日本語礼拝 (2020-12-20)

ルカの福音書 2:8-148 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。

Ⅰペテロ QT6 20201219土 【愛は罪をおおう】 1ペテロ 4章1~11

1ペテロ 4章1~111 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。9 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。   ニコデモが訪ねてきたとき、イエス様は、「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言われました。また、パウロがコリントに手紙を送ったときは、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と言いました。これが重生、生まれ変わること(Born Again)です。   重生とは、まず死ぬことを前提とします。聖徒は一度死に、再び生まれ変わります。つまり罪と咎で死に、神がキリストにあって生かすことによって生まれ変わります。パウロは、ローマ人への手紙で 「罪の報いは死」と言いきりました。死の原因は罪であって、それは肉体と魂が永遠の死ぬことを意味します。そこから生まれ変わらなければならないというのは、肉体が二度生きることではなく、死んでしまった魂が生き返ることなのです。   死んだ者が、自ら自分を生かすことはできません。すでに死んでいるので生きることに関しては徹底的に無能です。罪のゆえに死んだ魂を生き返ることができるなら、それは罪のない神の哀れみの力しかありません。ですから生まれ変わるというのは、自分の力ではなく、聖霊によるものであります。聖徒は神様の選びと召しを受け、聖霊の恵みにとって生まれ変わります。   それなら、目に見えない聖霊をどのように認識し、何をもって生まれ変わりの自覚と確認をとることができるでしょうか?今日の本文で、ペテロは重生の前と後を比較しています。それが重生を分ける標識になります。ペテロによると以前の人は 「好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝」です。すべてが自分のためのものです。   ところが、生まれ変わった聖徒には 「祈りのために、心を整え身を慎むこと」を求めます。祈りと心の整えというのは、「互いに熱心に愛し合い、つぶやかないで、互いに親切にもてなし合い、それぞれの賜物を用いて互いに仕え合うこと」です。このような聖徒の生活から聖霊があらわれるのです。   「愛は多くの罪を覆う」と言われました。 「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」 と告白するように、他人の罪を赦す時、自分の罪をも赦されます。愛が罪を覆うということが、すなわち十字架の原理です。自分のための利己的な十字架は存在しません。罪の反対語は愛です。「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。」神様の言葉と神様の力は、生まれ変わった人々によって互いに仕え共同体の中に現われます。  

베드로전서 QT6 20201219토【사랑은 허다한 죄를 덮느니라】벧전 4장1~11

벧전 4:1-111 그리스도께서 이미 육체의 고난을 받으셨으니 너희도 같은 마음으로 갑옷을 삼으라 이는 육체의 고난을 받은 자가 죄를 그쳤음이니2 그 후로는 다시 사람의 정욕을 좇지 않고 오직 하나님의 뜻을 좇아 육체의 남은 때를 살게 하려 함이라3 너희가 음란과 정욕과 술 취함과 방탕과 연락과 무법한 우상 숭배를 하여 이방인의 뜻을 좇아 행한 것이 지나간 때가 족하도다4…

Ⅰペテロ QT5 20201217金  【希望の理由】 1ペテロ 3章13~22

1ペテロ 3章13~2213 もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14 いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。15 むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。16 ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。17 もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。   この世は派手で強い力をもっています。そういうことで私たちはしばしば卑怯になることがあります。しかし、目指すべき信仰は大胆です。繁栄の道であれ、苦難の道であれ、大胆な信仰は障害に会っても軽はずみにふるまうことはしません。ペテロが手紙を送った時は、苦難の時代であり、また恐れの時代でした。そんな中でペテロは、「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。14」と言っています。   苦難を加える者が聖徒に「なぜ恐れないのか、なぜ妥協しないのか」と尋ねると、ペテロはそれに答えなさいと言います。 「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。15」 希望には理由があるから、その希望の理由をいつでも言えるようにしなさいということです。信仰の理由について言えないならば、それは口下手だからではなく、信仰の理由が不明だからであり、もしくは大胆さがないからです。   すなわち、福音を信じないか、それを信じることを恥ずかしがるからです。15節の 「心の中でキリストを主としてあがめる」 ことがないからです。イエスを信じることをあざける人は昔でも今でもいくらでもいます。彼らは救いと復活、天国への信仰を嘲笑います。しかし、彼らも信じていることであって 「何もない、または何も知らない」 ことを信じることです。誰でも何かは信じています。   ペテロは恐れてはいけないと言いながら、希望の理由を言うときは 慎み恐れなさいと言います。ここでの恐れは、14節の世の力への恐れではなく、神様への恐れです。私たちは世を恐れるか、神様を恐れるかとちらかを恐れています。   私たちは世を恐れるということが何であるかよく知っています。自分の利益と安定に関する不安です。そして、神様への恐れが何であるかは、16節が教えています。「正しい良心」です。良心は現実的に、私たちの利益と安定を後退させることがあります。私たちがそれを知っているからこそ恐れます。ということで、四則演算に早い人々は、神様と良心より世を恐れます。良心とは道徳的なことばかり言うものではありません。 21節を読むと、良心が神様にたどりつく道であると説明しています。   大胆な信仰は、神様の前に立っ恐れと私たちに与えられた神の秩序、正しい良心です。そして、ペテロが恐れとともに求めたもう一つの価値は、「優しさ」です。柔和です。イエス様はマタイの5章の山上の垂訓の中で言われました。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。5:5」 怒りを持って、神様の働きをすることはできないからです。  

베드로전서 QT5 20201218금【소망의 이유】벧전 3장13~22

벧전 3:13-2213 또 너희가 열심으로 선을 행하면 누가 너희를 해하리요14 그러나 의를 위하여 고난을 받으면 복 있는 자니 저희의 두려워함을 두려워 말며 소동치 말고15 너희 마음에 그리스도를 주로 삼아 거룩하게 하고 너희 속에 있는 소망에 관한 이유를 묻는 자에게는 대답할 것을 항상 예비하되 온유와 두려움으로 하고16 선한 양심을 가지라 이는 그리스도 안에 있는 너희의 선행을…

Ⅰペテロ QT4 20201217木 【信仰が建てる尊重】 1ペテロ 3章1~12

1ペテロ 3章1~121 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。5 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。6 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです。7 同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。8 最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。9 悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、11 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」   歴史上、キリスト教の信仰は人類の半分の女性の権利伸張において大きな影響を与えましたた。教会が私たちの社会に入ってきて、初めて女性の名前を呼んでくれました。誰々のママと呼ばれていた女性に名前を付けて執事と呼んだとき、それは初めて経験する社会的、また個人的な尊重でした。   聖書が男性優越主義というのは誤解です。二千年から五千年にまでさかのぼる古代のコンテキストを理解すると、聖書が言う女性の地位はまさに革命的な進歩といえます。聖書を唯一の生活の規範とする人々を通して、今も公平と定義に基づいた人間の権利は、さらに進んでいます。   一部の男性優越主義や一部の被害意識に偏ったフェミニズムは、この本文を取り囲んで神経戦を繰り広げますが、今日の本文は、男女の優劣を決める対決の本文ではありません。要約すると、女性と男性が互いに尊重しながら仕え合うことです。支配したり、一方的に教えることではなく、仕え合うことによって家庭と教会に徳を高めます。それが真実なものであるならば、命の実、すなわち宣教の実をも結ぶのです。   それは隣人においても同様です。クリスチャンの実力行使というのは、変わらない神様の愛を変わりつつある世においてどのようなコードに変換して流すかということです。信仰の真正性は、家庭、職場、共同体の関係性の中で結ばれる実として表します。   朝のQTのみ言葉はダニエルに続いてⅠペテロを読んでいて、水曜礼拝にはⅡペテロの1章から聖徒の成長について読んでいます。それから今朝の祈祷会のみ言葉は箴言の「心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。22:11」でした。 最近、繰り返し、重なっていただくみ言葉の共通のテーマは「建徳」です。徳を高めること、正否を定めることよりも耐えぬき、抱いていくことです。私たちは、教会の建物の購入を推進しています。教会を立てるということは、地域と時代に神様の徳を高めることです。神様の素晴らしい徳を高く宣伝する一日になることを願います。  

베드로전서 QT4 20201217수목【믿음이 세워가는 존중】벧전 3장1~12

벧전 3:1-121 아내 된 자들아 이와 같이 자기 남편에게 순복하라 이는 혹 도를 순종치 않는 자라도 말로 말미암지 않고 그 아내의 행위로 말미암아 구원을 얻게 하려 함이니2 너희의 두려워하며 정결한 행위를 봄이라3 너희 단장은 머리를 꾸미고 금을 차고 아름다운 옷을 입는 외모로 하지 말고4 오직 마음에 숨은 사람을 온유하고 안정한 심령의 썩지 아니할 것으로 하라…

Ⅰペテロ QT3 20201216水 【神の秩序に」従う】 1ペテロ 2章11~25

1ペテロ 2章11~2511 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、14 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。15 というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。17 すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。18 しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。   聖徒は、二つの国に仕えます。二心を抱くということではありません。二つの主人に仕えるということももありません。聖徒は、神の国に仕える同時にこの地の制度的国家と社会にも仕えるのです。   それは悪魔視して分離してしまうと偽善と矛盾を避けることができません。神様が主権がないところはないからです。聖徒は、神様の秩序と世の法を照らし合わせ、それに聖書的な問題意識を持たなければなりません。   みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえと期待して、祈る信徒であれば、罪で壊れた神様の創造の秩序をこの地に回復することを根本的な使命とみなすことができます。世と世の人は罪により歪んでいて、私たちはその中で神様の働きをしなければなりません。   人の力や人気が権威の座を占めるように見えますが、神様のみ旨なしに世の権威は立てられません。ということで皇帝ネロの時代にパウロは、ローマに送った手紙で「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」と言いました。   この間QTで読んだダニエルには「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。2:21」リーダーシップを立てる神様の主権は、単に聖書の一節の提示ではなく、聖書全体が証ししていることです。聖書を読んでみると、イスラエルだけでなく、イスラエルをめぐる周辺国、だらにイスラエルの敵の国の王においてもそれを立て、また下すのは神様であることがわかります。   今日の本文でペテロも、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。13,14」と言います。ローマ書のパウロと本文のペテロ、この二人の使徒は不義の権力者ネロの時代に殉教します。政治権力によって命を失った使徒たちの国家観は、驚くほどに権威に対する服従です。   それならクリスチャンは不義な権力に沈黙して順応するべきだろうかという課題が残ります。言葉の意味を吟味する必要があります。国が持っている力で社会は秩序を維持します。どんなに無能で腐敗した政府であっても、無政府と無秩序よりは、一定の秩序を維持することができます。   つまり問題は、権力者ではなく、権力から出てくるの秩序です。教会はローマ権力によって政治的な犠牲になりますが、ローマ政府の法的秩序がなかったならば、教会は先にユダヤ人のテロに犠牲されたと思います。   民主主義において国家が持つ力というのは、権力の出所である国民が、法制度の中で公務員に委任し、権力を執行するようにした公権力をいいます。すべての権力は国民にあり、国民は行政と立法の公務員を選挙をもって選出して権力を委任します。ですから法治国家は法秩序を作り、それに沿って、善悪を懲罰します。   これが教会が暴力や違法的な対抗を」して法秩序を自ら脅かすことをしてはならないということです。この権威に逆らう者が裁きを招くということは、国家が法執行機関を介して個人の自由を制止するからです。   人の手ですることは不完全です。権力にかかわるものはさらにそうです。教会は、世の不義を牽制し、不当な抑圧に抵抗しなければなりません。ペテロの制度に服従するということは火不義に妥協し、沈黙するということではなく、不法と暴力の方法で制度と体制を越えてはならないということです。ペテロの手紙は一貫して教会と聖徒の建徳を目指しています。

베드로전서 QT3 20201216수【하나님의 질서에 순종】벧전 2장11~25

벧전 2:11-2511 사랑하는 자들아 나그네와 행인 같은 너희를 권하노니 영혼을 거스려 싸우는 육체의 정욕을 제어하라12 너희가 이방인 중에서 행실을 선하게 가져 너희를 악행한다고 비방하는 자들로 하여금 너희 선한 일을 보고 권고하시는 날에 하나님께 영광을 돌리게 하려 함이라13 인간에 세운 모든 제도를 주를 위하여 순복하되 혹은 위에 있는 왕이나14 혹은 악행하는 자를 징벌하고 선행하는 자를 포장하기…

Ⅰペテロ QT2 2020122土【王である祭祀】Ⅰペテロ 2章1-10

Ⅰペテロ 2章1-10節1 ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。3 あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、8 「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。   祭司は祭礼儀式をつかさどり、神と人との間を仲介する役割の人です。旧約時代に祭司の職務は、レビ族に限って、アロンとその子らに代々受け継がれました。レビ人でなければ祭祀の職務をすることはできませんでした。イスラエルの初代の王サウルが廃位された決定的な要因の一つがこれです。祭祀が執り行わなければならない礼拝を、サムエルが来る前に、自分の手で直接ささげてしまったからです。士師の時代には、正教一致の時代でしたが、正教に分離された王政国家において王は祭祀を執り行うことはできませんでした。   祭司は礼拝において絶対的な権限を持っています。宗教社会であるイスラエルで大祭司という職に必然的に政治的な権力が与えられます。しかしそれは時間が経つにつれ本末転倒となり、権力中毒となった人々によって礼拝と宗教が利用されることになります。新約時代においても同じです。中世においても皇帝と教皇の主導権争いは繰り返されました。   新約の福音書に登場する堕落した祭司長は、政治権力と経済権力に結託して礼拝を汚しました。その頂点がイエス・キリストを殺した事件です。福音書を読んでみると、大祭司がイエス様を必ず殺すと心に決める事件が宮清めの出来事です。つまり、イエス様が神殿で商売していた人たちを追い出した事件です。それが大祭司の収入源であったからです。賄賂と不公正な取り引きが神殿の中で行われていて大祭司はそれを妨げるイエスを殺したのです。   旧約の大祭司とイエス様の時代の堕落した大祭司、そして中世の教皇も、宗教権力を握っている人です。彼らの職務の対象は、宗教が制度化した社会の構成員です。すなわち、生まれながら神殿や教会に属している人です。生まれながらユダヤ教やキリスト教に属して十分の一の献金が給料から源泉徴収される人です。宗教権力はそのような人々を対象にして礼拝を執り行います。   イエスの教えが衰退したことで、改革者は習慣と形式ではなく、神様の言葉に戻ろうとしました。それが16世紀の宗教改革です。改革者マルティン・ルターは、宗教的な権力を持つ大祭司、教皇、司祭、牧師としての祭司ではなく、神と人とをつなぐすべての人に祭司の職が与えられたことを宣言しました。その根拠が、今日の本文9節にあります。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。9」   神と人とをつなぐというのは、「ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方」すなわちイエス・キリストによるものです。ですからヘブル人への手紙で、イエス様を大祭司と呼んでいるのです。そして、私たちが祭司になるのは、大祭司であるイエス・キリストを通して、キリストの中で可能になるのです。王は祭祀を執り行うことができませんでしたが、ペテロは、イエス・キリストを信じる聖徒は王のような祭司であるといいました。初代教皇ペテロが私たちに王である祭司と言っています。神に仕え、民に仕える王的職分と祭司的職分が聖徒にあります。   祭司は神殿の中で祭祀職務を執り行います。しかし、王のような祭司は、「福音のすばらしいみわざを宣べ伝える人」です。彼らは福音のないところにおいて王のような祭司です。この手紙が送られたのは、礼拝が当然のように行われた時代ではありません。イエス・キリストの御名によって集まることに迫害と苦難を受けなければならなかった時代です。初代教会のアジア地域の人々に送られた手紙です。絶対多数が礼拝をささげなかった時代とその地域で、神様の福音のすばらしいみわざを宣べ伝える人が王のような祭司なのです。