요한복음 묵상 【어디서 왔다가 어디로 가는가】 20250128(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 8:12~20 8:12 예수께서 또 일러 가라사대 나는 세상의 빛이니 나를 따르는 자는 어두움에 다니지 아니하고 생명의 빛을 얻으리라 8:13 바리새인들이 가로되 네가 너를 위하여 증거하니 네 증거는 참되지 아니하도다 8:14 예수께서 대답하여 가라사대 내가 나를 위하여 증거하여도 내 증거가 참되니 나는 내가 어디서 오며 어디로 가는 것을 앎이어니와 너희는 내가 어디서 오며 어디로 가는…

ヨハネによる福音書 黙想 【良心を生かす奇跡】 20250127(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 7:53~8:11 7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。 8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。 8:2 そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7 しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。 8:10 イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」〕 イエス様がオリーブ山におられたとき、律法学者たちとパリサイ人たちは姦淫の現場で捕まった女性をイエスのもとに連れてきて、「律法に従ってこの女性を石打ちにすべきだ」と言いました。イエス様は身をかがめて地面に何かを書きながら、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。その言葉を聞いた人々は良心の呵責を覚え、一人ずつその場を立ち去り、最後にはイエスと女性だけが残りました。イエス様はその女性をも裁かず、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われ、彼女を送り出されました。 ユダヤ人たちが姦淫した女性をイエス様のもとに連れてきたのは、ユダヤの律法とローマの法の矛盾を利用してイエス様を困難な状況に追い込むための罠でした。レビ記や申命記では姦淫した女性を石打ちの刑にするよう定められています。しかし当時、死刑執行権はローマが握っていたため、イエスがユダヤ律法を擁護すればローマへの越権行為となり、逆にそれを否定すれば律法違反となるジレンマに陥る仕組みでした。 この女性はユダヤ人たちのこうした策略に巻き込まれた被害者だったのかもしれません。また、姦淫の相手である男性は連れてこられませんでした。もしかするとその男性は、女性を姦淫の現行犯として捕まえるために近づいた者の可能性も考えられます。もしそうだとすれば、この事件は恋愛による不倫や情事ではなく、生計を立てるための性売買に関わる出来事だった可能性が高いでしょう。そうでなければ、ユダヤ人たちがタイミングよく、しかもイエス様がいる現場で姦淫の現行犯を捕まえることはできなかったはずです。 この本文を読むたびに、いくつかの疑問が湧いてきました。まず、イエス様が身をかがめて指で地面に書いたものは何だったのか?指で書いたということは、詳細な文章ではなく、簡潔な何かだったのだと思われます。それはどんな内容で、誰に向けたメッセージだったのか?さらに、イエス様に敵対していたユダヤ人たちがなぜ石を置き、素直に立ち去ったのか?それはイエス様が地面に書いた内容と関係があったのでしょうか? はっきりしているのは、イエス様が地面に何かを書かれた後、人々の態度が変わったことです。イエス様を陥れ、罠にかけようと集まっていた人々が良心の呵責を覚え、立ち去ったのです。その過程でイエス様は「罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われました。もし偏見に満ち、煽動され、感情が高ぶっている人々であれば、ためらうことなく石を手に取り投げたでしょう。しかし彼らはそうしませんでした。それは、イエス様が地面に書かれた何かを見て、良心が働き始めたからではないでしょうか。 年長者から順に自分の罪を悟り、最後に若者が立ち去りました。地面に何が書かれていたかは分かりませんが、本文に記されたいくつかの手がかりを考えると、人間の良心が目覚めるなら、滅びを免れることができるということを示しています。この女性はユダヤ人たちの政治的陰謀に巻き込まれた犠牲者だった可能性があります。政治的な策略、卑劣な妨害、暴力と破壊が支配する世界の中でも、もし一つの良心が目覚めるなら、滅びることなく勝利することができるのです。イエス様が地面に指で書かれたものは分かりませんが、それは確かに彼らの良心を呼び覚ますものでした。 神様の御言葉を聞いても良心が痛まない人こそ、最も不幸な人です。彼らは罠を仕掛けても自らその罠に落ちるでしょう。しかし、心が刺され、良心の呵責を覚えた人は、手に持った石をおろすべきです。良心が戻れば、闘争的で暴力的だった人々の正気も戻るでしょう。そして、神様の憐れみと救いを思い起こし、共に生きるべき価値について考えるようになるでしょう。これは「姦淫してもゆるされる」という教訓ではなく、良心さえ生きていれば、滅びる人を救うことができるという教訓として読むべきです。これはイエス様が起こされたもう一つの奇跡の物語であり、その奇跡は人々に良心の呵責を感じさせるものでした。

요한복음 묵상 【양심을 살리는 기적】 20250127(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 7:53~8:11 7:53 (다 각각 집으로 돌아가고 8:1 예수는 감람산으로 가시다 8:2 아침에 다시 성전으로 들어오시니 백성이 다 나아오는지라 앉으사 저희를 가르치시더니 8:3 서기관들과 바리새인들이 간음 중에 잡힌 여자를 끌고 와서 가운데 세우고 8:4 예수께 말하되 선생이여 이 여자가 간음하다가 현장에서 잡혔나이다 8:5 모세는 율법에 이러한 여자를 돌로 치라 명하였거니와 선생은 어떻게 말하겠나이까 8:6 저희가…

ヨハネの福音書 黙想 【無駄な知識】 20250125(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 7:25-36 7:25 さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。 7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。 7:27 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」 7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。 7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」 7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。 7:31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。 7:32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。 7:33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。 7:34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」 7:35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。 7:36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」  あるエルサレムの人がイエス様について、あの人はキリストではないと主張します。 そして、その最も中心となる根拠は、「キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」ということでした。 確かに聖書はそう言っています。    しかし、彼らはイエス様がどこから来たのか、はっきり知っていると確信していました。 実際、彼らはイエス様の出身についてよく知っています。 ベツレヘムで生まれたナザレ人、ヨセフの子イエス。 それが彼らが知っているイエス様の出身でした。  しかし、彼らはイエス様がこの地に来られる前、誰と一緒にいて、誰から遣わされたのかは分かりませんでした。 そのため、イエス様が私を遣わされた方のもとに行く、私を見つけることも、私がいるところに来ることもできないとおっしゃった時に、文字通り誰もその言葉を理解することも、イエス様が戻るところが一体どこなのかも分かりませんでした。 まさに聖書の言うとおりでした。  彼らが持っている知識は無駄な知識でした。 世の中では「本を読んでいない人より、本を一冊だけ読んだ人が恐ろしい」と言われています。 本を読むことで知識が広がるどころか、逆にその知識の幅が狭くなってしまうからです。 それは、むしろなかった方が良い無駄な知識です。  エルサレムの人とユダヤ人たちが持っていた知識がこのようなものでした。 律法に詳しく、預言者たちの預言についても知っていたが、それがイエス様のことを指しているという結論に至らないまま、自分が知っていることを語ることで、むしろ自分が知らないということを証明することになってしまったのです。  私たちはイエス様を正しく知っているでしょうか。 イエス様に対する無駄な知識ではなく、真の知識を持っているでしょうか。 私たちは、私たちの知識を確認してみる必要があります。 自分が持っているイエス様に対する知識、そして聖書が語っているイエス様が一致しているのか、御言葉を通して答え合わせをしてみなければなりません。 https://youtu.be/DqVYQ6ZKU_o

요한복음 묵상 【헛된 지식】 20250125(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 7:25-36 7:25 예루살렘 사람 중에서 어떤 사람이 말하되 이는 그들이 죽이고자 하는 그 사람이 아니냐 7:26 보라 드러나게 말하되 그들이 아무 말도 아니하는도다 당국자들은 이 사람을 참으로 그리스도인 줄 알았는가 7:27 그러나 우리는 이 사람이 어디서 왔는지 아노라 그리스도께서 오실 때에는 어디서 오시는지 아는 자가 없으리라 하는지라 7:28 예수께서 성전에서 가르치시며 외쳐 이르시되 너희가…

ヨハネの福音書 黙想 【無駄な学び】 20250124(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 7:14-24 7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。 7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」 7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。 7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。 7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。 7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」 7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」 7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。 7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。 7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。 7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」  イエス様の時代に専門的な学びの機会は誰にでも与えられるものではありませんでした。 上流級や特別な人々、ユダヤ人の中では彼らの専門学堂に入ってこそ「学んだ」と言えるほどのものでした。    今日の箇所でイエス様が学んだこともないということ、どうして学問があるのかという表現はこのようなものです。 ユダヤ人たちは基本的に自分たちの言語、ヘブライ語で聖書を読まなければならず、それを何よりも最優先にして子供たちを教育させたので、字を読めないということはありえないことで、聖書の内容を分からないということもありえないことです。    イエス様がどうして学問があるのか、どうして自分たちのユダヤ人の学堂で学んだこともないのに、学んだ者のように教えられるのか、ということです。 このように当時のイエス様の教えは、単純に聖書を読み、その預言を再確認することを越え、その御言葉について専門的に学ぶ者たちが見ても優れたものとされるほど、そして、人の教えではないと思われるほどの教えでした。 しかし、これは当然なことです。 イエス様は自分自身に対する御言葉、神様の御言葉をそのまま伝えただけであるためです。    一方、今日の箇所のユダヤ人たちは、自分たちが誇る学堂で、高い水準の教育を受けてきたはずです。 そして将来には律法学者として、誰かは祭司と大祭司などの、ユダヤ人の指導者に成長する者たちだったはずです。 そのような者たちに、田舎出身のイエス様が「あなたがたはだれも律法を守っていません」と言われたのです。    彼らはモーゼの律法を学び、それに従って生きながらも、真の律法を守ることができませんでした。 彼らはその律法の本当の意味を知らなかったからです。 彼らの学びは無駄な学びだったのです。    私たちの学びも、いつでも無駄になりかねません。 私たちの学びは文字を越えて頭で理解し、心で受け入れ、生き方として生きていく時にやがて真の学びの意味が現れます。 その人生を通してイエス・キリストを表わす時に、私たちが学んだことが無駄なことにならないのです。    私たちは何を学びましたか。 私たちはなぜ学びましたか。 私たちはイエス・·キリストの福音を、救いのために学びました。 学んで確信したところにとどまって、そのことを実践すること、他の人々に伝えること、 私たちがそのために学んだのです。 https://youtu.be/DqVYQ6ZKU_o?si=bPrJU0tfnLC7n5_Z

요한복음 묵상 【헛된 배움】 20250124(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 7:14-24 7:14 이미 명절의 중간이 되어 예수께서 성전에 올라가사 가르치시니 7:15 유대인들이 놀랍게 여겨 이르되 이 사람은 배우지 아니하였거늘 어떻게 글을 아느냐 하니 7:16 예수께서 대답하여 이르시되 내 교훈은 내 것이 아니요 나를 보내신 이의 것이니라 7:17 사람이 하나님의 뜻을 행하려 하면 이 교훈이 하나님께로부터 왔는지 내가 스스로 말함인지 알리라 7:18 스스로 말하는 자는…

요한복음 묵상 【미움받을 용기】 20250123(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 7:1~13 7:1 이 후에 예수께서 갈릴리에서 다니시고 유대에서 다니려 아니하심은 유대인들이 죽이려 함이러라 7:2 유대인의 명절인 초막절이 가까운지라 7:3 그 형제들이 예수께 이르되 당신의 행하는 일을 제자들도 보게 여기를 떠나 유대로 가소서 7:4 스스로 나타나기를 구하면서 묻혀서 일하는 사람이 없나니 이 일을 행하려 하거든 자신을 세상에 나타내소서 하니 7:5 이는 그 형제들이라도 예수를 믿지…

ヨハネによる福音書 黙想 【嫌われる勇気】 20250123(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ヨハネによる福音書 7:1~13 7:1 その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。 7:2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。 7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。 7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」 7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。 7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。 7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。 7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」 7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。 7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。 7:11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。 7:12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。 7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。 イエス様を殺そうとする勢力のため、イエス様はユダ地方を離れ、ガリラヤに留まっておられました。ガリラヤはイエス様の故郷であり、そこにはイエス様の実の兄弟たちがいました。その時はちょうど仮庵の祭りの期間であり、兄弟たちはイエス様に対して、エルサレムに行き奇跡を行い、自らを公に示せと言いました。しかしそれは、まだイエス様を信じていない兄弟たちによる嘲りでした。イエス様を歓迎する人はおらず、イエス様が頼れる人もいませんでした。イエス様の使命の道は、憎まれるべき道だったのです。 仮庵の祭りは、出エジプトの時代にイスラエルの民が仮の住まい(幕屋)で生活したことを記念する祭りです。この祭りは、荒野の生活の中で神様の守りを覚え、仮の住まいである幕屋を通して人生という幕屋が永遠ではなく、旅人としての一時的なものであることを思い出させます。しかし、イエス様の時代の人々は、仮庵の祭りにおいてさえも自分たちの利益を考え、イエス様を殺そうとしていました。 イエス様は「時はまだ満ちていない」と言われました。人々だけでなく「時」さえもイエス様の味方ではありませんでした。イエス様は人々には時を気にする必要はないと言われました。世がイエス様を憎むのは、イエス様が世を責めたからです。人々はいつでも世と共に生きることができますが、イエス様はご自身を敵視する世の中で使命を果たすため、神様の定めた時に従って行動されなければなりませんでした。それは、逃避や回避のための時ではなく、十字架の時のためです。イエス様に従い、世に嫌われる勇気がある人であれば、イエス様に倣って時を見分け、その与えられた時に集中力を発揮することができるでしょう。

ヨハネによる福音書 黙想 【霊的な人々】 20250122(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 6:60~71 6:60 これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」 6:61 しかしイエスは、弟子たちがこの話について、小声で文句を言っているのを知って、彼らに言われた。「わたしの話があなたがたをつまずかせるのか。 6:62 それなら、人の子がかつていたところに上るのを見たら、どうなるのか。 6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。 6:64 けれども、あなたがたの中に信じない者たちがいます。」信じない者たちがだれか、ご自分を裏切る者がだれか、イエスは初めから知っておられたのである。 6:65 そしてイエスは言われた。「ですから、わたしはあなたがたに、『父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのです。」 6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。 6:67 それで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいのですか」と言われた。 6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。 6:69 私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」 6:70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかし、あなたがたのうちの一人は悪魔です。」 6:71 イエスはイスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二人の一人であったが、イエスを裏切ろうとしていた。 人々はイエス様が語られた「いのちのパン」に関する教えを理解することができませんでした。イエス様はそれをご存知で、「活かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない」と再び強調され、肉体的な理解を超えて霊的な意味を悟るよう促されました。そして、まだ「霊的であること」の定義が確立されていなかった人々に対して、霊的世界の秩序について語られました。それは、霊的であることは神様の選びと恵みに基づくものであるということです。どのような人も神様の恵みなしにイエス様のもとに来ることはできないということです。霊的であることは、人間の理解や行動、また現象によるものではありません。 これは、霊的であることが奇跡を体験することや、生活の必要が満たされる祝福を受けることを意味するものではない、ということを教えられたのです。奇跡という神秘を霊的であると考えたり、献身という行動を霊的なことだと見なす人々の考えに対し、イエス様は異議を提起されたのです。奇跡そのものが必ずしも霊的であるとは限りません。それは人間の目には不思議に映る別の現象の一つである場合もあります。同様に、人間が何らかの目的を持って献身することも必ずしも霊的であるとは言えません。イエス様が語られた最も霊的なこととは、神様に選ばれ、召されたということを知ることです。そのような人々は霊的であるがゆえに、決してイエス様を離れません。 行為と結果の因果関係を超えて考えることができなかった人々は、イエス様の霊的な解説を理解することができず、一人また一人と去っていきました。そのときイエス様は十二弟子に「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。それに対しペテロは、「主よ、永遠のいのちのことばを持っておられるのはあなたです。私たちはあなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」と告白し、イエス様を離れないと答えました。人々は奇跡という現象や献身という行為の中に、自分の信仰の確認を求めました。しかし、イエス様が教えられる霊的であることとは、ただ神様から始まることを認めることです。 さらにイエス様は、イスカリオテのユダが自分を裏切る者であることをあらかじめ告げられました。ユダは、今日イエス様が教えられた霊的であることの意味を理解できない人です。彼は神様の召しを悟ることができず、誘惑と疑いに揺れ動き、イエス・キリストを売りました。イエス様が行われた奇跡を見ることが霊的な神秘ではありません。群れの中でイエス様に従うこと自体も霊的であるとは言えません。救いの恵みは、ただ神様の召しによるものであり、それを知る人が霊的な人です。神様から始まる選びと贖いの神秘を知る人こそが、真に霊的な人なのです。