マタイによる福音書 QT22 20210205金【拒絶される福音】マタイ 10章 16~33

マタイ 10章 16~3310:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。   イエス様は福音伝道者が世の反対にぶつかり、迫害を受けることを予告されます。福音の働きのために公会議で裁かれ、会堂でむち打たれ、総督と王たちの前に連れて行かれます。これが阿鼻叫喚となり、兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。恐ろしい預言です。   イエス様が言われているのは、福音のための苦しみます。歴史の中でその預言は成就され、また今もなお達成されているところです。キリスト教の信仰は、迫害という危機を迎えるたびに、福音の生命力がよみがえてくる神秘的な宗教でした。苦難を受けるたびに、信仰の本質が回復します。確かに苦難の予告は恐ろしいものですが、福音はそのような環境の中で生きていて救いの活動をします。   ところが、危機と苦難が消え、教会が社会の位置を獲得し始めると教会は力を失い、世俗化してしまいます。社会の中で生きなければならない教会が社会的信頼を失ってしまえば、教会の居場所もなくなります。それは福音のための苦しみではなく、偽の福音がもたらす世の拒絶です。宣教は、天国でするのではなく、この地においてしなければならないことだからです。地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。   福音を言うために何から始めれば福音の意味を伝えることができるでしょうか?病気の体の癒しと日常の必要が満たされる祝福を言ってみても、福音の恵みは届かず、かえって誤解されてしまいます。それによって福音を理解した人は、再び病み、乏しみ、困難にあえば離れてしまいます。しかし、福音は、そのような人と神様をつなげる恵みです。   伝道者が福音を語るためには、目に見える祝福を言う前に隠されている罪を言葉で言わなければなりません。救いは、罪からの救いだからです。罪を認識し、自覚していない人の福音はまだ福音がありません。ですから罪を指摘する福音は世によって憎まれ、また世の道徳基準をもっていない教会は、世によって拒絶されるのです。   福音を伝えることは、罪を告発し、非難するためではありません。福音は赦しを語っています。罪を知らないので当然赦しを受けいれる必要もありません。ということで福音は、今日も拒絶されます。イエス様は赦しのために十字架につけられましたが、それのために憎まれました。そのように、十字架の福音を伝えば、それのために嫌われるのです。しかし、赦された罪人の共同体は、それに負けず、それに恐れず、福音を告白し、宣言していきます。  

마태복음 QT22 20210205금【거절당하는 복음】마태 10장 16~33

마태 10장 16~3310:16 보라 내가 너희를 보냄이 양을 이리 가운데 보냄과 같도다 그러므로 너희는 뱀 같이 지혜롭고 비둘기 같이 순결하라10:17 사람들을 삼가라 저희가 너희를 공회에 넘겨 주겠고 저희 회당에서 채찍질하리라10:18 또 너희가 나를 인하여 총독들과 임금들 앞에 끌려 가리니 이는 저희와 이방인들에게 증거가 되게 하려 하심이라10:19 너희를 넘겨줄 때에 어떻게 또는 무엇을 말할까 염려치 말라…

マタイによる福音書 QT21 20210204木【伝道者のアイデンティティ】マタイ 10章 1~15

マタイ 10章 1~1510:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。   イエス様は十二弟子を派遣しながら伝道者のアイデンティティについて言われます。宣教において伝道者は主語ではありません。伝道の主体は聖霊様です。大学生伝道の情熱を持っていたキャンパス・クルセードが伝道について教える「成功的な伝道とは、聖霊の力の中で、キリストのみを伝え、その結果は神様に委ねること」としました。そうであれば、伝道者に与えられた使命は、結果を恐れずに伝え続けることです。伝道の愚かさ、すなわち、誰かの口から誰かの耳に渡っていかなければありません。   宣教の問題は、伝道をしても人々が信じないことではなく、そのような理由と言い訳を並べて何も伝えないことです。たましいを救うのは神様がなさることです。伝道者には伝える責任があるだけです。福音を伝えなければ罪はそのまま残り続けます。赦しの唯一の情報が配信されないからです。伝えると言っても皆がそれを聴いて信じるのではありませんが、伝えなければ救いは起こりません。自分の信仰を確かめたいと思ったら伝道をすべきです。伝道の言葉を口にしてみると、自分が何をどのように信じているかが明確に分かります。   公教会の聖徒が共有する一般的宣教論は必ずありますが、それぞれの地域と時代に与えられた宣教の有り様と形は、皆がそれぞれ異ります。伝道者はそれを悩まなければなりません。自分が置かれた地域と時代、神学的考察なしに、誰かが考案した教会成長セミナーなどに頼ることは意味のないことです。自分だけに与えられた状況と賜物をそのマニュアルが知るはずがありません。各自に与えられた宣教があります。それを見つけて従うのです。それに必要な人と財政は宣教の主体である神様が供給します。   ですから対象と方法などの具体的なことについては宣教の主体に聞き頼る必要があります。そのような脈絡で、イエス様は弟子たちに、伝道の範囲を制限し、さらに宣教に必要な財政の主権をも持って送られます。イエス様は宣教が始まる時に財布にお金を持たないようにとしました。信仰がないか、従われない場合は、この段階で離れていきます。お金がなくて座り込みます。神様が財政の主であるということを経験した人は分かります。お金があったからできるのではなく、始めるとお金がまかなわれること、神はそのような信仰を求められます。   お金の必要は現実的に常に切実なものです。宣教も財政が必要です。しかし、それが宣教の主体になることはできません。お金は信仰の真正性が確認された後にきます。伝道者は財政に頼ってはいけない、また、財政の不足のためにアイデンティティと誇りを忘れてしまってもいけません。何ごとにおいても正当な補償があることが神様の原則です。財政の必要が貪欲につながってはならないし、献身が欠乏の理由になってもいけません。財政から神様に出会うことが出来なかったら財政が常に神の座を占めようとするはずです。  

마태복음 QT21 20210204목【전도자의 정체성】마태 10장 1~15

마태 10장 1~1510:1 예수께서 그 열 두 제자를 부르사 더러운 귀신을 쫓아내며 모든 병과 모든 약한 것을 고치는 권능을 주시니라10:2 열 두 사도의 이름은 이러하니 베드로라 하는 시몬을 비롯하여 그의 형제 안드레와 세베대의 아들 야고보와 그의 형제 요한,10:3 빌립과 바돌로매, 도마와 세리 마태, 알패오의 아들 야고보와 다대오,10:4 가나안인 시몬과 및 가룟 유다 곧 예수를 판…

マタイによる福音書 QT20 20210203水【祈るべき働き人】マタイ 9章 27~38

マタイ 9章 27~389:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。9:30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。9:31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。9:32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。9:33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。9:35 それからイエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やされた。9:36 また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。9:37 そこでイエスは弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。9:38 だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」   目の見えない人は視覚障害者です。そして口のきけない人は言語障害者でありますが、話せない言語障害は、多くの場合に聴けない聴覚障害を伴います。聴覚に障害があるため聴いたことがありません。だから言語を学べません。イエス様は目の見えない人をいやして見えるよにし、口のきけない人をいやし、聴けるようにしてくださいました。   世界はあるが、目に見えず、音はあるが、聞こえず、口はあるが、表現ができなかったのは、世界がなかったも同然です。見えなく、聞えなく、言えないようにしたのは、その中に入っていた悪霊であると言います。イエス様がそれを追い出し、目と耳と口を開けてくださって見える、聴ける、言えるよいうにしてくださったのは天地創造のような恵みです。目の見えない人と口のきけない人はこれで新しく生まれ変われました。   おそらくマタイがイエス様を訪ねてきた障害者を順番に紹介しているのではないと思います。目の見えない人、口のきけない人の治癒の本質は、身体障害の治療ではありません。視覚認知の能力はあるが、実体が見られない人、聴覚能力はあるが、聞くべきことが聞けない人、言語能力はあるが、言うべきことを言えない人です。これこそが目の見えない人であって、口のきけない人です。   イエス様がともにおられても、それを見ることができない人が目の見えない人であり、神様が言われても聞こえない人が耳の聞こえない人です。神様のなさることを見たことがなく、聞いたことがなく、経験したことがないから、証しができません。その名をほめたたえることができない人が口のきけない人です。   毎朝QTの解説や黙想を書いていますが、御言葉を見ても見えず、聞いても聞こえない時が多いです。意味が分からないから話すことも書くこともできません。目で読むことでわきまえるのではなく、耳に聞こえることだけが真実なわけではなく、口で言うからといって証しになるのではありません。目の見えない人が目の見えない人を導くことはできないと言われたとおり、目に見えないのに先をたどっているのは堪え難いことです。   障害を癒されたイエス様は、見えず、聞こえず、言わない民たちを羊飼いのいない羊のようにあわれみました。そして収穫は多いが、働き人が少ないので収穫する働き人のために祈るようにとされました。収穫する働き人が何をすべきなのかは明らかになりました。   今日の教会は、改革の時を迎えています。改革という時代のニーズに答えなければ、社会の中の宗教団体としての教会は滅びます。この時代の教会に送ってくださるべき神様の働き人、すなわちすべてのクリスチャンが準備し、訓練しなければならすることは、神様の目で世界を見る世界観(Worldview)を持って、読み(Reading)、聞き(Listening)、語り(Speaking)、書く(Writing)ことです。

마태복음 QT20 20210203수【기도해야 할 일꾼】마태 9장 27~38

마태 9장 27~389:27 예수께서 거기서 떠나 가실쌔 두 소경이 따라 오며 소리질러 가로되 다윗의 자손이여 우리를 불쌍히 여기소서 하더니9:28 예수께서 집에 들어가시매 소경들이 나아오거늘 예수께서 이르시되 내가 능히 이 일 할 줄을 믿느냐 대답하되 주여 그러하오이다 하니9:29 이에 예수께서 저희 눈을 만지시며 가라사대 너희 믿음대로 되라 하신대9:30 그 눈들이 밝아진지라 예수께서 엄히 경계하시되 삼가 아무에게도…

マタイによる福音書 QT19 20210202火【娘よ】マタイ 9章 14~26

マタイ 9章 14~269:14 それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。9:15 イエスは彼らに言われた。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、悲しむことができるでしょうか。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。そのときには断食をします。9:16 だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんな継ぎ切れは衣を引き裂き、破れがもっとひどくなるからです。9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、一人の会堂司が来てひれ伏し、「私の娘が今、死にました。でも、おいでになって娘の上に手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」と言った。9:19 そこでイエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも従った。9:20 すると見よ。十二年の間長血をわずらっている女の人が、イエスのうしろから近づいて、その衣の房に触れた。9:21 「この方の衣に触れさえすれば、私は救われる」と心のうちで考えたからである。9:22 イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。9:23 イエスは会堂司の家に着き、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、9:24 「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。9:25 群衆が外に出されると、イエスは中に入り、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。9:26 この話はその地方全体に広まった。   イエス様は、一人の会堂司の娘を死から救い、長血をわずらっている一人の女性を病気から癒してくださいます。ルカによれば会堂司の名前はヤイロで、死んだ娘は十二歳の少女です。このマタイに記述では、娘がすでに死んでいて父ヤイロがイエス様に行ったときの願いは娘を生き返らせてくださいということでしだが、ルカとマルコを読んでみると、ヤイロがイエス様を訪れた時点に娘はまだ生きていて、ただ危篤な状態であったのです。ルカとマルコにはヤイロがイエス様に助けを求めたことによってイエス様がヤイロの家に向かって行く道に娘が死んだことになっています。そういうことでイエス様を連れていくヤイロはイエス様を急かしていました。   しかし、イエス様は弟子たちと従っている群衆が大勢いましたので、移動に時間がかかりました。イエス様がヤイロの家に行く道の上で、もう一人の病人に会います。ということで時間はより遅れてしまいます。この病人も名前はわかりません。ただ「長血をわずらっている女」と呼ばれるだけです。一人は12歳の少女で、もう一人は12年間を長血と闘病した中年の女性です。二人とも悲しいです。12歳で死んだ少女は若くて悲しく、12年間病気をした人は、その苦しみを覚えて悲しいです。長血といった病気は下血が止まらない婦人病です。当時イスラエル人はこの病気を不正な病気だと定め、この女性を追いだし、差別していました。   マルコによれば、医者に長い期間治療を受けましたが治らず、お金も使い果たしてしまったとのことです。彼女は健康も家族も経済力もありませんでした。そんなある日、イエス様の衣も触れるさえすれば癒されるという信仰を持ってイエス様近づき、衣に触れました。イエス様はその場に止まって衣を触れた女性を探しました。女性は罪人のように恐れながらイエス様の前に出てきました。皆が注目している中、彼女はみすぼらしく、恥ずかしい姿で立っていたのです。おそらく彼女の衣にはあちこちと血痕が付いていたのではないでしょうか。   ヤイロは自分の娘のためにイエス様を促しました。それを見ていた長血をわずらっている女性は恥じとともに恨めしく悲しみを感じたかもしれません。今は中年となり、病気にかかって寂しくなりまそたが、自分にも父という存在がいたごろがあります。娘を心配しているヤイロを見ながら、自分のお父さんを思い出したかもしれません。でも今は頼るべきパパはいません。   死にかかっている娘を生かしたいと願う父ヤイロはと、年を重ね、お父さんをなくし、病にわずらっている女性、その間に立っておられたイエス様がこの女性を呼びかけます。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。22」イエス様はいかに思慮深い方ですか?「娘」と呼んでくださいました。救われたということは、癒されたということですが、「救い」よりも「娘」という言葉に感動します。体の中の病気だけではなく、心の悲しみをも知っておられました。イエス様は心も一緒に救ってくださったのではないでしょうか。   ヤイロに必ず生かさなければならない大切な娘がいたように、イエス様も、必ず生かしてあげなければならない寂しい娘がいたのです。その後、イエス様はヤイロの家に入り、すでに死んでいた少女に「タリタ、クム!」生きかえらせたてくださいます。ということで十二歳の少女は死から救られ、生き帰ってきた娘のゆえに父は救われ、十二年を苦労した女性は、病気の苦しみから救われましたた。22節の「しっかりしなさい」は「安心しなさい」という意味です。イエス様の衣にさえ触れれば、という信仰をもっていれば「安心」です。

마태복음 QT19 20210202화【딸아 안심하라】마태 9장 14~26

마태 9장 14~269:14 그 때에 요한의 제자들이 예수께 나아와 가로되 우리와 바리새인들은 금식하는데 어찌하여 당신의 제자들은 금식하지 아니하나이까9:15 예수께서 저희에게 이르시되 혼인집 손님들이 신랑과 함께 있을 동안에 슬퍼할 수 있느뇨 그러나 신랑을 빼앗길 날이 이르리니 그 때에는 금식할 것이니라9:16 생베 조각을 낡은 옷에 붙이는 자가 없나니 이는 기운 것이 그 옷을 당기어 해어짐이 더하게 됨이요9:17…

マタイによる福音書 QT18 20210201月【罪人を招くために】マタイ 9章 1~13

マタイ 9章 1~139:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。9:2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。9:3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒瀆している」と言った。9:4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。9:6 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。9:7 すると彼は起き上がり、家に帰った。9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」   個人的に好きな「カラヴァッジョが描いたマタイを召し(The Calling of Saint Matthew)という作品は、実物サイズの大作です。イエス様が収税所に座っていたマタイを召されるとき、室内は暗く、イエス様の上から小さな光が入ります。イエス様は手を挙げてマタイを呼び出します。   その様子は、堂々としてると同時に密かな雰囲気です。何の説明もなく呼ばれるのはきょとんとするものですが、だからといって、すべての人にその召しが聞こえ、答えることはできないため、ひそかなコーリングです。驚いた人は、マタイの一人しかいなかったです。マタイは驚き、自分の指で自分を指しながら召しを確認します。   イエス様がマタイを呼んでいる時、仲間の二人は頭を下げたままお金を数えることに集中しています。もう二人は、イエス様が来られたことは見ましたが、何の関心もありません。マタイは起き上がり忽然とイエス様に従いました。   この人が今読んでいるマタイの福音書を書いたマタイです。自分にとっては召命の証しでもあるもので、その経緯についてよく知っているh図ですが、説明を付け加えているわけではありません。「マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」イエスが訪ねてくださり、召してくださった。それに従った事以外は言いたいことがなかったかもしれません。   マタイの記録をさかのぼっていけば、イエス様はマタイの呼ぶ前に中風で体が麻痺していた病人を癒しました。ですが、中風の人を病から救ったのではなく、罪から救ったとされました。   それから罪人と取税人と一緒に食事をしましたが、律法には罪の赦しを宣言したのは神聖冒涜であり、罪人と取税人と一緒に食事することも非難されるべきことです。それに対してイエス様は、患者がいるから医師がいるのだと言われ、罪があるからその赦しのために来られたということを言われます。   マタイが言いたいことは、中風の人の治療でもなく、自分の召しもありません。キリストによる罪の赦しです。病と死、憎悪と貪欲は罪が生み出す悲劇です。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。13」これはホセアの引用です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」キリストが来られ、病気の苦しみから、また貪欲と無知から救ってくださったのは、罪から救い出すためです。

마태복음 QT18 20210201월【죄인을 부르러 왔노라】마태 9장 1~13

마태 9장 1~139:1 예수께서 배에 오르사 건너가 본 동네에 이르시니9:2 침상에 누운 중풍병자를 사람들이 데리고 오거늘 예수께서 저희의 믿음을 보시고 중풍병자에게 이르시되 소자야 안심하라 네 죄 사함을 받았느니라9:3 어떤 서기관들이 속으로 이르되 이 사람이 참람하도다9:4 예수께서 그 생각을 아시고 가라사대 너희가 어찌하여 마음에 악한 생각을 하느냐9:5 네 죄 사함을 받았느니라 하는 말과 일어나 걸어가라 하는…