クリスマス QT3 20201225金 【メリークリスマス】 ルカ 2章 1~14

ルカ 2章 1~141 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」   ナザレに住んでいたヨセフとマリアは戸籍登録のために本籍地であるベツレヘムに行きました。その途中に妊娠中のマリアは宿屋を借りることができず苦労しました。妻マリアの出産が近づいたのに部屋を確保することができなかったヨセフはマリアよりも心の苦労をしたと思います。   ところが、これは苦労話や失敗を言うのではありません。神様のみ言葉が成し遂げられていることを語っているのです。ヨセフ夫婦のベツレヘム行きは戸籍登録という一時的な理由ではありましたが、この過程において預言のパズルが当てはまっていきます。ベツレヘムはダビデの故郷であり、ヨセフはダビデの子孫だからです。   ヨセフ夫婦はベツレヘムに移動しましたし、東方の博士たちが追いかけてきた星はベツレヘムの空にとどまっています。天使たちはベツレヘムの羊飼いたちにキリスト誕生を知らせます。イエス様の誕生は、ベツレヘムにある馬小屋の中に絞られていきます。その時間とその空間の中に、まるで最後のパズルが当てはまるかのように、神のみ子が来られたのです。救い主は、ベツレヘムでダビデの子孫の中から出てくるという預言が成就したものです。   クリスマスに生まれたイエス様は、十字架で死なれるまで生涯を通じて絶対的に穿鑿(せんさく)した一つは、み言葉の成就です。お生まれになった瞬間から、十字架の絶命の瞬間まで、例外なくそうでした。み言葉を達成するために来られたからです。   クリスマスからその業が始まりました。神の子は、低いところに来られましたが、それが神様に栄光を帰することになりますす。み言葉が成就したからです。愛とあわれみの神様はすでに約束された救いのみ言葉の働きを開始されたのです。救うと約束したみ言葉がなされること、それが神様に栄光であり、救いのみ言葉を信じて喜ぶこと、それが人々の平和です。 救いという言葉がさらに切実に感じられるクリスマスです。皆さんには平和に満ちたクリスマスであることを願います。もし、キリストの外にいる人々がいるならば、神様から与えられた平和、すなわちイエス・キリストのみ名をお伝えします。

성탄 QT3 20201225금【메리 크리스마스】누가복음 2장 1~14

누가복음 2장 1~141 이 때에 가이사 아구스도가 영을 내려 천하로 다 호적하라 하였으니2 이 호적은 구레뇨가 수리아 총독 되었을 때에 첫 번 한 것이라3 모든 사람이 호적하러 각각 고향으로 돌아가매4 요셉도 다윗의 집 족속인 고로 갈릴리 나사렛 동네에서 유대를 향하여 베들레헴이라 하는 다윗의 동네로5 그 정혼한 마리아와 함께 호적하러 올라가니 마리아가 이미 잉태되었더라6 거기 있을…

クリスマス・イブ礼拝 (2020-12-24)

ルカの福音書 21-201 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。17 それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。18 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。19 しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

クリスマス QT2 20201224木 【マニフィカト】 ルカ 1章 39~56

ルカ 1章 39~5639 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」56 マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った。   幼い女子が妊娠をしたというのは、確かに耐えがたい出来事です。マリアには慰めが必要でした。そして神様はマリアを慰められます。マリアは、ナザレから遠く離れていた親戚のエリサベツの家に行きます。そこでマリアが発見したのは、年をとって妊娠できなかったエリサベツが妊娠していることでした。   エリサベツは長きにわたって不妊の女性で、マリアは結婚してない処女です。ところが、二人とも妊娠していました。まもなくエリサベツはバプテスマのヨハネを産み、マリアはキリスト・イエスを産みます。二人の女性は、天使が伝えた言葉が事実であったことを確認して、それに慰められ、神様を賛美します。同労者に会うということは、神様の御心を見つける大きな慰めです。マリアはそこで3か月間とどまったので、その交わりには神様のさらなる慰めがあったと思います。   本文の42節からはエリサベツの歌があり、46節からマリアの賛歌が続きます。マリアは、自分自身を卑しいはしためといいます。卑しいとは身分の低さを言うのではないようです。もちろんそれなりの謙譲の表現は十分できますが、それよりも処女がみごもった後の心の苦労をいうのではないでしょうか。悲しく恐ろしいことだったと思います。神様はその心を慰め、慰められたマリアは神様を賛美します。   マリアにおいても、これから生まれた赤ちゃんにおいても、従順というのは痛みと喪失を伴うものでした。従順の谷を通って行かなければ、信仰に到達することができません。しかし、神様はその上に世が勝てない恵みと慰めを与えてくださいます。聖徒の従順がやがて慰めとなり、信仰の交わりが喜びと賛美になることを願います。今日は夕方7時からクリスマス・イブ礼拝をささげます。   *バッハはマリアの賛歌を作曲しました。ラテン語の「Magnificat」「マニフィカト」です。ギリシャ語では「Μεγαλύνει」「メガリネー」です。 46節の「あがめる」に該当します。曲はルカ1章46節から55節までのマリアの賛歌の内容を1節ずつ紹介しています。全12曲となっていて1時間を超えますが、第3曲「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。(Quia respexit humilitatem ancillae suae; ecce enim ex hoc beatam me dicent)」をリンクとして添付します。  

성탄 QT2 20201224목【마리아의 찬가】누가복음 1장 39~56

누가복음 1장 39~5639 이 때에 마리아가 일어나 빨리 산중에 가서 유대 한 동네에 이르러40 사가랴의 집에 들어가 엘리사벳에게 문안하니41 엘리사벳이 마리아의 문안함을 들으매 아이가 복중에서 뛰노는지라 엘리사벳이 성령의 충만함을 입어42 큰 소리로 불러 가로되 여자 중에 네가 복이 있으며 네 태중의 아이도 복이 있도다43 내 주의 모친이 내게 나아오니 이 어찌 된 일인고44 보라 네…

クリスマス QT1 20201223水 【言葉が肉身となり】 ルカ 1章 26~38

ルカ 1章 26~3826 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。28 御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。36 ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。37 神にとって不可能なことは一つもありません。」38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。   神様が魔法のように語り、それがそのまま成就したならば、人を救うために神様はイエス様を世に送られたり十字架につけたりしなくてもよかったはずです。   しかし、神様の奇跡はそのような方法ではありません。人間が罪の問題を解決し、命の救いを受けるということは奇跡中の奇跡でありますが、その奇跡は、神様のみ子が人の体になってこの世に生まれたクリスマスの奇跡によって始まりました。   問題を無効にする奇跡ではなく、代価を払う奇跡です。イスラエルの王がベツレヘムで生まれるのは、預言者ミカによって700年前にすでに預言され、記された言葉です。ですからイエス様はバビロンに没落した王朝ダビデの子孫として来られたのです。王朝は滅びましたが、神様の約束は滅びません。   マリアが聖霊によって身ごもり、赤ちゃんを生むというは、神様の感情の変化による一時的な奇跡ではありません。クリスマスとは数千年もの間、預言された神様の言葉が間違いなく成し遂げられる歴史的な分岐点です。マリアが天使の言葉を信じたのは、神様の超越的な奇跡ではなく、善なる神様のみ言葉のゆえです。   私たちが信じる神様は、超越的な現象を起こす魔法的な神ではなく、愛のゆえに贖いの歴史を導く善なる神様です。そこには、より大きな奇跡があります。   神様が人となってこの地に来られ、私のために十字架につけられ、その血が注がれることによって罪が赦された奇跡、その救いの奇跡を体験した人にとって、超自然的な受胎告知や処女降誕の神秘の問題は、信じるか信じないかの問題ではありません。神様の愛という目的から見れば、それは方法に過ぎない小さな奇跡だからです。   受胎告知が信じられなければ、イエス様を信じることができないかもしれません。しかし、それを信じられたからイエス・キリストを信じる人は誰もいません。イエス・キリストを通して神様の愛に気づいたがゆえに、その力が行われる方法までも信じるのです。皆さんの信仰において、その神様の愛が実現されていくクリスマスになることを願います。  

성탄 QT1 20201223수【말씀이 육신이 되어】누가복음 1장 26~38

누가복음 1장 26~3826 여섯째 달에 천사 가브리엘이 하나님의 보내심을 받들어 갈릴리 나사렛이란 동네에 가서27 다윗의 자손 요셉이라 하는 사람과 정혼한 처녀에게 이르니 그 처녀의 이름은 마리아라28 그에게 들어가 가로되 은혜를 받은 자여 평안할찌어다 주께서 너와 함께하시도다 하니29 처녀가 그 말을 듣고 놀라 이런 인사가 어찌함인고 생각하매30 천사가 일러 가로되 마리아여 무서워 말라 네가 하나님께 은혜를…

Ⅰペテロ QT8 20201221月 【身を慎むということ】 1ペテロ 5章8~14

1ペテロ 5章8~148 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。11 どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。12 私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。13 バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。14 愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。   ペテロは苦難と迫害の中にいる聖徒たちの信仰を強くするために、「悪魔がほえたけるししのように食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回るから堅く信仰に立って立ち向かいなさい。8、9」という最後の勧めで手紙を終えています。   闇は物理的に存在せず、物理的に実在する光が消えたら、その場が闇になります。そのように、神の実在する恵みという光が消えれば、その場には不安と不信仰という闇が残ります。   悪魔は、実際的な力を持っていることではありません。悪魔がすることは恵みをブロックすることです。隠し、欺くことです。恵みを遮断すると、人間は不安と落ち込みの中で生きるからです。光がなければ暗になるということと同じです。   だから、悪魔が新たに地獄を設計する必要はありません。この世界から神の慈悲を抜き、私たちの心から神の恵みを除けば、それが地獄です。   だから、悪魔と戦うことは虚空に向かって棒の振る舞うようなことではなく、本文8節が言うように「身を慎む」ことです。身を慎むの原語(Νήψατε;ネプサテ)の意味は、しっかりと気を張り詰める状態を言います。すなわち恵みを忘れやすい私たちの心の中に常に警戒心を持ちなさいということです。   「天路歴程」で主人公のクリスチャンが狭い道に入った時、二匹の獅子が現れました。二匹の獅子の名前は「不信仰」と「臆病」です。驚いて戻っていこうとしたクリスチャンに「警戒(Watchful)」という名前が付いている門番が「勇気がない」と責めながら獅子は縛られているから恐れることはないと言います。クリスチャンがその道を通るとき、獅子はうなりましたが、実際は何も害を与えることもできませんでした。   「敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」自分の目の前に悪魔の口が大きく開くのは自分の心の中に神の恵みが小さくなったからです。世の力に怖がっているからです。神様に離れれば離れるほど獅子のほえたける声はさらに大きくなります。   今朝祈祷会の説教は箴言22章14節でした。 「他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む。」神様の恵みから落ちてしまうと、世の誘惑の罠にはまります。誘惑に陥って神様から離れるのではなく、神様から離れたため、誘惑に陥るのです。   パウロはエペソ人への手紙でこれらのために備えるべきものを兵士の武装に例えました。 「真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の靴、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の剣」の6つのです。武装をつけた兵士は大胆になります。武装していない兵士が戦場に出るのは勇気がない、てからげんきにすぎません。   厳密に言えば、悪魔の誘惑と攻撃が強いからで武装が必要なのではなく、神様の恵みを守るために武装が必要なのです。悪魔は暗闇であるから、恵みという光が消えたところに闇をつくります。   誠に恐ろしいことは、神様の無関心と放置です。 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。10」聖徒の道は神様の恵みの中で成熟されていきます。苦難によって人格が練られ、揺れうごく信仰を堅く立っていきます。   2020年の最後に、使徒ペテロが私たちに残す挨拶、身を慎むべきことが何なのか覚えていきたいです。 「この恵みの中に、しっかりと立っていなさい…互いにあいさつをかわしなさい…キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。」  

베드로전서 QT8 20201222화【근신해야 할 것】벧전 5장 8~14

벧전 5: 8-148 근신하라 깨어라 너희 대적 마귀가 우는 사자같이 두루 다니며 삼킬 자를 찾나니9 너희는 믿음을 굳게 하여 저를 대적하라 이는 세상에 있는 너희 형제들도 동일한 고난을 당하는 줄을 앎이니라10 모든 은혜의 하나님 곧 그리스도 안에서 너희를 부르사 자기의 영원한 영광에 들어가게 하신 이가 잠간 고난을 받은 너희를 친히 온전케 하시며 굳게 하시며 강하게…

Ⅰペテロ QT7 20201221月 【職分と謙遜】 1ペテロ 5章1~7

1ペテロ 5章1~7 1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。 2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。 3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。 4 そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。 5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。 6 ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。 7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。 共同体の拡大は必然的に組織を形成し、役割を分担することになります。出エジプトの直後には法律的、組織的な体制を備えていなかったため、共同体はあらゆることをモーセの判断に頼っていました。それで荒野のイスラエルの社会は葛藤と争いに包まれていましたが、モーセの舅エテロの提案により、イスラエル社会は中間リーダーを立ててリーダーシップを分割し、組織体制を整備するようになります。 初期エルサレムの教会も、共同体が拡大していました。教会は貧しい人々に配食をしていましたが、役割が分担されていなかったので使徒たちが配食の働きをしていました。それで使途たちがみ言葉と祈りに専念することができなくなったので教会は初めて執事を立てることになります。 だからといって配食のために執事を立てたことではありません。それをきっかけにして共同体の役割分担の必要性を分かったのです。執事は聖霊の満たされた人を選び取って立てました。その中の一人であったステパノの説教(使徒7章)を読んでみると、彼は知的にも霊的にも優れた教師の能力を持っていたことがわかります。 牧師と聖書教師は必ずしも一致することではありません。礼拝を執り行う牧師はもちろんのこと聖書教師を兼ねますが、牧師でなくても、聖書を教える職務はできます。聖徒が聖徒を教え、導くことができます。実はそのようにしなければありません。それは上下の構造ではなく、立体的な構造です。すべての聖徒はみ言葉において主体性を持たなければなりません。学ぶことと教えることが同時に行われます。教え合い、学び合うのです。 本文に出る当時の長老とは、現在の長老教会で教会の政治に参加する長老を言うことではありません。だからといって、牧師を指すことでもありません。当時に牧師や牧師を養成する神学校があったこともありません。いわゆる聖職と信徒を問わず、聖徒の群れを導かなければならない立場にある人を指します。 聖職者と平信徒という言葉は、言葉そのものに矛盾を含んでいます。牧師の職と信徒の職が当然違いますが、それが「聖」は「平」を区別されるものではないからです。信徒であれば信徒であれ、平信徒という言葉は、聖書的に矛盾であり、聖職主義という階級的文化の所産です。 多くの場合、牧師とは神学校を卒業して、所属教団の牧師試験を受け、按手を受けた人でありますが、あくまでも牧師を立てる主体は教会です。牧師は教会共同体が立てます。ですから、教会共同体によって建てられた牧師のリーダーシップの確保は、教会共同体によって守られます。 そうであるように、教会が聖書の教師として立てた人には、教会によってその権威と職務が確保されなければありません。もちろん、必須なのは、それに召されている使命の認識です。ペテロはその職を召されている人に対して召しを確かめさせ、一方共同体にはその権威の認めと従うことを求めます。そして6節ではへりくだることを願います。それは、上位と下位の概念ではないからです。