ルカの福音書 QT54 220311金【Imago Dei】ルカ 20章 20~26

ルカ 20章 20~2620:20 さて、機会を狙っていた彼らは、義人を装った回し者を遣わした。イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった。20:21 彼らはイエスにこう質問した。「先生。私たちは、あなたがお話しになること、お教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。20:22 ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」20:23 イエスは彼らの悪巧みを見抜いて言われた。20:24 「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。」彼らは、「カエサルのです」と言った。20:25 すると、イエスは彼らに言われた。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」20:26 彼らは、民の前でイエスのことばじりをとらえることができず、答えに驚嘆して黙ってしまった。   サンヘドリンがイエス様を訴える目的でイエス様に「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」と尋ねます。この質問をしたのは、当時、ユダヤ人がローマに払わなければならない税金が多くて民たちが苦労していたからです。イエス様が税金を払わなければならないと言えば、民はイエス様に失望しますし、税金を払わなくてもいいと言えば、反ローマ勢力に追いやられて訴えられたからです。実際、彼らこそが親ローマ勢力で民を苦しめる張本人であります。   イエス様は彼らが掘り下げた落とし穴をよく知って答えられます。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。だれの肖像と銘がありますか。彼らは、カエサルのです」と言った。すると、イエスは彼らに言われた。では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。24,25」コインには皇帝の顔があり、「ティベリウス皇帝アウグストゥス、神であるアウグストゥスの子」という文が刻まれています。25節の「カエサルのもの」と24節の「カエサルのもの」が同じです。つまり、コインに刻まれている形象はカエサルであり、それはカエサルに返しなさいということです。カエサルの形をしたあなたたちは、形状に行きなさいということです。   そして、イエス様の答えはそれで終わりませんでした。続いて「神のものは神に返しなさい」とあります。コインでカエサルの形を確認しましたので、神様の形も確認しなければならないと思います。今朝の黙想のタイトルを「Imago Dei」と付けましたが、ラテン語で「神様の形」という言葉です。神様の形は人にあります。神様は、神様の形象で人を造られました。皇帝の形象があるお金は国家権力に捧げられますが、神様の形象を持った人は全人的に神様にささげられます。   この「カエサルのものと神様のもの」は、「国家の税金と教会の献金」の話ではありません。献金の話は出てきません。被支配植民地ですが、イエス様は基本的に納税の義務を否定しませんでした。しかし、神様の中に人がおり、人の中にお金があります。問題は、人が神様を捨ててお金と権力に仕えるということです。俗と聖は独立して区別されません。国家や権力が神様と対立していることではありません。税金も国家も皇帝もみな神様に属しています。   権力者を追従すると国家主義に流れます。一人によって戦争が起こり、数多くの人が苦しまれます。私たちはいつでも起こられる国家主義に警戒しなければなりません。国家のために死ぬことは偉大なことですが、国家が国民を死なないように守らなければならないことがさらに重要です。神様の形象は人にあります。国民は国家に税金を払いますが、国家は統治者のものではなく国民のものです。国民の財産と命を守らない国は存在意味がありません。税金は払わなければならず、教育も受けなければならず、兵役もしなければなりませんが、それは国家のためではなく国民のためであり、それは神様にささげられることです。神様の形象を持って神様にささげられる人は、社会で自分の責任を果たし、民主な尊厳を守る市民であると思います。

누가복음 QT54 220311금【Imago Dei】누가복음 20장 20~26

누가복음 20장 20~2620:20 이에 저희가 엿보다가 예수를 총독의 치리와 권세 아래 붙이려하여 정탐들을 보내어 그들로 스스로 의인인 체하며 예수의 말을 책잡게 하니20:21 그들이 물어 가로되 선생님이여 우리가 아노니 당신은 바로 말씀하시고 가르치시며 사람을 외모로 취치 아니하시고 오직 참으로써 하나님의 도를 가르치시나이다20:22 우리가 가이사에게 세를 바치는 것이 가하니이까 불가하니이까 하니20:23 예수께서 그 간계를 아시고 가라사대20:24 데나리온…

ルカの福音書 QT53 220310木【ぶどう園の農夫の錯覚】ルカ 20章 9~19

ルカ 20章 9~1920:9 また、イエスは人々に対してこのようなたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。20:10 収穫の時になったので、彼は農夫たちのところに一人のしもべを遣わした。ぶどう園の収穫の一部を納めさせるためであった。ところが農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、何も持たせないで帰らせた。20:11 そこで別のしもべを遣わしたが、彼らはそのしもべも打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせた。20:12 彼はさらに三人目のしもべを遣わしたが、彼らはこのしもべにも傷を負わせて追い出した。20:13 ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。そうだ、私の愛する息子を送ろう。この子なら、きっと敬ってくれるだろう。』20:14 ところが、農夫たちはその息子を見ると、互いに議論して『あれは跡取りだ。あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる』と言った。20:15 そして、彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。こうなったら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか。20:16 主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。」これを聞いた人たちは、「そんなことが起こってはなりません」と言った。20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてあるのは、どういうことなのですか。20:18 だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」20:19 律法学者たちと祭司長たちは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいた。それでそのとき、イエスに手をかけて捕らえようとしたが、民を恐れた。   昨日の本文にユダヤの宗教指導者たちはイエス様の権威の根拠を問題にしました。イエス様はそれについてもう一つの例え話をされました。それは説得ではなく警告です。ぶどう園の所有者が他国に行くことになり、農夫たちにその管理を委任しました。時間が経つにつれて、主人が収穫を決算するためにしもべを送りましたが、ぶどう園の農夫が主人のしもべたちを打ちたたき、辱めたうえで、何も持たせないで帰らせました。マタイの福音書とマルコの福音書には,しもべを石打ちで殺したと伝えます。   ここに、ぶどう園の主人は、最後の手段として、息子を送ります。それは主人の息子なら尊重するだろうと思ったからです。しかし、ぶどう園の農夫たちは、息子をも殺しました。息子が死んだら、主人の遺産を継承する人がいなくなるので、息子を殺し、財産を自分たちのものにしようとしたことであります。それを聞いたぶどう園の主人は農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えます。   この恐くてあきれる話は錯覚から始まります。任せられたものなのに、それが自分のものだと思い込っだのです。悪意は自覚しますが、錯覚は自覚できないまま確信になります。ぶどう園の農夫たちが恐れもなくしもべと息子を殺し続けることを見ると、何かに確信に満ちています。自分が神様と戦っているというを自覚はせず、貪欲によって錯覚し、それを確信に満ちた信念としているのです。律法学者と祭司たちは、イエス様が自分たちのことを言われたことに気が付きましたが、かえってイエス様を捕まえ、殺そうとしました。まことに恐いのは、息子を殺した話を聞き、息子を殺そうとしているのです。聞ける耳が生ける恵みです。

누가복음 QT53 2203010목【포도원 지기의 착각】누가복음 20장 9~19

누가복음 20장 9~1920:9 이 비유로 백성에게 말씀하시되 한 사람이 포도원을 만들어 농부들에게 세로 주고 타국에 가서 오래 있다가20:10 때가 이르매 포도원 소출 얼마를 바치게 하려고 한 종을 농부들에게 보내니 농부들이 종을 심히 때리고 거저 보내었거늘20:11 다시 다른 종을 보내니 그도 심히 때리고 능욕하고 거저 보내었거늘20:12 다시 세번째 종을 보내니 이도 상하게 하고 내어 쫓은지라20:13 포도원…

ルカの福音書 QT52 220309水【教える権威、学べない人】ルカ 20章 1~8

ルカ 20章 1~820:1 ある日、イエスが宮で人々を教え、福音を宣べ伝えておられると、祭司長たちと律法学者たちが長老たちと一緒にやって来て、20:2 イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたにその権威を授けたのはだれなのか、教えてくれませんか。」20:3 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。20:4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」20:5 すると、彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。20:6 だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。」20:7 そこで、「どこから来たのか知りません」と答えた。20:8 するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」   祭司長、律法学者、長老たちというのは、サンヘドリン公議の議員をいいます。彼らはイエス様が神殿の中で人々を教えていることに抗議していましら。確かに彼らが正式な免許を持ち、ユダヤ社会で先生と言われる人々です。ところが、イエス様は、制度圏で教育を受けたこともなく、公的な任命されたこともないです。彼らの話は、「そのようなあなたがどういう権威をもって神殿で教えているのか」ということです。それでも、武力で追い出されずに、話ができることは、イエス様に従う人々が大勢いたからです。実は、彼らの抗議している本音は、イエス様の教授権の問題ではなく、神殿の商売をやめさせたことのゆえです。それによって彼らの独占的な収益がなくなっていました。   イエス様は彼らに聞き返します。「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。4」彼らの頭は悪くありません。質問の意図を直ちに把握します。バプテスマのヨハネも制度圏の外にいた預言者だからです。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。5,6」ということです。彼らはイエス様が投げたジレンマに陥り、「どこから来たのか知りません」と答えました。すると、イエス様も「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われます。言っても信じないからです。   信仰を論理的に説明することはできません。同様に、信じないことも論理的には説明できません。信仰の人には真理が伝えられますが、信じない人には伝える仕方がありません。聞こうとしない人には何を言っても伝われないからです。イエス様は、いわゆる神様を信じると言いながら、全く聞かない人をこれ以上は教えられません。イエス様は、不信仰の非論理について議論しなかったのです。自分の思い込みと利益を貫くために神様を利用する人々は、最終的にジレンマに陥ります。彼らはイエスに答えることをあきらめますし、イエスも彼らに教えられません。

누가복음 QT52 220309수【가르칠 권세, 배우지 못하는 사람】누가복음 20장 1~8

누가복음 20장 1~820:1 하루는 예수께서 성전에서 백성을 가르치시며 복음을 전하실새 대제사장들과 서기관들이 장로들과 함께 가까이 와서20:2 말하여 가로되 당신이 무슨 권세로 이런 일을 하는지 이 권세를 준 이가 누구인지 우리에게 말하라20:3 대답하여 가라사대 나도 한 말을 너희에게 물으리니 내게 말하라20:4 요한의 세례가 하늘로서냐 사람에게로서냐20:5 저희가 서로 의논하여 가로되 만일 하늘로서라 하면 어찌하여 저를 믿지 아니하였느냐…

ルカの福音書 QT51 220308火【隠されている平和】ルカ 19章 41~48

ルカ 19章 41~4819:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。19:42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。19:43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、19:44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」19:45 それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、19:46 彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、19:48 何をしたらよいのか分からなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである。   イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入ってエルサレムを見て涙を流しながら預言された話しです。イエス様はまもなく十字架に付けられます。年代にすれば今は紀元後33年であり、エルサレムがローマによって完全に滅亡するのは紀元後70年です。ですから36年後にエルサレムは崩れ、ユダヤという国は滅びます。それは歴史的に実現されました。   36年後まで生きてその患難に遭う人もいると思いますが,彼らの子ごもの世代は皆それを経験しなければなりません。「おまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。44」ローマ軍に包囲され、城の中で食べもののがなくなったユダヤは、人間性を失い死んでいきました。ローマはユダヤを支配するために来たのではなく、完全に破壊するために来たのです。死んだ人が100万人を超え、生き残った人は皆散らばれ、奴隷として売られていきました。   「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。44」ルカの福音書が書かれたのは、ローマによるユダヤの滅亡の以降です。ルカはその預言の成就をすでに見ており、それを恐れをもって書きました。彼らが悔いて、悲しむこともイエス様は知っておられました。しかし、今、彼らは今イエス様の話しを聞こうとはしません。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。42」高慢と貪欲のゆえに今、平和があってもその平和を自覚しません。結局に滅び、平和を失われます。   当時の時代像は、続いて出てくる神殿のきよめのことから端的に現れます。神殿で商売をしていたことは、貧しい人々が礼拝を捧げようとする心を悪用し、宗教権力が違法な独占事業をしたことであります。まもなく死ぬ運命、もうすぐに崩れる神殿の中で宗教権力は貪欲に目がくらんでお金を稼いでいたのです。イエス様は滅びる都を見て涙を流し、堕落した宗教について怒りました。宗教権力は自分たちの利益を妨げるイエス様を殺しました。イエス様は殺されたのが、宗教であることを覚えなければなりません。36年の後にユダヤが滅びなければならならなかったように、人生は定まった時間を生きてから死ななければなりません。貪欲を止め、今日、みことばに生き、今日、隠された平和を見つけ出したいと思います。

누가복음 QT51 220308화【숨기워진 평화】누가복음 19장 41~48

누가복음 19장 41~4819:41 가까이 오사 성을 보시고 우시며19:42 가라사대 너도 오늘날 평화에 관한 일을 알았더면 좋을 뻔하였거니와 지금 네 눈에 숨기웠도다19:43 날이 이를지라 네 원수들이 토성을 쌓고 너를 둘러 사면으로 가두고19:44 또 너와 및 그 가운데 있는 네 자식들을 땅에 메어치며 돌 하나도 돌 위에 남기지 아니하리니 이는 권고 받는 날을 네가 알지 못함을 인함이니라…

ルカの福音書 QT50 220307月【主がお入り用なのです】ルカ 19章 28~40

ルカ 19章 28~4019:28 これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。19:29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。19:30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。19:31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」19:32 使いに出された二人が行って見ると、イエスが言われたとおりであった。19:33 彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、「どうして、子ろばをほどくのか」と彼らに言った。19:34 弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った。19:35 二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした。19:36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。19:37 イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、19:38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」19:39 するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。19:40 イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」   イエス様は、エルサレムに入る前に弟子たちにある村につながれている子ろばをほどいて連れて来るように言われます。イエス様は、それに乗ってエルサレムに入ります。もちろん、子ろばの飼い主が自分の財産である子ろばをほどいて連れていく弟子たちに理由を尋ねるはずです。その時、子ろばの飼い主に「主がお入り用なのです」と言えばいいというです。事前の約束があったり、取り引きや契約ではありません。子ろばをほどいて連れていく時に聞かれると、そのように言いなさいと言われ、そのように言ったら、飼い主は何も言わずに子ろばをを出してくださったのです。   この一話で、イエス様は他人の財産を勝手に使われるのかというイエス様の私有財産認識に問題を提起する人もいるかもしれません。それは一理ある話ですが、それなら人間も神様の財産について認めなければなりません。神様のものではないものがあるでしょうか?根源的な所有権は神様にあり、それを引き受けた人間の従順によってすべての資源は神様の働きに用いられます。   笑い話ですが、ある人が紙を引き裂く習慣がありました。どんな心理療法と精神療法を使っても彼が紙を引き裂くくせを直すことができませんでした。この人はなぜ紙を引き裂くのだろうか。どのような傷を受けたのかについて分析し、どのようにすれば、紙を引き裂かないようにするかを研究しましたが、やめさせることはできず、彼は引き裂き続きました。そこで、一人の医者がこう言いました。「紙を引き裂かないでください」すると、紙を引き裂くのをやめました。彼は一度も紙を引き裂かないようにと言われたことがないからです。原因と方法については悩みましたが、宣言しなかったのです。   弟子たちは、子ろばの飼い主にどのように説明し、説得するかを悩みながら行ったかもしれません。しかし、彼らがしなければならなかったことは「主がお入り用なのです」という宣言でした。説明や説得ではありません。私たちは「イエス様を信じてください。イエス様に献身してください。自分のことを神様にささげてください」ということをどのように説明し、どのように動機づけようかと悩みますが、イエス様は「主がお入り用なのです」という宣言で充分であると言われるのです。それによって縛られていた子ろばは神様の道具になります。   福音は、説明したり、説得するものではありません。献身は、やり取りしたり、お願いするものではありません。どのようにすれば説得して信じさせることができるだろうか?どのようにすれば献身に導くことができるだろうか?と悩みますが、私たちがまだ、してないことは、「主がお入り用なのです」と言うことです。弟子たちは、説明せずに、説得せずに、宣言しました。飼い主は、それを聞いて従い、子ろばは神様の道具になりました。使徒の働きのパウロの堂々とした宣教の言葉を思い出します。私もそれに従って宣言したいと思います。「主イエスを信じなさい!」  

누가복음 QT50 220307월【주가 쓰시겠다 하라】누가복음 19장 28~40

누가복음 19장 28~4019:28 예수께서 이 말씀을 하시고 예루살렘을 향하여 앞서서 가시더라19:29 감람원이라는 산의 벳바게와 베다니에 가까이 왔을 때에 제자 중 둘을 보내시며19:30 이르시되 너희 맞은편 마을로 가라 그리로 들어가면 아직 아무 사람도 타 보지 않은 나귀 새끼의 매여 있는 것을 보리니 풀어 끌고 오너라19:31 만일 누가 너희에게 어찌하여 푸느냐 묻거든 이렇게 말하되 주가 쓰시겠다 하라…