Ⅱテモテ QT4 211204土【体のよみがえり】Ⅱテモテ 2章 14~19

Ⅱテモテ 2章 14~192:14 これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神の御前で厳かに命じなさい。2:15 あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。2:16 俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔になり、2:17 その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に、ヒメナイとピレトがいます。2:18 彼らは真理から外れてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえしています。2:19 しかし、神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。」   17節から、今朝の本文が警戒している人物がヒメナイとピレトであることが分かります。パウロは彼らと議論することが「俗悪な無駄話で何の益にもならない」と言い、彼らの言葉を「悪性の腫れもの」と表現しました。すでに彼らは教会の中で多くの人々に悪影響を与え、信仰から離れるようにしていました。   パウロは、第一テモテの手紙でも「ヒメナイ」の名前を言及しました。もちろん悪名高く出てきます。「ある人たちは健全な良心を捨てて、信仰の破船にあいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。私は、神を冒瀆してはならないことを学ばせるため、彼らをサタンに引き渡しました。1:19、20」   18節を見ると、彼らの神学的問題が分かります。 「復活はすでに起こったと言って18」からこの問題が復活の理解と関係していることがわかります。二人は「グノーシス派(霊知主義者)」です。霊知主義とは、霊は善であり、物質である肉体は悪であるというプラトンの二元論に基づくものです。霊的世界は神様が創造されましたが、物質世界はデミウルゴスという神が作ったもので真の世界ではないということです。ですから、霊の復活は認めますが、肉の復活は認めませんでした。   領地主義者は今でもいます。信仰がキリストに触れていない人は、人間の理解の中で霊知主義に触れます。それがわかりやすいからです。すべての宗教と異端は、人間の限界の中で考えるべきことを理論にします。しかし、「神様の啓示」は「受肉され、復活されたイエス・キリスト」です。信じるのは理論ではなく、神様の人格です。キリストの体の復活を否定するのは、つまり、キリストと神様の愛を否定することです。   第一コリントの手紙でパウロは復活について雄弁しました。「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。…もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。 15:12-19」   パウロは、イザヤの言葉を引用して「主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。」と言います。この「不義」というのは、神様の最高の憐れみであり、人間の唯一の希望である復活を否定することです。復活の希望が欠けている信仰は、信仰の欠如ではなく、信仰の反対側に立っているのです。15節の言葉を心に刻みます。「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。15」そして使徒信条を再び告白します。「…罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン!」

디모데후서 QT4 211204토【몸이 다시 사는 것과】디모데후서 2장 14~19

디모데후서 2장 14~192:14 너는 저희로 이 일을 기억하게 하여 말다툼을 하지 말라고 하나님 앞에서 엄히 명하라 이는 유익이 하나도 없고 도리어 듣는 자들을 망하게 함이니라2:15 네가 진리의 말씀을 옳게 분변하여 부끄러울 것이 없는 일군으로 인정된 자로 자신을 하나님 앞에 드리기를 힘쓰라2:16 망령되고 헛된 말을 버리라 저희는 경건치 아니함에 점점 나아가나니2:17 저희 말은 독한 창질의 썩어져감과…

Ⅱテモテ QT3 211203金【伝われる福音】Ⅱテモテ 2章 1~13

Ⅱテモテ 2章 1~132:1 ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。2:2 多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。2:3 キリスト・イエスの立派な兵士として、私と苦しみをともにしてください。2:4 兵役についている人はだれも、日常生活のことに煩わされることはありません。ただ、兵を募った人を喜ばせようとします。2:5 また、競技をする人も、規定にしたがって競技をしなければ栄冠を得ることはできません。2:6 労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。2:7 私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。2:8 イエス・キリストのことを心に留めていなさい。私が伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です。2:9 この福音のために私は苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばはつながれていません。2:10 ですから私はすべてのことを、選ばれた人たちのために耐え忍びます。彼らもまた、キリスト・イエスにある救いを、永遠の栄光とともに受けるようになるためです。2:11 次のことばは真実です。「私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。2:12 耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。2:13 私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」   第一テモテの手紙が送られた後、紀元後64年にローマに大火事が起こり、ネロは自分に対する悪い噂と責任論の世論を沈めるため、キリスト教信徒に濡れ衣を着せ、迫害を始めました。第二のテモテの手紙を送った年は、その迫害の頂点にあった67年であり,パウロはこの手紙を送った年に絞首刑にされて死にます。ですから、パウロが死ぬ時は、教会が風前のともしびのような時代を歩いていた時でした。教会が心強く立っているのを見て生を終えたらよかったのですが、パウロは最後の瞬間まで危機の教会を心配しながら死んでいきました。   危機の時代に自分の最後の時間が近づいています。パウロには秘密がありました。その秘密を愛する息子のような弟子テモテと教会のために教えなければなりません。今日の本文にはパウロの重要な宣教論の一つが出てきます。「多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。2」教えられたことをさらに多くの人に委ねるということです。すると、彼らはさらに多くの人々に教えることができるということです。   何を教えるのですか?8節以下が語っている「救いの福音」です。つまり、福音の発信先を広げるということです。五つのパン、二匹の魚の奇跡は五千人、または二万人ほどの人々が食べた奇跡ですが、その奇跡には必要不可欠な役割がありました。4999人が隣の人にパンや魚を伝えなければならなかったのです。弟子たちだけで配食していたら夜になっても食べられない人がいたはずです。一人が一人に伝えれば、みんなに渡されます。より多くの人に耳で聞いた福音を口で話すようにするということです。   これが、当たり前のお勧めのように思いますが、実はこれが秘められたことです。なぜなら、口に出して言わなければ自分の福音も分からないからです。言うことによって自分のことを確認して整理します。それによって教える人の福音は深まり、聞く人に広がります。パウロは第一のテモテの手紙の4章で「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。16」と言いました。「自分自身と、教えを聞く人たちとを救う」伝えれば、伝える人は救われ、聞く人も救われます。宣教はこれが循環します。福音はそれによって広がります。危機の時にも必ずしなければならないことは、私の唇で福音を伝えることです。

디모데후서 QT3 211203금【전달되는 복음】디모데후서 2장 1~13

디모데후서 2장 1~132:1 내 아들아 그러므로 네가 그리스도 예수 안에 있는 은혜 속에서 강하고2:2 또 네가 많은 증인 앞에서 내게 들은바를 충성된 사람들에게 부탁하라 저희가 또 다른 사람들을 가르칠 수 있으리라2:3 네가 그리스도 예수의 좋은 군사로 나와 함께 고난을 받을지니2:4 군사로 다니는 자는 자기 생활에 얽매이는 자가 하나도 없나니 이는 군사로 모집한 자를 기쁘게 하려…

Ⅱテモテ QT2 211202木【死亡の死】Ⅱテモテ 1章 8~18

Ⅱテモテ 1章 8~181:8 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、1:10 今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。1:11 この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。1:12 そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。1:14 自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。1:15 あなたが知っているとおり、アジアにいる人たちはみな、私から離れて行きました。その中にはフィゲロとヘルモゲネがいます。1:16 オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけ、私が鎖につながれていることを恥と思わず、1:17 ローマに着いたとき、熱心に私を捜して見つけ出してくれました。1:18 かの日には主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してくださいますように。エペソで彼がどれほど多くの奉仕をしてくれたかは、あなた自身が一番よく知っています。   パウロはテモテに「主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません」と言います。15節を見ると、多くの人がパウロを離れたようです。その理由は迫害に対する恐れでしたが、パウロはその恐れの原因を遡ってと分析しましたが、逃げることは、福音を恥ずかしく思うからです。主流に入らず、流行に従わなければ不安になる人は、虐待されていた十字架の信仰を恥と思いました。逆に、十字架が主流になれば、十字架を信じることは恥じになりません。それはすでに人に頼った信仰であります。迫害したローマがキリスト教を国教として公認し、キリスト教が社会の主流になったとき、福音を恥ずかしがる者は消えましたが、その時から血を流す十字架の福音は下がり路を下ります。   人々は命を捨てながら福音を信じることを愚かだと思いました。誰も行かない初めての道を行くのを恥と思いました。他人と違うと恥ずかしくなります。他人が持っているものを持つこと、他人よりも良いものを持つことが目的である人にとってはそうです。しかし、人間は最終的に死亡しますが、福音は最終的に死を打ち勝ちます。死に脅かされても、福音を恥じと思わないのは、福音がすでに死に打ち勝ったからです。「今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。10」死亡は死に、命を生かしたのが福音です。十字架の道は、大勢が行く道ではなく、自分一人で歩く道です。 堂々に信仰と告白する人が福音を持っている人です。 自分が持っている恐れと恥は十字架の前で燃やすことができますが、十字架が恥ずかしいと思う人は罪を燃やす方法がありません。  

디모데후서 QT2 211202목【사망의 사망】디모데후서 1장 8~18

디모데후서 1장 8~181:8 그러므로 네가 우리 주의 증거와 또는 주를 위하여 갇힌 자 된 나를 부끄러워 말고 오직 하나님의 능력을 좇아 복음과 함께 고난을 받으라1:9 하나님이 우리를 구원하사 거룩하신 부르심으로 부르심은 우리의 행위대로 하심이 아니요 오직 자기 뜻과 영원한 때 전부터 그리스도 예수 안에서 우리에게 주신 은혜대로 하심이라1:10 이제는 우리 구주 그리스도 예수의 나타나심으로 말미암아…

Ⅱテモテ QT1 211201火【幸せの二人】Ⅱテモテ 1章 1~7

Ⅱテモテ 1章 1~71:1 神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、1:2 愛する子テモテへ。父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。1:3 私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。1:4 私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。1:6 そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。1:7 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。   第二のテモテの手紙は、パウロがローマの牢屋に監禁されたとき、エペソにいたテモテに書き送ったパウロの最後の手紙です。ということでパウロの13通の手紙の中で最も人間的な手紙で使徒パウロの遺書のような手紙と言われます。   パウロは、テモテを「愛する子」と呼んでいます。パウロが第一伝道旅行の時にルステラで会った少年がテモテです。テモテは、パウロが自分の町で伝道していることを見ました。人々に死ぬほどに殴られ、捨てられたことも見ました。そんなぼろぼろになったパウロが起き上がって説教していた様子も見ました。   信仰が信仰を生み出し、情熱が情熱を生み出します。だから、彼らは親子関係です。第二の伝道旅行の時、パウロは再びルステラを訪問し、そこでテモテを宣教師としてピックアップします。彼らは一緒にエゲ海を渡り、マケドニアに行きました。波乱万丈のパウロの働きが最後にいたり、パウロが監禁されると、多くの人はパウロから離れました。しかし、パウロにとってテモテはいつも信頼できる息子のような同役者でした。   「私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし」、テモテは幸せな人です。誰かが絶えず自分のために祈っているというのは、どんなに幸せな人なのでしょうか。テモテのために祈る人はパウロだけではありません。「その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。」故郷には家族がいます。テモテは母親と祖母から信仰を学び育ち,パウロに付いて伝道旅行に出かけた後も,母親と祖母はテモテのために絶えず祈ったはずです。   「私はあなたの涙を覚えているので」具体的に何のための涙だったのかはかわかりませんが、パウロは地下の牢屋で自分の死を待っていた時にも泣いているテモテと危機の時代を歩いている教会の心配しました。だから、パウロも幸せな人です。何かのために、誰かのために生きるというのは、人間を最も人間らしくするものからです。泣いているテモデも、閉じ込められているパウロも幸せな人です。 パウロは自分を通して働かれた神様をよく知っています。それをテモテに言わなければならないです。パウロが自分の計画と能力で宣教の働きを成し遂げたわけではなく、神様がパウロに賜物と機会を与え、働かせたことを言わなければならないのです。聞き従うと賜物は与えられます。そしてそれを使えば神様の働きは前進します。   パウロは神様がテモテに与えられた賜物を、謙遜を持って燃え立たせるように命じます。おそらく、テモテの涙とテモテの賜物というのは、いずれも教会に関連することでしょう。賜物がないから働かない。状況が悪いから動かない。不可能だから始めない…だから、何も起こらないのです。従う人に賜物は与えられ、状況が変わり、できなかったことができるようになってきます。やがて神様がなされることを見ることになります。宣教は人間の手で作ることではなく、神様が人間の信仰を通して成し遂げられることだからです。

디모데후서 QT1 211201수【행복한 사람들】디모데후서 1장 1~7

디모데후서 1장 1~71:1 하나님의 뜻으로 말미암아 그리스도 예수 안에 있는 생명의 약속대로 그리스도 예수의 사도 된 바울은1:2 사랑하는 아들 디모데에게 편지하노니 하나님 아버지와 그리스도 예수 우리 주께로부터 은혜와 긍과 평강이 네게 있을지어다1:3 나의 밤낮 간구하는 가운데 쉬지 않고 너를 생각하여 청결한 양심으로 조상 적부터 섬겨 오는 하나님께 감사하고1:4 네 눈물을 생각하여 너 보기를 원함은 내…

ハバクク QT3 211130火【私の足を雌鹿のようにし】ハバクク 3章 1~19

ハバクク 3章 1~193:1 預言者ハバククの祈り。シグヨノテの調べにのせて。3:2 主よ、私はあなたのうわさを聞きました。主よ、あなたのみわざを恐れています。この数年のうちに、それを繰り返してください。この数年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。3:3 神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。セラその威光は天をおおい、その賛美は地に満ちている。3:4 その輝きは光のよう。ひらめきが御手から上り、そこに御力が隠されている。3:5 疫病はその前を行き、熱病がうしろに従う。3:6 神が立ってご覧になると、地は揺るぎ、国々は震え上がる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その道筋は永遠だ。3:7 私が見ると、クシャンの天幕は不法の下にあり、ミディアンの地の幕屋はわなないていた。3:8 主よ、川に対して怒りを燃やされるのですか。川に対してあなたの怒りを、海に対して激しい憤りを。確かに、あなたは馬に、あなたの救いの戦車に乗っておられます。3:9 あなたの弓は覆いを取り払われ、ことばの杖による誓いが果たされます。セラあなたは地を裂き、いくつもの川とされます。3:10 山々はあなたを見て震え、あふれる水が押し寄せます。深い淵は声を出して、その手を高く上げます。3:11 太陽と月は、その住む所にとどまり、あなたの矢の光によって進みます。あなたのきらめく槍のひらめきによって。3:12 あなたは、激しい憤りをもって地を行き巡り、怒りをもって国々を踏みつけられます。3:13 あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出て来られます。あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます。セラ3:14 あなたは杖で戦士たちの頭を突き刺されます。彼らは、苦しむ者をひそかに食い尽くすように、ほしいままに私を追い散らそうと荒れ狂います。3:15 あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます。3:16 その音を聞いたとき、私のはらわたはわななき、唇は震えました。腐れは私の骨の内に入り、足もとはぐらつきました。攻めて来る民に臨む苦しみの日を、私は静かに待ちます。3:17 いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。3:18 しかし、私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。   ハバククの3章17、18節は「いちじく、ぶどう、オリーブの木も実、畑は食物、囲いの羊と牛」などの素材を語っているので、「一生懸命にしましたが、満足できなかった」ほどの結果のように思われがちですが、実はそれより深刻なものであって国家と民族が滅亡に追い込まれるような危機状況について語っているものです。   2節でハバククが驚いた理由は、ユダヤの滅亡の前兆を見たからであり、ハバククはその状況で神様に「それを繰り返してください」と祈ります。ハバククは神様の裁きから逃れられないことを知り、「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください」と祈りますが、神様の怒りと憐れみの間に挟まれている「それを繰り返してください」という言葉を意味は何でしょうか?   「繰り返し」は、ヘブライ語で「ハヤ(חַיָּֽה)」で、「生きる(live)」という意味です。アダムの妻イブをエバと言うのもハヤの「生きる」から来たものです。すべての「生きる者の母」という意味です。ですから「繰り返し」は、ハバククの文脈の中で「生き残る、生かす」という意味です。   「数年のうち」というのは、数年間ではなく、ハバククが生きる時代です。その時代を成している世代に与えられた時間です。もちろん読者にとっては、私たちの時代、私たちが一緒に生きるこの世代です。ハバククのもはや退くところのない最後のところでお祈りしています。   崖の上に立ったハバククは、19節の最後の節で「神は、私の力」と言い、「私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる」と言いました。鹿は崖を飛び歩きます。神様が、み怒りの中でも憐れみを忘れず、鹿が絶望的な現実の崖でも跳び回り続けるなら、たとえ懲戒されても、ユダヤはきっと救われて生きられるものになります。