고린도전서 묵상24【소통되는 영성】220602(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 14:13~2514:13 그러므로 방언을 말하는 자는 통역하기를 기도할지니14:14 내가 만일 방언으로 기도하면 나의 영이 기도하거니와 나의 마음은 열매를 맺히지 못하리라14:15 그러면 어떻게 할꼬 내가 영으로 기도하고 또 마음으로 기도하며 내가 영으로 찬미하고 또 마음으로 찬미하리라14:16 그렇지 아니하면 네가 영으로 축복할 때에 무식한 처지에 있는 자가 네가 무슨 말을 하는지 알지 못하고 네 감사에 어찌 아멘…

Ⅰコリント 黙想23【異言と預言】220601(水) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 14:1~1214:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。14:2 異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。14:4 異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。14:5 私は、あなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。14:6 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。14:7 笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。14:8 また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。14:9 同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。14:10 世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。14:11 それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。14:12 同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。   パウロは異言で祈ることと預言することについて教訓が続けます。これも、教会が配慮せず、混乱していたからです。異言と預言は、今の私たちにとっても依然としてその定義と理解が不明な場合がありますが、少なくともⅠコリントの手紙の14章で語っている異言というものは、通なしには日常的に疎通できる言語ではないということは明らかです。しかし、パウロは異言を無視したり、廃止したりはしませんでした。むしろ異言は求めていました。   パウロは,異言と預言を結びつけて話していますが,異言より預言がより大切であるという風に語っています。預言には、2つがあります。予めの「予」を使って未来のことを知り、事前に語る「予言」があれば、預かるの「預」を使ってみことばを預かったという意味の「預言」があります。Ⅰコリントの手紙が言うものは「預言」です。日本語は預言者と翻訳し、韓国語はこの両方を含む「先知者」と翻訳しています。先に知って人という意味です。それは未来を知ることができる先見があれば、みことばを預かって理解し、洞察する人の意味もあると思います。   異言と預言、どちらも聖霊の恵みですし、パウロはもちろん異言で祈ることを認めていますが、みことばを読んで解釈することがより大切であるということです。異言に偏ると、何を信じるのか、どのように信じればいいのかという秩序が崩れ、抽象的に、神秘に陥る危険性があります。認識できないうちに行うことだからです。ですから、信仰には明らかに認識できる神様のみことばの解釈と学習が常に並行しなければならないということです。   パウロは異言を禁止しません。しかし、他人の祈りを邪魔しないようにお互いを配慮することを勧めています。また、みことばを通して神様に出会う原則を忘れず、無秩序に陥らないように勧めています。神様のみことばを引き受けてそれを解いていく日常を営む人、密かな祈りを通して神様に出会う人は、すべて12節が語る教会を成長させる人であり、そのような人は必ず知識の神様、神秘の神様に出会います。

고린도전서 묵상23【방언과 예언】220601(수) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 14:1~1214:1 사랑을 따라 구하라 신령한 것을 사모하되 특별히 예언을 하려고 하라14:2 방언을 말하는 자는 사람에게 하지 아니하고 하나님께 하나니 이는 알아 듣는 자가 없고 그 영으로 비밀을 말함이니라14:3 그러나 예언하는 자는 사람에게 말하여 덕을 세우며 권면하며 안위하는 것이요14:4 방언을 말하는 자는 자기의 덕을 세우고 예언하는 자는 교회의 덕을 세우나니14:5 나는 너희가 다 방언 말하기를…

Ⅰコリント 黙想22【信仰・希望・愛】220530(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 13:8~1313:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。   地上のものは不完全で部分的なものです。しかし、イエス様が再び来られるとき、すべてが完成されます。人生の信仰も地上教会も部分的であり、完全ではありませんが、そのような私たちに信仰と希望と愛が与えられています。希望を持って信仰の道を行かせるのは愛です。愛を知るので信じることができ、信じることができるので希望があります。信仰と希望が道を失うとき、愛に戻れば回復します。不完全で青銅の鏡のようにぼんやりしますが、愛をもって生きることで、私たちに与えられた信仰は確実で明確なものになります。信仰の情熱と天国の希望が、神様の愛の中で聖徒への愛に現れることを願います。

고린도전서 묵상22【믿음 소망 사랑】220531(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 13:8~1313:8 사랑은 언제까지든지 떨어지지 아니하나 예언도 폐하고 방언도 그치고 지식도 폐하리라13:9 우리가 부분적으로 알고 부분적으로 예언하니13:10 온전한 것이 올 때에는 부분적으로 하던 것이 폐하리라13:11 내가 어렸을 때에는 말하는 것이 어린 아이와 같고 깨닫는 것이 어린 아이와 같고 생각하는 것이 어린 아이와 같다가 장성한 사람이 되어서는 어린 아이의 일을 버렸노라13:12 우리가 이제는 거울로 보는 것…

Ⅰコリント 黙想21【愛は】220530(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 13:1~713:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。   主日礼拝の説教はヘブル人への手紙11章の「信仰章」であり、朝の黙想は第一コリント人への手紙の「賜物章」です。12章で賜物を扱い,第13章では愛を扱っていますが、つながっているものです。賜物のうえ、愛を語っています。愛がより大きな賜物であると言われたのは、すべての賜物の動機に愛がなければならないということです。もっと遡ってみると、そもそも賜物を言及したのも多くの問題を抱えていたコリント教会に配慮を教えるためでした。使徒の働きの賜物は、教会を始める力であり、エペソの賜物は、教会を構成する構造であれば、コリント教会で賜物を教える目的は統合です。統合のためにすべての役割に愛の動機を持つようにと訴えているのです。   昨日の主日学校の説教は、復活されたイエス様が失敗したペテロに来られて質問したところです、「あなたは私を愛するのか」イエス様はペテロに牧羊の使命を委ねるときに、3回を繰り返してイエス様への愛を確認しました。イエス様を愛しているので、イエス様が言われた「私の羊」を飼うことができます。だから、愛はイエス様に対するものであり、その中でイエス様の「私の羊」を愛することができます。本文の13章の「愛」を「イエス様を愛する愛」と変えて読んでみると、意味はもっと明らかです。一度そのように読んでみてください。   13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、「イエス様を愛する愛」がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、「イエス様を愛する愛」がないなら、私は無に等しいのです。13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、「イエス様を愛する愛」がなければ、何の役にも立ちません。13:4 「イエス様を愛する愛」は寛容であり、「イエス様を愛する愛」は親切です。また人をねたみません。「イエス様を愛する愛」は自慢せず、高慢になりません。13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。   私はこの春に寛容ではなく、親切でもなく 礼儀に反し、苛立っていたので、この本文について話すことは恥ずかしいです。しかし、依然として「イエス様を愛する愛」ではなく、「人を愛する愛」ではそれを守り切れることはできないと思います。イエス様の愛をさらに知り、イエス様を愛するとさらに告白できる分だけ、愛はより大きくなります。 愛は信仰による賜物だからです。

고린도전서 묵상21【사랑은】220530(월) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 13:1~713:1 내가 사람의 방언과 천사의 말을 할지라도 사랑이 없으면 소리나는 구리와 울리는 꽹과리가 되고13:2 내가 예언하는 능이 있어 모든 비밀과 모든 지식을 알고 또 산을 옮길 만한 모든 믿음이 있을지라도 사랑이 없으면 내가 아무 것도 아니요13:3 내가 내게 있는 모든 것으로 구제하고 또 내 몸을 불사르게 내어줄지라도 사랑이 없으면 내게 아무 유익이 없느니라13:4 사랑은…

Ⅰコリント 黙想20【ユニバサル・チャーチ】220528(土) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 12:12~2012:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。   国民と国家は、自由意思によって契約を結んでいる関係です。もし国家権力が国民のための契約を履行しなければ、国民は抵抗することと契約を破棄することができ、代替することもできます。それがルソーの社会契約論です。もちろん、国民は国家に対する義務を負います。国家があるから国民を支配するのではなく、国民がいるから国家が存在するのです。同様に、パウロは教会の働きの主体であり、有機的存在としての聖徒の位置を定めています。教会は神様のものであり、地上の教会の形成と運営には必ず聖徒の共同体性が反映されなければなりません。体を体と呼びますが、体は、部分が集まった総和を呼ぶ名です。そういう意味で、教会とは聖徒の集まりです。したがって、聖徒は教会に対する共同体の権利を持ち、同時に責任を負わなければなりません。   体を成す各部分がそれぞれ教会性を持ち、(ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。12)国籍、文化、言語、社会的身分はそれを制限しません。(私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。13)体には目と耳、足と手が必要で、その役割は異なりますが、どれも主体的かつ有機的な共同体性の責任と権利を持っています。そのためには、聖徒の成熟が必要です。ある人は階級化し、所有しようと図り、ある人は自分のことではないと無責任になるから、教会が立てられません。 優越性も無責任もいけません。互いに責任を持ち、互いを尊重するとき、聖なる公同の教会、聖徒の交わりのある神様の教会、地上の普遍的教会(Universal Church)を成すことができます。

고린도전서 묵상20【유니버셜 처치】220528(토) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 12:12~2012:12 몸은 하나인데 많은 지체가 있고 몸의 지체가 많으나 한 몸임과 같이 그리스도도 그러하니라12:13 우리가 유대인이나 헬라인이나 종이나 자유자나 다 한 성령으로 세례를 받아 한 몸이 되었고 또 다 한 성령을 마시게 하셨느니라12:14 몸은 한 지체뿐 아니요 여럿이니12:15 만일 발이 이르되 나는 손이 아니니 몸에 붙지 아니하였다 할지라도 이로 인하여 몸에 붙지 아니한 것이…

Ⅰコリント 黙想19【聖徒の彩色】220527(金) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 12:1~1112:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。12:11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。   同じ一つの御霊からそれぞれの賜物が出てくるのは、一つの御霊がそれぞれ異なる賜物を通して一つを成すためです。枝が伸びるのは木をなすためであり、賜物の目的は教会です。賜物はそれを建てるために必要な道具です。宣教の主である聖霊が聖徒に賜物を与えることは、教会を立てるためです。問題は、自分が持っている賜物と秘められている賜物に気づかず、開発せず、活用しないことです。現金化できる才能は競争的に育てますが、教会に仕えるための賜物は育てようとしないようです。   ある人は聖霊を抽象的い言い、ある人は文字の中に聖霊を閉じ込めますが、聖霊は神様の霊ですから、人間の秩序の中に現れることがあれば、その外で働くこともあります。謙遜な者には弱さを変え、強くすることができますが、誇り高ぶる者の強さは弱くすることもできます。聖霊の賜物と聖徒の従順が合わされるとき、弱いものが強くなる奇跡は起こります。   パウロは「御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません1」と言います。聖霊の力を認め、受け入れ、それを求めなければなりません。私は聖霊の賜物を慕い求めます。愚かなときに知恵を、根拠が見つからないときに知識を、恐れ震えるたときに信仰を、聖徒が病むときには癒しの賜物を、悪霊につかれ、人間性を失ったもののために悪霊を追い払う力を、預言する権威を、欺くことにわきまえる力を、神様の御心の祈りを、それを知らせる信頼を…慕い求めます。   しかし、すべてが与えられることではないかもしれません。12色の絵の具がそれぞれ美しいですが、パレットに絞って混ぜると、泥沼の色になります。それぞれが別々になっているときがきれいです。それを揃えてみるとされにきれいです。黄は赤の隣にあってきれいで、赤は青の隣にあって美しいです。今までパウロの雄弁のハッシュタグは#調和と配慮だったと思います。それぞれ異なる賜物がありますが、お互いを認め合い、配慮し、調和すれば、教会と聖徒はさらに成長していきます。