갈라디아서 묵상 【법으로 안 되는 것】 20241024(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

갈라디아서 3:19~293:19 그런즉 율법은 무엇이냐 범법함을 인하여 더한 것이라 천사들로 말미암아 중보의 손을 빌어 베푸신 것인데 약속하신 자손이 오시기까지 있을 것이라3:20 중보는 한편만 위한 자가 아니니 오직 하나님은 하나이시니라3:21 그러면 율법이 하나님의 약속들을 거스리느냐 결코 그럴 수 없느니라 만일 능히 살게 하는 율법을 주셨더면 의가 반드시 율법으로 말미암았으리라3:22 그러나 성경이 모든 것을 죄 아래 가두었으니…

ガラテヤ人への手紙黙想【信仰によって生きる】 20241023(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ガラテヤ人への手紙 3:10~183:10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。3:11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。3:12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。3:13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。3:14 それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。3:15 兄弟たちよ、人間の例で説明しましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。3:16 約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って多数を指すことなく、一人を指して「あなたの子孫に」と言っておられます。それはキリストのことです。3:17 私の言おうとしていることは、こうです。先に神によって結ばれた契約を、その後四百三十年たってできた律法が無効にし、その約束を破棄することはありません。3:18 相続がもし律法によるなら、もはやそれは約束によるのではありません。しかし、神は約束を通して、アブラハムに相続の恵みを下さったのです。 パウロは、律法と信仰の関係について話を続けます。10節で「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります」と語ったのは、誰も律法を完全に守ることができないため、もし誰かが律法を守ることで救われると言うならば、その人は自らを呪いで縛っているという意味です。これは申命記27章26節の言葉を引用したものです。「申命記27:26 このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」 このため、パウロは11節で「義人は信仰によって生きる」と語ります。この言葉も、ハバクク書からの引用です。「ハバクク2:4…しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4)。ハバククは、南ユダの堕落と不従順を理解できず、さらに神様が悪しきバビロンを通じてユダを懲らしめることに納得できませんでした。その文脈の中で「それでもなお、神様の善と真実を信じる」という意味で「義人は信仰によって生きる」と言ったのです。 パウロはローマ書1章17節でも、ハバククの言葉を引用しています。「ローマ書1:17 神の義は、福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ハバククが言った「義人」と「信仰」は、神様の救いの計画を信じることを意味します。しかし、ローマ書におけるパウロの信仰は、すでに成し遂げられた救いの原則について語るものであり、ガラテヤ書では、当時の最も敏感な関心事であった律法との対比を通じて信仰のみを強調しているのです。 宗教改革者マルティン・ルターは、ローマ書とガラテヤ書を読む中で、神の義は人間の行いによって得られるのではなく、信仰によって与えられることに気付きました。この理解が、宗教改革運動の基礎となりました。ハバククはパウロより600年も前の人物であり、ルターはパウロより1500年後の人物です。教会と歴史は、信仰とは何かを絶えず模索し続けてきました。そして、私たちもまた、ここでその問いを続けていかなければなりません。「信仰のみ」(Sola Fide)とは、信仰の対立物を排除するのではなく、信仰に似て見えるものを分離することなのです。 ハバククの「信仰のみ」とは、ユダの滅亡を通しても神様が救いを成し遂げられることを信じる信仰であり、その信仰はユダがユダを手放してから得られるものでした。パウロが言う「信仰」とは、彼らが誇り、支配されていた律法を捨てなければ得られないものでした。ルターが言う「信仰」とは、ローマ・カトリックの権威を捨てることでした。「ユダ」という選民意識、「律法」という自負、「宗教」という中心軸――これらは義や信仰に似ていますが、それらに抵抗(プロテスト、Protest)することが求められます。そして、それを成し遂げるのが「信仰のみ」(Sola Fide)なのです。

갈라디아서 묵상 【믿음으로 살리라】 20241023(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

갈라디아서 3:10~183:10 무릇 율법 행위에 속한 자들은 저주 아래 있나니 기록된바 누구든지 율법 책에 기록된대로 온갖 일을 항상 행하지 아니하는자는 저주 아래 있는 자라 하였음이라3:11 또 하나님 앞에서 아무나 율법으로 말미암아 의롭게 되지 못할 것이 분명하니 이는 의인이 믿음으로 살리라 하였음이니라3:12 율법은 믿음에서 난 것이 아니라 이를 행하는 자는 그 가운데서 살리라 하였느니라3:13 그리스도께서 우리를…

ガラテヤ人への手紙黙想【アブラハムに伝えた福音】 20241022(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ガラテヤ人への手紙 3:1~93:1 ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。3:2 これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。3:3 あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。3:4 あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。まさか、無駄だったということはないでしょう。3:5 あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。3:6 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。3:7 ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。3:9 ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。 ガラテヤ教会の信徒たちは何かに惑わされ、道を外れつつありました。彼らがイエス・キリストを信じる信仰によって教会を始めたことは確かですが、時間が経つにつれてその信仰の根本がずれ始めてしまいました。これはまさに脱線であり、信仰ではないものを信仰と錯覚し、その道に熱心に進んでいたのです。 人間は自らの意思でイエス・キリストを信じ、クリスチャンになったと考えるかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じることは、聖霊なしにはできないことです。聖霊が心に感動を与え、思いと心を導き、状況を整えてくださるとき、私たちはイエス・キリストを信じることができるのです。 問題は、時間が経つにつれてその信仰を失ってしまうことです。信仰に無関心であったり放置したからではなく、信仰の形式は持ち続けていても、その内容と形式を混同してしまうのです。形式にこだわり、形式そのものが本質であると思い込むと、それが信仰だと錯覚してしまうのです。 ここで言う「形式」は、「律法」という言葉で表されます。1世紀の律法は、ユダヤ教の宗教的規範を超え、生活のあらゆる領域にわたる規律でした。社会的、道徳的な規範から法的なルールまで含まれていました。しかし、新約聖書において「律法」という言葉は、しばしば「福音を覆い隠すもの」として使われます。律法は福音の反対側に立つ敵ではありませんが、福音のすぐ隣に立ち、その光を遮ろうとするのです。 パウロがガラテヤ人への手紙を書いた理由は、ガラテヤ教会の信徒たちが福音から離れ、律法主義に戻ろうとしていることを警告し、立ち返らせるためでした。いわゆるユダヤ主義者、つまり律法主義者たちが教会に入り込み、「ユダヤの律法を守らなければ救いは完成しない」と主張していました。彼らは外部から入り込んだ者たちかもしれませんが、内部からの退色や変質も同時に進行していたのです。福音の理解が薄れると、外部からの影響に脆弱になるだけでなく、内部の信仰もまた揺らいでしまうのです。 パウロは、この状況を憂い、アブラハムの物語を持ち出します。アブラハムは、神様が祝福を約束された人物です。「アブラハムの祝福」という言葉は誰もが知っています。創世記では、その祝福の約束が三度にわたって繰り返され、強調されています。「12:3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」「18:18 アブラハムは必ず、強く大いなる国民となり、地のすべての国民は彼によって祝福される。」「22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」 パウロはこう言います。アブラハムが祝福を受けたのは、律法を守ったからではなく、信仰によるものでした。神様はアブラハムの信仰と約束に基づいて祝福を与えられたのであり、彼が律法を遵守したからではありません。神様がイスラエルをエジプトから救い出されたのも、彼らが律法を守る立派な民だったからではなく、約束に基づいて救われた後に律法を与えられたのです。 それゆえ、パウロはガラテヤ書で「アブラハムの祝福」を「神がアブラハムに伝えた福音」と呼びます。「3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。」アブラハムに約束された祝福は、イエス・キリストの中で成就されたのであり、アブラハム以降の旧約の歴史全体は、福音宣教の歴史なのです。 最近、よくこの話をするようになりましたが、福音を信じる信仰は、宗教としてのキリスト教、その権威や権力、宗教的・組織的・文化的な力、そうした影響力すべてを拒否し、聖霊によって与えられる個人的な信仰として回復されなければなりません。それは、御言葉を通じた個人的で知的かつ人格的なプロセスを通してのみ可能なのです。パウロはガラテヤ教会にそれを強く求めています。

갈라디아서 묵상 【아브라함에게 전한 복음】 20241022(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

갈라디아서 3:1~93:1 어리석도다 갈라디아 사람들아 예수 그리스도께서 십자가에 못 박히신 것이 너희 눈앞에 밝히 보이거늘 누가 너희를 꾀더냐3:2 내가 너희에게 다만 이것을 알려 하노니 너희가 성령을 받은 것은 율법의 행위로냐 듣고 믿음으로냐3:3 너희가 이같이 어리석으냐 성령으로 시작하였다가 이제는 육체로 마치겠느냐3:4 너희가 이같이 많은 괴로움을 헛되이 받았느냐 과연 헛되냐3:5 너희에게 성령을 주시고 너희 가운데서 능력을 행하시는…

ガラテヤ人への手紙黙想 【キリストとともに十字架につけられたということの意味】 20241021(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ガラテヤ人への手紙 2:11~212:11 ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。2:12 ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。2:13 そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。2:14 彼らが福音の真理に向かってまっすぐに歩んでいないのを見て、私は皆の面前でケファにこう言いました。「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」2:15 私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。2:17 しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。決してそんなことはありません。2:18 もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。 「わたしはキリストとともに十字架につけられました。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きておられるのです。今わたしが肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きているのです」(ガラテヤ2:20)。この御言葉は、多くの人々が暗唱し、好む聖句です。福音に対する明確な信仰告白であり、献身的なクリスチャンだからこそ告白できる御言葉です。そのため、揺るぎない信仰や献身の意思を示すとき、この聖句がよく引用されます。 ただし、文章は文脈に沿って読むことで、誤解なくその本来の意味を理解できます。この聖句が全体の文脈の流れの中でどのような役割を果たしているのかを確認することが大切です。この御言葉の背景には、パウロがペテロを叱責した出来事があります。ペテロが非ユダヤ人信者たちと食事をしていたとき、ユダヤ人が近づいてきたことで律法を意識し、その場を離れたことに対し、パウロが公然と批判したのです。ガラテヤ2章は、使徒の働き15章以降です。使徒の働き15章でのエルサレム会議では、ユダヤの律法を非ユダヤ人クリスチャンに強制せず、彼らを同等の兄弟として認めることが既に合意されていました。ペテロもそれに同意していたのです。 それにもかかわらず、ペテロがユダヤ人たちの視線を気にして非ユダヤ人との食事を避けたことは、その合意を無視し、非ユダヤ人信者を差別する行為だとパウロは批判しました。福音よりも教会の権威よりも兄弟への敬意よりも、ユダヤの律法と慣習を優先した臆病で偽善的な行為だというのです。異邦人にも同じ信仰と救いの機会が与えられるべきだと、宣教の現場で直接確認したのはパウロでした。また、エルサレム会議でそのことを発題したのもパウロでした。パウロにとって福音は、ユダヤ人と非ユダヤ人の両方に同じ恵みをもたらすものであり、それは彼が自らの経験を通じて学んだ、拒むことのできない神学でした。 ガラテヤ2章20節は、こうしたパウロとペテロの一種の対立を整理する過程で出てきた言葉です。パウロがこの出来事をガラテヤの信徒に伝えたのは、このことを通して福音の理解を再確認させるためでした。19節でパウロは、「わたしは律法によって律法に対して死にました。それは、神に対して生きるためです」と語り、最後の21節では、「もし義が律法によって得られるなら、キリストの死は無駄になったことになります」と述べ、律法学者出身のパウロ自身が、律法ではなく、キリストへの信仰による福音の理解を明確にしています。 この2章20節は、その文脈の中に挟まれています。したがって、この聖句も「福音の理解に対する告白」として読むべきものです。「どのように生きるか」という意思表明に先立ち、福音とは何かを理解したという告白なのです。「わたしはキリストとともに十字架につけられた」というのは、自分を献身したという意味ではなく、十字架の意味が自分のものになったということを意味します。つまり、福音の中で生きるようになったということです。「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰」です。ガラテヤ2章20節をもう一度かみしめ、この告白を自分のものとして受け入れられると良いでしょう。これまで教会の時代において、熱心さに欠けることはありませんでした。むしろ欠けていたのは、理解でした。パウロが告白したように、福音が理解できれば、その理解に従って生きていくことができるのです。

갈라디아서 묵상 【그리스도와 함께 십자가에 못 박혔다는 말의 의미】 20241021(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

갈라디아서 2:11~212:11 게바가 안디옥에 이르렀을 때에 책망할 일이 있기로 내가 저를 면책하였노라2:12 야고보에게서 온 어떤 이들이 이르기 전에 게바가 이방인과 함께 먹다가 저희가 오매 그가 할례자들을 두려워하여 떠나 물러가매2:13 남은 유대인들도 저와 같이 외식하므로 바나바도 저희의 외식에 유혹되었느니라2:14 그러므로 나는 저희가 복음의 진리를 따라 바로 행하지 아니함을보고 모든 자 앞에서 게바에게 이르되 네가 유대인으로서 이방을…

ガラテヤ人への手紙 黙想 【人の人生は分からない】 20241019(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ガラテヤ人への手紙 1:11-24 1:11 兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。 1:12 私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。 1:13 ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。 1:14 また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。 1:15 しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、 1:16 異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、 1:17 私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。 1:18 それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。 1:19 しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。 1:20 神の御前で言いますが、私があなたがたに書いていることに偽りはありません。 1:21 それから、私はシリアおよびキリキアの地方に行きました。 1:22 それで私は、キリストにあるユダヤの諸教会には顔を知られることはありませんでした。 1:23 ただ、人々は、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いて、 1:24 私のことで神をあがめていました。    一歩先のこともわからないのが人の人生です。私たちがそのことについて分からないのは、この世には多くの可能性が存在しているため、何一つ断言できるものがないというのが一般的な考えでしょう。  しかし、神様を主と告白する人々には、少しは違う理由の一歩先も分からない未来があります。それは、人の人生は分からないという言葉のように、私たちは神様のことをすべて計り切ることはできないため、神様の御業は分からないと言えるでしょう。  多くの人々が劇的な状況からの救い、癒し、回心などを証することを通して、この神様の御業は分からないという言葉に力を加えます。当然、そのような経験は、私たちが計り切れない神様の驚くべきご計画を示す一つの証しではありますが、それが神様が私たちになさってくださった最も驚くべきことではありません。私たちにとって最も驚くべき神様の奇跡は、イエス·キリストの十字架です。  自分の罪の対価として、明日のことさえ断言できない罪人たち、いつ神様の裁きが下されてもおかしくない罪人たちに向かって、神様はむしろ自分の息子を遣わしてくださり、私たちを贖ったという、私たちには分かることも、理解することもできない御業を行われました。これがまさに「人の人生は分からない」という言葉に最もふさわしい状況ではないでしょうか。  当然のことながら、自分のことも分からない人が、神様のことを分かることができるはずがありません。そのため、私たちは神様のことは分からないと告白し、それでも私たちのためにイエス·キリストを遣わしてくださるまで私たちを愛している神様を信じ、一歩先も分からないけれども、神様に頼り、一歩一歩進まなければなりません。  これは何の根拠もない信仰ではありません。人のことも神様のことも、どちらのことも分からない私たち人間とは真逆に、神様は神様のことも、人のことも全て知っている方であるからです。そして、その方が今日も私たちの道を導いてくださるからです。  私たちは人の人生は知らないという言葉の前後に短く添言することで、何よりも完璧な一文を作ることができます。それは、「人は人の人生を分からない。神様だけが分かっておられる」という文章です。https://youtu.be/RCudJn-zWJs?si=VPyHoTGvh-Ms2DRH

갈라디아서 묵상 【사람 일은 모른다】 20241019(토) 최종석 전도사

갈라디아서 1:11-24 1:11 형제들아 내가 너희에게 알게 하노니 내가 전한 복음은 사람의 뜻을 따라 된 것이 아니니라 1:12 이는 내가 사람에게서 받은 것도 아니요 배운 것도 아니요 오직 예수 그리스도의 계시로 말미암은 것이라 1:13 내가 이전에 유대교에 있을 때에 행한 일을 너희가 들었거니와 하나님의 교회를 심히 박해하여 멸하고 1:14 내가 내 동족 중 여러 연갑자보다…

ガラテヤ人への手紙 黙想 【何によるのか】 20241018(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ガラテヤ人への手紙 1:1-10 1:1 人々から出たのではなく、人間を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によって、使徒とされたパウロと、 1:2 私とともにいるすべての兄弟たちから、ガラテヤの諸教会へ。 1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。 1:4 キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。 1:5 この神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。 1:6 私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。 1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。 1:8 しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。 1:9 私たちが以前にも言ったように、今もう一度、私は言います。もしだれかが、あなたがたが受けた福音に反する福音をあなたがたに宣べ伝えているなら、そのような者はのろわれるべきです。 1:10 今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。  哲学ではすべてのことの始まり、根本、すなわち「第一原因」が何かを明らかにするために絶えず考察してきました。古代、中世には第一原因を神、あるいは自然などに、ルネサンス以降は人間や精神など、終着点は違っても結局すべてのことの原因は何であり、どこにあるのかを知りたがって規定しようとしてきたわけです。  この問題は哲学者だけの問題ではなく、キリスト者の問題でもあります。少し違うところは、私たちは第一原因を突き止めるためではなく、私たちの第一原因である神様が、本当に自分の中で第一原因となっているのかを振り返ってみるためだということです。  今日箇所を通して振り返ってみることは三つのことです。自分の存在の第一原因、福音の第一原因、人生の第一原因と言えるでしょう。  使徒パウロはガラテヤ人への手紙の最初の挨拶から、自分の存在の定義、そして働きの定義を神様に置いています。また、他の福音、すなわち神様とイエス·キリストが第一原因ではない福音に対して警告し、自身の人生の第一原因が人にあるならば自分はキリストのしもべではないということを語っています。  この構造は、循環構造となっています。神様を自分の創造主として、私たちの主として信じること、そしてその方が私たちを救うためになされたこと、その福音を信じること、そして自分の人生の中心がそのキリストとなることを信じること、どこか一部分が間違っているような時は、前後の部分を振り返ってみることを通して直すことができるようになります。  第一原因という哲学用語を使わずに、私たちに慣れている言葉でこのことについて表現するならば、私は何によるのか、福音は何によるのか、私の人生は何によるのかと表現できると思います。  私たちは絶えず自分の信仰を検討しなければならない存在です。いつ私たちの罪が私たちを神様から遠ざけるか分からないためです。その検討の時に私たちが覚えておくべきことは、「何によるのか」です。https://youtu.be/GgFab1Gj8eE?si=wxbuo8E0INJNscuQ