9월 묵상 【하나님이 말씀하실 때】 20230906(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

  지난 6월에 호주, 미국, 필리핀, 한국, 일본 각지에서 학생들이 일본선교탐방(뉴송재팬)을 왔을 때 사도행전의 고넬료에 관한 내용으로 설교했다. 고넬료 사건의 주제는 복음 전도 대상에서 제외되어 있었던 외국인에게 복음이 열리는 사건이다. 학생들이 팀을 이루어 지난해 첫 선교 탐방으로 라오스를 방문했을 때 현지 선교사에게서 같은 본문으로 설교를 들었다고 했다. 팀은 그것을 기억하고 놀라워했다. 묵상의 포인트가 생긴 것이다.…

9月 黙想 【持続可能な恵み】 20230905 (火) 申命記24:18-22 趙鏞吉 牧師

申命記24:18-22 24:18 あなたがエジプトで奴隷であったこと、そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを覚えていなければならない。それゆえ私はあなたに、このことをせよと命じる。24:19 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。24:20 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。24:21 ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは寄留者や孤児、やもめのものとしなければならない。24:22 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを覚えていなければならない。それゆえ私はあなたに、このことをせよと命じる。   街には目玉だけが転がっていた。鼻と口を隠したまま目玉だけを動いていた。コロナの時代には自分で何ができるという自慢の言葉は言えなかった。マスクの中で自分の息をつくことだけで精一杯だった。コロナで死んだ人より自殺で死んだ人がもっと多いと言われた。マスクをつけていないから死んだのではない、息がつけないと言えなかったから窒息して死んでいった。   その間、私たちには教会の建物が与えられた。エジプトと荒野の生活は確かに大変だった。雨風が吹いても子どもたちを入れる部屋さえなくて悲しかったからである。カナンに入って初めて我が家を建てた。ついにコロナが過ぎ去ると、集まってごはんを炊いて一緒に食べた。一緒に食べることほど天国に似たものがあるのかと思った。   我が家で安らぎ、滅びないためには神様に与えられた家であることを覚えなければならなかった。自分のために生きていくと滅びる、しかし、旅人時代を覚え、利他的に生きる。モーセの遺言のような申命記には、受けた恵みを覚え、欲張らずに分けなさいと命令している。かごに入れずに、かごから出しなさいということである。それは制限ではない、持続可能な恵みのための約束であった。

9월 묵상 【지속가능한 은혜】 20230905(화) 신명기24:18-22 조용길 목사

신명기24:18-2224:18 너는 애굽에서 종이 되었던 일과 네 하나님 여호와께서 너를 거기서 속량하신 것을 기억하라 이러므로 내가 네게 이 일을 행하라 명하노라24:19 네가 밭에서 곡식을 벨 때에 그 한 뭇을 밭에 잊어버렸거든 다시가서 취하지 말고 객과 고아와 과부를 위하여 버려두라 그리하면 네 하나님 여호와께서 네 손으로 하는 범사에 복을 내리시리라24:20 네가 네 감람나무를 떤 후에 그…

9月黙想 【今日信じなければならないこと】 20230904 (月) 枝川愛の教会 Ⅰコリント15:31

Ⅰコリント15:31 兄弟たち。私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いている、あなたがたについての誇りにかけて言いますが、私は日々死んでいるのです。   私は昨日信じたことを今日守ることができない。昨日信じたことは昨日守るべきだった。獅子が餌を探すように今日信じなければならないことは、今日命をかけて見つけなければならない。そうでなければ、信仰は飢えるしかない。信仰を守るということは、昨日信じていたことを今日最後まで伸ばすという意味ではない。昨日の信仰は今日という文脈の上で更新されなければならない。   信仰の道を守ったと誇ったパウロ、しかしパウロは置かれた状況と変わりつつある時代の中で神学と教会の理解を更新していた。それは「私は日々死んでいる」という自己否定だった。私たちが生きている時代の教会は急落し始めた。そのような教会の現実の上で、聖徒は昨日に縛られてはならず、今日を考えなければならない。早急に悩まなければならない。   「汝自身を知れ」と言ったソクラテスの言葉は、「自分が知らないことを知りなさい」という意味です。知性の始まりは無知の認識である。知性は質問せざるを得ない。ところが、知性を失った宗教はすべて知っていると答える。敗亡の原因は高慢であり、その高慢というのは昨日あれほど熱心だった信仰の死体である。敵は家の中にいる。時代に目覚めていなければ、信仰はいつのまにか不信仰にひっくり返される。いつでもどこでもる主の御言葉、しかし、今日は見慣れないようにして読みたい。

9월 묵상 【오늘 믿어야 하는 것】 20230904(월) 고전15:31

고전15:31 형제들아 내가 그리스도 예수 우리 주 안에서 가진바 너희에게 대한 나의 자랑을 두고 단언하노니 나는 날마다 죽노라   나는 어제 믿은 것을 오늘 지켜내지 못하겠다. 어제 믿은 것은 어제 지켰어야 했다. 사자가 먹이를 찾듯이 오늘 믿어야 하는 것은 오늘 목숨을 걸고 찾아와야 한다. 그렇지 않으면 믿음은 굶주릴 수밖에 없다. 믿음을 지킨다는 것은 어제 믿던…

【一つの建物】 20230902 (土) 枝川愛の教会 朝の黙想 エペソ人々への手紙 2:20-22

エペソ人々への手紙 2:20-22 2:20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。 2:21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。 2:22 あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。  自分に与えられた恵みを分かち合いながら、相手の中にある建物が築き上げられる。そして、相手に与えられた恵みによって自分の中にある建物も築き上げられる。それは、基礎から新しく建てられるものではなく、既に建てられていた建物に補修作業が行われるのと同じだ。   周りの人々との交わりによって神様の愛を知っていく喜び、その喜びの中で気づいたのは、それぞれの新しい建物が建てられるわけではないということだ。このような交わりと分かち合いの時間を通して、聖徒の間の関係が深まり、その建物の要の石となるイエス・キリストとの関係が深まる。    世の中の分かち合いは新しい経験によって自分の中にはなかった建物を新しく建てていくようであっても、クリスチャンの交わりはその全ての建物を一つに繋ぐ基礎、その要の石となってくださるイエス・キリストによって一つに結ばれる。だからこそ、恵みは分かち合うほど大きくなるのだ。    与えてくださった周りの人々のために分かち合い、大きくなっていくその恵みで、互いが互いによって神様の中で成長していく美しい共同体、送ってくださった共同体によっていつも感謝しながら生きていくことができますように。 https://youtu.be/DTWshVVZrc4?si=iHvqZTA-uqjASOcj

【하나의 건물】 20230902 (토) 에다가와 사랑의교회 아침 묵상 에베소서 2:20-22

에베소서 2:20-22 2:20 너희는 사도들과 선지자들의 터 위에 세우심을 입은 자라 그리스도 예수께서 친히 모퉁잇돌이 되셨느니라 2:21 그의 안에서 건물마다 서로 연결하여 주 안에서 성전이 되어 가고 2:22 너희도 성령 안에서 하나님이 거하실 처소가 되기 위하여 그리스도 예수 안에서 함께 지어져 가느니라  나에게 주신 은혜를 나누며 상대방 안에 지어져 있던 건물이 지어져 간다. 그리고 상대방에게…

【익숙함】 20230901 (금) 에다가와 사랑의교회 아침 묵상 베드로전서 2:9-11

베드로전서 2:9-11 2:9 그러나 너희는 택하신 족속이요 왕 같은 제사장들이요 거룩한 나라요 그의 소유가 된 백성이니 이는 너희를 어두운 데서 불러 내어 그의 기이한 빛에 들어가게 하신 이의 아름다운 덕을 선포하게 하려 하심이라 2:10 너희가 전에는 백성이 아니더니 이제는 하나님의 백성이요 전에는 긍휼을 얻지 못하였더니 이제는 긍휼을 얻은 자니라 2:11 사랑하는 자들아 거류민과 나그네 같은…

【慣れさ】 20230901 (金) 枝川愛の教会 朝の黙想 ペテロの手紙第一 2:9-11

ペテロの手紙第一 2:9-11 2:9 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。 2:10 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。 2:11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。  日本に来て略5か月ぐらい経った。目に見える景色と周りの人々、使われる言葉まで、全てが見慣れなくて新しかった日常が、半年も続かず、すでに慣れている日常になったようだ。  日本語の講義ノートがどうしても目に入らなくて、必死的に指で差しながら講義について行って、それでもついて行けなかった所を部屋で終えるため、一日に一つの授業でも背いっぱいだった初学期が過ぎて、周りの友達に心配され、止められるほどに授業を入れた二つ目の学期はまだ楽しいばかりだ。  この‘慣れる’というのは神様が私たち人間に与えてくださった素晴らしい力だと思った。いまだに一節つつ順番に声を出して本を読む時は恐ろしいけれど、簡単な対話のための一言の日本語を口に出しながらも緊張して焦った時の自分は無くなって、少しだけでも口が止まっていると、退屈でおしゃべりの相手を探しに行ったり、日本語で一人口をしている自分に気づくと、その素晴らしさにも気がつくようになる。  だからこそ段々と恐ろしくなるのは、今に慣れてしまってもう進まずにとどまること。逆に下がってしまうことだ。必死に教科書にふりがなを書き入れながら予習と復習をした初学期の自分を失っていまうのではないか、早く日本語に慣れるためにできる限り韓国語を避けて勉強した自分を失ってしまうのではないか。自分も気づかないうちにそれに心配するようになっていた。  信仰の道はもっとひどい目に会ったかも知れない。神様のものであり、その民で、あわれみを受けたものとして、この世に旅人、寄留者として遣わされた自分が、まるで永遠にこの世に住むような姿で生きているのではないか、この世の思想と文化に慣れてしまったのではないか、そのせいで、告げ知らせるべきの神様の栄誉を失ってしまったのではないか。  今の自分が慣れている場所はどこだろう。欲と快楽が溢れているこの世の中であるか、多くの義の実が結ばれるイエス・キリストの中であるか。当面には慣れてなくて、厳しい日々であるかも知れないけれど、キリストにとどまることに慣れて、その中にとどまっているのが気楽になる、神様が与えてくださった‘慣れさ’という素晴らしい祝福を正しく用いり、享受する人になりたい。

使徒の働き 黙想52 【使徒の働きの終わりに】 20230831 (木) 枝川愛の教会 使徒の働き 28章 23~31

使徒の働き 28章 23~3128:23 そこで彼らは日を定めて、さらに大勢でパウロの宿にやって来た。パウロは、神の国のことを証しし、モーセの律法と預言者たちの書からイエスについて彼らを説得しようと、朝から晩まで説明を続けた。28:24 ある人たちは彼が語ることを受け入れたが、ほかの人たちは信じようとしなかった。28:25 互いの意見が一致しないまま彼らが帰ろうとしたので、パウロは一言、次のように言った。「まさしく聖霊が、預言者イザヤを通して、あなたがたの先祖に語られたとおりです。28:26 『この民のところに行って告げよ。あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。28:27 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』28:28 ですから、承知しておいてください。神のこの救いは、異邦人に送られました。彼らが聞き従うことになります。」28:30 パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、28:31 少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。   パウロはローマの自宅軟禁中であり、人々がパウロの居所に出入りしながらパウロが伝えるキリストの福音を聞きました。パウロは聖書の知識と世界観を持っているユダヤ人に聖書を通してイエス·キリストは弁証しましたが、ユダヤ人はローマ人よりも福音を受け入れることをしませんでした。   それでパウロはこれから異邦人に向かってさらに福音を伝えると宣言します。福音が伝えられた初期から国籍と民族の区分はなかったわけです。特定の国や民族のための教会というのはありません。福音を聞き、それに反応し、救われる神様の聖徒がそれぞれの地域で教会を成すことです。彼らによって教会は建てられ、福音は流れていきます。   韓国教会の成長と世界宣教に重要な役割を果たした韓国大学生宣教会(CCC)は、韓国教会復興期に情熱的に伝道しました。彼らは伝道についてこう言います。「成功的な伝道とは聖霊の能力の中でイエス·キリストだけを伝え、その結果は神様に委ねること」です。パウロも人を教えたり説得することで信じさせることはできないことがわかりました。結果はパウロの思い通りにはなりませんが、伝道はパウロが疲れない限り、あきらめない限り、退かない限り、前に進みました。   誰が救われた民なのか分かりませんが、より多くの人に福音を伝えるというパウロの誓いと挑戦をもって使徒の働きは終わります。使徒の働きは終わりますが、それ以降の宣教は、パウロの書簡から確認することができます。宣教は止まりません。使徒の働き第29章は各自のところで福音を伝える人々が書いていきます。