ルカの福音書 QT4 220112水【まむしの子】ルカ 3章 7~20

ルカ 3章 7~203:7 ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」3:11 ヨハネは答えた。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」3:12 取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」3:14 兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」3:15 人々はキリストを待ち望んでいたので、みなヨハネのことを、もしかするとこの方がキリストではないか、と心の中で考えていた。3:16 そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。3:17 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」3:18 このようにヨハネは、ほかにも多くのことを勧めながら、人々に福音を伝えた。3:19 しかし領主ヘロデは、兄弟の妻ヘロディアのことと、自分が行った悪事のすべてをヨハネに非難されたので、3:20 すべての悪事にもう一つ悪事を加え、ヨハネを牢に閉じ込めた。   ヨハネはバプテスマを受けようとして出て来た人たちに,「まむしの子孫たち」という厳しいことを言いました。彼らは神様のみ怒りを避けることができないとし、ただ、そのみ怒りを避けるためには「悔い改めにふさわしい実」を結ばなければならないと言いました。ユダヤ人にとって、アブラハムの子孫であることはすなわちアイデンティティであり、誇りです。彼らは、自ら敬虔なユダヤ人だと思っており、アブラハムの子孫であり、救われた民であると固く信じているいわゆる「選民意識」の人々です。   それなのにヨハネは彼らにアブラハムが自分たちの先祖であると思ってはいけないと言ったのは、所属や伝統、慣習や誇りで信仰を証明することはできないからです。信仰のアイデンティティは、ユダヤ人と非ユダヤ人、キリスト教と非キリスト教を分け、相対を非難しながら証明するものではなく、自身が信じていることが何であるかを確かめ、自身がそれを実践し、実現することで証明できるものです。   ヨハネの答えはこうです。持っている人は持ってない人に自分の所有を分け与えること、収税人たちには税金を不正に過大徴収しないこと、軍人たちは公権力をむやみに使わないこと、公務員らしく月給以外に他の利益を取らないことでした。金持ちと収税人と軍人に対する「悔い改めにふさわしい実」は、貧しくて力のない弱者とともに生きていくという社会的な配慮に対する要求です。   多くのクリスチャンは救われたという確信を持って教会と世に区別の線を引きますが、牧師や長老、執事などの所属と職分で信仰を証明することはできません。そのようなタイトルが世の中を歩き回り、教会の権威と信用を失わせています。金持ちは金持ちだと言わなくても金持ちであり、救われた聖徒は救われたと言わなくても聖徒です。   教会の中には「実践的無神論者(practicalatheists)」がたくさんいます。口では信仰を言いますが、生き方では神様を否定します。他人には信仰を求めますが、自分は利益の前で信仰がなくします。彼らは教会の中に入っていますが、その中に神様のみことばはなく、欲望に満ちて、隣人のための余白はありません。むしろそれらを用ようとします。金持ちと収税人と軍人は、誰かを貧しくすることによって自分を満たすからです。私たちが実践的なクリスチャンであることを自ら証明するためには、バプテスマのヨハネの「まむしの子」という恐い凝らめを重く聞かなければなりません。

누가복음 QT4 220112수【독사의 자식들아】누가복음 3장 7~20

누가복음 3장 7~203:7 요한이 세례 받으러 나오는 무리에게 이르되 독사의 자식들아 누가 너희를 가르쳐 장차 올 진노를 피하라 하더냐3:8 그러므로 회개에 합당한 열매를 맺고 속으로 아브라함이 우리 조상이라 말하지 말라 내가 너희에게 이르노니 하나님이 능히 이 돌들로도 아브라함의 자손이 되게 하시리라3:9 이미 도끼가 나무 뿌리에 놓였으니 좋은 열매 맺지 아니하는 나무마다 찍혀 불에 던지우리라3:10 무리가…

ルカの福音書 QT3 220111火【荒野で叫ぶ者の声】ルカ 3章 1~6

ルカ 3章 1~63:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。3:4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」 イエス様の家族がベツレヘムに行き、イエス様がそこで生まれたのは、ユダヤを支配していたローマ皇帝アウグストゥスが戸籍登録を命じたからです。その時の皇帝がアウグストゥスで、ギリシャ語ではオクタビアヌスです。今日の本文で登場するローマの皇帝は、アウグストゥスの後に続いてティベリウスです。   ルカ 3章 1~63:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督であり、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイトラヤとトラコニテ地方の領主、リサニアがアビレネの領主、3:2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。3:4 これは、預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」   イエス様がベツレヘムでお生まれになったのは、ユダヤを支配していたローマ皇帝が戸籍登録を命じたことを受け、ヨセフが故郷ベツレヘムに帰ったからです。その時の皇帝がアウグストゥス、ギリシャ語ではオクタビアヌスです。今日の本文に登場するローマの皇帝は、このアウグストゥスの後に就いたティベリウスです。   アドベントの説教で新旧約中期の歴史について言及したことがありますが、マカビ以降ユダヤは内部政権争いで再び外勢をパレスチナに呼び込むことになり、当時盟主であるローマがユダヤを支配するようになりました。その過程で,エドムのヘロデがユダヤの支配権を受け,ユダヤはローマ皇帝とエドムのヘロデ王の二重支配体制の下に置かれます。   イエス様が生まれた当時、アウグストゥス、すなわちオクタビアヌスが皇帝であり、ユダヤを支配していた王は、エドムのヘロデ大王でしたが、今日の本文は時間が経過し、アウグストゥスの息子のティベリウスが皇帝になり、ヘロデ大王の息子たちが領土を分けて支配していた時です。   ローマはヘロデをユダヤの王に任命すると同時に、中央政府からも総督を派遣しました。その総督がポンティオ・ピラトです。総督とユダヤ王は上下関係に置かれず、互いに牽制しながら尊重する関係でした。イエス様の裁判の時、ヘロデはポンティオ・ピラト総督のもとに、一方のポンティオ・ピラトもヘロデ王のもとに、イエスの一連の事件を送検しようとしました。つまり一貫した体制が整っていなかったのです。   ローマ政府とヘロデ王は、ユダヤの宗教を部分的に認めていました。アンナスとカヤパが大祭司でしたが、大祭司はローマ総督が任命し、また解任することができました。アンナスとカヤバは支配権力に寄生していた宗教権力でした。彼らは丈人と婿関係で、丈人のアンナスと婿のガヤバが宗教権力を分けて握っていた時です。   ルカがこのような政治的、宗教的な時代の状況を紹介した後、バプテスマのヨハネを語るのは、すべてが不義に満ちた世界のただ中に来られるイエス・キリストを語るためです。そして、その道を備えるバプテスマのヨハネをイザヤの預言を通して語ります。   3:4 …「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。3:5 すべての谷は埋められ、すべての山や丘は低くなる。曲がったところはまっすぐになり、険しい道は平らになる。3:6 こうして、すべての者が神の救いを見る。』」 あらゆる領域で暴力と抑圧があり、不正と不公平があったからです。世界の権力者たちは、まるでイエス様の衣を破って分けたローマ軍兵のように、か弱いユダを破って分けていました。   その時、ヨハネが登場します。ヨハネは、罪の赦しに導く悔い改めを叫びますが、それは高いところを削り、低いところを埋めるということでした。曲がったことをまっすぐにし、険しい道を平坦にするのです。   私たちがこの地で主を待ち望むというのは、不正に高められた山を切土(Cutting)し、それを低い所を埋める盛土(Banking)であります。それで地は平坦化します。それがイエス様が来る道を備えたヨハネの罪の赦しに導く悔い改めの宣べ伝えです。イエス様を待ち望む人は、自分の人生と生きているこの時代において、切土と盛土が何なのかを考えなければなりません。

누가복음 QT3 220111화【광야에 외치는 자의 소리】누가복음 3장 1~6

누가복음 3장 1~63:1 디베료 가이사가 위에 있은지 열 다섯 해 곧 본디오 빌라도가 유대의 총독으로, 헤롯이 갈릴리의 분봉왕으로, 그 동생 빌립이 이두래와 드라고닛 지방의 분봉왕으로, 루사니아가 아빌레네의 분봉왕으로,3:2 안나스와 가야바가 대제사장으로 있을 때에 하나님의 말씀이 빈 들에서 사가랴의 아들 요한에게 임한지라3:3 요한이 요단강 부근 각처에 와서 죄 사함을 얻게 하는 회개의 세례를 전파하니3:4 선지자 이사야의…

ルカの福音書 QT2 220110月【少年イエス】ルカ 2章 41~52

ルカの福音書 QT2 220110月【少年イエス】ルカ 2章 41~52 ルカ 2章 41~522:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。2:43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。2:46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。2:47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」2:49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」2:50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。2:51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。2:52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。   人として来られたイエス様に焦点を当てているルカの福音書は、四つの福音書の中で唯一少年時代のイエスの話しを紹介しています。過越祭になると、すべてのユダヤ人はエルサレム神殿に登りました。今でも過越祭になると、世界中のユダヤ人はエルサレムに向かいます。イエス様の家族も過越祭を迎えてエルサレムに上りました。 12歳の少年イエスは初めてエルサレムを訪れたと思います。   ヨセフとマリアの夫婦はその12年前、ベツレヘムに戸籍を登録するために行ったとき、泊まる場所がなく、馬小屋で赤ん坊のイエスを産みましたが、12年後の過越祭のエルサレムでは、少年イエスを迷子にさせてしまいます。子どもがいなくなったことに気づいた両親はびっくり仰天してエルサレムに戻り、三日後に到着したエルサレム神殿で律法学者たちと話し合っている少年イエスを見つけました。律法教師たちは少年イエスの知恵に驚いていました。   しかし、52節を見ると、これが神的な力ではないことがわかります。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。52」そしてその後も成長していきます。イエス様は神性の力をお使いになったのではなく、人間として成長されました。成長しながら大人になり、知恵を学び、それで神様と人に愛されたということです。   イエス様が律法の教師たちと議論したように思われますがが、46節に見ると「話を聞いたり質問したりして」と言いました。教えたり主張したした議論ではなく、先生の言葉をきちんと聞いてそれについて質問したのです。ちゃんと学ぶなら、良い質問が出てきます。イエス様は間違いなく家庭とナザレの信仰共同体で聖書を学んでいたでしょう。   ルカは49節で「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」という言葉でイエス様の正体をわずかに表わしていますが、全体的には成長している人間イエス、少年イエスに焦点を当てています。それは2章が仕上げられるのを見るとわかります。「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。2:51」   聖書を知っていた少年イエス、つまり神様を学んでいたイエス様は、両親に従い、さらに成長していきました。注目すべきことは、イエス様の神性ではなく、イエス様がみことばを学び、みことばに聞き従って生きたということです。エルサレム神殿での知恵とナザレで両親に従ったことは別ものではありません。神様のみことばを知り、それに聞き従ったからです。

누가복음 QT2 220110월【소년 예수】누가복음 2장 41~52

누가복음 2장 41~522:41 그 부모가 해마다 유월절을 당하면 예루살렘으로 가더니2:42 예수께서 열 두살 될 때에 저희가 이 절기의 전례를 좇아 올라갔다가2:43 그 날들을 마치고 돌아갈 때에 아이 예수는 예루살렘에 머무셨더라 그 부모는 이를 알지 못하고2:44 동행 중에 있는 줄로 생각하고 하룻길을 간 후 친족과 아는 자 중에서 찾되2:45 만나지 못하매 찾으면서 예루살렘에 돌아갔더니2:46 사흘 후에…

ルカの福音書 QT1 220101土【ルカが伝えた福音】ルカ 1章 1~10

ルカ 1章 1~101:1 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。1:2 [前節に合節]1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。1:4 それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。1:5 ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者でザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。1:6 二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と掟を落度なく行っていた。1:7 しかし、彼らには子がいなかった。エリサベツが不妊だったからである。また、二人ともすでに年をとっていた。1:8 さてザカリヤは、自分の組が当番で、神の前で祭司の務めをしていたとき、1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。1:10 彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。   『マタイの福音書』がユダヤ人のために王として来られたイエス・キリストを語っているとすれば、『マルコの福音書』はしもべとして来られ、仕えるイエス・キリストについて語り、『ヨハネの福音書』は神であるイエス・キリストについて証する福音書です。今日から始まる『ルカの福音書』は,人の子、すなわち人として来られたイエス・キリストに焦点を当てている福音書です。   『ルカの福音書』を書いたルカは、アンディオケに住んでいたギリシャ人の医師で、聖書の著者の中で唯一にユダヤ人ではない人物です。だから、本文3節に示すようにテオフィロに送る手紙の形式でユダヤ人ではなく、異邦人を読者に設定しています。『マタイの福音書』がユダヤ人に伝える福音書であるとすれば、『ルカの福音書』は万民のための福音書です。   人として来られたイエス・キリストの最大の関心は、権利が失われ、疎外されている罪人、貧しい人々、病気の人々でありました。ということで『ルカの福音書』には経済的問題、宗教的問題、社会的問題などの不条理について考えられる出来事が多くあります。これは福音が個人の宗教的次元にとどまることではないということを語ります。   そういう意味で、ルカは救われた聖徒たちの信仰の地境をを広げます。『ルカの福音書』と『使徒の働き』は本来に一冊の本でした。ルカの福音が使徒の働きという宣教的実践につながったのは、当然の歴史的な帰結であるかもしれません。それはこの時代に置かれた私たちにとっても同じです。神様と人間について理解したなら、宣教は進展せざる得ないものだからです。   36.5度の体温を持って人として来られたイエス・キリスト、人を大切にし、その体温を大切にし、、息をを大切にした人の子の福音、その『ルカの福音書』を通していただく恵みを期待したいと思います。2020年が明けました。おめでとうございます。

누가복음 QT1 220101토【누가가 전한 복음】누가복음 1장 1~10

누가복음 1장 1~101:1 우리 중에 이루어진 사실에 대하여1:2 처음부터 말씀의 목격자 되고 일군 된 자들의 전하여 준 그대로 내력을 저술하려고 붓을 든 사람이 많은지라1:3 그 모든 일을 근원부터 자세히 미루어 살핀 나도 데오빌로 각하에게 차례대로 써 보내는 것이 좋은줄 알았노니1:4 이는 각하로 그 배운 바의 확실함을 알게 하려 함이로다1:5 유대 왕 헤롯 때에 아비야 반열에…

ヨブ記 QT64 211231金【恵みの大団円】ヨブ記 42章 7~17

ヨブ記 42章 7~174:7 さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。4:8 私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。4:9 彼らは神の息吹によって滅び、御怒りの息によって消え失せる。4:10 獅子のうなり声、たける獅子の声がする。しかし、若獅子の牙は砕かれる。4:11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散っていく。4:12 あることばが私に忍び寄り、そのささやきを私の耳がとらえた。4:13 夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、4:14 おののきと震えが私に降りかかり、私の骨々の多くがわなないた。4:15 ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けられなかった。しかし、その姿は私の目の前にあった。静寂。そして私は次のような声を聞いた。4:17 「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。   1章を思い出してみると、ヨブの栗閉まれたのは彼が犯した罪のためではありませんでした。ヨブの信仰の純度を試そうとしたサタンの計略のゆえです。そのように始まったヨブ記は、長い苦難を時間を過ぎ、今や神様からの溢れて回復と祝福で終わります。友人たちの因果応報の論理は明らかに誤解でしたが、原因と結果という関係が間違っているわけではありません。神様は、やがて報うべきものを報い、罰するものを罰します。   ヨブを懲らしめた神様は今度友人たちとエリファズを懲らしめられます。彼らが言ったことは、神様に対する理解として正しくないということです。自分の考えの中に神様を制限したことについて叱られるわけです。神様は友人たちに対して謝罪の意味のいけにえをささげるように命じられ、そこでヨブがとりなしの祈りをするようにと命じられます。神様はヨブの赦しととりなしの祈りを受け取り、喜ばれます。   以後、日常を回復したヨブを以前よりも祝福されます。苦しむ前にも巨富だったヨブは、苦しんだ後、二倍の祝福を受けて、回復します。ヨブの家には新しく7人の息子と3人の娘が生まれ、ヨブは息子と娘に公平に財産を分配しました。ヨブは苦しんだ後にも140年を生き,四代の子孫を産んで死にました。   ヨブの人生は、苦難さえも神様の主権の中にあるものであり、苦難の終わりと回復、そして祝福とある人生と死に至るまですべての過程が恵みであることを語っています。ヨブが正しいのか、友達が正しいのか、エリファズが正しいのかという長い議論は、神様が正しいという結論で結ばれます。ヨブの人生は、聖徒として召された人が主の主権の中で生きることを逆説しています。生きていることも、苦しむことも、栄光を受けることも、死ぬことさえもすべてが神様の恵みです。恵みの黙想で2021年の最後の日が終わって良かったです。

욥기 QT64 211231금【은혜의 대단원】욥기 42장 7~17

욥기 42장 7~1742:07 여호와께서 욥에게 이 말씀을 하신 후에 데만 사람 엘리바스에게 이르시되 내가 너와 네 두 친구에게 노하나니 이는 너희가 나를 가리켜 말한 것이 내 종 욥의 말 같이 정당하지 못함이니라42:08 그런즉 너희는 수송아지 일곱과 수양 일곱을 취하여 내 종 욥에게 가서 너희를 위하여 번제를 드리라 내 종 욥이 너희를 위하여 기도할 것인즉 내가…