요한복음 묵상 【심판하는 권세】 20250116(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 5:19~29 5:19 그러므로 예수께서 저희에게 이르시되 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 아들이 아버지의 하시는 일을 보지 않고는 아무것도 스스로 할 수 없나니 아버지께서 행하시는 그것을 아들도 그와 같이 행하느니라 5:20 아버지께서 아들을 사랑하사 자기의 행하시는 것을 다 아들에게 보이시고 또 그보다 더 큰 일을 보이사 너희로 기이히 여기게 하시리라 5:21 아버지께서 죽은 자들을 일으켜…

ヨハネによる福音書 黙想 【治らない病気】 20250115(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

ヨハネによる福音書 5:1~18 5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 5:2 エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があり、五つの回廊がついていた。 5:3 その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。 5:5 そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。 5:6 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」 5:7 病人は答えた。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」 5:8 イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」 5:9 すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。 5:10 そこでユダヤ人たちは、その癒やされた人に、「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない」と言った。 5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」 5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか。」 5:13 しかし、癒やされた人は、それがだれであるかを知らなかった。群衆がそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。 5:14 後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」 5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を治してくれたのはイエスだと伝えた。 5:16 そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。 5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」 5:18 そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。 イエス様はユダヤ人の祭りの時にエルサレムに上がられました。エルサレムには「ベテスダ」という池があり、その池の周りには多くの病人たちが集まっていました。伝説によると、天使が下りて池の水を動かしたとき、最初にその池に入る人が癒されると信じられていました。 イエス様は38年間その池のそばに横たわっていた一人の男性に近づき、質問されました。「あなたは良くなりたいのですか?」この質問を聞いたなら、「はい、良くなりたいです」と答える以外に他の言葉は不要な場面です。何を言うにしても、まず「はい、良くなりたいです」と言うべきだと思えます。 しかし、その38年間病に苦しんでいた男性はこう答えました。「水が動いたときに私を池に入れてくれる人がいません。」「あなたは良くなりたいのですか?」という質問に、「他人が助けてくれなかった」と答えるのです。この人の最も重い病は、38年間他人に依存し、自分の人生を他人のせいにしてきた病です。 イエス様はそのような迷信的な信仰を持ち、自分の人生に無責任で周囲を恨みながら生きてきた彼にも、慈悲を示し癒してくださいました。「起き上がり、自分の寝床を持って歩きなさい」と言われました。両足で立ち、自立し、自分の荷物を自ら背負い、自分の進むべき道を歩んで行きなさいという意味です。 その日は安息日で、イエス様を罠にはめようと常に見張っていた人たちは、イエス様が安息日にしてはならないことをしたと言いがかりをつけました。病人を癒したのは医療行為だから、労働してはいけない安息日に医療行為を行ったという理屈です。 ユダヤ人たちがその証拠を探そうとすると、38年間病に伏せていた男性は、自分を癒してくれた方がイエス様だとユダヤ人たちに告げます。それはつまり告げ口のようなものです。言い換えれば、自分を癒してくれたイエス様にさえも責任を転嫁したのです。 彼が38年間池のそばに座っているしかなかった病名は正確にはわかりません。ただ、後にイエス様が彼に「より重い病が再発しないように、罪を犯してはならない」と言われた言葉から見ると、彼の病が彼の罪によるものであったことがわかります。彼が抱えていた病は、誰かに依存する病であり、より大きな病は他人を恨み、責任を転嫁する病でした。そしてそれ以上に大きな病は、救いを受けてもそれを恵みではなく神様のせいにするという滅びの病でした。

요한복음 묵상 【고치지 못한 병】 20250115(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 5:1~18 5:1 그후에 유대인의 명절이 있어 예수께서 예루살렘에 올라가시니라 5:2 예루살렘에 있는 양문 곁에 히브리 말로 베데스다라 하는 못이 있는데 거기 행각 다섯이 있고 5:3 그 안에 많은 병자 소경 절뚝발이 혈기 마른 자들이 누워 (물의 동함을 기다리니 5:4 이는 천사가 가끔 못에 내려와 물을 동하게 하는데 동한 후에 먼저 들어가는 자는 어떤 병에…

요한복음 묵상 【말씀하신 그 때】 20250114(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 4:43~54 4:43 이틀이 지나매 예수께서 거기를 떠나 갈릴리로 가시며 4:44 친히 증거하시기를 선지자가 고향에서는 높임을 받지 못한다 하시고 4:45 갈릴리에 이르시매 갈릴리인들이 그를 영접하니 이는 자기들도 명절에 갔다가 예수께서 명절 중 예루살렘에서 하신 모든 일을 보았음이더라 4:46 예수께서 다시 갈릴리 가나에 이르시니 전에 물로 포도주를 만드신 곳이라 왕의 신하가 있어 그 아들이 가버나움에서 병들었더니…

ヨハネによる福音書 黙想 【言われた時刻】 20250114(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 4:43~54 4:43 さて、二日後に、イエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。 4:44 イエスご自身、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言なさっていた。 4:45 それで、ガリラヤに入られたとき、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、それは、イエスが祭りの間にエルサレムで行ったことを、すべて見ていたからであった。彼らもその祭りに行っていたのである。 4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。イエスが水をぶどう酒にされた場所である。さてカペナウムに、ある王室の役人がいて、その息子が病気であった。 4:47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。そして、下って来て息子を癒やしてくださるように願った。息子が死にかかっていたのである。 4:48 イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」 4:49 王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」 4:50 イエスは彼に言われた。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」その人はイエスが語ったことばを信じて、帰って行った。 4:51 彼が下って行く途中、しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。 4:52 子どもが良くなった時刻を尋ねると、彼らは「昨日の第七の時に熱がひきました」と言った。 4:53 父親は、その時刻が、「あなたの息子は治る」とイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。 4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに来てから、これを第二のしるしとして行われた。 イエス様はサマリアで二日間滞在された後、ガリラヤに移動されました。イエス様の故郷であるガリラヤの人々がイエス様を歓迎したのは、彼らがエルサレムでイエス様が行われた事柄を見たからです。私たちは物質や健康を与える奇跡を喜びますが、その奇跡を行うイエス様ご自身にはあまり関心を持たないことが多いです。 イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行われた場所も、ガリラヤのカナでした。カペナウムからある王の役人がイエス様のもとを訪れました。病気で死にかけている自分の息子を救ってもらうためでした。イエス様はその役人にも、奇跡を求めることが信仰ではないと語られました。しかし、彼は切実で緊急な状況にあり、イエス様はその懇願を聞き入れられました。そのため、癒しの奇跡は神の領域ではなく、人間的な領域で起こったと言えます。 イエス様が「あなたの息子は治ります。」と言われたとき、役人はその言葉を信じて家に戻りました。帰る途中で、自分のしもべたちに出会い、息子が治ったという知らせを聞きました。役人は息子が癒された時間が、イエス様が「治った」と言われたその時間であることを確認し、彼とその家族全員がイエス様を信じました。イエス様が奇跡を行われたのは、人々が信じるためでした。 水がぶどう酒に変わったとしても、ぶどう酒を飲んで酔った人はそれで終わりでしょう。また、病が癒された人も日常に戻れば、元通りになりがちです。ぶどう酒はいつかなくなるでしょうし、人間の体もまた病にかかり、いずれは死にます。このように危機を何度も超えるためにイエス様を求める人々に、イエス様は「また奇跡が必要か」と問いながらも、そのたびに癒してくださったのです。 壺の水は、イエス様が「宴会のところに持って行きなさい」と言われたときにぶどう酒に変わり、「あなたの息子は治ります」と言われたその瞬間に息子は治りました。手が届かない所のための祈りは常に私の中にありますが、どんな奇跡より、奇跡中の奇跡である神の御言葉を求めるべきです。奇跡は確かに存在しますが、奇跡のためにあるのではなく、御言葉が肉となった神様が現れるためにあります。奇跡は御言葉のうちにあります。

요한복음 묵상 【정오의 희망곡】 20250113(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 4:27~42 4:27 이 때에 제자들이 돌아와서 예수께서 여자와 말씀하시는 것을 이상히 여겼으나 무엇을 구하시나이까 어찌하여 저와 말씀하시니이까 묻는 이가 없더라 4:28 여자가 물동이를 버려두고 동네에 들어가서 사람들에게 이르되 4:29 나의 행한 모든 일을 내게 말한 사람을 와 보라 이는 그리스도가 아니냐 하니 4:30 저희가 동네에서 나와 예수께로 오더라 4:31 그 사이에 제자들이 청하여 가로되…

ヨハネによる福音書 黙想 【正午の希望】 20250113(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 4:27~42 4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。 4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。 4:29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」 4:30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。 4:31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。 4:32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」 4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」 4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。 4:35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。 4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。 4:37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。 4:38 わたしはあなたがたを、自分たちが労苦したのでないものを刈り入れるために遣わしました。ほかの者たちが労苦し、あなたがたがその労苦の実にあずかっているのです。」 4:39 さて、その町の多くのサマリア人が、「あの方は、私がしたことをすべて私に話した」と証言した女のことばによって、イエスを信じた。 4:40 それで、サマリア人たちはイエスのところに来て、自分たちのところに滞在してほしいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在された。 4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。 4:42 彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。」 サマリアの女の物語は今日の本文で終わります。ヨハネの福音書4章が始まると同時に、イエス様とサマリアの女の出会いが描かれます。この女はずっと、イエス様に対して皮肉な態度を取り続けます。井戸のそばでイエス様は、「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」と言われました。本当に渇いていたのは旅の途中のイエス様ではなく、この世に心を寄せる場所がなかったサマリアの女でした。彼女は恥辱と苦労の人生を歩んでいました。エルサレムとサマリアは互いに嫌悪し合い、それぞれの誇りを守って生きていました。イエス様は、エルサレムでもサマリアでもない「御霊と真理による礼拝」について語られました。 その後に続くのが今日の本文です。女は水がめを置いて村に戻り、人々にイエス様について伝えました。人目を避けていた彼女は恥を忘れ、後先考えずに伝道者となりました。人々が集まり、食事を勧める弟子たちに対し、イエス様は「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と語られました。収穫の時が来ており、蒔く者と刈る者が共に報酬を受け、努力していない者も報いを受けると言われます。こんな秩序ってあるのでしょうか?因果応報を覆すような論理ですが、多くのサマリア人たちはその言葉を聞いて信じました。失敗し、疎外された人間に因果応報は責任を押しつけて死ねと言うだけではないでしょうか?しかし、救いとはそれでもなお「生きなさい」と語るものです。イエス様の説教こそが恵みの秩序であり、愛の論理です。 サマリアの女の物語は単なるエピソードではありません。それはまるで福音を凝縮した短編小説のようです。「サマリアの女」という言葉は、サマリアに住む女性を指す意味ですが、その中には含蓄的な意味があります。サマリアは疎外された土地であり、女はその中でもさらに疎外された存在でした。サマリア人は、北イスラエルがアッシリア帝国に滅ぼされ、北方民族と混ざり合った混血の民族です。ヤコブの失われた子たち、忘れられた神の民です。この女は温かい家庭の幸せを味わったことのない不幸な女性でした。したがって、「サマリア」という名と「女」という名には重なり合う悲しみがあります。その女の名前さえ残っていないため、「サマリアの女」という名はさらに悲しいものです。 イエス様はその場所に来られました。正午に人目を避けていた穢れた女に会うために来られました。幾重にも積み重なった不幸と絶望に語りかけるために来られました。渇きを自覚させ、飢えを知らせ、渇くことのない生ける水と神の救いを成し遂げる糧を与えるために来られたのです。礼拝すべき場所はエルサレムでもサマリアでもありません。人間の内には正義がありません。明白な不正に怒りを覚えることはできても、正義を実現する力は誰にもありません。誰も善ではなく、何も正しくはありません。正しいと自負する人間は自分の不正を強調しているにすぎません。 哀れな罪人たちは、神に礼拝する時だけ義について考えることができます。だからこそ、罪人が礼拝に進むことができるようにイエス様が来られたのです。自分の力と努力で自ら這い上がることができないサマリア。そのようなサマリアの中でも軽蔑されるべき一人の女は、自分の実力や努力ではなく、救い主に出会いました。二度と渇かない生ける水を飲みました。誰にでもそうであるように、私にもそうであったように、それは枯れ果てた正午に予期せず出会った救いでした。渇きと飢え、恥辱と嘲笑で始まったヨハネの福音書4章という短編小説は、罪人を救う愛という最も正義にかなった物語で幕を閉じました。

ヨハネの福音書 黙想 【井戸にある意図】 20250111(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 4:1-14 4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、 4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが── 4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。 4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。 4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。 4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。 4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。 4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。 4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。 4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。 4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」 4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。 4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」  誰も来るはずがない時間の井戸に、イエス様とあるサマリアの女が話をすることになりました。 ユダヤ人の時間で6 時は、私たちの時間で正午に近い時間です。 その最も暑いときに、サマリア人の女は井戸に水を汲みに来ていたのです。 ただ忙しくて、暇な時間ができて来ていたのではなく、この女は意図的に人々を避けて、この時間に井戸に来たのです。    そしてイエス様もやはり単純にガリラヤに行く途中に寄っていたことでも、たまたまそこを通り過ぎることになったわけではなく、明確な意図を持って、その井戸に向かっいました。 それは意図的に人々を避けていたこのサマリアの女と出会うため、そしてその女に永遠のいのちへの水を与えるためです。    このような神様の意図された出会いは、私たちの人生の中でも依然として行われています。 まさに私たちが隠したい罪と恥、罪の本性のところに訪ねてくるイエス様との出会いです。 イエス様は私たちがその罪を認識し、それに苦しんでいる時に、私たちと出会ってくださいます。 そのような罪から私たちを救うためにこの地に来られた方であるからです。    そのイエス様がどのようなお方なのか知らなかった時の私たちは、私たちの隠したいところに訪れてくるイエス様を追い出そうとし、拒否してしまいます。しかし、イエス様を知ってからは、むしろそこにイエス様を迎え、求めるようになります。 その問題から解放されるための唯一の道であるイエス様を、永遠のいのちへの水を求めるようになるのです。    この井戸での出会いはイエス様とサマリア人の女、ただ二人だけの時間でした。 いつもイエス様に付いて来ていた群れも、弟子たちもこの時間だけはそこにいませんでした。 その時間の中で、サマリアの女はイエス様という永遠のいのちへの水を受け入れることができたのです。この井戸にはそのような神様の意図があったのです。    教会という一つのからだ、共同体として共にイエス様に仕え、イエス様に向かって進みますが、その前、先に一人ひとりとしてイエス様に出会わなければなりません。 共同体が一人の人がイエス様に進むように助けることはできますが、その場所まで一緒に付いて行くことはできません。イエス様は一対一でその人との出会いを待っておられるためです。そのイエス様に会いに行く場所は私たちの罪、私たちの弱さと恥で自らは進んで行きたくない場所です。しかし、て私たちはそこに進んでから初めて、イエス様による自由を経験することになります。 https://youtu.be/V0M1OKDUoRs?si=ZfgpOHsjX5Arn6f8

요한복음 묵상 【우물가의 만남】 20250111(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 4:1-14 4:1 예수께서 제자를 삼고 세례를 베푸시는 것이 요한보다 많다 하는 말을 바리새인들이 들은 줄을 주께서 아신지라 4:2 (예수께서 친히 세례를 베푸신 것이 아니요 제자들이 베푼 것이라) 4:3 유대를 떠나사 다시 갈릴리로 가실새 4:4 사마리아를 통과하여야 하겠는지라 4:5 사마리아에 있는 수가라 하는 동네에 이르시니 야곱이 그 아들 요셉에게 준 땅이 가깝고 4:6 거기 또…

ヨハネの福音書 黙想 【同じ目標、同じ道】 20250110(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 3:22-36 3:22 その後、イエスは弟子たちとユダヤの地に行き、彼らとともにそこに滞在して、バプテスマを授けておられた。 3:23 一方ヨハネも、サリムに近いアイノンでバプテスマを授けていた。そこには水が豊かにあったからである。人々はやって来て、バプテスマを受けていた。 3:24 ヨハネは、まだ投獄されていなかった。 3:25 ところで、ヨハネの弟子の何人かが、あるユダヤ人ときよめについて論争をした。 3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証しされたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」 3:27 ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。 3:28 『私はキリストではありません。むしろ、その方の前に私は遣わされたのです』と私が言ったことは、あなたがた自身が証ししてくれます。 3:29 花嫁を迎えるのは花婿です。そばに立って花婿が語ることに耳を傾けている友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。ですから、私もその喜びに満ちあふれています。 3:30 あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」 3:31 上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地のことを話す。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。 3:32 この方は見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。 3:33 その証しを受け入れた者は、神が真実であると認める印を押したのである。 3:34 神が遣わした方は、神のことばを語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。 3:35 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。    今日の箇所の始まりは、イエス様とバプテスマのヨハネのバプテスマが近くで授けられていた姿を私たちに見せることから始まっています。 そして、このことについて、バプテスマのヨハネのある弟子は、それがまるで競争相手が向こう側にいるように考え、バプテスマのヨハネにそのことについて語る姿を一緒に見ることができます。 しかし、バプテスマのヨハネの反応は、その弟子が考えていたものとは違いました。  自分は衰えなければならない、あの方は盛んにならなければならないということ、むしろそれが自分の喜びであるというのがバプテスマのヨハネの告白でした。 ヨハネにとってイエス様は競争相手ではなく、むしろ自分が今まで用意し、待っていた方が、自分と同じ目標を持ち、その目標を完全に成し遂げてくださる方がイエス様であったためです。  世の中には同じ目標を持っているにもかかわらず、互いに対立し、分裂してしまうことが多くあります。 そのようなことがなぜ起こるのか、その理由は、目標は同じであっても、目標に到達するまでの道と方法はそれぞれであるからです。 しかし、もし目標に到達するまでの方法がたった一つだけだとしたら、そのことをお互い知っているならば、分裂は起きないでしょう。  バプテスマのヨハネとイエス様がまさにそのような関係でした。 すべての民が悔い改め、救いに至ること、ただそれだけのためにバプテスマのヨハネはバプテスマを授け、イエス様が来られる道を用意してきました。 そして、やがてそのことを完全に成し遂げるためにイエス・キリストがこの地に来られたのです。 バプテスマのヨハネとイエス様はこのように同じ目標を持っていました。  私たちが御言葉を通して知っているように、人の救いという目標に到達できる道は、ただイエス・·キリストだけです。 そしてバプテスマのヨハネもこの事実を知っていました。だからこそ、むしろ自分が衰えることがその目標に至るためのものであることを知り、それを喜んでいたのです。  この世にある聖徒たちも同じ目標を持っています。 それは救いという目標です。 そして、その救いに至る道は今もなお、これからも変わることなくイエス・·キリストだけです。 そのため、私たちは考え方、やり方、一人ひとりの背景など、すべてが違っても一つになることができます。 私たちの道はイエス·・キリストだけであるからです。 https://youtu.be/yITZ4lPLfGk?si=yUP5OPssDwU7pwdi