Ⅰコリント 黙想21【愛は】220530(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 13:1~713:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。   主日礼拝の説教はヘブル人への手紙11章の「信仰章」であり、朝の黙想は第一コリント人への手紙の「賜物章」です。12章で賜物を扱い,第13章では愛を扱っていますが、つながっているものです。賜物のうえ、愛を語っています。愛がより大きな賜物であると言われたのは、すべての賜物の動機に愛がなければならないということです。もっと遡ってみると、そもそも賜物を言及したのも多くの問題を抱えていたコリント教会に配慮を教えるためでした。使徒の働きの賜物は、教会を始める力であり、エペソの賜物は、教会を構成する構造であれば、コリント教会で賜物を教える目的は統合です。統合のためにすべての役割に愛の動機を持つようにと訴えているのです。   昨日の主日学校の説教は、復活されたイエス様が失敗したペテロに来られて質問したところです、「あなたは私を愛するのか」イエス様はペテロに牧羊の使命を委ねるときに、3回を繰り返してイエス様への愛を確認しました。イエス様を愛しているので、イエス様が言われた「私の羊」を飼うことができます。だから、愛はイエス様に対するものであり、その中でイエス様の「私の羊」を愛することができます。本文の13章の「愛」を「イエス様を愛する愛」と変えて読んでみると、意味はもっと明らかです。一度そのように読んでみてください。   13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、「イエス様を愛する愛」がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、「イエス様を愛する愛」がないなら、私は無に等しいのです。13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、「イエス様を愛する愛」がなければ、何の役にも立ちません。13:4 「イエス様を愛する愛」は寛容であり、「イエス様を愛する愛」は親切です。また人をねたみません。「イエス様を愛する愛」は自慢せず、高慢になりません。13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。   私はこの春に寛容ではなく、親切でもなく 礼儀に反し、苛立っていたので、この本文について話すことは恥ずかしいです。しかし、依然として「イエス様を愛する愛」ではなく、「人を愛する愛」ではそれを守り切れることはできないと思います。イエス様の愛をさらに知り、イエス様を愛するとさらに告白できる分だけ、愛はより大きくなります。 愛は信仰による賜物だからです。

고린도전서 묵상21【사랑은】220530(월) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 13:1~713:1 내가 사람의 방언과 천사의 말을 할지라도 사랑이 없으면 소리나는 구리와 울리는 꽹과리가 되고13:2 내가 예언하는 능이 있어 모든 비밀과 모든 지식을 알고 또 산을 옮길 만한 모든 믿음이 있을지라도 사랑이 없으면 내가 아무 것도 아니요13:3 내가 내게 있는 모든 것으로 구제하고 또 내 몸을 불사르게 내어줄지라도 사랑이 없으면 내게 아무 유익이 없느니라13:4 사랑은…

Ⅰコリント 黙想20【ユニバサル・チャーチ】220528(土) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 12:12~2012:12 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。12:13 私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。12:14 実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。12:15 たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。12:16 たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。12:18 しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。12:19 もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。12:20 しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。   国民と国家は、自由意思によって契約を結んでいる関係です。もし国家権力が国民のための契約を履行しなければ、国民は抵抗することと契約を破棄することができ、代替することもできます。それがルソーの社会契約論です。もちろん、国民は国家に対する義務を負います。国家があるから国民を支配するのではなく、国民がいるから国家が存在するのです。同様に、パウロは教会の働きの主体であり、有機的存在としての聖徒の位置を定めています。教会は神様のものであり、地上の教会の形成と運営には必ず聖徒の共同体性が反映されなければなりません。体を体と呼びますが、体は、部分が集まった総和を呼ぶ名です。そういう意味で、教会とは聖徒の集まりです。したがって、聖徒は教会に対する共同体の権利を持ち、同時に責任を負わなければなりません。   体を成す各部分がそれぞれ教会性を持ち、(ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。12)国籍、文化、言語、社会的身分はそれを制限しません。(私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。13)体には目と耳、足と手が必要で、その役割は異なりますが、どれも主体的かつ有機的な共同体性の責任と権利を持っています。そのためには、聖徒の成熟が必要です。ある人は階級化し、所有しようと図り、ある人は自分のことではないと無責任になるから、教会が立てられません。 優越性も無責任もいけません。互いに責任を持ち、互いを尊重するとき、聖なる公同の教会、聖徒の交わりのある神様の教会、地上の普遍的教会(Universal Church)を成すことができます。

고린도전서 묵상20【유니버셜 처치】220528(토) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 12:12~2012:12 몸은 하나인데 많은 지체가 있고 몸의 지체가 많으나 한 몸임과 같이 그리스도도 그러하니라12:13 우리가 유대인이나 헬라인이나 종이나 자유자나 다 한 성령으로 세례를 받아 한 몸이 되었고 또 다 한 성령을 마시게 하셨느니라12:14 몸은 한 지체뿐 아니요 여럿이니12:15 만일 발이 이르되 나는 손이 아니니 몸에 붙지 아니하였다 할지라도 이로 인하여 몸에 붙지 아니한 것이…

Ⅰコリント 黙想19【聖徒の彩色】220527(金) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 12:1~1112:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。12:2 ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。12:3 ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。12:4 さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。12:5 奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。12:6 働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。12:7 皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。12:8 ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。12:9 ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、12:10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。12:11 同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。   同じ一つの御霊からそれぞれの賜物が出てくるのは、一つの御霊がそれぞれ異なる賜物を通して一つを成すためです。枝が伸びるのは木をなすためであり、賜物の目的は教会です。賜物はそれを建てるために必要な道具です。宣教の主である聖霊が聖徒に賜物を与えることは、教会を立てるためです。問題は、自分が持っている賜物と秘められている賜物に気づかず、開発せず、活用しないことです。現金化できる才能は競争的に育てますが、教会に仕えるための賜物は育てようとしないようです。   ある人は聖霊を抽象的い言い、ある人は文字の中に聖霊を閉じ込めますが、聖霊は神様の霊ですから、人間の秩序の中に現れることがあれば、その外で働くこともあります。謙遜な者には弱さを変え、強くすることができますが、誇り高ぶる者の強さは弱くすることもできます。聖霊の賜物と聖徒の従順が合わされるとき、弱いものが強くなる奇跡は起こります。   パウロは「御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません1」と言います。聖霊の力を認め、受け入れ、それを求めなければなりません。私は聖霊の賜物を慕い求めます。愚かなときに知恵を、根拠が見つからないときに知識を、恐れ震えるたときに信仰を、聖徒が病むときには癒しの賜物を、悪霊につかれ、人間性を失ったもののために悪霊を追い払う力を、預言する権威を、欺くことにわきまえる力を、神様の御心の祈りを、それを知らせる信頼を…慕い求めます。   しかし、すべてが与えられることではないかもしれません。12色の絵の具がそれぞれ美しいですが、パレットに絞って混ぜると、泥沼の色になります。それぞれが別々になっているときがきれいです。それを揃えてみるとされにきれいです。黄は赤の隣にあってきれいで、赤は青の隣にあって美しいです。今までパウロの雄弁のハッシュタグは#調和と配慮だったと思います。それぞれ異なる賜物がありますが、お互いを認め合い、配慮し、調和すれば、教会と聖徒はさらに成長していきます。

고린도전서 묵상19【성도의 채색】220527(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 12:1~1112:1 형제들아 신령한 것에 대하여는 내가 너희의 알지 못하기를 원치아니하노니12:2 너희도 알거니와 너희가 이방인으로 있을 때에 말 못하는 우상에게로 끄는 그대로 끌려 갔느니라12:3 그러므로 내가 너희에게 알게 하노니 하나님의 영으로 말하는 자는 누구든지 예수를 저주할 자라 하지 않고 또 성령으로 아니하고는 누구든지 예수를 주시라 할 수 없느니라12:4 은사는 여러 가지나 성령은 같고12:5 직임은 여러…

Ⅰコリント 黙想18【ガチョウの夢】220526(木) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 11:27~3411:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。11:30 あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。11:31 しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。11:32 私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。11:34 空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。   33節の「ですから」は、コリント教会の聖餐式に現れた問題をまとめる結論的な勧告のための接続詞です。そして「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。」と言います。時間とお金がある豊かな人はは食べ物を持って先に来ますが、貧しくて忙しい労働者は手ぶらでしかも遅く来ます。パウロの結論は、兄弟たちが来るのを待ち合わせるということです。お互いを待ち合わせるということは、お互いのために待つということでしょう。全員が聖餐に参加するためです。もし、食べ物を作る集まりでしたら、皆が早くから来て互いに奉仕するように進められたと思います。ともにするということは、必ず誰かの犠牲が伴うことだからです。パウロはそれが最も大切なことだと思ったので、残りは後で教えるということで省きます。   みんなで聖餐に参加するために待ち合わせるということから、ある神学者の遺言が思い出されました。チェコのプラハ広場にはヤン・フス(Jan Hus)という神学者の像があります。ヤン・フスは15世紀に堕落した教会の時代にみことばと聖餐を改革しようとしたことで、異端とされ、火型された人です。彼が死んだのは、司祭だけが受けていた聖餐の杯をすべての聖徒に分け、さらにチェコ語で説教したからです。チェコ語でHusはガチョウです。人々はヤン・フスの改革的な説教をガチョウのきゃあきゃあの音だとからかいました。ヤン・フスは遺言を残しました。「ガチョウの夢は叶わなかったが、いつかガチョウの夢は必ず叶えられて空を飛ぶだろう」彼の死後、100年後に宗教改革が起こり、ガチョウの夢は叶われました。「ですから、互いに待ち合わせなさい」…教会は、すべての人に聖餐を配餐されるガチョウの夢を見ながら待ち合わせます。

고린도전서 묵상18【거위의 꿈】220526(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 11:27~3411:27 그러므로 누구든지 주의 떡이나 잔을 합당치 않게 먹고 마시는 자는 주의 몸과 피를 범하는 죄가 있느니라11:28 사람이 자기를 살피고 그 후에야 이 떡을 먹고 이 잔을 마실지니11:29 주의 몸을 분변치 못하고 먹고 마시는 자는 자기의 죄를 먹고 마시는 것이니라11:30 이러므로 너희 중에 약한 자와 병든 자가 많고 잠자는 자도 적지 아니하니11:31 우리가 우리를…

Ⅰコリント 黙想17【害になる集まり】220525(水) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 11:17~2611:17 ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。11:18 まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。11:19 実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。11:21 というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。11:22 あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。   パウロの一貫した口調は断固とした懲らしめの言葉ですが、一方、一貫した主題は共同体の中のお互いへの配慮です。言い換えれば、配慮することができない人々への断固たる懲らしめです。教会に分派ができるということは自然となるものではありません。配慮のどころか誰かの欲と誇りと離間をはかるによります。そのような人々によって教会は分裂されます。   福音と共同体は弱虫ではありません。福音の中には、赦しと厳しさ両方があります。パウロは彼らに、「神の教会を軽んじて22」と叱責しました。赦しの福音を語るパウロですが,共同体を妨げ、悔い改めなしで済むことにだまされたことはありません。悔い改めがない赦しは愛ではなく無責任です。愛と卑怯を区別しなければなりません。   どのような時代にも貧富の差はあります。コリントもそうでした。確かに聖書は集まることを励ましていますが,パウロはコリントの集まりを「益にならず、かえって害になっている」と言います。コリントの人々は何を間違ったのでしょうか?主の晩餐の日は、聖徒がそれぞれ自分の食べものを持ちよって集まるポトルックパーティー(Potluck Party)でした。すでに分派を形成している裕福な人々は、良い食べ物と良いぶどう酒を持ってきて酔うまで楽しみ、貧しい人々は食べ物がなかったので、何も食べずに帰りました。「あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。22」   パウロだけが厳しい訳ではありません。私が読み、知っているイエス様も厳しい方です。イエス様であったなら、彼らの食卓をひっくり返し、教会から追い出したと思います。お金が多いというのは、世では誇るべきことかもしれません。しかし、それをもって教会の中で誇るものなら、教会では未熟児です。彼らは当然として教会の食事や交わりのために、より多くの財政を担当しなければなりませんでした。それは自律という名より、良心と常識という言葉がよりよく似合います。   今日の本文に出てきた主の晩餐とは、礼拝後の食事ではありません。初代教会では聖餐と愛餐会が区別されていませんでした。金持ちが酔うまで飲み、貧しい人が何も食べずに帰ったその集まりはすなわち聖餐式でした。主の日に主の血と肉を犯す罪を犯したのではないでしょうか。しかし、彼らはこれが恐ろしい警告であることかが分かりませんでした。今朝もこのコリントの手紙のパウロの怒りの警告が与えられています。恐れをもって反省したいと思います。

고린도전서 묵상17【고린도의 해로운 모임】220525(수) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 11:17~2611:17 내가 명하는 이 일에 너희를 칭찬하지 아니하나니 이는 저희의 모임이 유익이 못되고 도리어 해로움이라11:18 첫째는 너희가 교회에 모일 때에 너희 중에 분쟁이 있다 함을 듣고 대강 믿노니11:19 너희 중에 편당이 있어야 너희 중에 옳다 인정함을 받은 자들이 나타나게 되리라11:20 그런즉 너희가 함께 모여서 주의 만찬을 먹을 수 없으니11:21 이는 먹을 때에 각각 자기의…