マタイによる福音書 QT32 20210217水【天国の給食】マタイ 14章 13~21

マタイ 14章 13~2114:13 それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」14:17 弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」14:18 するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。14:19 そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。14:21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。   四つの福音書は、共通的にの五つのパンと二匹の魚の奇跡の出来事を記録しています。ヨハネ6章に見れば、イエス様が病人を癒されることを多くの人々が見、テベリヤのガリラヤの海の向こうに行かれるとき、多くの人がついてきました。   日が沈むと夕食の問題で困り、弟子たちは群衆を解散させてそれぞれ自己解決するようにと言いましたが、イエス様は、「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」と言われます。弟子たちにはそれほどの財政がなく、イエス様もそれを知っておられます。   弟子たちが持っているものは、「五つのパンと二匹の魚」だけです。しかもヨハネによると、これも子どものお弁当でした。ルカによれば、イエス様は50人ずつ、100の小グループを分けて座らせ、ささげられた五つのパンと二匹の魚にお祈りしました。   それからパンと魚を分けて、弟子たちに与え、弟子たちは群衆に分け与えました。集まった人が男だけで5,000人だったので10,000人は充分超えたと言われます。彼らは腹いっぱい食べましたが、食べ物は残りました。   イエス様がお祈りすると、ポンという音とともに白い煙が出て、コンテナぐらいな給食物資ができたのではないでしょう。お祈りした後でも、変わらず五つのパンと二匹の魚でした。弟子たちがそれを分けて持ち出し、50人ずつ座っていたグループの一人に分け与えます。受け取った人はまた隣の人に分け与え、さらにとなりの50人のグループの人にもは分け与えます。   まさにキャンドル見たいです。分け与えても増えるだけで減りません。この食べ物はまるキャンドルの火のように広がりました。もし、弟子12人が10,000人に食べ物を分け与えたとしたら、弟子1人当たり少なくとも800人になります。すると時間がかかり、暗くなってしまって食べることができなかったと思います。   五つのパンと二匹の魚の奇跡というのは、小さなものをささげた信仰の上に、人の手から人の手に渡るうちに行われた奇跡です。もちろん神様の祝福がその中にありますが、奇跡は「ささげること」と「分かち合いこと」で行われました。誰かが渡さなかったならこの奇跡はその場でとどまったはずです。   五つのパンと二匹の魚の奇跡は今でも再現できることです。自分のごはんの分のような小さな献身の上に、神様が祝福してくださるならば、それが人の手から人の手でとつながっていくときに増し加えられ、いつ食べたかも知らないうちに多くの人が食べられるようになります。   自分がささげた小さなもの、そして自分の手で分け与えた小さなものは、自分も知らないところで伝われ、知らない人に与えられます。自分の権利を皆のためにささげることと、与えられたものをさらに与えることが五つのパンと二匹の魚の奇跡です。  

마태복음 QT32 20210217수【천국의 배식】마태 14장 13~21

마태 14장 13~2114:13 예수께서 들으시고 배를 타고 떠나사 따로 빈들에 가시니 무리가 듣고 여러 고을로부터 걸어서 좇아간지라14:14 예수께서 나오사 큰 무리를 보시고 불쌍히 여기사 그 중에 있는 병인을 고쳐 주시니라14:15 저녁이 되매 제자들이 나아와 가로되 이곳은 빈들이요 때도 이미 저물었으니 무리를 보내어 마을에 들어가 먹을 것을 사먹게 하소서14:16 예수께서 가라사대 갈것 없다 너희가 먹을 것을…

マタイによる福音書 QT31 20210216火【バプテスマのヨハネの死】マタイ 14章 1~12

マタイ 14章 1~1214:1 そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、14:2 家来たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。彼が死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」14:3 実は、以前このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。14:4 ヨハネが彼に、「あなたが彼女を自分のものにすることは律法にかなっていない」と言い続けたからであった。14:5 ヘロデはヨハネを殺したいと思ったが、民衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからであった。14:6 ところが、ヘロデの誕生祝いがあり、ヘロディアの娘が皆の前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。14:7 それで彼は娘に誓い、求める物は何でも与えると約束した。14:8 すると、娘は母親にそそのかされて、「今ここで、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい」と言った。14:9 王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ、14:10 人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。14:11 その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。14:12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て遺体を引き取り、葬った。そして、イエスのところに行って報告した。   イエス様はヘロデに対してキツネだと非難したことがあります。そのような卑劣な権力者ヘロデの誕生日にそれにへつらう多くの人々が集まりました。ヘロデは異母兄弟ピリポの妻ヘロデヤを奪い取って自分の妻にしました。バプテスマのヨハネがその不道徳性について指摘しましたが、当時ヨハネはユダヤ社会全体から尊敬を受けていたので、ヘロデは世論を意識していました。   ところでそれに恨みを抱いたのは、ヘロデよりヘロデの妻、ヘロデヤでした。つまり、ヘロデが弟の妻を奪ったということは、正しい表現ですが、一方ヘロデヤが夫を捨てて、より大きな権力を持つヘロデを誘惑したことでもあります。ヘロデの単独犯罪ではなく、貪欲を追い求めていた者たちの共同犯罪です。   誕生日の宴会でヘロデヤの娘サロメが踊り、お酒に酔ったヘロデは、サロメが望む願いを聞いてあげると約束します。バプテスマヨハネに恨みをもっていたヘロデヤは、娘にバプテスマヨハネの首を盆に載せて自分に持たせるような願いを言わせるです。そんな恐ろしい話しはそのまま実現されます。誰よりも真実であった預言者ヨハネは、誰よりも卑怯で醜い罪によってあっけなく殺されてしまいます。   私たちは、権力が支配する現実に住んでいて、権力はさまざまです。政治、宗教、経済、言論、さらには文化に至るまで権力は支配の秩序をつくります。人間が社会を構成して生きる限り、権力は常に存在するものです。すべての権力は人間の権利を守るために、神様によって委任された権限でありますが、権力というのは、その属性上に早いスピードで腐敗し、隣人の尊厳を脅かし、権力者自身を滅ぼすことができる危険なものになってきます。   ですから、信仰というのは権力が人を不義に支配し、神様の秩序に逆う構造について批判的に抵抗しなければなりません。バプテスマヨハネは、信仰の良心にうえ、それをしなければならなかったがゆえに殺されました。バプテスマヨハネは、新約聖書で紹介されていますが、十字架を基点にすると、ヨハネこそが旧約聖書の最後の預言者です。ヨハネが来たのは、キリストの道を備えるためであって、その純粋さと真正性を守るために犠牲になったのです。   カラヴァッジオ「バプテスマヨハネの斬首」という作品は、バプテスマのヨハネの首が切られ、すでに血を流していますが、軍兵の剣には血が付いていません。ヨハネは死にましたが、悪が信仰を殺したのではないということを言いたかったのでしょうか?罪が人を殺すことはできても、信仰を殺すこと、真実を殺すことはできません。信仰が恐れるべきことは、世の力ではなく、神様の言葉を変え、妥協してしまう卑怯ではないでしょうか。   この作品には、作家のサインがなかったでしたが、1950年に復元する際に元のサインがあらわれたそうです。カラヴァッジオは地面に流したヨハネの血を描いたその筆で、その流した血のそばに自分のサインをしました。カラヴァッジオは自分の信仰と自分の不完全な人格の間でさまよった人でしたが、バプテスマのヨハネの流した血に署名したということは、彼に信仰に何かの決断があったのではないでしょうか。私からはバプテスマのヨハネは遠く、カラヴァッジオから学びます。

마태복음 QT31 20210216화【세례요한의 죽음】마태 14장 1~12

마태 14장 1~1214:1 그 때에 분봉왕 헤롯이 예수의 소문을 듣고14:2 그 신하들에게 이르되 이는 세례요한이라 저가 죽은 자 가운데서 살아났으니 그러므로 이런 권능이 그 속에서 운동하는도다 하더라14:3 전에 헤롯이 그 동생 빌립의 아내 헤로디아의 일로 요한을 잡아 결박하여 옥에 가두었으니14:4 이는 요한이 헤롯에게 말하되 당신이 그 여자를 취한 것이 옳지 않다 하였음이라14:5 헤롯이 요한을 죽이려…

マタイによる福音書 QT30 20210215月【天の御国の弟子となった学者】マタイ 13章 44~58

マタイ 13章 44~5813:44 天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。13:47 また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。13:48 網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。13:51 あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」彼らは「はい」と言った。13:52 そこでイエスは言われた。「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」13:53 イエスはこれらのたとえを話し終えると、そこを立ち去り、13:54 ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。13:55 この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。それなら、この人はこれらのものをみな、どこから得たのだろう。」13:57 こうして彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさらなかった。   「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです。」学者とは、律法の解釈の教育を受けた教師を言います。彼らは知識人で厳格な基準のもとで聖書を筆写して御言葉を保全し、継承するつとめをしました。そのような働きがあって、私たちの手に聖書が与えられたことでもあります。   しかし、イエス様の時代の律法学者は、律法を知的に独占して既得権のための恣意的な解釈をすることによって形式主義に偏っていました。選民意識という優越感に陥ると、伝統や習慣をも絶対的な経典してしまうのです。信仰の中で最も恐ろしいの信仰は、信じたいことだけを信じ込むることです。   正当に解釈されていない神様の御言葉は時代において宗教的な信念となり、宗教の変質と堕落の土壌になります。自分を徹底に否定し、神様の御言葉に従う人がいれば、すべてを否定し、自分が信じたいことだけを信じ込む人もいます。無知は学べる機会がありますが、独善的な信念は学びません。当時、イエス様の御怒りを買ったのは後者でした。   今朝の本文には、イエス様のいくつかの比喩が一挙に紹介されていて、どこに目を置けばよいか分かりませんが、共通点を探してみると「分別力」です。52節に比喩が終わって「天の御国の弟子となった学者」という表現が出てきます。律法を学んだ律法学者がイエス様の指摘と教えを聞いて職務の本質を回復するならば、それがすなわち「天の御国の弟子となった学者」であります。   イエス様は、天の御国の弟子となった学者とは「自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです」と言われました。農家には倉があります。倉には、1年間食べる食糧があります。新穀を収穫して倉にいれると、以前のものは古いものになります。豊作であればあるほど倉庫管理はさらに大切になります。   新しものと古いものを回転せずに新しいものばかり出して古いものを倉の奥深くに保管すると古いものはついに食べられなくなります。逆に食糧を回転させるということで新しいものは保管し、古いものばかり出すことも愚かなことです。倉の主人には新しいものと古いものを適切に調節して供給するような経営能力が必要です。   古いものは律法学者が当然知っている律法の旧約的理解であり、新しいものは、イエス様の御言葉と十字架を通して啓示された新約的解釈です。いずれかを廃棄するようなことではなく、いずれかにこだわるようなことでもありません。旧約の理解と律法の意図が分からなければ、十字架の理由も分かりません。   神様の愛が知らなけらば、律法はと思弁と抑圧に流れ、神様の御言葉を知らなければ、十字架は非知性と神秘主義に流れます。律法が求める人間らしさには従いますが、人間性を否定する律法主義は拒否すべきです。同時に十字架の恵みをいただきますが、それが支払った対価を覚え、罪と戦うのです。十字架と律法は対立しません。十字架は律法を完成するものだからです。  

마태복음 QT30 20210215월【천국의 제자된 서기관】마태 13장 44~58

마태 13장 44~5813:44 천국은 마치 밭에 감추인 보화와 같으니 사람이 이를 발견한 후 숨겨 두고 기뻐하여 돌아가서 자기의 소유를 다 팔아 그 밭을 샀느니라13:45 또 천국은 마치 좋은 진주를 구하는 장사와 같으니13:46 극히 값진 진주 하나를 만나매 가서 자기의 소유를 다 팔아 그 진주를 샀느니라13:47 또 천국은 마치 바다에 치고 각종 물고기를 모는 그물과 같으니13:48…

マタイによる福音書 QT29 20210213土【毒麦の例え話】マタイ 13章 18~30

マタイ 13章 18~3013:18 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。13:19 だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。13:20 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。13:21 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。13:22 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。13:23 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は次のようにたとえられます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。13:25 ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。13:26 麦が芽を出し実ったとき、毒麦も現れた。13:27 それで、しもべたちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い麦を蒔かれたのではなかったでしょうか。どうして毒麦が生えたのでしょう。』13:28 主人は言った。『敵がしたことだ。』すると、しもべたちは言った。『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』13:29 しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。13:30 だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」   小さい毒麦は小麦となかなか区別できないものですが、伸びていくうちに小麦より大きくなり、色も変わるので、すぐに識別できるようになります。毒麦も実を結びますが、その実には毒性があり、食べると嘔吐と下痢とめまいを起こします。小麦のふりをしますが、毒を含むにせ者が混ざっているということです。引き抜けば簡単ですが、小さいときは、区分できないから小麦と間違って抜いてしまう恐れがあり、すでに大きくなった毒麦の場合は、根が他の小麦の根と絡み合っているから抜くときに小麦の根もついて抜かれるのが問題です。   そういうことで、イエス様は、毒麦を引き抜かずに収穫まで両方とも育つままにしておきなさいと言われました。毒麦をなくしたいというしもべの情熱を拒まれたのです。毒麦を生かしたいとか、毒麦を許可するということではありません。毒麦の根に絡まっている小麦を収穫するまで保護するためです。毒麦は抜いてしまえばきれいになりますが、一緒に抜かれるかもしれない弱い小麦を心配されておられるのです。しもべは白黒はっきりさせたい論理で、善と悪を両分しようとしますが、主人はそれらが及ぼす影響について細かいところまで考えておられます。主人は、毒麦を抜かず収穫の時を待って、そのときに区別して燃やすことになります。   当時、罪人と一緒に過ごされたイエス様の開放性というのは特別なものでした。共同体は多様に構成されます。その中には種まきのたとえ話しのようにさまざまな有り様が存在します。共同体の中には当然に不純な意図、不信仰が含まれていることがあります。偽善と霊的なさまたげが混在しているのです。しかし、しもべは主人の代わりにさばくことはありません。羊飼いが九十九匹の羊を残して失われた一匹の羊を探しに出かけるように、主人は犠牲されるものに対して細かい権利の保護をされます。しもべの潔癖症的な熱心が小麦を抜いてしまう間違いをするならば、かえって毒麦を置いたままに共存させるということです。   神様は教会に多くのことを委任してくださいましたが、審判の権限は与えられていません。教会は罪人を受け入れることが役割です。ドイツの神学者エレミヤスは、これを「共同体に求められる忍耐の警告」と解釈しました。さばきは最後の収穫の時に、神様がなさることです。その日にさばかれる毒麦はしもべの目に見えた毒麦ではないかもしれません。鎌を持って毒麦を処断したのもその日には毒麦で判明されるかもしれません。もちろん毒麦にだまされず、分別し生きるべきです。同時に成熟していく穀物であることを願います。  

마태복음 QT29 20210213토【가라지 비유】마태 13장18~30

마태 13장 18~3013:18 그런즉 씨 뿌리는 비유를 들으라13:19 아무나 천국 말씀을 듣고 깨닫지 못할 때는 악한 자가 와서 그 마음에 뿌리운 것을 빼앗나니 이는 곧 길가에 뿌리운 자요13:20 돌밭에 뿌리웠다는 것은 말씀을 듣고 즉시 기쁨으로 받되13:21 그 속에 뿌리가 없어 잠시 견디다가 말씀을 인하여 환난이나 핍박이 일어나는 때에는 곧 넘어지는 자요13:22 가시떨기에 뿌리웠다는 것은 말씀을…

マタイによる福音書 QT28 20210212金【種を抱いた良い地】マタイ 13章 1~17

マタイ 13章 1~1713:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。13:2 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。13:3 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。13:4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。13:5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。13:8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。13:9 耳のある者は聞きなさい。」13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。13:11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。13:12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。13:14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。13:15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。13:17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。   種を蒔く人が種を蒔きましたが、それぞれ道端、土の薄い岩地、茨の間、そして良い地に種が落ちました。道端に落ちた種は鳥が来て食べれしまい、土の薄い岩地に落ちた種は芽を出しましたが日が昇ると枯れてしまい、茨の間に落ちた種は、茨が伸びてふさいでしまいました。しかし良い地に落ちた種は実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になりました。19節以下を読んでみると、道端の種は言葉を悟らない者であり、土の薄い岩地の種は言葉を聞くことでしばらくの喜びがありますが、言葉によって試練や迫害にあうとすぐ倒れる者であり、茨の間の種は世の心配と富の誘惑につまづき結実しない者であります。良い地の種は言葉を聞いて悟る人です。   木を植えるのではなく、ランダムに種をまきます。蒔く者は蒔くだけです。種や種まきが土を変えることはできません。地はそれぞれ違う結果を出します。ある種は、実を結ばずそのまま消えることもあります。良い地に行って蒔けばいいと思われますが、この例え話で地は区別されていません。蒔いたところ、それぞれ道端、土の薄い岩地、茨の間、そして良い地に落ちました。ですから地というのは一つの空間の中に混在しています。誰かが道端であって、誰かが良い地であるのではなく、一人の中に、それぞれの心があるのです。聞こえる人と聞こえない人がいるのではなく、聞こえる時と聞こえない時があります。ただし、最終の評価は、実を結ぶことを見て、それがどのような地だったのか分かります。   私たちは、百倍、六十倍、三倍の実ということを言うときにまるで奇跡を望んでいるかのように祈りますが、稲の場合、一本の稲から七つの穂が出て、さらに一本の穂からは100個の粒が実ります。ですから一本の稲から700個以上の米が結ばれるのです。それでもご飯を炊いて食べる時は一口にしかなりません。ですから種は発芽し、成長し、定められた時間を忍耐するだけで、やがて百倍、六十倍、三倍の実を結ぶことは、過度の期待ではありません。安全な畑に蒔かれ、成長していくうちに、時には風雨を当たっても、それが力になって実を結ぶのです。種の中にある命の力があるからです。御言葉を抱いた良い地の心をもって新しい春を迎えたいです。  

마태복음 QT28 20210212금【씨를 품은 좋은 밭】마태 13장1~17

마태 13장 1~1713:1 그 날에 예수께서 집에서 나가사 바닷가에 앉으시매13:2 큰 무리가 그에게로 모여 들거늘 예수께서 배에 올라가 앉으시고 온 무리는 해변에 섰더니13:3 예수께서 비유로 여러가지를 저희에게 말씀하여 가라사대 씨를 뿌리는 자가 뿌리러 나가서13:4 뿌릴쌔 더러는 길 가에 떨어지매 새들이 와서 먹어버렸고13:5 더러는 흙이 얇은 돌밭에 떨어지매 흙이 깊지 아니하므로 곧 싹이 나오나13:6 해가 돋은…