ヨブ記 QT62 211229水【神様の世界】ヨブ記 41章 1~34

ヨブ記 41章 1~3441:1 あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪縄でその舌を押さえつけることができるか。41:2 あなたは葦をその鼻に通すことができるか。鉤をそのあごに突き通すことができるか。41:3 これが、しきりにあなたに哀願し、優しく語りかけるだろうか。41:4 これがあなたと契約を結び、あなたがこれを捕らえて、永久に奴隷とすることになるだろうか。41:5 あなたは鳥と戯れるように、これと戯れ、娘たちのために、これをつなぐことができるか。41:6 漁師仲間がこれを競りにかけ、商人たちの間で分けるだろうか。41:7 あなたは銛でその皮を、やすでその頭を突くことができるだろうか。41:8 その上にあなたの手を置いてみよ。その戦いを思い出して、二度と手を出すな。41:9 見よ。それに立ち向かう期待は裏切られる。それを見ただけで圧倒されるではないか。41:10 それを起こすほどの狂暴な者はいない。そうであれば、だれがいったい、わたしの前に立つことができるだろうか。41:11 だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。41:12 そのからだの部分についてわたしは黙ってはいられない。それの力強さと、その体格の見事さについて。41:13 だれが、その外套をはぎ取ることができるか。胸当ての折り目の間に入ることができるか。41:14 だれが、その顔の戸を開けることができるか。その歯の周りには恐怖がある。41:15 その背は並んだ盾、封印したように固く閉じている。41:16 一つ一つぴったり付いて、風もその間を通れない。41:17 互いにくっつき、固くつながって離れない。41:18 そのくしゃみは光を放ち、その目は暁のまぶたのようだ。41:19 その口からは、たいまつが燃え出し、火花が噴き出す。41:20 その鼻からは煙が出て、煮え立つ釜や、燃える葦のようだ。41:21 その息は炭火をおこし、その口からは炎が出る。41:22 その首には力が宿り、その前には恐れが踊る。41:23 その肉のひだはつなぎ合わされ、その身に固く付いて、揺るがない。41:24 その心臓は石のように硬く、臼の下石のように硬い。41:25 それが起き上がると、力ある者もおじけづき、おろおろして逃げ惑う。41:26 それを剣で襲っても無駄だ。槍でも、投げ矢でも、矢じりでも。41:27 それは鉄を藁のように、青銅を腐った木のように見なす。41:28 矢によっても、それが逃げるようにはできず、石投げの石も、それには藁となる。41:29 こん棒さえ藁のように見なし、投げ槍のうなる音をあざ笑う。41:30 その下腹は鋭い土器のかけら、それは打穀機のように泥の上に身を伸ばす。41:31 それは深みを釜のように沸き立たせ、海を、香油をかき混ぜる鍋のようにする。41:32 それが通った跡には光が輝き、深淵は白髪のように見なされる。41:33 地の上に、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。41:34 高いものすべてを見下ろし、誇り高い獣すべての王である。   神様は創造世界の神秘についてヨブに質問を続けます。人間は世界を理解しようとし続けてきましたが、誰も創造世界を完全に理解した人はいません。世界は神様が創造されたので、人間がその世界を理解するためには神様が啓示なさらなければなりません。分からないと神秘は変わらずそこにあります。知れば知るほど知らないことはもっと多くなります。私たちは造られた世界について分かりません。世界を理解していない人間が、それを造られた神様を完全に理解していることはありません。   人間の次元から神を理解しようとする試みは原則として不当であり、失敗に帰結します。したがって、信仰は神が自分自身を明らかにするときに可能です。人間は啓示の前に純粋に受動的に置かれる。つまり、私たちが神を知ることができるのは、神が自分を啓示されたからであり、またその啓示を私たちに悟らせられたからである。啓示をされる方は神様であり、啓示は神様の活動であり、啓示の内容も神ご自身に関するものである。カールバルト『教義学概要』   自然世界は神様の啓示です。カルビンは『キリスト教教要』で、神様が「宗教の種」をくださったと言いました。言い訳のできないしるしが与えられたというのです。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。ローマ1:20」それを「一般啓示」と言いました。神様は全宇宙の創造世界の中で自分自身を示しています。つまり、自然と歴史を通して、神様がご自身を啓示されるのが一般啓示です。   一般啓示は、どの時代、誰においても共通して現れるという意味で普遍的な啓示です。神様が啓示したした時間と空間、自然と歴史の中で、もし一人の人間が真実で正直であれば、神様を発見します。神様は過去完了型ではなく、現在進行型です。神様を知っていく人だけが、神様を知る人です。神様の啓示に対する人間の答えは、確認や証明という科学的活動ではなく、告白という信仰の行為です。自分のちっぽけさを知り、神様の大きさを知り、それが告白できれば、それが一年中で最も良かったことです。

욥기 QT62 211229수【하나님의 세계】욥기 41장 1~34

욥기 41장 1~3441:1 네가 능히 낚시로 악어를 낚을 수 있겠느냐 노끈으로 그 혀를 맬수 있겠느냐41:2 줄로 그 코를 꿸 수 있겠느냐 갈고리로 그 아가미를 꿸 수 있겠느냐41:3 그것이 어찌 네게 연속 간구하겠느냐 유순한 말로 네게 이야기하겠느냐41:4 어찌 너와 계약하고 영영히 네 종이 되겠느냐41:5 네가 어찌 새를 놀리는것 같이 그것을 놀리겠으며 네 소녀들을 위하여 그것을 매어…

ヨブ記 QT61 211228火【神様ができないこと】ヨブ記 40章 6~24

ヨブ記 40章 6~24440:6 主は嵐の中からヨブに答えられた。40:7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。40:8 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするため、わたしを不義に定めるのか。40:9 あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。40:10 さあ、誉れと気高さで身を飾り、威厳と威光を身にまとえ。40:11 あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。40:12 すべて高ぶる者を見て、これを押さえ、悪者どもを、その場で踏みにじれ。40:13 彼らをともに土のちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。40:14 そうすれば、わたしもあなたをたたえて言う。「あなたの右の手は自分を救うことができる」と。40:15 さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの。牛のように草をはむ。40:16 見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。40:17 尾は杉の木のように垂れ下がり、ももの筋は絡み合っている。40:18 骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。40:19 これは神の作品の第一のもの、これを造った者が、その剣でこれに近づく。40:20 山々はこの獣のために産物をもたらし、野の獣もみなそこで戯れる。40:21 蓮の下にそれは横たわる。葦の茂み、沼地の中で。40:22 蓮はこれをその陰でおおい、川の柳はこれを囲む。40:23 たとえ川があふれても、慌てない。ヨルダン川が口に注ぎ込んでも、動じない。40:24 その目をつかんで、これを捕らえられるか。罠にかけて、その鼻を突き通せるか。   神様はヨブに二度目、質問されます。「勇士のように腰に帯を締めて」答えなさいと言われますが、事実は答えることができないというパラドックスです。神様は、神様の公義について語られながら、神様の公義を恨み混ぜた心で歪めたヨブを懲らしめます。言い換えれば、「あなたはあなたの無実を証明するために私が間違っていると主張した」ということです。   そして神様はヨブに「あなたは義なる者か。それなら、あなたが神様をしなさい」と言うわけです。「あなたが高ぶる者を押さえ、悪者を踏みにじり、彼らをともに土のちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。」と言われます。「もしそれができれば、あなたが神をしなさい。私はあなたを神として認めます」と言われます。   因果応報によって正確な賞罰がある倫理的な世界を求めるなら、そうしてみなさいということですが、これもできないことのパラドックスです。ついに神様はできないことを認められました。神様は、愛しないことができない、救われないことができない方です。人間の道徳的かつ自己中心の基準で人を裁く方ではありません。信仰の言葉の中には「あの悪人を罰してください」があふれますが、神様の答えは「あなたも変わらない」ということです。   ここには、世を愛する神様の弁護があります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ 3:16」で世を愛したのは、世にいる人々を愛したことです。神様は彼らを滅ぼしに来たのではなく、救いに来られました。ヨブはその中に含まれる一人であり、私たちもその慈悲を受けなければならない一人一人です。   もし神様が公義の剣をもって人間の不義を切るならば、世には何も残らないです。憐れみと愛のない、各自の義に名乗って批判し始めると、皆倒れて何も残りません。自分は信仰と正義であると言い張りますが、誰かにとって悪人と思われるかもしれません。悪人の中に私も含まれていて、そのような私も神様の憐れみの中で救われなければならない罪人です。赦せない人間に、神様は「あなたが神様をしなさい」と言われています。  

욥기 QT61 211228화【하나님이 할 수 없는 것】욥기 40장 6~24

욥기40장 6~2440:6 여호와께서 푹풍 가운데서 욥에게 말씀하여 가라사대40:7 너는 대장부처럼 허리를 묶고 내가 네게 묻는 것을 대답할지니라40:8 네가 내 심판을 폐하려느냐 스스로 의롭다 하려 하여 나를 불의 하다 하느냐40:9 네가 하나님처럼 팔이 있느냐 하나님처럼 우렁차게 울리는 소리를 내겠느냐40:10 너는 위엄과 존귀로 스스로 꾸미며 영광과 화미를 스스로 입을지니라40:11 너의 넘치는 노를 쏟아서 교만한 자를 발견하여 낱낱이…

ヨブ記 QT60 211227月【私はただ手を口に当てるばかりです】ヨブ記 40章 1~5

ヨブ記 40章 1~540:1 主はヨブに答えられた。40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ。40:3 ヨブは主に答えた。40:4 ああ、私は取るに足りない者です。あなたに何と口答えできるでしょう。私はただ手を口に当てるばかりです。40:5 一度、私は語りました。もう答えません。二度、語りました。もう繰り返しません。   ヨブは悔しくて神様に言いたいことがたくさんありましたが、神様と対面してから状況が変わりました。神様はヨブに答えるように言われましたが、ヨブは答えることができません。ヨブが自分で「私は取るに足りない者」と言ったのですが、本気であると思います。なぜなら、今は友人たちやエリフと論争しているのではなく、神様に会っているからです。神様に会った人間は、自分がどれほど小さな存在なのかを知ります。ヨブは神様に完敗しているようですが、ヨブはむしろここから平安を得ているでしょう。人間はこの時に幸せになります。自分の大きさに失望したのではなく、神様の大きさの中に入ると幸せです。   だから、ヨブは口が閉じて何の答えもしません。「私はただ手を口に当てるばかりです」と言います。人間が神様の創造秩序の中で、時間と息を得て生きる存在であることに気づいたら、抗弁の言葉が消えるはずです。それは宗教的に人間を卑下して弱めるためではありません。哲学的にも正当です。神様が自然の構造について言われたのは、ヨブに人間の位置を知らせるためです。宇宙を見れば、自己中心的な質問と不満はなくなります。人間の位置を知ったら、神様が神様であるという事実は幸いで感謝です。もし宇宙が偶然なら、偶然に食われる人生はいかに憐れむ存在でしょうか?一年間、たくさん食べたので、今日からしばらく食物を切ります。一年間、たくさんしゃべったので、今日からしばらく口も閉じたいと思います。

욥기 QT60 211227월【손으로 내 입을 가릴 뿐입니다】욥기 40장 1~5

40장 1~540:1 여호와께서 또 욥에게 말씀하여 가라사대40:2 변박하는 자가 전능자와 다투겠느냐 하나님과 변론하는 자는 대답할지니라40:3 욥이 여호와께 대답하여 가로되40:4 나는 미천하오니 무엇이라 주께 대답하리이까 손으로 내 입을 가릴 뿐이로소이다40:5 내가 한두번 말하였사온즉 다시는 더하지도 아니하겠고 대답지도 아니하겠나이다   욥은 억울했고 하나님에게 할 말이 많았습니다. 하지만 하나님과 대면하고 보니 상황이 달라졌습니다. 하나님께서는 욥에게 대답하라고 말씀하셨지만 욥은…

ヨハネに福音書 QT 211225土【メリークリスマス】ヨハネ 1章 9~18

ヨハネ 1章 9~181:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。1:15 ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです』と私が言ったのは、この方のことです。」1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。1:17 律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。   メリークリスマス。 御子イエス・キリストが私たちの間に来られることをお祝いします。クリスマスは神様のみことばが成就された出来事です。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。1:14」私たちにおいてみことばはどのようなものですか?神様のみことばと人間の信仰が出会うと、それは現実になります。みことばを握りしめる人は、必ずそれぞれの現実で、神様を見、奇跡を経験します。その機会は毎朝夕に与えられます。奇跡を追い求める神​​秘主義を警戒するのは、奇跡を自分のための魔術杖と思うからです。しかし、神様はいつも神秘です。神様が人になったのと、神様の独り子が罪人の代わりに死んでくださったという愛よりも驚くべき神秘はありません。   みことばが現実となり、キリストは救いの十字架を成し遂げました。しかし、2000年の歴史を通して神様が救いと成し遂げられたことよりも難しかったのは、人がその救いの事実を信じようとしなかったことです。私のために来て、私のために死んだ人がいましたが、人々はそれを信じていませんでした。今も信じようとしません。「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。1:9‐11」出エジプトで蛇に噛まれた民たちは竿にあげられた青銅の蛇を眺めるだけで救われることができましたが、そんなことはないと思い、挙げ句の果てにそれを見上げず、死にました。人は、魂の救いのための神秘は拒絶し、肉体の欲を満たす奇跡だけを求めます。   「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。1:12」十字架で成された救いが自分のための出来事のなるのは、キリストの愛を信じる信仰によります。クリスマスを待ちながら歌った賛美、聞いた御言葉、ささげたお祈りが、現実になるための実行ボタンは信仰なのです。私たちの中にそのような信仰があり、そして幸せなクリスマスになることをお祈りします。

요한복음 QT 211225토【메리 크리스마스】요한복음 1장 9~18

요한복음 1장 9~18 1:9 참빛 곧 세상에 와서 각 사람에게 비취는 빛이 있었나니1:10 그가 세상에 계셨으며 세상은 그로 말미암아 지은바 되었으되 세상이 그를 알지 못하였고1:11 자기 땅에 오매 자기 백성이 영접지 아니하였으나1:12 영접하는 자 곧 그 이름을 믿는 자들에게는 하나님의 자녀가 되는 권세를 주셨으니1:13 이는 혈통으로나 육정으로나 사람의 뜻으로 나지 아니하고 오직 하나님께로서 난 자들이니라1:14…

イザヤ QT 211224金【海をおおう水のように】イザヤ 11章 1~9

イザヤ 11章 1~911:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。11:2 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。11:3 この方は主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、11:4 正義をもって弱い者をさばき、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す。口のむちで地を打ち、唇の息で悪しき者を殺す。11:5 正義がその腰の帯となり、真実がその胴の帯となる。11:6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。11:7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。   イザヤは,メシアの到来と支配によって平和の国が実現することを預言しています。イザヤが預言した時代も、イエス・キリストがお生まれになった時代も、食って食われる国々の時代でした。強い者が弱い者を殴り付け、奪い取り、押し付ける時代でした。力がまるで神様のように振り舞っていました。ユダヤ人にとって地中海の世界を統治していたダビデは絶対的な誇りでした。ですから、イザヤの預言ではダビデの根元ではなく、エッサイの根株として到来すると言いました。韓国語では幹、枝と訳しています。そこから出てくる小さな新芽です。来るべきメシアは力によって押される王ではなく、平和の王として来られます。すなわちイエス・キリストです。   「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、…乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。」キリストは蛇と獅子のために来られたわけではありません。力をもって悪を行う不条理が消え、強者と弱者が平和に暮らすという、あくまでも比喩です。これは天国の寓話ではありません。「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」と語られたように、イザヤの預言はこの「地」で起こらなければならないことです。イエス・キリストを信じる人々がこの地上において、求め続け、実現しなければならない、神の国です。今日はクリスマス・イブです。海をおおう水のように主を知ること、つまり平和と尊重がこの地に満たされることを願います。

이사야 QT 211224금【물이 바다를 덮음 같이 】이사야 11장 1~9장

이사야 11장 1~9장 11:1 이새의 줄기에서 한 싹이 나며 그 뿌리에서 한 가지가 나서 결실할 것이요11:2 여호와의 신 곧 지혜와 총명의 신이요 모략과 재능의 신이요 지식과 여호와를 경외하는 신이 그 위에 강림하시리니11:3 그가 여호와를 경외함으로 즐거움을 삼을 것이며 그 눈에 보이는대로 심판치 아니하며 귀에 들리는 대로 판단치 아니하며11:4 공의로 빈핍한 자를 심판하며 정직으로 세상의 겸손한…