ルカの福音書 QT18 22028금【種を抱く地】ルカ 8章 1~18

ルカ 8章 1~188:1 その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供をした。8:2 また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、8:3 ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた。8:4 さて、大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がみもとにやって来たので、イエスはたとえを用いて話された。8:5 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。8:6 また、別の種は岩の上に落ちた。生長したが、水分がなかったので枯れてしまった。8:7 また、別の種は茨の真ん中に落ちた。すると、茨も一緒に生え出てふさいでしまった。8:8 また、別の種は良い地に落ち、生長して百倍の実を結んだ。」イエスはこれらのことを話しながら、大声で言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」8:9 弟子たちは、このたとえがどういう意味なのか、イエスに尋ねた。8:10 イエスは言われた。「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。『彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないように』するためです。8:11 このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。8:12 道端に落ちたものとは、みことばを聞いても信じて救われないように、後で悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう、そのような人たちのことです。8:13 岩の上に落ちたものとは、みことばを聞くと喜んで受け入れるのですが、根がないので、しばらくは信じていても試練のときに身を引いてしまう、そのような人たちのことです。8:14 茨の中に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ、生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません。8:15 しかし、良い地に落ちたものとは、こういう人たちのことです。彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。8:16 明かりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする人はいません。燭台の上に置いて、入って来た人たちに光が見えるようにします。8:17 隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められたもので知られないもの、明らかにされないものはありません。8:18 ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」   本日は、種まきは人のたとえ話です。イエス様はこのたとえ話をした後に解釈もしてくださいました。種は神様の御言葉であり、地はそれを受ける人の心です。最初のたとえは、道端に落ちた種です。皆が聴覚的には聞くことができますが、それが神様の御言葉を聞くことではありません。みことばは耳で聞ききますが、それを考えません。御言葉を噛み砕いて悟らなければ、道端に散らばれた種です。二つ目は、岩の上に落ちた種です。岩の上の種が芽を出すことがありません。聞くことに根がないからです。文字通り御言葉を受ける根性がありません。だから、状況に応じて揺れ動きます。信じているようですが、状況を変われば、状況に沿って行ってしまいます。三つ目は茨の真ん中に落ちた種です。これも同じです。「生活における思い煩いや、富や、快楽でふさがれて、実が熟すまでになりません」のように御言葉を悩まず、世とお金の心配が多いです。現実が恐いので、神様の御言葉を信じるようがはありません。   たとえ話の最後は良い地に落ちた種です。イエス様は良い地についてこう言われました。「彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます。15」神様の言葉は説明しません。時代や状況に関係なく、その場で宣言されます。ですから、それを聞いて自分の時代と自分の人生に解釈して適用することを省略しては、誰も良い地になって神様の御言葉を受けることができません。牧師の説教に群がる時代には、神様の御言葉はありません。自分が神様の御言葉を聞くことができる人が、牧師の説教からも神様の御言葉を聞くことができます。   「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」の時、「腐心」という言葉を思い出しました。心が腐るということです。地が種を抱かなければ芽は出ないように、人が御言葉を抱かなければ、神様の御言葉が実を結びません。麦は腐りますが、その中にある種目が次の命を発芽させます。自分で腐心して自分の御言葉として発芽させなければ、どんなに聞いてもそれは他人のものです。今日のたとえ話を文脈で位置を確認してみると、多くの人々がイエス様に集まった時です。イエス様は、多くの人々が集まったときに聴衆が多くなったことを喜ばれたのではなく、御言葉を聞くことに対する真偽について警告されたわけであります。今、どの地でいても、それは運命的に固定されていることではありません。心を腐らせ、御言葉を悩むことができる人なら、神様の御言葉をその人に人生の中で実を結ぶ良い地になっていくでしょう。  

누가복음 QT18 220128금【씨를 품은 땅】누가복음 8장 1~18

누가복음 8장 1~188:1 이 후에 예수께서 각 성과 촌에 두루 다니시며 하나님의 나라를 반포하시며 그 복음을 전하실새 열 두 제자가 함께 하였고8:2 또한 악귀를 쫓아내심과 병 고침을 받은 어떤 여자들 곧 일곱 귀신이 나간 자 막달라인이라 하는 마리아와8:3 또 헤롯의 청지기 구사의 아내 요안나와 또 수산나와 다른 여러 여자가 함께하여 자기들의 소유로 저희를 섬기더라8:4 각…

ルカの福音書 QT17 22027木【恵みを愛する人】ルカ 7章 36~50

ルカ 7章 36~507:36 さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。7:37 すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た。7:38 そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った。7:39 イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思っていた。7:40 するとイエスは彼に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生、お話しください」と言った。7:41 「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか。」7:43 シモンが「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えると、イエスは「あなたの判断は正しい」と言われた。7:44 それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。7:45 あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。7:46 あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。7:47 ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」7:48 そして彼女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。7:49 すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか。」7:50 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」   本文では二人が登場しますが、一人はシモンというパリサイ人で、もう一人は名前が分からない一人の女性です。ただし、彼女は「罪深い女」として登場します。対照的です。パリサイ人は落ち着き、女性はみにくいです。どちらもイエス様に善意を行いました。パリサイ人のシモンはイエス様を自分の家の食事に招き、女性はイエス様に香油を注ぎました。しかし、パリサイ人のシモンは誰にも与える足を洗う水をイエス様に与えませんでしたが、女性は涙と香油でイエス様の足を洗いました。パリサイ人のシモンはそのような女性を蔑視しました。   ここでイエス様は比喩で教えられます。貸し主が一人に五百デナリを、他の人には五十デナリをそれぞれ貸しました。ところが、どちらもお金を返済することができない事情になって、貸し主は2人ともの債務を免除してくれたということです。そしてイエス様はパリサイ人のシモンに聞かれます。「二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか 42」。誰が利益なのかではなくて、それに対して誰が愛するのかと聞かれました。   みことばを照らして自分を観察し、省察しなければならないのは,聖書の知識の以前に自分を知るためです。自分を知って自分の罪を知れば知るほど、赦しの恵みは大きくなってきます。そして神様の恵みを知れば知るほど、自分は神様の前でちっぽけな存在であることに気づきます。イエス様を愛する人は福音に感激する人であり、福音に感激する人は、行いの敬虔な人ではなく、自分の心が罪で悲しむ人です。教会の世俗化と聖徒との争い、葛藤と憎しみは、帳消しにしてもらった負債意識、つまり赦された罪意識のないパリサイ人のような形式的な宗教だからです。   恵みに満ちている聖なる悔い改めの祈りというのはありません。それは自分自身を飾るための巧妙な高ぶりです。悔い改めの祈りとは、恥ずかしくて悲惨なものです。地面に頭をくっ付け、髪の毛で足を洗ってもさらに下がりたくなるもの、もっと隠れたいと思う恥と絶望です。誰かが自分を踏みにじっても抵抗しそうにない自己絶望の状態です。心に罪を気づいた聖徒は福音に感激し、イエス様を愛します。パリサイ人のシモンは自分自身について正しく知っていませんでした。だから、イエス様について知りませんでした。しかし、女性は自分が誰であるかをよく知っていました。だから、イエス様を見ると涙が出てきました。高額の香油よりも彼女の涙が香ばしいです。

누가복음 QT17 220127목【은혜를 사랑하는 사람】누가복음 7장 36~50

누가복음 7장 36~507:36 한 바리새인이 예수께 자기와 함께 잡수기를 청하니 이에 바리새인의 집에 들어가 앉으셨을 때에7:37 그 동네에 죄인인 한 여자가 있어 예수께서 바리새인의 집에 앉으셨음을 알고 향유 담은 옥합을 가지고와서7:38 예수의 뒤로 그 발 곁에 서서 울며 눈물로 그 발을 적시고 자기 머리털로 씻고 그 발에 입맞추고 향유를 부으니7:39 예수를 청한 바리새인이 이것을 보고…

ルカの福音書 QT16 22025水【救いの大きさ】ルカ 7章 18~35

ルカ 7章 18~35 7:18 さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。すると、ヨハネは弟子たちの中から二人の者を呼んで、 7:19 こう言づけて、主のもとに送り出した。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」 7:20 その人たちはみもとに来て言った。「私たちはバプテスマのヨハネから遣わされて、ここに参りました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか』と、ヨハネが申しております。」 7:21 ちょうどそのころ、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人たちを癒やし、また目の見えない多くの人たちを見えるようにしておられた。 7:22 イエスは彼らにこう答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。 7:23 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」 7:24 ヨハネの使いが帰ってから、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 7:25 では、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。きらびやかな服を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。 7:26 では、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者をです。 7:27 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。 7:28 わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。しかし、神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。 7:29 ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。 7:30 ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。 7:31 それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。 7:32 広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』 7:33 バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、 7:34 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。 7:35 しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」 牢屋に閉じ込められたバプテスマのヨハネは自分の弟子たちを送り、イエス様がキリストであることを確認します。それはヨハネが待っているキリストとイエス様が一致していないと思ったからです。イエス様が革命を起こし、ヘロデを追い出すなら、ヨハネは釈放されます。しかし、イエス様はご自身が来るべきメシヤであることを言われますが、イザヤ35章を引用して癒すために来られたことを明らかにしてされます。病気や苦しみや悪霊に悩む多くの人のために、目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられるため、すなわち癒しと救いです。イエス様は政治的審判者として来られたのではなく、魂の救い主として来られました。イエス様はヨハネに失望してはならないという意味で「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです 23」 と言われます。 ヨハネの弟子たちが帰った後、イエス様はマラキ3章1節を引用して、バプテスマのヨハネがキリストの道を準備するために来た人であることを明らかします。さらに28節の「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません」ヨハネよりも大きな者はいないと評価されます。ところで、ここで難しいのは、ヨハネのことで「神の国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。28」というみことばです。男性は子を産むことができません。「女から生まれた者」という表現は、すべての人類を言います。イエス様は、すべての人の中でヨハネが最も大きいと言いました。しかし神の国では、ヨハネが最も小さい者だと言います。なぜ、ヨハネの大きさは地上といわゆる天国で異なるのでしょうか。 バプテスマのヨハネはイエス様の道を備える使命者として来ましたが、不義な暴力によって命を失う人です。イエス様の十字架の事件はバプテスマのヨハネが死んだ後のことであって、ヨハネはイエス様の十字架、すなわち罪を贖う恵みを受けた人ではありません。ただし、その恵みを成し遂げるためにキリストが来られたとき、その道を開く人として来ました。ということで人としては他の人と比べられないほど大きいな者ですが、十字架の恵みで神の国に入ったことではありません。 わたしたちは誰でもバプテスマのヨハネのような義を持って天の国に入る人はいません。私たちの天国は、子羊のイエス・キリストの十字架の贖いのみで入ります。イエス・キリストが十字架から流された血で自分を罪を贖ったということを心に信じ、救われた者だけがその信仰によって天の国に入ります。その天国には、偉大なバプテスマのヨハネは十字架の恵みを持っていません。だから神の国では、イエス・キリストの名によって入ったすべての人々よりも、バプテスマのヨハネは小さい者です。私たちに臨んだ救いの大きさを黙想する一日になることを願います。

누가복음 QT16 220126수【구원의 크기】누가복음 7장 18~35

누가복음 7장 18~357:18 요한의 제자들이 이 모든 일을 그에게 고하니7:19 요한이 그 제자 중 둘을 불러 주께 보내어 가로되 오실 그이가 당신이오니이까 우리가 다른 이를 기다리오리이까 하라 하매7:20 저희가 예수께 나아가 가로되 세례 요한이 우리를 보내어 당신께 말하기를 오실 그이가 당신이오니이까 우리가 다른이를 기다리오리이까 하더이다 하니7:21 마침 그 시에 예수께서 질병과 고통과 및 악귀 들린…

ルカの福音書 QT14 22024月【不滅の遺伝子】ルカ 7章 11~17

ルカ 7章 11~177:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大勢の群衆も一緒に行った。7:12 イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。7:13 主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。7:14 そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。7:16 人々はみな恐れを抱き、「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がご自分の民を顧みてくださった」と言って、神をあがめた。7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤ全土と周辺の地域一帯に広まった。   リチャード・ドキンスという英国の生物学者が書いた『利己的遺伝子(The Selfish Gene)』という本があります。科学書としてはまれに多くの人が読みました。19世紀半ば以降の知識人がカール・マルクス『共産党宣言』に熱狂したように、20世紀後半の科学主義の教育を受けた人々は、リチャード・ドキンスの「利己的遺伝子」という進化論に真理を与え、それに熱狂しました。私にはそれにに反論するほどの生物学的知識はありませんが、反論したくもありません。   なぜなら、進化を認めているからです。私たちが神様の創造を言うとき、それはある日、突然生じた奇跡的な創造ではありません。神様が秩序を整え、その秩序の上で創造された、または創造されていることをいいます。進化はその秩序の一つです。進化生物学は学術的大きいな発見だと思いますが、それも現象を観察したものであって、根源を究明したものではありません。世界の構造が科学的に明らかになればなるほど、神様の創造の秘密が私たちに啓示されることであります。   『利己的遺伝子』は、ドキンスの文学的表現であって、出版社がマーケティングのためにこれをタイトルとしましたが、もともとドキンスは「不滅の遺伝子(ImmortalGene)」をタイトルにしたかったのです。生物学では、人間が死ぬと微生物によって分解され、後に消えるのですが、進化の世界の中で遺伝子は消えないということです。科学は死んだら終わりだと言って来ましたが、もう一つの科学は不滅だと言っているのです。といえるなら、「魂」という言葉と「永遠の命」という言葉も科学と話し合いができるのではないでしょうか。「不滅」を発見した以上、「永遠」をも認めなければなりません。生物学的な死によって人間の存在が根本的に消滅するわけではありません。   今朝の祈りの説教は箴言27章25節でした。「草が刈り取られ、若草が現れ、山々の青草も集められると」 草を切ってからものびます。終わりのようで絶望のようですが、また命があります。人間は生物学的に確かに死にますが、それは終わりではありません。死んでも消滅しないまま、その日に創造主の神様に導かれて復活します。こういう意味で、私が持っている復活の信仰が、決して非科学的なものとは思っていません。   今日の本文で、イエス様はナインという町の未亡人の死んだ独りの子をよみがえられました。神様が死んだ人を再び生かす話が、疑いもなく、抵抗もなく信じられるのですから、信仰の人に与えられた信仰の遺伝子は不滅かと思います。科学的な思考をする人々はこれを説話と言い、人の作り話だと言います。死んだら終わらなければならないからです。というのは彼らにも信仰があるのです。人間は、死んだら間違いなく終わりだということを信じているのです。しかし、科学にしても宗教にしてもまだ確認されたことは何もありません。何を信じるのかが残っているだけです。

누가복음 QT15 220125화【불멸의 유전자】누가복음 7장 11~17

누가복음 7장 11~177:11 그 후에 예수께서 나인이란 성으로 가실새 제자와 허다한 무리가동행하더니7:12 성문에 가까이 오실 때에 사람들이 한 죽은 자를 메고 나오니 이는 그 어미의 독자요 어미는 과부라 그 성의 많은 사람도 그와 함께 나오거늘7:13 주께서 과부를 보시고 불쌍히 여기사 울지 말라 하시고7:14 가까이 오사 그 관에 손을 대시니 멘 자들이 서는지라 예수께서 가라사대 청년아…

ルカの福音書 QT14 22024月【御言葉を信じる信仰】ルカ 7章 1~10

ルカ 7章 1~107:1 イエスは、耳を傾けている人々にこれらのことばをすべて話し終えると、カペナウムに入られた。7:2 時に、ある百人隊長に重んじられていた一人のしもべが、病気で死にかけていた。7:3 百人隊長はイエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、自分のしもべを助けに来てくださいとお願いした。7:4 イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。7:5 私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」7:6 そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。7:7 ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。7:8 と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」7:9 イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」7:10 使いに送られた人たちが家に戻ると、そのしもべは良くなっていた。   今日の本文は、イエス様が百人隊長のしもべを癒し、百人隊長の信仰を褒めるところです。百人隊長はイタリアからパレスチナに派遣されたローマ軍の将校です。植民地を支配する軍人であり、彼の言う通り、言葉言うだけで部下たちは動く権威ある人です。そんな彼が歩き回っていました。それは、死にかかっている自分のしもべを癒すためです。   イエス様が賞賛された百人隊長の信仰の中には、「人に対する尊重」もあるでしょう。しもべを生かしたのはイエス様ですが、イエス様は百人隊長の信仰を褒め、彼に功績を回しました。百人隊長としもべがどのような関係であり、どのような事情があるのか​​は分かりませんが、彼は支配者であり、軍人でしたが、人間の命を大切にする人間でした。それは確かに「褒められる信仰」です。   百人隊長はしもべのために走り回りましたが、イエス様の御言葉の前では止まります。百人隊長は、イエス様が自分の家までこれらることを恐縮と思いました。しかし、しもべを生かさなければならなかったので、イエス様に「おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」とお願いします。自分も軍人ですから言葉でいえば、手下の人々が動くように、イエス様がみことばを下されば死にかかっているしもべは癒されますということです。イエス様は、イスラエルにこのような信仰を見たことがないと言われます。   神様が御言葉を下してもその結果を見る前には信じない人々がイスラエル人です。彼らは、奇跡のある所を探し回りますが、人のためには苦労しません。百人隊長は、人のためには歩き回り、みことばの前に止まりました。癒しの集会に集まる人、伝道と奉仕に熱心な人、敬虔に熱心な人は確かに信仰の人ですが、みことばの力を信じ、みことばの前にとどまる信仰が真の信仰です。   救いの御言葉、命の御言葉は、見て聞いて触れるような感覚に依存するものではありません。神様が御言葉を下さればそれが現実になるということを信じ、その御言葉に耳を傾けることが信仰です。百人隊長の信仰から二つの「尊重」 を学びます。「人に対する尊重」、「人を生かす神様の御言葉に対する尊重」 です。

누가복음 QT14 220124월【말씀을 믿는 믿음】누가복음 7장 1~10

누가복음 7장 1~107:1 예수께서 모든 말씀을 백성에게 들려 주시기를 마치신 후에 가버나움으로 들어가시니라7:2 어떤 백부장의 사랑하는 종이 병들어 죽게 되었더니7:3 예수의 소문을 듣고 유대인의 장로 몇을 보내어 오셔서 그 종을 구원 하시기를 청한지라7:4 이에 저희가 예수께 나아와 간절히 구하여 가로되 이 일을 하시는 것이 이 사람에게는 합당하니이다7:5 저가 우리 민족을 사랑하고 또한 우리를 위하여 회당을…