Ⅰコリント 黙想16【美しい配慮】220524(火) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 11:2~1611:2 さて、私はあなたがたをほめたいと思います。あなたがたは、すべての点で私を覚え、私があなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。11:3 しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。11:4 男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。11:5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。11:6 女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。11:7 男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。11:8 男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。11:9 また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。11:10 それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。11:11 とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。11:12 女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。11:14 自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、11:15 女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。11:16 たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。   パウロは引き続き、教会の中で混乱や紛争のない成熟した秩序を維持するために、公的な礼拝での姿勢と服装、聖餐などについてお勧めします。今日は服装についてです。すでにコリント教会はユダヤ人の会堂ではありません。ユダヤ教と分離したクリスチャンだけの礼拝をささげていました。ユダヤ人の会堂では、男性だけが礼拝を導く役割を担い、女性には制限されました。礼拝も男女が分けて別に差し上げました。明らかに、女性の権限は制限され尊重されていません。   しかし、クリスチャンは男性と女性が一緒に礼拝しました。教会と礼拝と宣教のために女性がどれほど重要な役割を果たしたかは、パウロの手紙で登場する女性を通して知ることができます。それは女性にとって社会的な解放であり、尊重でした。同等の資格が与えられたのです。女性たちに礼拝に仕える役割が与えられたのは、パウロの性認知感受性(Gender Sensitivity)が先進的に開放されていたからです。問題は、女性が公的礼拝で奉仕の役割をするときに頭にかぶり物を使わなかったことで起こりました。同等になったという自意識が頭にかぶり物を着けるという形式をも捨てたのです。私たちが見ると、それも十分に可能な変化だと思います。今は頭にかぶり物を着けません。   しかし、パウロは反対します。パウロの性認知が後退して女性は劣等だから、頭にかぶり物を着けるということではありません。このような話が確かに性差別的に誤解される余地はありますが、パウロは一貫して当時の露骨な性差別的文化の中で女性を解放していることを認めなければなりません。当時、1世紀にローマが支配する社会で結婚した女性は、誰もが頭にかぶり物を着けなければなりませんでした。   私たちは、コリントの堕落した性的文化についてパウロが心配していることを知っています。コリントの売春婦は公共の場所で頭に何もかぶらずに男性を誘惑しました。当時、それは刺激的な露出であるわけです。明らかに脱線的なイメージでした。そのような文化の中で、公的礼拝の間に女性がかぶり物を着けないことは、男性に混乱を引き起こす可能性が十分にあります。このようなことは、女性の権利伸長にかえって良くない世論を作ります。ですから、パウロは上品さを守り、お互いを配慮するために頭にかぶり物を着けるように言ったのです。   原理と目的を見つければ良いのです。公的礼拝でお互いを配慮し、端正して礼拝に参加することは、律法的な規定と変化する時代のファッションを超えて常に必要とする徳目です。男性優越思想に反対し、女性人権の伸長に賛成します。しかし、男女は敵ではありません。過激なフェミニズムは、むしろ逆効果を呼ぶかもしれません。お互いの役割と尊厳を認め、配慮することが、神様の創造秩序に従うことです。

고린도전서 묵상16【단정한 배려】220524(화) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 11:2~1611:2 너희가 모든 일에 나를 기억하고 또 내가 너희에게 전하여 준대로 그 유전을 너희가 지키므로 너희를 칭찬하노라11:3 그러나 나는 너희가 알기를 원하노니 각 남자의 머리는 그리스도요 여자의 머리는 남자요 그리스도의 머리는 하나님이시라11:4 무릇 남자로서 머리에 무엇을 쓰고 기도나 예언을 하는 자는 그 머리를 욕되게 하는 것이요11:5 무릇 여자로서 머리에 쓴 것을 벗고 기도나 예언을…

Ⅰコリント 黙想15【神の栄光のために】220522(月) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 10:23~11:110:23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。10:24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。10:25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。10:26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。10:27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。10:28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。10:29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。10:30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。   パウロはすべてが可能ですが、すべてが徳を高めることではないと言います。つまり、口正しい言葉はありますが、それより上位の言葉は徳を高める言葉です。自分の主張や立場を貫くよりは、他人の立場をより配慮することです。とういうことでパウロは他人の良心のために食べなさいと言います。コリントに色々な人々が様々な問題を起こしていました。徳を立てるというのは、そのようなコリントでパウロが伝える最善の言葉かも知れません。パウロにも怒りがあり、失望がありますが、教会のためにお互いを受け入れることをお勧めしています。   昨日の礼拝でレビ記の食べ物規定を読みましたが、コリント教会はその問題で苦しんでいます。パウロは、食事に招かれた場合に食べ物を区別せずに、与える人を考えて食べ物の規定を問わずに食べなさいと言います。それは律法を破ることでもなく、人を疑うことでもなく、失礼を犯すことでもないからです。しかし、誰かがそれが偶像に使った供え物であると言うならば、事実が確認されたので、それを言ってくれた人の信仰と立場のために食べてはいけないということです。様々な人々を抱きたいというパウロの努力です。   偶像崇拝の問題,食べ物規定の問題の間で争いが起き,理解がぶつかり,信仰の段階が教会の中で葛藤を起こすとき,パウロは徳を高めるということで問題を解決するようにと勧めます。それが神様の栄光のために食べ、また飲むことになります。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。31,32」複雑な神学的問題の解決策は、聖徒の成熟した意識です。立場と意識はそれぞれ異なります。しかし、徳を高める信仰を持ち、教会の一致を妨げてはいけません。世のものを食べても、教会のものを食べても、すべてを神様の栄光のためにそれを食べ、また飲みたいと思います。

고린도전서 묵상15【하나님의 영광을 위하여】220523(월) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 10:23~11:110:23 모든 것이 가하나 모든 것이 유익한 것이 아니요 모든 것이 가하나 모든 것이 덕을 세우는 것이 아니니10:24 누구든지 자기의 유익을 구치 말고 남의 유익을 구하라10:25 무릇 시장에서 파는 것은 양심을 위하여 묻지 말고 먹으라10:26 이는 땅과 거기 충만한 것이 주의 것임이니라10:27 불신자 중 누가 너희를 청하매 너희가 가고자 하거든 너희 앞에 무엇이든지 차려…

Ⅰコリント 黙想14【今、ここで】220521(土) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 10:1~1310:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、10:3 みな、同じ霊的な食べ物を食べ、10:4 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。10:5 しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。10:6 これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。10:7 あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。10:8 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。10:9 また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。10:10 また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。10:13 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。   9章で「むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。27」と言われたのは、謹慎する思いです。謹慎する人は、謙虚に過去を振り返り、自分を省察し、歴史的な教訓から学びます。パウロはイスラエルの虚しい歴史、イスラエルの民が神様の前で失敗したことを言い出します。それを読んでみると、不従順の歴史が苦しいです。「私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。1」過越を経験し、乾いた紅海を渡った奇跡、雲の柱、火の柱で守られた恵みを経験しました。しかし、その奇跡の恵みは信仰につながりませんでした。「みな、同じ霊的な食べ物を食べ、みな、同じ霊的な飲み物を飲みました 3,4」彼らはまた毎日に奇跡的な食事をしました。マナを食べました。しかし、マナに飽きます。岩から水が出て、水を飲んだことも覚えませんでした。お腹が空いたたびに、のどが渇いたたびに、疲れたたびに、モーセを殺そうとしました。不平不満を言い、モーセに対抗して多くの人が死にました。「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました 5」   パウロはこれを持って現在を解釈します。「あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れたと書いてあります。また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。7,8」出エジプト記32章で、モーセが律法を受けに行った間、アロンと人々は金の子牛を作り、それに仕えました。そのことで3千人を死にます。民数記25章にイスラエルの民がモアブの女性たちと淫行し、異邦の神に仕え、その日に2万3千人が死にました。コリントには偶像の神殿で働く公式の売春婦が千人もいたそうです。祭司というのはつまり淫行でした。パウロはそれと戦わなければなりませんでした。行為で救われません。ただ信仰に寄ります。しかし、人生の行為が信仰の真意を証明します。それらと戦わなければなりません。感謝を忘れ、神様の民であることを忘れ、恨み、不平不満をつぶやき、淫らで、高ぶる人は倒れます。 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい 12」すべてのクリスチャンには時代という使命が与えられています。 「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。13」たとえ、嬉しくない環境であっても、それが自分自身に与えられた信仰の舞台です。今、ここで恵みを覚え、自分を振り返り、信仰の歩みを続けなければなりません。

고린도전서 묵상14【지금 여기서】22005221(토) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 10:1~1310:1 형제들아 너희가 알지 못하기를 내가 원치 아니하노니 우리 조상들이 다 구름 아래 있고 바다 가운데로 지나며10:2 모세에게 속하여 다 구름과 바다에서 세례를 받고10:3 다 같은 신령한 식물을 먹으며10:4 다 같은 신령한 음료를 마셨으니 이는 저희를 따르는 신령한 반석으로부터 마셨으매 그 반석은 곧 그리스도시라10:5 그러나 저희의 다수를 하나님이 기뻐하지 아니하신고로 저희가 광야에서 멸망을 받았느니라10:6…

Ⅰコリント 黙想13【パウロの常況化】220520(金) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 9:19~279:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。9:21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。9:22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。9:23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。9:24 競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。9:25 競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。9:26 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。9:27 むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。   ティムケラーの本を紹介しながら、常況化あるいは文脈化(contextualization)という話をしました。常況化とは、福音と教会が置かれている文化的な状況に接近していく過程です。与えられた時代には社会的かつ文化的な文脈というものがあるので、福音宣教のためにはそれを理解し、福音とつながる言語とコードを見つけなければなりません。確かに時代は変わりつつあります。その中で教会が昔のことにこだわっていると、次の時代には教会は残っていません。福音は変わりません。しかし、変わる世に変わらない福音を伝えるためには、常況化(contextualization)という積極的な対応が必修です。   「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。26」パウロは時代の戦略を持っていました。常況化(contextualization)は、確かに最近、教会と宣教論の間で話題になっている主題ですが、パウロは初代教会の宣教からすでにこの常況化(contextualization)について悩んでいた宣教師です。パウロはユダヤ人を福音に導くために、ユダヤ人の考え方と言語をもって福音を伝えました。ギリシャ人には、ギリシャの世界観に接続し、彼らが分かる言語で福音を伝えました。パウロ自身はユダヤ人ですが、パウロが律法のない者のようになったのは、律法のない者たちに福音を伝えることです。弱い者のためには弱い者のようになりました。   同時代を生きても、それぞれの生きているの場から見る世界はそれぞれ違います。視点は立体的に多様です。異なる文化、言語、階層、宗教、民族的な背景の上で教会を築きます。彼らを共感しなければ、彼らはたわしたちが伝える福音を共感しません。難しいことですが、福音にはその共感能力があります。時代の認識と目標なしに走ることではありません。悪魔のせいにして、空を打つような拳闘もしません。私たちの福音を私たちの時代に伝えるために戦略を立て、具体的な言語を確保し、世界の数多くの多様性に対してキリストの福音を伝えなければなりません。

고린도전서 묵상13【바울의 상황화】2200520(금) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 9:19~279:19 내가 모든 사람에게 자유하였으나 스스로 모든 사람에게 종이 된 것은 더 많은 사람을 얻고자 함이라9:20 유대인들에게는 내가 유대인과 같이 된 것은 유대인들을 얻고자 함이요 율법 아래 있는 자들에게는 내가 율법 아래 있지 아니하나 율법 아래 있는 자 같이 된 것은 율법 아래 있는 자들을 얻고자 함이요9:21 율법 없는 자에게는 내가 하나님께는 율법 없는…

Ⅰコリント 黙想12【やらなくてはいられないこと】220519(木) 枝川愛の教会

Ⅰコリント 9:13~189:13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。9:14 同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。9:16 私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。9:17 私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。   福音を伝えることにも財政は必要です。専任教職であれば給料を受けなければ専任の仕事をすることができません。パウロはここで自分はその財政を使わなかったと言いますが、その理由は、財政が必要でないからではなく、正当性がないからでもなく、財政が供給されていなかったからです。パウロに財政がまかなわれたなら、福音のために、そしてそれのための自分の生活の安定のために、有効に用いたと思います。しかし、財政を供給すべき人々はそれを担いたくありませんでした。   彼らはパウロのために支えなかったし、パウロもそれを受けようとしませんでした。読んでみると、パウロが怒っていることがわかります。お金のことではありません。パウロは「それを用いるよりは死んだほうがましです15」と言ったほどに誤解されながら財政を用いたくはなかったのです。しかし、福音は伝えなければならず、働き者は生活しなければなりません。それでパウロはアルバイトをして生活費と働きに必要はお金を設けました。もちろん、パウロがずっとアルバイトをしたことではありません。宣教に専念したときがもっと長いです。そして、忠実にパウロの働きを支えてきた教会と人々も確かにいます。   牧師にこのような話は嬉しいテーマではありません。おそらくパウロもそうだったと思います。いわば牧師も人ですから傷つきます。ある牧師は、自分が傷つきたくないように教会と聖徒を支配しようとします。自分が欠乏されたくないから欲張ります。弱いからです。怖がるだからです。だからといって情状を酌量するわけではありません。牧師にとっても聖徒にとっても、教会が神様のものであるという事実を忘れてはいけません。今日の誓いは、18節に代わりにします。「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。18」

고린도전서 묵상12【내가 부득불 해야 할 일】2200519(목) 에다가와 사랑의 교회

고린도전서 9:13~189:13 성전의 일을 하는 이들은 성전에서 나는 것을 먹으며 제단을 모시는 이들은 제단과 함께 나누는 것을 너희가 알지 못하느냐9:14 이와 같이 주께서도 복음 전하는 자들이 복음으로 말미암아 살리라 명하셨느니라9:15 그러나 내가 이것을 하나도 쓰지 아니하였고 또 이 말을 쓰는 것은 내게 이같이 하여 달라는 것이 아니라 내가 차라리 죽을지언정….. 누구든지 내 자랑하는 것을 헛된…