、この私が神に答えられるだろうか。神と交わすべきことばを私が選べるだろうか。9:15 たとえ私が正しくても、答えることはできない。私をさばく方に対して、あわれみを乞うだけだ。9:16 私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられるとは、信じられない。9:17 神は嵐をもって私を傷つけ、理由もなく傷を増し加え、9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たされる。9:19 もし、力のことなら、見よ、神は強い。もし、さばきのことなら、だれが私を呼び出すのか。9:20 たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がった者とされる。9:21 私は誠実だ。しかし私には自分が分からない。私は自分のいのちを憎む。9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は誠実な者も悪い者も、ともに絶ち滅ぼされると。9:23 突然、にわか水が出て人を死なせると、神は潔白な者の受ける試練を嘲られる。9:24 地は悪しき者の手に委ねられ、神は地のさばき人らの顔をおおわれる。神がなさるのでなければ、だれがそうするのか。   ハイデガーは、人間が「自分の意志に問わず世に投げつけられた存在」であると言いました。確かにそうではないでしょうか。投げ出され、泣きながら生まれます。それを「被投性」といいました。 世界に投げつけたという意味で、「被投性」の存在です。   「私はなぜこの世に存在するのか」を考えるなら、自分の意志とは関係なく放り出されたことを認めざる得ません。それを認めると、今度は死ななければならないということも認めざる得ません。私たちは、その間を生きる存在です。ハイデガーは、「人間が不安と死を自覚するときにはじめて、真理についての質問をはじめる」と言っています。   韓国語では、ハイデガーの「被投性」と「血だらけ」の発音が同じです。言葉遊びのようですが、エゼキエルに、「血まみれ」の内容があります。「…あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まったあなたに「生きよ」と言い、血に染まったあなたに、繰り返して「生きよ」と言った。16:6」希望もないまま捨てられた血まみれの女の子にそれでも「生きよ」と言われます。神様がその捨てられた血まみれをよみがえらせ、洗らわせ、世の中に立てられるのです。ですから神様の命令は、ただ「生きよ」です。   ヨブは答えについて知りません。時には揺れ、現実を恨みますが、それでも、ヨブは質問を持っています。神様について完全に知ることはできませんが、神様をあきらめることはできません。神様について完全に知っていると言っている人は、神様を知らない人です。私たちも部分しか知りませんが、だからといって神様を知ることをあきらめることはありません。   ヨブは、苦しみのあまり死を求めていますが、血まみれになっても生きなければなりません。ヨブを含め、絶望の中にいるすべての「血まみれ」または「被投」の存在に、「血に染まっても生きよ」というエゼキエルの言葉をもって応援します。生きることをあきらめず、質問することをあきらめなければ、神様に出会うことになります。

욥기 QT15 211018월【피투성이】욥기 9장 11~24

욥기 9장 11~249:11 그가 내 앞으로 지나시나 내가 보지 못하며 그가 내 앞에서 나아가시나 내가 깨닫지 못하느니라9:12 하나님이 빼앗으시면 누가 막을 수 있으며 무엇을 하시나이까 누가 물을 수 있으랴9:13 하나님이 진노를 돌이키지 아니하시나니 라합을 돕는 자들이 그 아래 굴복하겠거든9:14 하물며 내가 감히 대답하겠으며 무슨 말을 택하여 더불어 변론하랴9:15 가령 내가 의로울지라도 감히 대답하지 못하고 나를…