日本語礼拝 (2021-03-07)

ヘブル人への手紙 5:11-1411 このメルキゼデクについて、 私たちには話すことがたくさんありますが、 説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。12 あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。13 乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。14 固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。

マタイによる福音書 QT53 20210313土【一番重要な戒め】マタイ 22章 34~46

マタイ 22章 34~46 22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。 22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。 22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」 22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 22:38 これが、重要な第一の戒めです。 22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。 22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」 22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。 22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」 22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、 22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。 22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」 22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。 サドカイ人がイエス様を論破できなかったので、今度は再びパリサイ人のうちの律法学者が立ち上がって、自分の専門分野でイエス様に質問します。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。36」律法の原語は「ノモス(νόμος)」であり、その言葉は、財産分配にかかわる動詞として使われてた言葉です。神様を愛し、隣人を愛するという精神から律法の各条項が分かれたということです。ノモスが英語の「法(Law)」の語源になります。 質問に「どの戒めが一番重要ですか」という表現が出てきますが、これの原語は「メカレー(μεγάλη)」で、原型はメガス、英語の大きいの意味の「メガ(Mega)」の語源になります。分けるという意味と大きい意味が一つの文章の中にあります。当時、しなければならない律法条項が248個、してはならない条項が365個、合計613個の律法がありました。律法学者は、これだけある律法の中で上位の律法は何なのかと質問したのです。 イエス様は申命記6章5節を引用しておられます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。37」申命記6章は、5章で紹介された十戒の神学的まとめです。神様の十戒は、人間を制限し、強制するためのものではなく、神を愛し、隣人を愛するために与えられたのです。ということで、神を礼拝するようにし、親や隣人を愛するようにし、奪ってはいけない、殺してないけない、偽りをしてはならないとしたものです。律法は愛するためのものです。 世はますます専門化され、大学の専攻は意味もなく細分化されています。世界を割ってみるとすべて分かると思いましたが、それでも人間は世界のすべての秘密を解くことはできません。律法学者は、613個の律法を暗記することはできたかもしれませんが、律法の精神は知りませんでした。むしろ専門ということで巨視的な見識を失ってしまいました。日本のことわざに「鹿を追う者は山を見ず」という言葉があります。木は見ても森は見ません。 私たちには、613個の行動規範が定められていることではありませんが、神様という森は変わりありません。その森は神様を愛することと、隣人を愛するという大原則です。愛という大きなもの(Mega)から行動という小さなものに分けられた(Law)のです。すべての解釈と判断と決定においてこれを思い出さなければなりません。愛に基づけば間違いません。木を植えるとき、森を見て、その木を植えることができるなら、それは良いことであり、神のものとなります。

마태복음 QT53 210313토【가장 큰 계명】마태 22장 34~46

마태 22장 34~4622:34 예수께서 사두개인들로 대답할 수 없게 하셨다 함을 바리새인들이 듣고 모였는데22:35 그 중에 한 율법사가 예수를 시험하여 묻되22:36 선생님이여 율법 중에 어느 계명이 크니이까22:37 예수께서 가라사대 네 마음을 다하고 목숨을 다하고 뜻을 다하여 주 너의 하나님을 사랑하라 하셨으니22:38 이것이 크고 첫째 되는 계명이요22:39 둘째는 그와 같으니 네 이웃을 네 몸과 같이 사랑하라 하셨으니22:40…

マタイによる福音書 QT52 20210312金【生きている者の神】マタイ 22章 23~33

マタイ 22章 15~2222:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。22:27 そして最後に、その妻も死にました。22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。   今日はサドカイが登場します。パリサイ派が宗教的であるとすれば、サドカイ派はパリサイ派よりも政治的なので、ローマの支配勢力に協力して強大な既得権を独占していました。彼らはモーセ五書以外は何も認めていなかったし、パリサイ人たちとは違って、復活と永遠の命、霊的な存在をも信じていませんでした。現世がすべてだから、政治的影響力にそれほど執着したかもしれません。パリサイ人とはいつも対立関係にありましたが、今朝の本文では、イエス様という共同の敵を排除するために、彼らは渾然一体と協力しています。   彼らが提起した問題も、律法の解釈です。ユダヤ社会は兄が死ぬと、兄の名を継承するために弟が義理の姉と結婚します。これを「継代結婚」といいます。サドカイ人たちの質問は、七人の兄弟が順番に死に、継代結婚が繰り返された場合、復活後は、誰の妻になるかということです。継代結婚と復活は、このような矛盾を抱えているので、復活はないというのがサドカイ人の論理です。非常に幼児的な発想です。   継代結婚と復活が論理的に衝突するので復活はないはずだという論理の前に、天国はどんなところであり、復活は何なのかという質問がまずあるべきではないでしょうか?しかし、彼らは復活はないという揺るぎない信念に立ってすべてのことを考えます。見えるものだけを信じて、信じたいことだけを固く信じます。現実に基づいて考えると、霊の世界はフィクションだと思ってしまうのです。そのような人々は、宗教を無視して現実的な自分を合理的かつ理性的、科学的だと思い込みます。   しかし、うぬぼれている瞬間、自分がすべてを知っていると信じてしまう瞬間、合理も、理性も、科学も止まってしまいます。疑わない科学は科学ではありません。サドカイ人が律法と復活について、言葉の定義もないまま使っているように、いわゆる科学主義者も科学という言葉を定義せずに、むしろそこに完全な神格を与えていることに気づかなければなりません。科学的思考のになら、部分に対して部分的にしか知ることができません。   「物事の構造と性質を経験主義と自然主義的な立場から繰り返し観察し、それを通って得られた理論的な知識体系が科学」です。観察することができ、証明できるものがない場合、科学は無力です。しかし、目に見えないもの、観察することのできないことは無数に存在します。それに対してないと言ってしまう、間違っていると言ってしまいますが、実は、それは科学が解決できないだけです。   人が観察できるのは、復活ではなく、死です。それだけでもよく観察すれば人間の思いは変わります。死ぬことは科学的に証明することができますが、復活は証明できません。それがないと断言する人は、科学を知らない人です。それは科学の限界であり、神様の限界にはなりません。科学的な論理にとどまらず、霊的な思惟を広げなければなりません。神様の力は、生かすことにあります。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」というのは、神様は復活の命に入らない人々に神と呼ばれることを拒否しておられるからです。  

마태복음 QT52 210312금【산 자의 하나님】마태 22장 23~33

마태 22장 23~33마22:23 부활이 없다 하는 사두개인들이 그 날에 예수께 와서 물어 가로되마22:24 선생님이여 모세가 일렀으되 사람이 만일 자식이 없이 죽으면 그 동생이 그 아내에게 장가 들어 형을 위하여 후사를 세울찌니라 하였나이다마22:25 우리 중에 칠 형제가 있었는데 맏이 장가 들었다가 죽어 후사가 없으므로 그의 아내를 그 동생에게 끼쳐두고마22:26 그 둘째와 세째로 일곱째까지 그렇게 하다가마22:27 최후에…

マタイによる福音書 QT51 20210311木【カエサルのものと神のもの】マタイ 22章 15~22

マタイ 22章 15~2222:15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。22:16 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。22:17 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」22:18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。22:19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。22:20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」22:21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」22:22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。   パリサイ人とヘロデ党は結託して、イエス様にローマ帝国に税金を納付すべきなのかという質問をします。彼らはヘロデに従う政治団体に他ならない者たちで、そのヘロデはローマの皇帝カエサル(Caesar)によって統治権が与えられていました。カエサルは、ローマ皇帝の固有名詞でありましたが、当時一般的名詞になって皇帝を意味する言葉で通用していました。本文のカエサルがシーザです。   もしイエス様がカエサルに税金を納めなくてもよいと言うと、ローマの植民地政府に扇動などの反政府疑いで訴えられるものであり、税金を納めるべきと言うと、ローマの搾取に苦しむ民たちはイエス様に失望します。幼稚なジレンマを用いて世論戦の落とし穴を掘っていたのです。   イエス様はローマのデナリ銀貨に刻まれた形状が誰の顔かと尋ねられます。そこには皇帝カエサルの顔が刻まれています。裏面には、聖なるアウグストゥスの子、最高司祭であるティベリウス・カエサルと書かれています。イエス様はそれを見て「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。21」と言われます。   私たちは、これをたとえ不正を行う国においても一定の税金を納めるべきであるという意味で解釈します。もちろん、それは一次的な解釈で間違いないことだと思います。私たちにも、原則的には同じですが、私たちの事情は、植民地のユダヤとは少し違います。国民は定められた納税に対する義務を負いますが、同時に税金が正当に収められて正しく使われるように立法と行政を選出し、監視することができます。そうしなければなりません。   本文において税金の問題についてはこのような整理をすることはできますが、今朝の本文の核心はこれではありません。彼らの目的は、納税かどうかについて学びたいもののではなくて、イエス様を政治的落とし穴に入れようとしたものます。質問の意図が税金の問題ではなかったので、イエス様の答えにも彼らの意図を指摘するような答えであると思います。   彼らはイエス様を宗教という枠組みに閉じ込めた後、政治を利用し、宗教を脅かし、宗教を利用して、政治に媚びている人でした。そして、それらの究極的な目的は、経済的な利益です。経済と政治と宗教が持つそれぞれの原理が異なるにもかかわらず、彼らの質問には、これらが無理に絡められています。もちろん、神様は宗教に閉じこまれる方ではありません。   イエス様が言われるのは、バランスと分別についてです。神格化した皇帝の顔が描かれたお金は、皇帝に与えなさいということです。ただ、神様を政治的、経済的な論理で利用してはいけないということです。教会の中で、政治的な理念が極端に対立し、教会が資本主義の論理によって経営されている時代に、神様のものを神に捧げるということが何なのか腐心しなければありません。

마태복음 QT51 210311목【가이사의 것과 하나님의 것】마태 22장 15~22

마태 22장 15~2222:15 이에 바리새인들이 가서 어떻게 하여 예수로 말의 올무에 걸리게 할까 상론하고22:16 자기 제자들을 헤롯 당원들과 함께 예수께 보내어 말하되 선생님이여 우리가 아노니 당신은 참되시고 참으로써 하나님의 도를 가르치시며 아무라도 꺼리는 일이 없으시니 이는 사람을 외모로 보지 아니하심이니이다22:17 그러면 당신의 생각에는 어떠한지 우리에게 이르소서 가이사에게 세를 바치는 것이 가하니이까 불가하니이까 한대22:18 예수께서 저희의…

マタイによる福音書 QT50 20210310水【天の御国の結婚の披露宴】マタイ 22章 1~14

マタイ 22章 1~1422:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」   続く今朝の比喩は、天の御国を結婚の披露宴を催した王の話しにたとえている内容です。王が息子の結婚の披露宴を施し、人々を招待しました。ところが、招待された人々が来ようとしませんでした。王は再び人を送ってごちそうの宴会に誘います。   しかし、人々はそれぞれの仕事に忙しく、今回も応じません。それが嫌だった人々は招待しに来たしもべを侮辱して殺してしまいました。そういえば神様が遣わした過去の預言者も、拒絶され、殺されることがありました。   これを聞いた王は、軍隊を送り、しもべを殺した人々を滅ぼし、町を焼き払いました。その後で王はしもべを送って大通りで出会った人をみなを招待するようにしました。婚宴の客はいっぱいになりました。   ところが、招待された人の中で礼服を着ていない人がいました。急いで来ることで礼服を備えてないわけではありません。イスラエルの王は、婚宴を施すとき、招待した客に着るを礼服も提供していました。それにもかかわらず、婚宴の中に礼服を着てない客が一人発見されたのです。   王は彼になぜ礼服を着てないのかと聞きましたが、何の返事もしません。その人は、手足を縛って、外の暗闇に放り出し、泣いて歯ぎしりするようになります。そこは天の御国ですから、天の御国の資格が必要です。このたとえ話は「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。14」で終わります。   この本文についてある人は礼服はイエス・キリストであるといい、ある人は信じる者の行動を言うということで意見が分かれます。しかし、今朝、本文を読んだ後に心に残る感情は、「教会を拒絶する時代の恥」、「教会に石を投げる時代の悲痛」、「教会には来るが、イエス・キリストがいないという時代の虚しさ」です。この感情の中にはイエスがいないことや、信仰の行いがないことが同じことです。   「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。14」招かれることはありますが、イエス・キリストで着なければ、誰も天の御国にふさわしくありません。選ばれなければなりません。キリストを信じるからといって選ばれるわけでもありません。順序が間違っています。神様が選ばれた人が、イエス・キリストを信じることが出来ます。   人が神様を選択するのではなく、神様が人をお選びになります。したがって、天の御国をを伝える教会には、用意されている礼服、つまりイエス・キリストの福音を持って伝えるために出かけなければなりません。  

마태복음 QT50 210310수【천국의 혼인 잔치】마태 22장 1~14

마태 22장 1~1422:1 예수께서 다시 비유로 대답하여 가라사대22:2 천국은 마치 자기 아들을 위하여 혼인 잔치를 베푼 어떤 임금과 같으니22:3 그 종들을 보내어 그 청한 사람들을 혼인 잔치에 오라 하였더니 오기를 싫어하거늘22:4 다시 다른 종들을 보내며 가로되 청한 사람들에게 이르기를 내가 오찬을 준비하되 나의 소와 살진 짐승을 잡고 모든 것을 갖추었으니 혼인 잔치에 오소서 하라 하였더니22:5…

マタイによる福音書 QT49 20210309火【ぶどう園のしもべの反逆】マタイ 21章 33~46

マタイ 21章 33~4621:33 もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がいた。彼はぶどう園を造って垣根を巡らし、その中に踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。21:34 収穫の時が近づいたので、主人は自分の収穫を受け取ろうとして、農夫たちのところにしもべたちを遣わした。21:35 ところが、農夫たちはそのしもべたちを捕らえて、一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石打ちにした。21:36 主人は、前よりも多くの、別のしもべたちを再び遣わしたが、農夫たちは彼らにも同じようにした。21:37 その後、主人は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、息子を彼らのところに遣わした。21:38 すると農夫たちは、その息子を見て、『あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう』と話し合った。21:39 そして彼を捕らえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった。21:40 ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょうか。」21:41 彼らはイエスに言った。「その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。」21:42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』21:43 ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。21:44 また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」21:45 祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちについて話しておられることに気づいた。21:46 それでイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである。   「生命体を発見するたびに、私は権力の意志も一緒に発見した。さらに、誰かを祀っている者の意志すら主人になろうとする意志を発見することができた。」- 「ツァラトゥストラはこう語った」の中で –   人間の権力への欲求は生存のためのものにとどまりません。欲望は生存を越えて超越しようとする飢え渇きを持っているから存在します。ですからニーチェは力に頼ることがすなわち人間の実体であると考えました。   ニーチェの人間現象の分析については、同意せざるえません。人は、自分が人生の主人であると思い、生涯の中で取り扱うすべてのものに対して欲を張ります。その理由は不安だからであり、その不安の最終的な対象は死です。   しかしここに矛盾があります。死という不可抗力的な結末を知っているのにもかかわらず、その不安のために欲を張っている人間を発見するのです。欲張っても命に関しては自分ではどうにもすることができません。今自分が持っている資源については、自分を所有者とすることができるかもしれませんが、命に関して主人になることはできません。   人間は主体的ではなく依存的であることに悲観になるかもしれませんが、人間が自分の人生をまことに主体的に生きることのできる唯一の方法は、生を与えられた神様のうちに入って依存することです。根源を所有していると結末に恐れはありません。人生の主人になりたくて、神様を離れていきますが、人間は決して生の所有者になることはできません。   今日のイエス様の比喩は悪い葡萄園のしもべらの反逆です。本来、彼らは主人に信頼を受けていた人たちです。多くのことを委ねられて専門的に経営することができる責任と権利を与えられた人たちです。いくらでも主体的に決定することができ、成果に応じた報酬を受け取ることもできる人です。   ところが、彼らは不安を抱き始めました。主人が来ると主人のふりすることができなくなるからです。ですから存在に満足せずに貪欲を図ります。虚しいこと図る人はすぐに愚かになります。主人が送ったしもべを殺し、また息子をも殺してしまいます。そうすると所有者が変わると思ったのです。   人間が尊厳になる瞬間は、所有者になって所有する時ではなく、自分の位置を知る時です。その時に貪欲と不安から解放され、幸せと安らぎが与えられます。神の懐で主体的な生涯を送ることはできます。そのためには、息子を通さなければなりません。キリストを通した神からの平安が、今日ここにあることを祈ります。