マルコの福音書 黙想 【人生が導く責任】20240115(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 6:14~29 6:14 さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」6:15 ほかの人々は、「彼はエリヤだ」と言い、さらにほかの人々は、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていた。6:16 しかし、ヘロデはこれを聞いて言った。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」6:17 実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロディアのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。6:18 これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。6:19 ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、できずにいた。6:20 それは、ヨハネが正しい聖なる人だと知っていたヘロデが、彼を恐れて保護し、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていたからである。6:21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが自分の誕生日に、重臣や千人隊長、ガリラヤのおもだった人たちを招いて、祝宴を設けたときのことであった。6:22 ヘロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデや列席の人々を喜ばせた。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう」と言った。6:23 そして、「おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓った。6:24 そこで少女は出て行って、母親に言った。「何を願いましょうか。」すると母親は言った。「バプテスマのヨハネの首を。」6:25 少女はすぐに、王のところに急いで行って願った。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」6:26 王は非常に心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。6:27 そこで、すぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じた。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、6:28 その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女はそれを母親に渡した。6:29 このことを聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのであった。   イエス様が「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者はない」と評価されたバプテスマのヨハネはヘロディア母子によってあえなく死にました。ここでバプテスマのヨハネという人の生と死の意味について問わざるを得ませんでした。死というのは避けては通れないものであり、生きていた人の死を目撃した人は質問します。「この人が生きていたことの意味は何ですか?」と。ところが、そのような質問をする人と、その質問に答えようとする人はくせのように「目的」に沿って考えます。だから死者の生前の業績など並べますが、死の前ではかえってみすぼらしくなるだけです。もし成就したことがなかったり、失敗したなら、その人生は目的がなかったとか、目的に失敗したと言えるでしょうか。   一時『The Purpose Driven Life』という本が流行りました。私はその時も思いました。「ある目的のために人生の全存在を従属させることができるのだろうか?、一体その目的ということは何だろうか。」聖徒を宗教の道具にしたい扇動者は、人生の目的をよく言いますが、他人が言う自分の人生の目的ということは言い換えれば、自分の人生を道具したいということです。もちろん、人生には大小の責任がありますが、だからと言って責任が人生の目的であることでもありません。私の人生の目的は私が言うべきです。ただ、生きているということ、生きていくということこそ、代替不可能な人生の目的なのです。与えられた時間を生きることより重大な目的と使命はありません。すべての人には自分だけの物語があります。あえて人生の目的があるとすれば責任を持ってその物語を続けることです。   死というのは誰にでも見知らぬ姿で訪れます。バプテスマのヨハネは、予期せぬ死に、彼の物語だけが残っています。バプテスマのヨハネがイエス・キリストの道を備えたとしてバプテスマのヨハネの人生の目的がその役割にあるわけではありません。バプテスマのヨハネの人生が虚しかったり、死が悲惨ではないことは、神様がバプテスマのヨハネに定めた目的どおりに与えられた時間を生きたからです。人生の長さと終わり方は、人が決めることではありません。バプテスマのヨハネは、その間に責任を持って歩んだ人です。だからキリストの道を備えることができたのです。自分の人生に重さがない人は、神様の召しを重く受けとることはできません。人生という重大な目的のために自ら恥じのなし、責任ある生き方をしたいと願います。

마가복음 묵상 【삶이 이끄는 책임】 20240115(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 6:14~29 6:14 이에 예수의 이름이 드러난지라 헤롯왕이 듣고 가로되 이는 세례 요한이 죽은 자 가운데서 살아났도다 그러므로 이런 능력이 그 속에서 운동하느니라 하고6:15 어떤이는 이가 엘리야라 하고 또 어떤이는 이가 선지자니 옛 선지자 중의 하나와 같다 하되6:16 헤롯은 듣고 가로되 내가 목 베인 요한 그가 살아났다 하더라6:17 전에 헤롯이 자기가 동생 빌립의 아내 헤로디아에게…

マルコの福音書 黙想 【証し】20240113(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 5:21-43 5:21 イエスが再び舟で向こう岸に渡られると、大勢の群衆がみもとに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 5:22 すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、 5:23 こう懇願した。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」 5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に行かれた。すると大勢の群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。 5:25 そこに、十二年の間、長血をわずらっている女の人がいた。 5:26 彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた。 5:27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。 5:28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。 5:29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。 5:30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」 5:31 すると弟子たちはイエスに言った。「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っています。それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」 5:32 しかし、イエスは周囲を見回して、だれがさわったのかを知ろうとされた。 5:33 彼女は自分の身に起こったことを知り、恐れおののきながら進み出て、イエスの前にひれ伏し、真実をすべて話した。 5:34 イエスは彼女に言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」 5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」 5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 5:37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。 5:38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、 5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」 5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。 5:41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。 5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。 5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。  今日の箇所では「信仰」を強調してるようです。 長血をわずらっている女の人から会堂司ヤイロまで、イエスは彼らに信仰を求め、信仰を誉めました。 私たちも当然、常に信仰を強調し、そのために色々な努力をしていますが、イエス様が「ただ信じていなさい」と言われたように、常に揺るがずに信仰を守っていくことは不可能だと思われるほど大変なことです。そしたら、私たちはどうやってこの信仰を守り続けることができるのでしょうか。    今日の箇所には2つの事件が一緒に登場しています。 まずは会堂司ヤイロに頼まれて娘に会いに行くこと、そしてその道の上で起きた長血をわずらっている女の人が癒された事件です。 なぜ、会堂司ヤイロの頼みで行く途中、長血をわずらっている女の人が癒される事件があったのでしょうか。…

마가복음 묵상 【간증】 20231230(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 5:21-43 5:21 예수께서 배를 타시고 다시 맞은편으로 건너가시니 큰 무리가 그에게로 모이거늘 이에 바닷가에 계시더니 5:22 회당장 중의 하나인 야이로라 하는 이가 와서 예수를 보고 발 아래 엎드리어 5:23 간곡히 구하여 이르되 내 어린 딸이 죽게 되었사오니 오셔서 그 위에 손을 얹으사 그로 구원을 받아 살게 하소서 하거늘 5:24 이에 그와 함께 가실새 큰…

マルコの福音書 黙想 【恐れ】 20240112(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 5:1-20 5:1 こうして一行は、湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が、墓場から出て来てイエスを迎えた。 5:3 この人は墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、彼を縛っておくことができなかった。 5:4 彼はたびたび足かせと鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまい、だれにも彼を押さえることはできなかった。 5:5 それで、夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである。 5:6 彼は遠くからイエスを見つけ、走って来て拝した。 5:7 そして大声で叫んで言った。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。神によってお願いします。私を苦しめないでください。」 5:8 イエスが、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。 5:9 イエスが「おまえの名は何か」とお尋ねになると、彼は「私の名はレギオンです。私たちは大勢ですから」と言った。 5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでください、と懇願した。 5:11 ところで、そこの山腹では、おびただしい豚の群れが飼われていた。 5:12 彼らはイエスに懇願して言った。「私たちが豚に入れるように、豚の中に送ってください。」 5:13 イエスはそれを許された。そこで、汚れた霊どもは出て行って豚に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖へなだれ込み、その湖でおぼれて死んだ。 5:14 豚を飼っていた人たちは逃げ出して、町や里でこのことを伝えた。人々は、何が起こったのかを見ようとやって来た。 5:15 そしてイエスのところに来ると、悪霊につかれていた人、すなわち、レギオンを宿していた人が服を着て、正気に返って座っているのを見て、恐ろしくなった。 5:16 見ていた人たちは、悪霊につかれていた人に起こったことや豚のことを、人々に詳しく話して聞かせた。 5:17 すると人々はイエスに、この地方から出て行ってほしいと懇願した。 5:18 イエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人がお供させてほしいとイエスに願った。 5:19 しかし、イエスはお許しにならず、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」 5:20 それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったかを、デカポリス地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。  今日の箇所のイエス様は一人の体に入っていた多くの汚れた霊、「レギオン」と呼ばれる悪霊を追い出し、彼を自由にする内容が書いています。 これはきっとそのつかれた人にとっても、そこの村人にとっても良いことであだったはずです。 昼夜を問わず墓場や山で叫び続けていた悪例が立ち去っていったことで、町もさらに静かになったはずだからです。    しかし、このことを見て、聞いた村人たちの反応は私たちの考えとは少し違いました。 彼らはこのように悪霊を追い出したイエス様を一緒に地方から追い出す選択をしました。 彼らは悪霊と同じくらいに、もしかしたらその悪例よりもイエス様を恐れていたのです。    なぜ恐れていたのか明確にはわかりません。 聖書は彼らがただその姿を見て恐れていたと記録しています。 しかし、今日の箇所のすぐ前の内容から小さなヒントを得てみると、彼らはイエス様がどのような存在なのか知らなかったから恐れていたのかも知れません。 今日の箇所のすぐ前、4章の最後で弟子たちは風と海を静めるイエス様を見て「いったいこの方はどなたなのだろうか」と恐れていたからです。  …

마가복음 묵상 【두려움】 20240112(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 5:1-20 5:1 예수께서 바다 건너편 거라사인의 지방에 이르러 5:2 배에서 나오시매 곧 더러운 귀신 들린 사람이 무덤 사이에서 나와 예수를 만나니라 5:3 그 사람은 무덤 사이에 거처하는데 이제는 아무도 그를 쇠사슬로도 맬 수 없게 되었으니 5:4 이는 여러 번 고랑과 쇠사슬에 매였어도 쇠사슬을 끊고 고랑을 깨뜨렸음이러라 그리하여 아무도 그를 제어할 힘이 없는지라 5:5 밤낮 무덤 사이에서나 산에서나 늘 소리…

マルコの福音書 黙想 【からし種と水上歩行】20240111(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 4:30~41 4:30 またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、4:32 蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」4:33 イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。4:34 たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた。4:35 さてその日、夕方になって、イエスは弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われた。4:36 そこで弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたままお連れした。ほかの舟も一緒に行った。4:37 すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった。4:38 ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。4:39 イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。4:40 イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」4:41 彼らは非常に恐れて、互いに言った。「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」   今日の本文では2つの話があります。一つはからしの種の比喩で、もう一つは嵐を静めたイエス様の話です。からしの種は小さいですが、種の中には、すでに決まっている予定があり、計画されているDNAがあります。種が畑に落ち、雨が降り、日光を浴びると、そこから芽生え、大きな木となり、実が結ばれます。それは奇跡であると同時に明らかな現実です。植えると芽が出て木から実が結ぶということは日常にいつもある奇跡です。植物学者は植物の現象を研究し、その構造の秘密を見つけようとしますが、最も上位の原因というのは、神様の創造秩序です。   続いてイエス様が嵐を静めたエピソードが出てきます。これはイエス様が世の秩序と自然の法則の支配者であることを知らせるためです。からしの種の中に大きな木を成すDNAがあるということは、創造主が自然に秩序をお造りになったからであるように、イエス様が自然の法則を造られ、今も支配されているから御言葉で嵐を静めることができました。それを認め、信じることが知識であり、知恵です。その信仰があるこそ、世の中の現象を矛盾なく理解することができます。   イエス様は人々に比喩で教えました。比喩で教えられたのは、「考える機会を与えるため」です。答えを教えても答えは理解できず、その答えを覚えることもないからです。自分で考えなければなりません。考えると理解し、その知識と知恵を所有します。イエス様は嵐を静め、弟子たちはそれを目撃しました。見たことにとどまりません。「いったいこの方はどなたなのだろうか」と考えました。そして、それぞれの結論を出します。神秘を見たからではなく、告白したからです。告白できる人なら、人生に荒波がきても立ち向かうことができると思います。イエスの中にいるからです。

마가복음 묵상 【겨자나무와 수상보행】 20240111(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 4:30~41 4:30 또 가라사대 우리가 하나님의 나라를 어떻게 비하며 또 무슨 비유로 나타낼꼬4:31 겨자씨 한 알과 같으니 땅에 심길 때에는 땅위의 모든 씨보다 작은 것이로되4:32 심긴 후에는 자라서 모든 나물보다 커지며 큰 가지를 내니 공중의 새들이 그 그늘에 깃들일만큼 되느니라4:33 예수께서 이러한 많은 비유로 저희가 알아 들을 수 있는대로 말씀을 가르치시되4:34 비유가 아니면 말씀하지…

マルコの福音書 黙想 【聞く耳があるものだけ、聞きなさい】20240110(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 4:21~29 4:21 イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。4:22 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。4:23 聞く耳があるなら、聞きなさい。」4:24 また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。4:25 持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っているものまで取り上げられてしまうからです。」4:26 またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、4:27 夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。4:28 地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。4:29 実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」   「イエスはまた彼らに言われた。「明かりを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。21」灯りをつけると、それを隠したり、覆ったりせずに上に置いて光が照らすようにします。だからといって、この話をする時、聖徒に光になって光を照らすようにという意味で言われたことではありません。光があれば、それは必ず現れるようになるという真理について語られました。「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので、明らかにされないものはありません。22」真理なら、それは変わったり、退いたりすることはありません。明らかに現れます。ですから、光を放ちようとしたり、光を当てようとしなくてもいいのです。光であるなら隠せなく、輝きますし、真理であるなら必ず明らかになるからです。   軍隊時代、山で子兎を追ったことがあります。ウサギが逃げていて捕まりそうだから草むらに頭をぶつけました。自分の目に見えないから隠れたと思ったのです。人はこれと違うんでしょうかね?手で目を覆うと何も見えません。愚かな人間は、だから自分の手のひらがすべてだと思います。この時代は、そのような人を理性的で合理的な人だと言います。目に見えることを論理的にしゃべることだけに同意します。神様について言えば、非理性的で非科学的だと思います。そのため、科学というものは1つの不完全な宗教になってしまいました。手のひらで隠したのは空ではなく、自分の目です。   それで「量りなさい」と言います。「また彼らに言われた。「聞いていることに注意しなさい。あなたがたは、自分が量るその秤で自分にも量り与えられ、その上に増し加えられます。24」目隠しをしたまま何もないと言い張らず、注意深く聞き、理解し、受け入れるということです。見えるものがすべてではないということは、続く農夫の種まきの話を通してより明らかになります。神の国は種をまくようなものだと言われました。農夫は収穫するために一年中休む暇もなく働きます。しかし農夫たちは種まきはしますが、その種の中に何が入っているかはわかりません。農夫は種を作らないし、実を作ることもありません。種をまくだけ、それを管理するだけ、そうするうちに季節が変わり、実が結ばれたらそれを収穫するだけです。光は今も輝いていて、真理は今もこの世を支配しています。草むらに頭を突っ込んだウサギが、手のひらで目を隠した人間がそれを認めないだけです。聞かない人、考えない人、信じない人の方が多いです。そこでイエス様の切ない訴えは、「聞く耳があるなら、聞きなさい。23」でした。

마가복음 묵상 【귀 있는 자만 들으라】 20240110(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 4:21~29 4:21 또 저희에게 이르시되 사람이 등불을 가져오는 것은 말 아래나 평상 아래나 두려 함이냐 등경 위에 두려 함이 아니냐4:22 드러내려 하지 않고는 숨긴 것이 없고 나타내려 하지 않고는 감추인 것이 없느니라4:23 들을 귀 있는 자는 들으라4:24 또 가라사대 너희가 무엇을 듣는가 스스로 삼가라 너희의 헤아리는 그 헤아림으로 너희가 헤아림을 받을것이요 또 더 받으리니4:25…