누가복음 QT36 220219금【겨자나무와 누룩】누가복음 13장 10~21

누가복음 13장 10~2113:10 안식일에 한 회당에서 가르치실 때에13:11 십 팔년 동안을 귀신들려 앓으며 꼬부라져 조금도 펴지 못하는 한 여자가 있더라13:12 예수께서 보시고 불러 이르시되 여자여 네가 네 병에서 놓였다 하시고13:13 안수하시매 여자가 곧 펴고 하나님께 영광을 돌리는지라13:14 회당장이 예수께서 안식일에 병 고치시는 것을 분내어 무리에게 이르되 일할 날이 엿새가 있으니 그 동안에 와서 고침을 받을…

ルカの福音書 QT35 220217金【生きているチャンス】ルカ 13章 1~9

ルカ 13章 1~913:1 ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。13:2 イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。13:3 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。13:5 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』13:8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。13:9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」   総督だったピラトが神殿と礼拝に関わってガリラヤ人を殺した事件があり、シロアムの塔が倒れて働いていた人々が死んだ事件もあり、当時においてそれが人々のニュースでした。それは不義な権力者の暴圧と安全装置のない労働環境の劣悪さだったと思いますが、人々は死んだ人々に罪が多いからだと思っていました。   イエス様は彼らの死について評論しておらず、この二つの事件について同じく「それを見たらあなたがたも悔い改めなさい」と言われます。死を裁判できる人はいません。私たちの周りで人が絶えず死んでいきます。それを見る人間の知恵は、まだ生きていることの大切さを覚えることです。ピラトとシロアムの塔とはすべて非人間的です。生きている間、自分と隣人が人らしく生きることのできる制度と環境を作ることは大切です。   イエス様はここで実を結ばないいちじくの木のたとえ話をされます。ぶどう園の主人がいちじくの木を植えましたが、時になっても実を結ぶことができないので、木を切り倒そうとしました。ぶどう園の番人が実を出すために何年も苦労しましたが、その労働力も無駄にしたからです。自分の中に縛られた木は実を結ぶことはできません。実を結ばない木は、土地を占めるだけで、隣の良い実を出す木の邪魔になるだけです。なくすのが合理的です。   ところで、ぶどう園の番人は主人にこう訴えます。「ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。8,9」もう一度の機会を願います。イエス様のこのたとえ話の焦点は、死の裁判ではなく、生きているという機会です。ピラトに死んだ人、シロアムの塔が倒れて死んだ人に比べれば、彼らと私たちは今日もまだ生きていく機会を延長された人々です。神様のうちでは、なぜ死んだのかという質問は意味がないもので生きているというのは、すなわち恵みであり、奇跡なのです。いちじくの木に、実を結ぶ機会が与えられたことは確かですが、その機会が永遠ではないことも確かです。生きているということは、信仰の実を結ぶ長くないチャンスです。

누가복음 QT35 220217목【살아있는 기회】누가복음 13장 1~9

누가복음 13장 1~913:1 그때 마침 두어 사람이 와서 빌라도가 어떤 갈릴리 사람들의 피를 저희의 제물에 섞은 일로 예수께 고하니13:2 대답하여 가라사대 너희는 이 갈릴리 사람들이 이같이 해 받음으로써 모든 갈릴리 사람보다 죄가 더 있는줄 아느냐13:3 너희에게 이르노니 아니라 너희도 만일 회개치 아니하면 다 이와 같이 망하리라13:4 또 실로암에서 망대가 무너져 치어 죽은 열 여덟 사람이…

ルカの福音書 QT34 220216水【福音が起こした葛藤】ルカ 12章 49~59

ルカ 12章 49~5912:49 わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。12:52 今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。12:53 父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。」12:54 イエスは群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。12:55 また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。12:56 偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。12:57 あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。12:59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」   エペソ人への手紙には「実に、キリストこそ私たちの平和です。2:14」と言い、コロサイ人への手紙では「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。1:20」とあります。イエス・キリストは私たちに平和を与えるために来られました。神様との垂直関係を回復した福音は、人々の中で水平的な和解を築き上げます。   ところで、今朝の本文では、イエス様は「平和ではなく分裂し、家族が対立する」と言われます。イエス様が受けるバプテスマというのは、イエス様が担うべき十字架のことであり、イエス様が十字架で死なれ、贖われた後、神様が選ばれた人々に聖霊を与えられると、火がつき、それが世と葛藤し、対立するということです。   分裂と対立は最も近い家族から起こります。「父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。53」福音が明確であれば、必然的に葛藤をもたらします。一例として、儒教的な韓国社会にキリスト教に改宗した一人の男が、自分の両親の位牌を捨てました。それを見た妻は、親の位牌を捨てる夫と葛藤し、怖れと悔しさで自殺してしまったことで、当時、社会に大きな話題となったことがあります。   理解不足で起きた残念な事件です。夫が情熱より忍耐をさらに大切にしてくださったら、このような悲劇は起こらなかったかも知れません。しかし、世界観が衝突したときに葛藤が起こることを避けられません。一次的に起こらざる得ない分裂と対立を時間をもって和平に変えるためには、福音を持った人の信仰と忍耐が必要です。   家族と世が和解してくれないのは、本物か偽物かを確認しているからです。平和と和解を言われたエペソ人への手紙とコロサイ人への手紙もパウロが書いたものですが,パウロもユダヤ教とローマの多神教文化の中でイエス・キリストの福音を伝えるためには,命をかけなければならない大きい衝突をつつけました。しかし、彼の真意が教会を生み出したのです。   私の家族は、私がイエス様を信じてから10年後に一人ずつ信じ始めて20年がかかりました。まだ信じていない家族もいます。親が亡くなった後、門中が管理する墓地に埋葬しましたが、儒教的に厳しい門中が先に「碑石に十字架を刻んでもいい」と言ってくださいました。究極的に和解するための葛藤です。拒絶されること、葛藤することは変わらず恐ろしいことですが、葛藤なしに、忍耐なしに和解しようとするのは混合です。

누가복음 QT34 220216수【복음이 일으킨 갈등】누가복음 12장 49~59

누가복음 12장 49~5912:49 내가 불을 땅에 던지러 왔노니 이 불이 이미 붙었으면 내가 무엇을 원하리요12:50 나는 받을 세례가 있으니 그 이루기까지 나의 답답함이 어떠하겠느냐12:51 내가 세상에 화평을 주려고 온줄로 아느냐 내가 너희에게 이르노니 아니라 도리어 분쟁케 하려 함이로라12:52 이 후부터 한 집에 다섯 사람이 있어 분쟁하되 셋이 둘과, 둘이 셋과 하리니12:53 아비가 아들과, 아들이 아비와,…

ルカの福音書 QT33 220215火【忠実で賢い管理人】ルカ 12章 35~48

ルカ 12章 35~4812:35 腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。12:37 帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。12:38 主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。12:39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。12:40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」12:41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」12:42 主は言われた。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。12:44 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。12:45 もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、12:46 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。12:47 主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。12:48 しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。   賢い管理人と邪悪な忠実で賢い管理人が出てきます。「管理人」を「しもべ」と訳することもありますが、「奴隷」とは違います。奴隷は「ドゥロス(δουλος)」という別の言葉があります。ギリシャ語でこの管理人は「オイコノモス(οἰκονόμος)」です。「家または家族」という意味の「オイコス(οἶκος)」に「分ける」という意味の「ノモス(νομος)」が加わり、「家で分ける人」になります。ということで、日本語では「管理人」と言い、英語の聖書は「マネージャー」と翻訳します。家の管理を担って運営しなければならない任務と責任が任された人です。ギリシャ語の「オイコス」から経済を語る英語「エコノミー」が出てきました。   しもべはやらせることをやるという受け身的なイメージが強いのですが、管理者、マネージャーといったときはそれよりも積極的、能動的でなければなりません。イギリスで発行する経済雑誌の『エコノミスト』は経済だけを言うのではありません。経済を考える人々のテキストは世の全てだからです。多くことを知り、それを運営する力が必要です。雇い人より管理人は悩むべきことが多いです。オイコノモスは事業を企画する段階から主人に委任された管理者なので、創造的な仕事をしなければならなりません。タラントのたとえ話の原文でもタラントを受けた3人のしもべは、「オイコノモス」すなわち、マネージャーですした。彼らは資本を動かさなければならないし、人をも動かさなければなりません。財政と人事の権限と責任があります。   イエス様が言われました忠実で賢い管理人は、その責任を持って運用した人です。管理人の反対の言葉は「雇い人」でしょう。雇い人は悪い人ではなく、お金を受けた分だけ働く人です。しかし、管理人は、雇われた人々に仕事をさせ、その報酬を分けて与えられなければならない人です。事業を計画し、資本を投資し、人材を雇用し、労働の代価を補償します。やらせることやる人ではなくて、仕事を作り、仕事を分け、利益を分ける人です。   主人がいつ来るのかはわかりません。それを聞かないように言われたのは一貫です。どのように待つのか、つまりどのように生きるのかについてのみ語られます。邪悪な管理人は怠けで、貪り、労働の代価を払わず、利益を横どって職務を放棄していましたが、賢い管理人は責任を持って運用し、分けるべきものをを分けました。説教においてティム・ケラーの本を取り上げていますが、ティム・ケラーは、教会の聖徒に自分が持っている財政と経験を使って「善い事業」を起こすようにと励ましています。教会だけではなく、社会の中で能動的な賢い管理人であるべきということに同意します。  

누가복음 QT33 220215화【지혜 있고 진실한 청지기】누가복음 12장 35~48

누가복음 12장 35~4812:35 허리에 띠를 띠고 등불을 켜고 서 있으라12:36 너희는 마치 그 주인이 혼인 집에서 돌아와 문을 두드리면 곧 열어 주려고 기다리는 사람과 같이 되라12:37 주인이 와서 깨어 있는 것을 보면 그 종들은 복이 있으리로다 내가 진실로 너희에게 이르노니 주인이 띠를 띠고 그 종들을 자리에 앉히고 나아와 수종하리라12:38 주인이 혹 이경에나 혹 삼경에 이르러서도…

ルカの福音書 QT32 220214月【背けられる御国】ルカ 12章 22~34

ルカ 12章 22~3412:22 それからイエスは弟子たちに言われた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。12:23 いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。12:24 烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。12:25 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。12:26 こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。12:27 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。12:30 これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。12:31 むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。12:32 小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。12:33 自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。12:34 あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。   イエス様が教えてくださった昨日の本文のメッセージは、人間は「欲張る貪欲的な存在」であることと、いつなのか分からないまま「死を迎えなければならない虚しい存在」であるということでした。富と命の主権は神様にあるからです。人間がものを集めて見ても、神様が命を下さなければ無駄になります。今朝の本文はそれに続く教えです。「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。29」とありますが、経済問題でストレスを受けない現代人はおそらく誰もいません。それがなければ、生活を営むことはできません。それらは私たちに必要なものです。ということで、イエス様がそのように言われたことには、供給の責任を持つという意味です。   しかし、人々はそれを信じません。それを信じない人は、自分が信じられるようなものを見つけてそれを信じます。ここで裏切りと背教と反乱が起こります。「お金を与える神様」を信じるのではなく、ダイレクトで「お金の威力」を信じます。お金は良いものだと思いますが、そのようなわけでお金は人の「偶像」になります。それに欲張り、執着すればするほど「偶像崇拝」は深くなります。「あなたがいないと生きられません」と言うなら、それはプロポーズであり、信仰の告白です。神様なしでは生きても、お金なしでは生きられない。神様がいなくても不安ではありませんが、お金はなくなる前から不安です。人生がそれを追い求めている以上、言葉では信仰を言っても、それが一致することはありません。「偶像崇拝」に「偽善」が加わるだけです。   「信仰」と「行為」が向き合って神学的論争をすることもありますが、いつも「信仰」が先です。行為では信仰の贈り物を受けることはできません。しかし、昨日の説教で引用したティム・ケラの言葉の通り、福音と福音の結果、つまり私が行ったことではなく、キリストがすでに行ったことが福音であり、それを受け入れた人の反応が福音の結果であることを考えると、信仰の真正性とは、人生の生き方にて如実に表れることです。木が自分が結んだ実を通して、世にその真正性を赤裸々に表すことと同じです。   「むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。31」この御言葉は耳に慣れています。これを読んだ人は、果たして「御国」、「神の国」とは何かと悩みますが、御言葉を最後まで読んでないからです。まず、求めるべき神の国の実践編は33節にすでに提示されています。「自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。33,34」イエス様は貧しい人々の福祉と救済のためにこう言われたことではありません。お金に縛られ、実践的無神論者になってしまった人をお金から自由にするためです。使うことで豊かになります。これが「それに加えて与えられます」「喜んであなたがたに与えてくださる」という御言葉で主人公である「あなたがた」になる「秘訣」です。

누가복음 QT32 220214월【외면당하는 그의 나라】누가복음 12장 22~34

누가복음 12장 22~3412:22 또 제자들에게 이르시되 그러므로 내가 너희에게 이르노니 너희 목숨을 위하여 무엇을 먹을까 몸을 위하여 무엇을 입을까 염려하지 말라12:23 목숨이 음식보다 중하고 몸이 의복보다 중하니라12:24 까마귀를 생각하라 심지도 아니하고 거두지도 아니하며 골방도 없고 창고도 없으되 하나님이 기르시나니 너희는 새보다 얼마나 더 귀하냐12:25 또 너희 중에 누가 염려함으로 그 키를 한 자나 더할 수…

ルカの福音書 QT31 220212土【聖霊を冒瀆する者】ルカ 12章 1~12

ルカ 12章 1~1212:1 そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。12:2 おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。12:3 ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。12:4 わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。12:6 五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。12:8 あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。12:10 人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されません。12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」   文脈上、イエス様が悪霊につかれた者を癒したこと、そしてそれを見た人々が事実を事実どおり認めず、イエス様がベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出していると陥れようとしたことの後にこの話が続きます。それからイエス様が強調されたのは、「認める」ことです。つまり「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」これが10節の「聖霊冒瀆の罪」とつながっており、4節の「からだを殺しう」権威ある者たちの脅威を恐れてはいけないということとも、明らかに「認めること」と「告白すること」に関連しています。この10節の聖霊冒瀆罪は聖書の代表的な難題です。赦されないと言われているからです。聖霊を冒瀆むということが何であるが断定的に言うことができません。   教会の中で起こる紛争にはいつもこの言葉があります。自分の思いは聖霊の思いであり、他の人は悪魔の思いであるという論理です。しかし,わたしたちは他人に「聖霊を冒瀆する罪」という言葉を勝手に使ってはいけません。この言葉を使う人はたくさんいましたが、意味を分かる人はいません。これを自分の考えを聖霊と同一視する道具として使用してはなりません。救いの主権はただ神様にあり、救いの問題について人間は常に恐れるべきです。救われて生かされた人間の口から、誰が救われ、誰が救われないという判決の言葉は恥ずかしくても言えないものだからです。   私たちの口では「認める」ことが必要です。認めて告白しなければなりません。自分を認め、神様を認め、それを告白します。人生を変えることは人の本なんかで読んだ有名な言葉ではなく、自分と神様について認めてそれを告白した自分の言葉です。信仰によって救われますが、信仰は告白することで証明されます。ところで、告白を妨げるものがあります。それがイエス様がすでに教えられた「自分に対する偽善」であり、「世に対する卑怯」です。つまり、告白を妨げているのは、信じていると思い込んでいる偽善と、周りの機嫌をうかがう卑怯です。私は、聖霊を冒瀆する罪というのは、腐敗した宗教、強制する政治権力ではなく、自分と神様について告白しない人間の心だと思います。