マルコの福音書 黙想 【できるなら、と言うのですか】 20240125(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

マルコの福音書 9:14~299:14 さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆がその弟子たちを囲んで、律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。9:15 群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。9:16 イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか」とお尋ねになった。9:17 すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。9:18 その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。」9:19 イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」9:20 そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。9:21 イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。9:22 霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」9:23 イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」9:24 するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」9:25 イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」9:26 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった」と言った。9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。9:28 イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」   ルカによる福音書9章によると、イエスは弟子たちに病気を治し、悪霊を追い払う力を与え、伝道の現場に送ったと言われていました。「イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。9:1、2」ところがイエス様が来てみると、弟子たちがすべきことをまともにできず、律法学者たちには嘲られていて、病人の保護者にも無視されていました。その時のイエス様の反応は「「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか19」であり、マタイの福音書では「不信仰な曲がった時代17:17」と言われました。   イエス様が悪霊霊に取り憑かれた者を直した後に弟子たちが「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」と尋ねるとイエス様は「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。29」と言われました。 マタイの福音書では「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。17:20」とありました。イエス様は悪霊に取り憑かれた子の親にも信仰を強調されました。「「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。23」   イエス様の感情状態は少し怒っている状態です。弟子たちが病気を治し、悪霊を制御する能力を持ってうぬぼれていたり、人間的な考えで疑ったはずです。ルカによる福音書10章にイエス様はこう言われました。「霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。20」神様は神様の働きのために人に賜物を与えます。神様の必要に応じて実力と能力と権威も付与されます。神様から与えられた力ということを忘れないなら、その力を疑ったり、自分のために使ったりすることはありません。神様の働きは、その賜物と信仰によって進まれます。

마가복음 묵상 【할 수 있거든이 무슨 말이냐】 20240125(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 9:14~299:14 저희가 이에 제자들에게 와서 보니 큰 무리가 둘렀고 서기관들이 더불어 변론하더니9:15 온 무리가 곧 예수를 보고 심히 놀라며 달려와 문안하거늘9:16 예수께서 물으시되 너희가 무엇을 저희와 변론하느냐9:17 무리 중에 하나가 대답하되 선생님 벙어리 귀신 들린 내 아들을 선생님께 데려 왔나이다9:18 귀신이 어디서든지 저를 잡으면 거꾸러져 거품을 흘리며 이를 갈며 그리고 파리하여 가는지라 내가 선생의…

マルコの福音書 黙想 【モーセとエリヤ】 20240124(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 9:2~139:2 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。9:3 その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。9:4 また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。9:5 ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」9:6 ペテロは、何を言ったらよいのか分からなかったのである。彼らは恐怖に打たれていた。9:7 そのとき、雲がわき起こって彼らをおおい、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」9:8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、もはやだれも見えなかった。9:9 さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。9:10 彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。9:11 また弟子たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っているのですか。」9:12 イエスは彼らに言われた。「エリヤがまず来て、すべてを立て直すのです。それではどうして、人の子について、多くの苦しみを受け、蔑まれると書いてあるのですか。9:13 わたしはあなたがたに言います。エリヤはもう来ています。そして人々は、彼について書かれているとおり、彼に好き勝手なことをしました。」   変貌の山でモーセとエリヤが登場します。モーセとエリヤの生と死には似たところがあります。誰も真似できない神様の御力が彼らを通じて現れたこと、彼らの死が神秘的に隠されているということが特徴的に似ています。モーセの死を目撃した人がおらず、エリヤもまた死を通らずに昇天しました。ユダヤ社会は今もマラキ4章を根拠にしていつかエリヤがまた来ると信じています。モーセは荒野で生き、一人で荒野で死に、エリヤもロデムの木の下で一人で死ぬことを求めた孤独な預言者でした。イエス様の当時から1400年前の人であるモーセはその名前だけでも律法で通じ、800年前の人であるエリヤは預言者の代名詞として通じます。   ペトロは彼らのために家を建てると言いましたが、彼らは留まっている人々ではありません。イエス様も家を建てて住んだ方ではありません。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と言われました。イエス様はモーセとエリヤが消えたところで死と復活を話されました。モーセとエリヤが家に留まらないように、聖徒は肉体に留まって生きる存在ではありません。イエス·キリストの中にいる聖徒は、律法と預言にとどまりません。イエス·キリストの福音の中にあります。モーセとエリヤ、つまり律法と預言は消え、サポートライトはただイエス様に集中されます。そしてイエス様は十字架の死と復活を予告します。それが完成だからです。モーセとエリアの間に立っていたイエス様は、二つの強盗の間に立って死にました。

마가복음 묵상 【모세와 엘리야】 20240124(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 9:2~139:2 엿새 후에 예수께서 베드로와 야고보와 요한을 데리시고 따로 높은 산에 올라 가셨더니 저희 앞에서 변형되사9:3 그 옷이 광채가 나며 세상에서 빨래하는 자가 그렇게 희게 할 수 없을만큼 심히 희어졌더라9:4 이에 엘리야가 모세와 함께 저희에게 나타나 예수로 더불어 말씀하거늘9:5 베드로가 예수께 고하되 랍비여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 우리가 초막 셋을 짓되 하나는 주를…

마가복음 묵상 【너는 나를 누구라 하느냐】 20240123(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 8:27~9:18:27 예수와 제자들이 가이사랴 빌립보 여러 마을로 나가실쌔 노중에서 제자들에게 물어 가라사대 사람들이 나를 누구라고 하느냐8:28 여짜와 가로되 세례 요한이라 하고 더러는 엘리야, 더러는 선지자 중의 하나라 하나이다8:29 또 물으시되 너희는 나를 누구라 하느냐 베드로가 대답하여 가로되 주는 그리스도시니이다 하매8:30 이에 자기의 일을 아무에게도 말하지 말라 경계하시고8:31 인자가 많은 고난을 받고 장로들과 대제사장들과 서기관들에게…

マルコの福音書 黙想 【あなたは、わたしをだれだと言いますか】 20240123(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 8:27~9:1 8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。8:37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」9:1 またイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」   何かを証明するためには証拠が必要です。情況上、心証があっても物的証拠を提示できなければ疑惑を立証できず、潔白も立証できません。すべての裁判は証拠を通じて行われ、法はそれ自体で義なるものではないので、証拠がある時だけ判断します。そのため、証拠がなければ、被疑と被害、正義と不義が入れ替わることもあります。キリスト教信仰では弁証という言葉を使います。弁護して証明するということです。反対者と懐疑論者に彼らの言語と方法論で弁護する科学です。そのため、積極的でも攻撃的でもありません。   真実には不変の真理があり、キリスト教信仰にも不変の救いの真理があります。問題は、それを完璧な方法で証明することができないことです。信じないと決心しておる人には、どんなことを使ってもそれを説得することはできません。神様は証明の方法ではなく、信仰の方法で選ばれた者を呼びます。私は神様がいないという人に対して自分なりの弁証をしてみることはできますが、神様を証明することはできません。それはお互いに同じです。無神論者は、私に神様がいないということを証明することはできません。神様はそれほど簡単に人間に証明される方ではありません。ですから、この問題について実は有効な方法論は存在しません。   ここでただ一つが残ります。それが告白です。不完全な理性のみに頼って神様を証明することではありません。世の前で自分の知性と感情と意志の人格をもって告白するのです。キリスト教を弁護するのではなく、自分が持っている願望を堂々と先制的に告白するのです。イエス様は華麗な皇帝の都で弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と尋ね、ペトロは告白しました。その上に教会が建てられ始め、今もその告白があるところには教会が建てられるでしょう。世に向かって説明しません。だからといって沈黙することもありません。告白するだけです。神様に向かって、世に向かって叫ぶだけです。 ためらってはならず、恐れてはならず、恥じることなく告白します。 「主はキリストであり、神の子です。 主は私の救い主です。」

マルコの福音書 黙想 【まだ悟らないのですか】 20240122(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

マルコの福音書 8:14~26 8:14 弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、一つのパンのほかは、舟の中に持ち合わせがなかった。8:15 そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」8:16 すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて、互いに議論し始めた。8:17 イエスはそれに気がついて言われた。「なぜ、パンを持っていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。8:18 目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。8:19 わたしが五千人のために五つのパンを裂いたとき、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」8:20 「四千人のために七つのパンを裂いたときは、パン切れを集めて、いくつのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」8:21 イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」8:22 彼らはベツサイダに着いた。すると人々が目の見えない人を連れて来て、彼にさわってくださいとイエスに懇願した。8:23 イエスは、その人の手を取って村の外に連れて行かれた。そして彼の両目に唾をつけ、その上に両手を当てて、「何か見えますか」と聞かれた。8:24 すると、彼は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。8:25 それから、イエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきりと見えるようになった。8:26 そこでイエスは、彼を家に帰らせ、「村には入って行かないように」と言われた。   「五つのパンと二匹の魚」の事があり、その後に「七つのパンと二匹の魚」の事が続きました。 「五つのパンと二匹の魚」は五千人が食べましたが、「七つのパンと二匹の魚」は四千人が食べました。今日の本文は「七つのパンと二匹の魚」の後の出来事です。イエス様一行は、船に乗って移動していましたが、イエス様が弟子たちに「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」とい話されます。それは間違いなく政治的かつ宗教的な分別について話されたことです。ところが、弟子たちは「パン種」という言葉を聞くと、持って来られなかった残りのパンを思い出しました。イエス様は政治と宗教に騙されたり、振り回されてはならないようにと話されたのですが、弟子たちはそれを経済的なものと理解しました。   そこでイエス様は弟子たちに「五つのパンと二匹の魚」の後に「十二かご」のパンが残ったこと、そして「七つのパンと二匹の魚」の後に「七つのかご」のパンが残ったことを思い起こさせます。「残ったものがいくつかあった」ということでいいと思うのですが、あえて「十二かご」と「七つのかご」という具体的な数字が示されていることの意味を問わざるを得ません。「12」と「7」という数字を表すのは、その数字が持つ意味があるからでしょう。それがわからなければ、21節の「まだ悟らないのですか」と言われたイエス様の御言葉を解釈することができません。   十二かごはイスラエル十二部族のことであり、七かごはカナンの七つの部族、いわゆる異邦人であるという解釈があります。文脈に「12」と「7」に確かにアクセントが付いているため、これらの解釈を無視することはできません。イエス様が弟子たちに「まだ悟らないのですか」と言われたのは、政治と宗教と経済ではなく、イスラエルと異邦人の差別ない救いを話されたことです。パリサイ人は宗教を、ヘロデは政治を、群衆と弟子たちは経済を追い求めましたが、イエス様は「All nations」の救いを追い求められました。イエス様だけが真の霊的なことを話されました。イエス様の目的は私を救うことです。それなら、私がイエス様を他のことのための手段にしてはいけないことを改めて思います。

마가복음 묵상 【아직도 깨닫지 못하느냐】 20240122(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

마가복음 8:14~268:14 제자들이 떡 가져 오기를 잊었으매 배에 떡 한 개 밖에 저희에게 없더라8:15 예수께서 경계하여 가라사대 삼가 바리새인들의 누룩과 헤롯의 누룩을 주의하라 하신대8:16 제자들이 서로 의논하기를 이는 우리에게 떡이 없음이로다 하거늘8:17 예수께서 아시고 이르시되 너희가 어찌 떡이 없음으로 의논하느냐 아직도 알지 못하며 깨닫지 못하느냐 너희 마음이 둔하냐8:18 너희가 눈이 있어도 보지 못하며 귀가 있어도…

マルコの福音書 黙想 【御馳走】20240120(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 7:24-37 7:24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。 7:25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。 7:26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。 7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」 7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」 7:29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」 7:30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。 7:31 イエスは再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けて、ガリラヤ湖に来られた。 7:32 人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。 7:33 そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。 7:34 そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。 7:35 すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。 7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならないと人々に命じられた。しかし、彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めた。 7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた。」  キリスト者になるということは、神様を父と呼べるようになること、神様の子共になることです。 神様はご自分子供たちに拒まず、最も良いものを与えてくださいます。    イエス様はユダヤ人です。 神様はユダヤ民族を先に選び、彼らを通して全地の救いを成し遂げていく計画を持って実践していきました。そのため、自然にイスラエルは旧約時代から自分たちが選ばれた民族であることを自慢し、律法に従って、あるいは優越感をもって異邦人を排斥してきました。    このような背景の中で、今日の箇所ではあるギリシア人の女、すなわち異邦人がイエス様を訪ねてきます。そしてユダヤ人たちの習慣の通りか、イエス様はその女性に冷たい言葉で返事しています。誰かはこれがイエス様がその女の人を試すためだと、誰かはイエス様も異邦人を排斥していたと解釈したりもします。 実際、どちらも可能性がまったくないとは言えません。しかし、その解釈がどうであれ、それが今日の箇所にとって重要ではないでしょう。    救いというのは、神様の子供たちにだけ与えられる特別な賜物です。 それは安っぽく用いられてはいけないものです。 それは今日の箇所のギリシアの女にも同じでした。結局、イエス様はギリシアの女の信仰を見て、その願いを聞いてくれました。これはその女の人にとってだけではなく、今日の私たちにとっても非常に重大な事件です。    救いが安っぽく用いられてはいけないということは、十字架に向かって進んでいるイエス様が最もよくご存知だったしょう。ですから、今日の箇所は単なるにギリシア女の信仰を見て与えてくださったということに終わってはいけません。 ギリシアの女はその瞬間、神様の子供になったのです。    よくこの箇所をパン屑の恵みに視点を置いて読んだりしています。しかし、それは今日女の人に与えられた救いが屑に過ぎないということと同じです。日々与えられる小さな屑の恵みで生きていこう、こんな屑ほどの恵みでも悪霊を追い出す力があるという言葉は、神様を誤解してしまうものです。神様は私たちに屑をくれるお方ではありません。 いつも一番良いもの、お膳の上に並んでいる御馳走をくださるお方であるからです。    いつもご自分の子供たちの痛みを見て嘆いておられる方、同時に一番良いものを与えてくださるお方。時にはなぜ痛みを与えてくださるのか、疑問が浮かんでくるかもしれません。しかし、私たちに屑を与えるのではなく、いつも最も良いものを与えてくださうるお方であるという信仰を持って私たちの痛みと向き合う時、私たちはその痛みの中で神様の御心を見つけ、その痛みを勝ち抜く力と希望を得ることができるでしょう。 https://youtu.be/hIYNZMpQF1U?si=XGYg4aa3cfH591f-

마가복음 묵상 【진수성찬】 20240120(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 7:24-37 7:24 예수께서 일어나사 거기를 떠나 두로 지방으로 가서 한 집에 들어가 아무도 모르게 하시려 하나 숨길 수 없더라 7:25 이에 더러운 귀신 들린 어린 딸을 둔 한 여자가 예수의 소문을 듣고 곧 와서 그 발 아래에 엎드리니 7:26 그 여자는 헬라인이요 수로보니게 족속이라 자기 딸에게서 귀신 쫓아내 주시기를 간구하거늘 7:27 예수께서 이르시되 자녀로…