黙示録 黙想 【最高の将来希望】 20241230(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

黙示録 22:1~5 22:1 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、 22:2 都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。 22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、 22:4 御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。 22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。     黙示録21章では、天と地、そして悪を象徴していた海が消え去り、新しい天と新しい地が創造されます。この新しい天と新しい地は、イザヤの預言の延長線上にあります。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。イザヤ65:17」ここで語られているのは、単なる補完や修復ではありません。完全に新たに作り直される創造です。それは、あのしつこい罪の罠が一切存在しない世界です。これは真の聖徒が待ち望む、完全なる救いの境地です。救いとは、罪のない人々が、罪のない人々と共に、罪のない場所に住むことです。その場所は、イエスを信じるがゆえに苦難を通り抜け、信仰を守り通した神の民が与る栄光の世界です。 イザヤとヨハネが描く理想郷の共通点は、神のものでないものが完全に取り除かれた後、新しい創造を通じて完全な秩序が成り立つという点です。神のものであるものと、神のものでないものを区別するのは小羊です。小羊を信じる信仰によって苦難を乗り越えた民だけが神のものとなるのです。イザヤ書65章では、不従順のゆえに滅び、残された者だけが救いに入ります。そして黙示録20章では、最後の審判の後、いのちの書に名前が記されていない者たちは除外され、新天新地が到来します。イザヤ書65章ではエルサレムが神の喜びとなり、ヨハネの黙示録21章では、神が従順な民の涙を拭ってくださいます。 この世と命を創造されたお方がおられます。そのお方が新しい世界を創造されるのです。その場所にはもはや罪も、呪いもありません。罪深い人間を悩ませてきた古いものは、もはや思い起こされることもありません。悲しみも、苦しみも、病も、死も、喪失も、孤独も存在しません。平和の中であらゆる実りを味わい、神の民はついに神の御顔を見ることができるのです。そして永遠に神と共にいることができるのです。これ以上に良い場所、これ以上に良い状態は、この世にも聖書にも存在しません。この素晴らしい場所への希望を、宗教的で抽象的なものだと考える人がいるならば、その人は現実的に、具体的に絶望と滅びを経験することでしょう。それは、信じるにふさわしく、追い求めるにふさわしく、入るべき場所なのです。

ヨハネの黙示録 黙想 【新しいエルサレム】 20241228(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの黙示録 21:9-21 21:9 また、最後の七つの災害で満ちた、あの七つの鉢を持っていた七人の御使いの一人がやって来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。あなたに子羊の妻である花嫁を見せましょう。」 21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のみもとから、天から降って来るのを見せた。 21:11 都には神の栄光があった。その輝きは最高の宝石に似ていて、透き通った碧玉のようであった。 21:12 都には、大きな高い城壁があり、十二の門があった。門の上には十二人の御使いがいた。また、名前が刻まれていたが、それはイスラエルの子らの十二部族の名前であった。 21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。 21:14 都の城壁には十二の土台石があり、それには、子羊の十二使徒の、十二の名が刻まれていた。 21:15 また、私に語りかけた御使いは、都とその門と城壁を測るために金の測り竿を持っていた。 21:16 都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 21:17 また城壁を測ると、百四十四ペキスあった。これは人間の尺度であるが、御使いの尺度も同じであった。 21:18 都の城壁は碧玉で造られ、都は透き通ったガラスに似た純金でできていた。 21:19 都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、 21:20 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九はトパーズ、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 21:21 十二の門は十二の真珠であり、どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは純金で、透明なガラスのようであった。  イエス様が再び来られるその日に天から降りて来る新しいエルサレムについて、ヨハネは「夫のために飾られた花嫁よう」だと描写しました。 そして今日の箇所が、その新しいエルサレムの姿を表現しています。    新しいエルサレムについての表現を見ると、多くの門と宝石で派手な、長さと幅が約2300kmに至る巨大な城があるところ、果たして神様がこの地で苦労したご自分の民たちのために用意されたところと言えるほどです。    しかし、そのエルサレムにとって最も貴重なもの、そのすべての華やかさと偉大さを表しているのは、このような表面的な物ではありませんでした。何よりも、そこにある神様の栄光でした。    新しいエルサレムにある多くの宝石と巨大な城は、その神様の栄光を少しでも表現しようとしている物に過ぎません。 むしろ神様の栄光がそこにあるからこそ、この宝石たちと門、城は素晴らしい物とされるのことができるのです。    聖書は聖徒たちをイエス・キリストの花嫁として描いています。 そして、それは今日の箇所の新しいエルサレムも同様でした。 このエルサレムと同じく、私たちが持っている全ての良いもの、貴重なもの、そのようなことよりも私たちにとって最も貴重なことは、私たちのただ中にある神様の栄光、神のかたちです。    私たちが持っているものは、そのような神の栄光を表すためのものです。その栄光なしにはイエス・キリストの再臨の日に過ぎ去ってしまう以前の天と以前の地のように、イエス様が再び来られるその日に私たちが神様より貴重にしていたものは、過ぎ去ってしまうのでしょう。 https://youtu.be/hIYNZMpQF1U?si=D46JEKUigR96fz1M

요한계시록 묵상 【새로운 예루살렘】 20241228(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한계시록 21:9-21 21:9 일곱 대접을 가지고 마지막 일곱 재앙을 담은 일곱 천사 중 하나가 나아와서 내게 말하여 이르되 이리 오라 내가 신부 곧 어린 양의 아내를 네게 보이리라 하고 21:10 성령으로 나를 데리고 크고 높은 산으로 올라가 하나님께로부터 하늘에서 내려오는 거룩한 성 예루살렘을 보이니 21:11 하나님의 영광이 있어 그 성의 빛이 지극히 귀한 보석 같고…

ヨハネの黙示録 黙想 【始めから終わりまで】 20241227(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの黙示録 21:1-8 21:1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。 21:3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。 21:4 神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」 21:5 すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ、わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」 21:6 また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。 21:7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 21:8 しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」    「アルファであり、オメガである」ということは、当時のギリシャ語アルファベットの最初の文字であるアルファから最後のオメガまで、現代の「AからZまで」のような表現です。 神様は文字通り、最初から最後までこの世のすべてのことを成し遂げる方であるということを、今日の御言葉は再び私たちに再確認させています。 それにふさわしく、今日の箇所のヨハネが見た幻は天と地を見ることから始まっています。 今、私たちが生きているこの世、以前の天と以前の地がなくなり、新しい点と新しい地を見たのです。    古くからキリスト教と二分法、二元論というものは切り離れない関係にありました。 実際、聖書の多くの箇所から、このような二元論を私たちにお勧めしているように見えます。 旧約時代のイスラエルと異邦の国々、善人と悪者、信じる者と信じない者、他にも数多くの区分があり、今日の箇所の以前の天と以前の地、そして新しい天と新しい地に至るまで、これらを根拠にして、すべての異端の始まりとされているグノーシス主義が生まれ、今も多くの異端宗教がこのような二元論を前面に出して自分たちの正しさを弁証しています。  しかし、私たちはこれらの二元論に気をつけなければなりません。いつか過ぎ去るこの以前の天と以前の地を造られたアルファも神様であり、最後の日に来る新しい天と新しい地を造られたオメガも神様であるからです。 そして、そのような神様がご自分の一人子、イエス・·キリストを通して「あなたがたは世の中の存在ではない」と言わず、「あなたがたは世の塩と光である」と言われたからです。  私たちの聖書は神様が「アルファでありオメガである、始めであり、終わりである」と翻訳されて、それだけでも意味は変わりませんが、私はもっと明確に表現したいです。 神様は「アルファからオメガまで、始めから後わりまで」の方です。 神様は始めと終わりだけを用意している方ではなく、その間のすべての時間、すべての道を用意し、最後まで導く方です。 そして、私たちは今、その神様に導かれているのです。  私たちは今、以前の天と以前の地に住んでいます。 時には涙を流し、悲しさ、苦しさを経験しているけれども、私たちは新しい天と新しい地がなされるその日を期待し、神様の導きの中でその日を先に体験しながら生きていくでしょう。 それこそ、私たちがこの世から離れて生きる存在ではなく、世の中の塩と光として生きていくことです。 https://youtu.be/alp5VEI7KN8?si=Mbz4shAsWGeOz6ce

요한계시록 묵상 【시작부터 끝까지】 20241227(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한계시록 21:1-8 21:1 또 내가 새 하늘과 새 땅을 보니 처음 하늘과 처음 땅이 없어졌고 바다도 다시 있지 않더라 21:2 또 내가 보매 거룩한 성 새 예루살렘이 하나님께로부터 하늘에서 내려오니 그 준비한 것이 신부가 남편을 위하여 단장한 것 같더라 21:3 내가 들으니 보좌에서 큰 음성이 나서 이르되 보라 하나님의 장막이 사람들과 함께 있으매 하나님이 그들과…

요한계시록 묵상 【책들과 생명책】 20241226(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한계시록 20:11~15 20:11 또 내가 크고 흰 보좌와 그 위에 앉으신 자를 보니 땅과 하늘이 그 앞에서 피하여 간데 없더라 20:12 또 내가 보니 죽은 자들이 무론대소하고 그 보좌 앞에 섰는데 책들이 펴 있고 또 다른 책이 펴졌으니 곧 생명책이라 죽은 자들이 자기 행위를 따라 책들에 기록된 대로 심판을 받으니 20:13 바다가 그 가운데서 죽은…

黙示録 黙想 【数々の書物といのちの書】 20241226(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師

黙示録 20:11~15 20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。 20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。 20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。 20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。 20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。   最終的な裁きの中でも、白い御座の裁きについてです。白い御座の上に神が座っておられ、地と天は神の御前から消え去ります。恐ろしく感じるかもしれませんが、不思議なことではありません。世界を存在させた方によって、世界が終わりを迎えるのは当然のことです。この裁きは、神の完全な聖さと正義を表しています。人間が罪を認識し、それを消し去ろうとしても、その消しゴムにも罪が染み付いており、完全に清めることはできません。神が不条理で満ちた世界を終わらせる日、すべての行いは神の御前で裁きを受けることになるのです。 死んだ者の「大きさ」や「小ささ」が語られているのは、生きていた時の地位や影響力を指しているのでしょう。しかし、その大きさに関係なく、すべての人が平等に裁きを受けます。世の中で大きな存在として生きた者も、小さな存在として生きた者も、死を通過したとき、その大小が何の意味も持たないことを既に知ることになります。それぞれの行いに応じて、書物に記された通りに裁きを受けます。そして、その横にはもう一冊の書物、いのちの書があります。いのちの書に名前が記されている者は、罪に定められることはありません。行いの書に自分の罪が記されないように慎んで生きるべきです。しかし、いのちの書に自分の名前が記されるためには、必死になるべきです。行いの書は人間の行いによって裁きを行い、いのちの書はイエス・キリストの十字架によって救いを示します。 死とよみも、その中にいる死者を吐き出し、最終的に死と火の池も火の池に投げ込まれます。これが第二の死です。第一の死とは、アダム以降、罪の報酬が死となった人間の状態です。すべての人間は第一の死を経験しますが、いのちの書に名前が記されている者は第二の死を免れます。しかし、いのちの書に名前が記されていない者は火の池に投げ込まれるのです。世間では人は死後に名前を残すと言いますが、この世が死者の名前を記憶するのは、利用価値がある時だけです。死ねば忘れ去られます。欲望や執着によって名前を残そうとするのではなく、いのちの書にイエス・キリストの血で書かれた自分の名前、必ず残さなければなりません。

크리스마스 묵상 【아기 예수의 울음소리】 20241225(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

누가복음 2:1~14 2:1 이때에 가이사 아구스도가 영을 내려 천하로 다 호적하라 하였으니 2:2 이 호적은 구레뇨가 수리아 총독 되었을 때에 첫번 한것이라 2:3 모든 사람이 호적하러 각각 고향으로 돌아가매 2:4 요셉도 다윗의 집 족속인고로 갈릴리 나사렛 동네에서 유대를 향하여 베들레헴이라 하는 다윗의 동네로 2:5 그 정혼한 마리아와 함께 호적하러 올라가니 마리아가 이미 잉태되었더라 2:6 거기…

クリスマス 黙想 【赤んぼイエスの泣き声】 20241225(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカによる福音書 2:1~14 2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。 2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。 2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。 2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。 2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 2:8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。 2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」   ローマ皇帝アウグストゥスの命令によって、ヨセフとマリアは人口調査のためにベツレヘムへ向かうことになりました。この旅は単なる行政手続きではなく、神の救済計画が成就する重要な契機となるものでした。そこベツレヘムで、マリアは宿を見つけることができず、家畜小屋で息子を産み、その赤子を飼い葉桶に寝かせました。その夜、野原で羊を飼っていた羊飼いたちに天使が現れ、イエスの誕生を告げました。「この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」と御使いは伝えます。そして天には軍勢が整列し、「いと高きところに栄光が神にあり、地には平和がある」と宣言し、神の栄光の賛美をささげます。 地上では、この出来事に注目した者は誰一人いませんでした。羊飼いたちはただ夜通し羊の番をしていて、ヨセフとマリアは皇帝の命令に従って本籍地に向かう旅人の身でした。この出来事の背景には、快適さとは程遠い、寒い早朝の野原と、臭く汚れた家畜小屋がありました。イエス・キリストの誕生は牧歌的でもロマンチックでもありません。それはむしろ、貧しい人々の厳しい現実を象徴しています。貧しい者たちは生計を立てるために眠ることもできず、疲れ果てた夜を過ごしていました。ヨセフは旅の途中で出産間近の妻のための宿を用意できず、必死に探し回るしかありませんでした。マリアは準備も整わない中、息子を産むことになったのです。 神が人として来られたその日は、眠ることも、横になる場所を見つけることもできなかった貧しく疲れた人々の日常のただ中でした。神は高く栄光に満ちた場所ではなく、最も低く弱い場所に降りて来られ、人間の苦しみと不安を直接体験されました。それは宗教的な象徴や抽象的な概念ではなく、具体的で現実的な出来事でした。救いは遠くで起こる出来事ではありません。それは、神が人間の具体的な人生の実存の中に入って来られたことにほかなりません。クリスマスは、神が人間として来られ、人の苦しみと痛みに寄り添い始められた日です。赤子イエスの唯一の発音は泣き声だけでしたが、その泣き声には低きところに共におられる愛が込められています。イエスの誕生は、私たちの苦しみと痛みのただ中に来られ、その重荷を直接引き受けてくださる神の愛の証です。その愛は、上から降り注ぐ愛ではなく、低きところで共にいてくださる愛です。このクリスマスに、神が私たちの日常の中に来られたこと、そしてその愛と恵みを深く思い巡らしながら過ごしましょう。

クリスマス 黙想 【マグニフィカト】 20241224(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ルカによる福音書 1:39~56 1:39 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。 1:40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。 1:41 エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。 1:42 そして大声で叫んだ。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。 1:43 私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。 1:44 あなたのあいさつの声が私の耳に入った、ちょうどそのとき、私の胎内で子どもが喜んで躍りました。 1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」 1:46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、 1:47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。 1:48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。 1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、 1:50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。 1:51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。 1:52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。 1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。 1:54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。 1:55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」 1:56 マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。   マリアは御使いから自分がイエスを身ごもるという知らせを聞いた後、エリサベツを訪ねます。二人は親戚であり、エリサベツはマリアよりもずっと年上でした。エリサベツはマリアの信仰を祝福し、マリアを「わたしの主の母」と呼びました。聖霊に満たされたエリサベツは、マリアのお腹の中の赤ちゃんがキリストであることを知っていました。婚約中に妊娠し混乱していたマリアがエリサベツを訪ねて交わりを持てたのは、聖霊の導きによるものです。信仰の人が信仰の人と出会うとき、神の御心は明らかになります。マリアはエリサベツとの出会いを通して大きな力を得ました。 エリサベツとの出会いを通して、マリアは信仰の確信を得て、いわゆる「マリアの賛歌(マグニフィカト)」を歌います。全能なる神、聖なる神の豊かな憐れみを賛美します。神は高ぶる者を低くし、へりくだる者を高く引き上げて用いられます。高慢な者が没落し、富む者が手ぶらで帰る一方で、貧しい者、弱い者、卑しい者が用いられ、彼らを通して約束が成し遂げられることを宣言します。神は世界の主権者であるため、人間のできる最善は従順です。マリアが賛歌を歌ったのは、彼らの生き方そのものが信仰であり、彼らの交わりが詩であり歌であったからでしょう。 マリアは自分の体を捧げ、その体の中でイエス・キリストを宿し、生もうとしている人です。自己を否定し、神の御心に従い献身する人々の対話と交わりは、いつも天上で歌われる賛美のようなものです。少数の献身な人々の集まりや対話の中に、聖霊は常に共におられます。そのような交わりの中には、神のメッセージと証が表されます。マリアは三か月間エリサベツの元に滞在した後、帰宅しました。マリアは神の確かな御心と信仰の確信を持って、より大胆になって家に戻りました。マリアが帰った後、エリサベツはバプテスト・ヨハネを出産し、マリアは胎内のイエスの胎動を感じ始めたことでしょう。母と子の従順を通して、受肉が成し遂げられています。