Ⅰペテロ 黙想 【従順の対象】 20240604(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰペテロ 2:11~252:11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。2:13 人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、2:14 あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。2:15 善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。2:16 自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。2:17 すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。2:18 しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。2:19 もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。2:20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。2:21 このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。2:24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。2:25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。   ペテロは聖徒たちに世の権威に従うように言っています。聖徒とは律法から自由になった人ですが、それを放縦の機会にせずに仕えるしもべになることを言っています。それが神様の中にある自由です。ペテロが語る神様を恐れるということは、宗教に従属していることではありません。王を敬い、目上の人を敬い、兄弟を愛し、被雇用者は雇用者に従うものの、自発の時だけでなく、自分に意地悪な主人に対しても最善を尽くして仕えることを言っています。   それは苦しまれましたがが、最後まで耐え忍び、従ったイエス様に従う信仰です。とはいえ、おとなしいから信仰の人になるわけではありません。善良な人をすなわち信仰の人とは言えませんが、信仰を証しするには善良でなければならず、信頼の関係を成さなければならないでしょう。聖徒を巡る周辺は必ずしも好意的ではありませんし、そのような状況の中で聖徒は自分を通して証しなければならないキリストのことを常に考えなければなりません。良い人だから信仰の人ではありませんが、信仰のためには悪くなってはいけませんし、無責任になることもできません。   本日も御言葉を読んでいますが、私たちは御言葉に従う人です。そして、神様の御言葉はそれぞれの状況と断絶されていることではありません。聖徒に与えられた状況があるから、与えられた御言葉を思い巡らします。このようなプロセスを主体的に行わない人に信仰は、神様のことも、状況のことも理解できなくなります。聖徒は状況に従わなければなりません。それは、否定的な状況にあきらめたり、妥協したりするという意味ではありません。   状況に従順するということは、与えられている状況を受け入れ、克服していくという意味です。与えられた状況を信仰をもって克服するためには、現実認識と自己否定は必ず伴わなければできません。神様に与えられた環境と状況の中で、神様の御旨に従い、すべてのことの主権者である神様のご計画と摂理を信じて歩むのです。聞き従う信仰とは観念的または受け身ではなく、実際的であり、積極的なものです。従順は臆病の人のものではなく、強い人のものです。  

베드로전서 묵상 【순종의 대상】 20240604(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

베드로전서 2:11~252:11 사랑하는 자들아 나그네와 행인같은 너희를 권하노니 영혼을 거스려 싸우는 육체의 정욕을 제어하라2:12 너희가 이방인 중에서 행실을 선하게 가져 너희를 악행한다고 비방하는 자들로 하여금 너희 선한 일을 보고 권고하시는 날에 하나님께 영광을 돌리게 하려 함이라2:13 인간에 세운 모든 제도를 주를 위하여 순복하되 혹은 위에 있는 왕이나2:14 혹은 악행하는 자를 징벌하고 선행하는 자를 포장하기 위하여…

Ⅰペテロ 黙想 【ペテロが手紙を書き送った理由】 20240603(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

Ⅰペテロ 1:22~2:101:22 あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。1:24 「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。1:25 しかし、主のことばは永遠に立つ」とあるからです。これが、あなたがたに福音として宣べ伝えられたことばです。2:1 ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。2:3 あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。2:5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。   ペテロはネロの迫害の時代に殉教しました。第一のペテロの手紙は迫害の時代を予感したペテロがアジアの聖徒たちに書き送った手紙です。したがって、福音の希望を確認させることが一次的な目的です。第一のペテロの手紙は生きる希望、生ける石と同時に聖い民、献身的な聖徒、キリストにならった苦難と覚悟について話し続けます。手紙の中には福音を語る教理的理解があるかと思えば、聖徒の覚悟と姿勢に向けたお願いがあります。 これは、どの書簡でも同じように現れる 2 つのポイントです。福音を雄弁すると同時に、聖徒の姿勢に対する求めがあります。   目的は福音と礼拝共同体を守るためです。使徒たちの一次的な関心は律法的人間像、道徳的で聖潔な宗教人を作ることではなく、第一は福音の明確な理解、第二は結束され、一致した教会共同体を立てることです。そのために聖徒の人格を求めなければならなかったのです。ペテロは律法主義の宗教の時代にイエス·キリストの福音を宣言し、迫害と受難の時代に一致した共同体を立てていかなければなりません。だから、いわゆる聖徒の聖化を一次的な目的で読むならば、ペテロが送った手紙の本来の意図を誤解することです。もちろん、聖徒の成熟と聖化の必要を否定するものではありません。しかし、それは教会が建てられた理由とその教会を守っていくために聖徒たちに願っていることであり、宗教のための目的ではありません。   苦難の時代に耐えられる最も重要な力は、信じることを明確にする信仰のアイデンティティです。 宗教性では苦難を乗り越えることができません。福音のアイデンティティが聖徒に耐えられる力を与え、その次に必要なのはそれを共有する共同体の一致と結束です。ペテロの切実な訴えはこのためのものです。いわゆる聖化の要求は目的ではなく、それを成し遂げていくために聖徒にあるべき共同体性、すなわち社会性です。危機の時代に福音の守護と教会共同体的一致のために忍耐と成熟が伴わなければならないのです。したがって、ペテロは危機の時代に福音を持った持続可能な共同体のための聖徒たちの成熟した相互配慮を訴えているところです。  

베드로전서 【베드로가 편지를 보낸 이유】 20240603(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

베드로전서 1:22~2:101:21 너희는 저를 죽은 자 가운데서 살리시고 영광을 주신 하나님을 그리스도로 말미암아 믿는 자니 너희 믿음과 소망이 하나님께 있게 하셨느니라1:22 너희가 진리를 순종함으로 너희 영혼을 깨끗하게 하여 거짓이 없이 형제를 사랑하기에 이르렀으니 마음으로 뜨겁게 피차 사랑하라1:23 너희가 거듭난 것이 썩어질 씨로 된 것이 아니요 썩지 아니할 씨로 된 것이니 하나님의 살아 있고 항상 있는…

ペテロの手紙第一 黙想 【中間地点】 20240601(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ペテロの手紙第一 1:1-9 1:1 イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、 1:2 父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。 1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。 1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。 1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。 1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、 1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。 1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。 1:9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。    いつの間にか2024年の中間地点、6月になりました。そろそろ今年の前半期を振り返り、後半期に備えながら、ある程度は今年のこれからの見込みが見えてくる時点ではないでしょうか。  6月がこのような中間地点であるように、今を生きていく私たちキリスト者には‘既に、しかし、まだ’という中間地点を生きていると表現します。しかし、これは私たちのように今後のことを予想する程度ではなく、すでに神様が決めておいた、必ずなされることの中間地点を意味しています。そして、その神様が、最後の時に私たちに行われることについて、御言葉を通して私たちに教えてくださっているのです。  一年の半分を過ぎて前半期を振り返ってみると、多くのことが見えてくるでしょう。よくできたこと、残念だったこと、嬉しかったり悲しかったり、単純に思い出として残るものではなく、これからの先の道に進まために方向を決め、踏み出していく原動力になってくれる記憶です。  私たちが生きている信仰の中間地点もそうです。単純に過去に起こった事件と、将来に起こる事件の間にある時間だけではありません。私たちはこの時点で決断しなければならないことがあります。それは、すでに行われたイエス·キリストの十字架と復活、そして、まだ来てない最後の日、神の国の到来の間で、イエス·キリストの十字架を振り返り、今後のことを確信すること、イエス·キリストの福音を信じることです。  私たちの信仰、私たちの救いは、ある瞬間、急に与えられたものではありません。以前から私たちを導き、今も私たちを導いておられ、これからも私たちを導いてくださる神様の良い計画の中で、その始まりから私たちに与えられるように予定されていたものです。  そのため、私たちは今直面している苦難の時の中でも倒れてしまい、絶望して神様に背くことなく、再び立ち上がることができるでしょう。神様が私たちをその計画の最後まで導いてくださるという約束が与えられているからです。  その日に私たちに与えられる称賛と誉れは、そのような苦難を私たちが賢く乗り切ったから、見事に解決したから与えられるものではありません。ただ予定された苦難の時を神様に対する信仰と希望をもって耐え忍んだこと、ただそれだけで私たちに与えられる称賛と誉れなのです。私たちがこれから備えなければならないことは、苦難に対処するための知識や知恵ではなく、苦難の時にも神様を求め、その時を耐え伸びるための信仰なのです。https://youtu.be/g6e8Ga8sjps?si=xWyr21VJPTJR_GEI

베드로전서 묵상 【중간지점】 20240601(토) 최종석 전도사

베드로전서 1:1-9 1:1 예수 그리스도의 사도 베드로는 본도, 갈라디아, 갑바도기아, 아시아와 비두니아에 흩어진 나그네 1:2 곧 하나님 아버지의 미리 아심을 따라 성령이 거룩하게 하심으로 순종하고 예수 그리스도의 피 뿌림을 얻기 위하여 택하심을 받은 자들에게 편지하노니 은혜와 평강이 너희에게 더욱 많을지어다 1:3 우리 주 예수 그리스도의 아버지 하나님을 찬송하리로다 그의 많으신 긍휼대로 예수 그리스도를 죽은 자…

I 列王記 【名の意味】 20240531(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

I 列王記 22:41-53 22:41 アサの子ヨシャファテがユダの王となったのは、イスラエルの王アハブの第四年であった。 22:42 ヨシャファテは三十五歳で王となり、エルサレムで二十五年間、王であった。その母の名はアズバといい、シルヒの娘であった。 22:43 彼はその父アサのすべての道に歩み、そこから外れることなく、主の目にかなうことを行った。しかし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。 22:44 ヨシャファテはイスラエルの王と友好関係を保っていた。 22:45 ヨシャファテについてのその他の事柄、彼が立てた功績とその戦績、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。 22:46 彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。 22:47 そのころ、エドムには王がなく、守護が王であった。 22:48 ヨシャファテはタルシシュの船団をつくり、金を得るためにオフィルに行こうとしたが、行けなかった。船団がエツヨン・ゲベルで難破したからである。 22:49 そのとき、アハブの子アハズヤはヨシャファテに、「私の家来をあなたの家来と一緒に船で行かせましょう」と言ったが、ヨシャファテは同意しなかった。 22:50 ヨシャファテは先祖とともに眠りにつき、先祖とともに父ダビデの町に葬られた。その子ヨラムが代わって王となった。 22:51 アハブの子アハズヤは、ユダの王ヨシャファテの第十七年にサマリアでイスラエルの王となり、二年間イスラエルの王であった。 22:52 彼は主の目に悪であることを行い、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させた、ネバテの子ヤロブアムの道に歩んだ。 22:53 彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行ったのと全く同じように行って、イスラエルの神、主の怒りを引き起こした。    南ユダの王アサの息子、ヨシャファテが父の後を継いで南ユダの王になりました。彼が行ったことは、彼の父親のように、神殿男娼を追い出し、ユダ王国を復興させようとしたことです。  一生を主の目にかなうことを行ったと聖書が評価しているアサ王、そんな彼は自分の息子の名を「ヨシャファテ」と名付けました。その意味は「主が裁く」という意味です。  私たちが見てきたアサ王の人生の汚点は二つに言えるでしょう。一つ目は偶像は除いたが、高き所は取り除かなかったこと、二つ目は国を守るためにアラムの王ベン・ハダドに贈り物を挙げ、助けを求めたことです。  そのような彼が名付けた息子の名、「主が裁く」という名は、自分が成し遂げられなかったこと、自分は見逃していたことに気づいて後悔しながら息子につけた名、自分の息子は同じ過ちを繰り返さないことを願う気持ちでつけたのではないでしょうか。  しかし、今日の箇所のヨシャファテの始まりは、彼の父親と全く同じの、神の目にかなうことを行ったが、高き所は取り除かず、国を強くするために以前ソロモン王が金を持ってきたオフィルへの交易路を立て直そうとしたことでした。  しかし神様はその事を許しませんでした。それは「主が裁く」からです。今日の箇所はヨシャファテについて短く扱っていますが、他の箇所、第二歴代誌では17章から20章にかけて彼の生涯を詳しく扱っています。そしてその始まり、17章1節はそれについて「イスラエルに対して勢力を増し加えた」と記しています。それは、自ら努力し、自分が持っているものを用いて成し遂げたものでした。  しかし、ヨシャファテの人生はそのような時の中でも、神様を求め、その道に歩んでいく人生でした。その結果17章5節では「主は、王国を彼の手によって確立された」と、国を強くする主体がヨシャファテから神様に変わったことを教えています。その後のことは、ヨシャファテの父親が果たせなかったこと、高き所を取り除くことが書かれています。  ヨシャファテの始まりは神様を頼りにしながらも、自分の力と能力をも頼りにする者でした。しかし、彼が神様を知り、神様を求めることで、裁く者は自分ではなく神様であるということに気づき、自分の名にふさわしい人生に変えられました。  それとは違い、イスラエルの王になったアハブの子アハズヤ、「主が捕まえる」という意味の前を持っている彼は、その名にふさわしい人生を生きることができず、その結果、神様はエリヤを通して彼に死を宣言するまで至りました。  この時代の私たちにも神様から与えられた名があります。それは「キリスト者」という名です。この名の由来は、イエスを信じる者たち、イエスを信じることで苦みを受ける愚かな者たちという皮肉です。  しかし、今の私たちに与えられているこのキリスト者という名、私たちはその名にふさわしい人生を生きているでしょうか。 もしかしたら、私たちはイエスを信じるということ、名前の意味の半分程度ふさわしく生きているのかもしれません。  今日の箇所のヨシャファテ、最初の彼の名は半分だけの名でした。しかし、神様を知り、経験し、御言葉を聞いていく中で、彼はその名にふさわしい者に成長し、変えられていきました。  キリスト者という名が、今の私たちにはぴったりの名ではないかもしれません。しかし、私たちがこの名を持って、日々神様と共に生きれば、神様は私たちをこの名にふさわしい者に、イエスを信じる信仰で苦みを受けることさえも厭わない信仰の人々に変えてくださるでしょう。https://youtu.be/AIvLEBfQ8J8?si=dOFFkdoe-ULCeYY2

열왕기상 묵상 【이름의 의미】 20240531(금) 최종석 전도사

열왕기상 22:41-53 22:41 이스라엘의 아합 왕 제사년에 아사의 아들 여호사밧이 유다의 왕이 되니 22:42 여호사밧이 왕이 될 때에 나이가 삼십오 세라 예루살렘에서 이십오 년 동안 다스리니라 그의 어머니의 이름은 아수바라 실히의 딸이더라 22:43 여호사밧이 그의 아버지 아사의 모든 길로 행하며 돌이키지 아니하고 여호와 앞에서 정직히 행하였으나 산당은 폐하지 아니하였으므로 백성이 아직도 산당에서 제사를 드리며 분향하였더라…

열왕기상 묵상 【아합지졸】 20240530(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

열왕기상 22:29~4022:29 이스라엘 왕과 유다 왕 여호사밧이 길르앗 라못으로 올라가니라22:30 이스라엘 왕이 여호사밧에게 이르되 나는 변장하고 군중으로 들어가려 하노니 당신은 왕복을 입으소서 하고 이스라엘 왕이 변장하고 군중으로 들어가니라22:31 아람 왕이 그 병거의 장관 삼십 이인에게 명하여 이르기를 너희는 작은 자나 큰 자나 더불어 싸우지 말고 오직 이스라엘 왕과 싸우라 한지라22:32 병거의 장관들이 여호사밧을 보고 이르되…

Ⅰ列王記 黙想 【アハブの死】 20240530(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

Ⅰ列王記 22:29~4022:29 イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。22:30 イスラエルの王はヨシャファテに言った。「私は変装して戦いに行きます。しかし、あなたは自分の王服を着ていてください。」イスラエルの王は変装して戦いに行った。22:31 アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たち三十二人に次のように命じた。「兵とも将軍とも戦うな。ただイスラエルの王だけを狙って戦え。」22:32 戦車隊長たちはヨシャファテを見つけたとき、「きっと、あれがイスラエルの王に違いない」と思ったので、彼の方に向きを変え、戦おうとした。ヨシャファテは助けを叫び求めた。22:33 戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知り、彼を追うことをやめて引き返した。22:34 そのとき、ある一人の兵士が何気なく弓を引くと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。王は自分の戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を陣営から出させてくれ。傷を負ってしまったから。」22:35 その日、戦いは激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中で立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血が戦車のくぼみに流れた。22:36 日没のころ、陣営の中に「それぞれ自分の町、自分の国へ帰れ」という叫び声が伝わった。22:37 王は死んでサマリアに運ばれた。人々はサマリアで王を葬った。22:38 それから戦車をサマリアの池で洗った。犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。22:39 アハブについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼が建てた象牙の家、彼が建てたすべての町、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。22:40 アハブは先祖とともに眠りにつき、その子アハズヤが代わって王となった。   アハブはミカヤの預言を無視して彼を獄に閉じ込めて戦場に出かけます。ミカヤの預言であれ、ゼデキヤの預言であれ、戦争に出る人には絶えず危険が伴います。意地を張って戦闘を強行しましたが、自ら恐れていたアハブは指揮官ではなく兵士の服装をして戦場に忍び込みます。アラム軍はアハブを探して殺そうと32の特殊組を運用しましたが、アハブを見つけることができずあきらめます。しかし、誰かが照準せずに撃った矢がアハブに飛んでいき、よりによってアハブの鎧の継ぎ目をかき分けて入り、アハブを刺しました。   人のことが人の思い通りになりません。生きようと兵士の服装をしましたが、生きることができず、殺そうと暗殺特殊戦を運用しましたが、アハブを殺すことはできませんでした。アハブはあっけなくも未熟な弓兵の誤射に撃たれ死にます。アハブにその矢に当たったのは神様が座標を計算されたからです。預言どおりなら、アハブが流した血を犬がなめることです。アハブは死んでサマリアに戻ってきます。アハプの死体を運んできた車に血がたまり、バアルに仕える遊女たちが身を洗う池にその車を洗う時、犬が来てアハプの血をなめました。   悪人の死を見るのも決して嬉しくはありません。神様がアハブを殺すことを望んだなら、ミカヤを送らなかっただろうし、アハブがミカヤの預言を聞いて戦争をやめたならば、アハブは死ななかったでしょう。ミカヤもそうです。アハブが死ぬことを願ったならば、嫌われてまで戦争に反対することはなかったでしょう。生かしたくてもついに死に向かう人があります。アハブの話しがこれだけ長いこと、また、神様がアハブに機会を与えていることは、神様に戻って来ることを待っている神様の心だったかもしれません。