사육제와 사순절의 싸움

봄이 다가왔습니다. 그리고 사순절입니다. 사순절은 렌트 (Lent) 라고 하는데 렌트는 라틴어로 봄이라는 뜻입니다. 우리는 지금 사순절과 봄 안으로 들어와 있습니다. 오늘은 사순절에 맞추어서 사도행전 강해를 잠깐 쉬고 사순절에 관한 설교를 준비했습니다. 우선 사순절이 무엇인지에 대해서 모르시는 분도 계실 것 같습니다. 올해는 내달 4월 21일이 부활절입니다. 잘 알듯이 부활절은 기독교 전통의 최고의 명절입니다. 사순절이라는 것은 부활절로부터…

Lent:断食より晩餐を・사순절:금식보다 만찬을

イ・ジョンウ 神父 著「しろかね夕焼けの池の波」中 私は今ここで四旬節の断食や禁肉について話すつもりはない。一食を断食する程度のこと、肉を食べないこと、あるいはそれを数え間違えたことで常習的に懺悔すること、そんなことに真の悔い改めと償いがあるとは言いたくない。批判を断食し、賞賛の晩餐を楽しみなさい。短気を断食し、柔和の晩餐を楽しみなさい。嫉妬を断食し、愛の晩餐を楽しみなさい。偽りを断食し、真実の晩餐を…自分のための言い訳を断食し、責任の晩餐を…不満を断食し、感謝の晩餐を…わがままを断食し、奉仕の晩餐を…恐れを断食し、信仰の晩餐を楽しみなさい。私たちはこれらを長い間忘れたまま生きてきた。食べ物の量や祈りの時間、献金の大きさではなく、真実な生き方、愛の真価が大切なのではないか。もうこれ以上食べるものや持っているものにばかり焦点を合てたり、それらを問題にしてはならない。今日、私たちの信仰の現実において、非人間的なこと、非人格的なことを先に断食しなければならない。そのような省察と自覚から根本的な精神の改革が求められる。いわゆる発想の転換とともに、信仰の正しい意味と中身を取り戻す四旬節になることを願う。 イ・ジョンウ神父(詩人)著「しろかね夕焼けの池の波」中  ユダが腐敗していたヨアシュ王の時代、預言者ヨエルは、悔い改めの断食を命じた。しかし、ヨエルは形式主義を警戒し、衣を破るパフォーマンスは止め、心を引き裂く悔い改めを促した。 ーヨエル2:12,13「しかし、今でも──主のことば── 心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。 あなたがたの神、主に立ち返れ。ー 衣を引き裂くことが間違っているのではなく、心を引き裂かないことが間違っている。断食することが問題ではなく、悲しみの心のない形だけの乾いた心が問題であるという。四旬節に各々が定めた節制と禁欲を実践し、十字架を黙想する敬虔というのはいかに美しいことだろうか。ところが、真の悔い改めのために引き裂かなければならないという「こころ」というのは、どこにあるのだろうか。心がどこにあるのか知るために、まず辞書を引いてみた。辞書では、心を意味する「レバブ」を「内面の人、思いや感情の座、良心、勇気、そして理解」としている。(Kohlenberger / Mounce Hebrew.)衣を引き裂くことが「怒りと悲しみの惨憺たること」の表現であれば、心を引き裂くということは「内面の考えや感情のみじめさに悲しみと怒りを持つこと」となるのだろうか。イ・ジョンウ神父の表現を借ると、鈍くなってきた良心を断食し、正義の晩餐を楽しむこと、現実にへたり込む卑怯さを断食し、勇気の晩餐を楽しむことが、心を引き裂くことであると言えるのではないだろうか。果たして私たちは四旬節にそのように心を引き裂くことができるだろうか。そういう意味では、四旬節の6週間というのは決して長いとは思わない。   이정우 신부의 「은빛 노을 못물결」에서   나는 지금 여기서 사순절의 금식이나 단식과 금육(禁肉)에 대해 얘기하려는 게 아니다. 한두 끼니의 밥이나 육류를 먹든 말든, 그걸 잘못 셈했다고 상습적인 고해성사를 보든 말든, 참된 회개와 보속(補贖;속죄)은 그런 것에 있지 않다고 말하고 싶다. 비판을 금식하고…

Lent:見ないで信じる人たち・사순절:보지 못하고 믿는 자들

アダムがこの世界に出てから、最初の夜を恐れながら送ったのは、きっと朝を知らなかったからである。次の日に昇る赤い太陽は、人生が復活したという証拠であり、夜の絶望の果てに明け方の復活があるという希望であった。春を知らない人は冬に絶望する。しかし必ず春は訪れて花を咲かせ、万物は自らの体をもって復活を証するのだ。主の手の釘跡に触れ、主の脇腹の傷跡に指を入れない限り、決して主の復活を信じないと言うのであれば、枯木の脇を突き抜けて顔を出す、軟らかい葉っぱを触ってみなさい。そして信じない者ではなく、信じる者になりなさい。   それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」ヨハネの福音書20章27-29節   아담이 세상에 나와 첫날밤을 두렵게 보냈을 것은 아침을 몰랐기 때문입니다. 다음날 붉게 떠오른 태양은 삶이 부활한 증거였고 밤의 절망 끝에 새벽의 부활이 있다는 소망이었습니다. 봄을 보지 못한 사람은 겨울에 절망했을 것입니다. 그러나 기어이 봄은 오고 봄은 꽃을 피우고 만물은 몸으로 부활을 증거하고 있습니다. 주님의 손의 못자국을 만져보고 옆구리의 창자국을 만져보아야 주의…

熱力学 第一法則・열역학 제1 법칙

電気ネネルギーが常用される前は、熱エネルギーと光エネルギーを1つに使用することが多かった。オイルランプは読書の時にはもちろん、煙草に火をつける際にも使われた。なので電気が初めて村に通った時、村のお爺さんたちは白熱電球から煙草の火をつけようとして多くの感電事故が起こったという。   教会は聖徒を世界の光と塩になるよう教えるが、実際には世界の光エネルギーではなく、教会内の熱エネルギーになるよう教えたのではないだろうか。熱くなれという、熱エネルギーに対する要求は強力なもので実践的なものだった。世の中で明るくなれという、光エネルギーに関するメッセージが無かったとは言えないものの、それを語る人もそれが何なのかわからない程に抽象的なものだった。そのせいか、家にあるかまどの炎の威力は凄まじいものだったのに対して、世界は未だに暗いままだった。教会は、聖徒のエネルギーが本当に世界の光エネルギーとして放出されることを実は恐れ、聖徒の電力を集約して教会のうちにバッテリーとして蓄積したのだ。   暗いのに熱いというのは鳥肌が立つことである。そのエネルギーを上手に転換すれば、あたたかい教会と明るい世界を実現させることができる。エネルギー保存の法則、エネルギー総量の値はいつも一定に維持される。エネルギーは使用して無くなるのではなく、他の形態に転換されるのだ。1種類のエネルギーが減少すれば、それだけ他の種類のエネルギーが生成される。さあこれからは、世界の照度(物体を照らす光の明るさ)を高め、礼拝共同体の暖房はあたたかい温度に調節していきましょう。   전기에너지가 상용되기 전에는 열에너지와 빛에너지를 하나로 사용하는 경우가 많았다. 호롱불은 책 읽는 데 썼지만 담뱃불을 당기는 데도 사용했다. 그래서 전기가 처음 들어온 동네에 할아버지들이 백열전구를 열고 담뱃불을 당기다가 감전 사고가 많이도 일어났다.   교회는 성도를 세상의 빛과 소금이 되라고 가르쳤지만 실제로는 세상의 빛에너지가 아닌 교회 안의 열에너지가 되라고 했다.…

桜が咲く前に・벚꽃이 피기 전에

詩篇 32:3,5 私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり私は一日中うめきました。私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。私の背きを主に告白しよう」と。すると あなたは私の罪のとがめを 赦してくださいました。 春を促す雨がそぼ降ってました。もうすぐでさわやかな春の天気がやってくるでしょう。私は最近、春を迎えるということでよく散歩に出かけています。歩いてみると梅の花はたくさん咲いていました。もうすぐ桜も咲き始めるでしょう。今年、東京は3月21日に開花で、29日に満開だそうです。花が咲く美しい季節ですが、私は一週間ずっと苦しかったです。泣いていました。なぜなら昨年から花粉症が始まったからです。私は日本に来て20年目になります。今まではよく耐えたですが、昨年から花粉症が症状が始まりました。花粉が鼻に入るとくしゃみを出たりしますね。一度たら連続で何度も出てきます。つらいです。 くしゃみが出てくるというのは、体の中に入ってきた不純な異物を押し出すために体が動いているからでしょう。鼻からも同じ理由で、鼻水が流れます。鼻に入ってきた花粉を出すために鼻は鼻水を流して洗います。くしゃみをしたり、ティッシュで鼻水をかんだりした後は”ああ苦しい”とか ”大変だ”とか言いますが、実はくしゃみをしたり、鼻水をかんだりしたその瞬間はすっきりします。汚れたものを吐き出し、引き出したからです。最近、目も非常にがゆいのですが、目の中に何かが入ると、目は自らの涙を出して、それを洗い流します。これも浄化のための体の活動です。生きていることの証拠ですね。 涙というのは、目を洗うために流れることもありますが、心を洗うために流れることもあります。 悲しくなったら泣きます。泣いた分、その悲しみから、喪失感から、悔しい気持ちから少しは回復します。私の父がなくなったとき、母は枕元で泣いていました。何人かの介護者が母親を慰めながら、ベッドから離して”お父さんは天国に行ったから、もう泣かないで”と言いながら母を慰めていました。私はその介護者を退けて、母親が枕元でもっと泣けるようにしました。天国には父が行ったものであり、母はこの地で夫を失ったわけです。死者に対する生き残った者の当然な感情は悲しみです。母はもっと泣かなければならなかったのです。 心と体の状態が素直に涙というもので出てくることです。泣かないと悲しみは詰まってしまうかもしれません。 涙を流すように鼻水を解放ネドゥトイくしゃみをするように心の汚染されたことを吐き出した後、それが私たちの魂のカタルシスことでしょう。また、信仰が生きているという証拠です。カタルシスの原型が「カタロス」という形容詞です。イエス様が教え山上の垂訓、マタイ5章8節には、形容詞がなりました。「心の清い者は幸いである。私たちは神を見るからです。」の「清潔」が「カタロス」です。心がきれいになると、神を見るとしました。「見る」は目で見るの意味ではなく、体験するという意味です。桜の花が咲きまで2週間程度残っているようだ。トソルと涙は悔い改めとしましょう。そのカタルシスが過ぎ去って、そしてこの春の雨にも過ぎ去った後桜が必要頃にはきれいな心で神を見ることです 心の中にある嫌な思いのようなものがあれば、イエスさまの前に吐き出して下さい。涙のように、鼻水のように、くしゃみのように、神さまの前に吐き出してください。 きっと気持ちがきれいになります。それが私たちの魂の「カタルシス」です。この言葉は元々ギリシャ語です。カタルシス」はギリシャ語の「カタロス」から出た言葉ですが、マタイによる福音書5章にはイエスさまが山の上で教えた説教がありますが、そこにはイエスさまがこの言葉を用いて語られました。‐5:8 心の清い者は幸いである。私たちは神を見るからです。の「清い」 が「カタロス」です。‐ 心が清くなった人は、神に出会うのです。神の前に泣けば、心がきれいになります。「見る」は目で見るの意味ではなく、体験するという意味です。桜が咲くまでは2週間ほど残っていますね。吐き出すとことと涙を流すことは悔い改めとしましょう。カタルシスとこの春の雨が終わり、桜が咲く頃にはきれいな心で神を体験します。   2019年3月10日、故郷の家・東京 エル・シオンチャペル礼拝 説教の中で   시편 32:3,5 내가 토설치 아니할 때에 종일 신음하므로 내 뼈가 쇠하였도다…내가 이르기를 내 허물을 여호와께 자복하리라 하고 주께 내 죄를 아뢰고 내 죄악을 숨기지 아니하였더니 곧 주께서 내 죄의 악을 사하셨나이다…

이중성의 반작용

영적 게으름 지난 주에 바울에게 의와 절제와 심판에 대한 설교를 들었던 벨릭스는 잠시 두려움을 느꼈지만 바울을 돌려보내고 그 감정을 스스로 속여버렸습니다. 구원에 있어서 가장 먼 미래는 내일입니다. 구원과 회개의 기회를 내일로 미루어 버리는 영적 나태에 대해서 지난 주에는 「구원에 이르지 못하는 습관」이라는 제목으로 설교했습니다.   오히려 뇌물을 요구하는 벨릭스 ‘불러서 이야기를 들어놓고 이제는 가도 된다.…

人間の二重性・인간의 이중성

朴婉緖の「測り難きは人の心」の中で    他人を非難したり、いじめたりする際に ‛表裏がある、表裏不同である’という言葉を使うことがある。 侮辱的な言葉で裏では言うことができても、仮にそんなことを直接言えばビンタされる羽目になる 。しかしそれは表と裏がないことを意味するのか?良い意味でよく使われる‛外柔内剛’という言葉にしても、結局のところ表と裏が違うということである。それなのに外柔内剛という言葉を悪口にしないのは、表と裏の相違が強さと柔軟さにあることであって、善と悪にあるのでないからであろう。‛表裏不同である’という言葉は偽善者には使うが、偽悪者にはほとんど使わない。表というのは外にあらわれる言動を意味し、裏というのは他人が簡単に分かることができない心を言うのである。そういった意味でも、果たして表と裏が全く同じ人がいるのだろうか。二重性こそ最も人間的な、人間のみの属性ではないだろうか。裏という中身も数えきれないほど何重にも重なっている。‛測り難きは人の心こころ’と言う通りである。誰も人の深淵の底を見た者はいない。  ‛表裏がある’より酷い言葉で‛人面獣心’という言葉がある。人の顔をしているが心には獣のような考えを持っているという意味である。おそらく獣がこれを聞けば侮辱を受けるはずだ。獣がどのようにして、悪しき、かつ狡猾な人の心の真似事ができるだろうか。人間の人間らしさとは、悪い心を抱かないのではなく、頻繁に沸き起こる悪い思いを反省し、それを治めて、純化させることができる力であるものであり、そして最終的には、泉のようにきれいで優しい心だけが残ることを願う、希望と理想を持つことにあるだろう。 朴婉緖 散文集8「測り難きは人の心」中で  ’悪の平凡さ’を述べたハンナ・アーレントは、『人間の条件』で人間の本性と人間の条件は一致するものでないことを前提として掲げた。そういえば悪の本性に基づいて生き、虚しい本能に沿って生きる人間に対して、人間らしいとは言わない。確かに”二重的な人間だ”という指摘は、心に刺さる痛ましい言葉であるが、誰でも二重的にならざるを得ないのは、我らにある本性がそうだからである。しかし「人間の条件」を満たすためには、そこにとどまるだけではいられない。反対にこう考えることができないだろうか?善において二重性というのは悪であるため偽善になり得るが、その一方で、悪において二重性というのは、あわれみと慈悲になることもあるはずである。その場合、二重性というのは嬉しいことではないか。朴婉緖さんが言うように’悪い心を抱かないのではなく、頻繁に沸き起こる悪い思いを反省して、それを治め、純化させることができる力’という言葉に変えれば、悪を逆らって立ち上がる善の二重性、すなわち悔い改めの心の機会を逃さないで善に向かって行くことになるだろう。このように二重性という人間の本性を人間の条件に積極的に活用しようではないか。   박완서의 『한 길 사람 속』에서    남을 비난하거나 소외시킬 때 쓰는 말로 그 사람은 속 다르고 겉 다르다는 말이 있다. 못 듣는 데서나 할 소리지 만약 듣는 데서 직접적으로 그런 소리를 했다가는 뺨 맞기 알맞는 모욕적인 소리이다. 그럼 그렇게 말할 수 있는 사람은 속과 겉이…