マタイによる福音書 QT42 20210301月【離婚について】マタイ 19章 1~12

マタイ 19章 1~1219:1 イエスはこれらの話を終えると、ガリラヤを去り、ヨルダンの川向こうを経てユダヤ地方へ入られた。19:2 すると大勢の群衆がついて来たので、その場で彼らを癒やされた。19:3 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」19:4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。19:5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。19:6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」19:7 彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。19:9 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」19:10 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」19:11 しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです。19:12 母の胎から独身者として生まれた人たちがいます。また、人から独身者にさせられた人たちもいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、受け入れなさい。」   モーセの律法には、男性が妻を捨てる場合、妻が再婚できるように離婚証書を与えるとなっていますが、イエス様は、モーセが離婚を許したのは、人々の心が頑なだからと言われました。もっと具体的に言えば、男性の欲望が家の外に向かっているからだということです。   男性が妻を捨てて他の女性を取ることを防げないから捨てられた女性が再婚できるように離婚証書を書いてあげるとしたものですが、男性はそれをモーセが正式に離婚してもよしとしたという我田引水に考えました。   申命記24章1節で、モーセが言った離婚の条件というのは、女性の不倫でした。ところが、女性の性的不倫という言語で明示されておらず、「何か恥ずべきこと」という婉曲な表現になっていたことを男性カルテルはそれを悪意を持って解釈し、小さい問題まで、女性の恥にさせて離婚できるようにしたのです。ヒレル学派は、妻がご飯を燃やしたり、顔がわるということも恥ずべきことあり、離婚の条件に該当するとしていました。   これは、その社会の中で横行していたことであってイエス様は、それについて断固として原則を言われます。結婚は神様が造られたものであり、配偶者の不倫の原因ではなく、他の理由では離婚することはできない、とのことを確認してくださいました。それでも離婚すれば、そこはすなわち姦淫に該当するとされます。   現代では、離婚は稀に起こることがなくなりました。何らかの理由で片方または双方が苦しんでいるときに離婚を引き止めることも困難です。しかし、夫婦関係だけでなく、親子関係、教会共同体およびすべての社会を構成する集団と共同体の中でが違いと葛藤は常に存在します。その中に葛藤と問題があることを、神様は知っておられます。   今朝祈りの時間に読みましたミカ書の一行が記憶に残っています。「子は父を侮り、娘はその母に、嫁はその姑に逆らい、それぞれ自分の家の者を敵とする。しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。7:6,7」   聖書の中にも血を流すほど葛藤があります。しかし、破棄したり交換する方法ですべてが解決されることではありません。離婚というのが特殊で例外的なことであることを覚えておかなければありません。創世記の神様の秩序にも、申命記のモーセの律法にも、イエス様のマタイの教えでにも、経済問題や性格の違いは離婚の理由に言及もされていません。与えられたあらゆる状況に対して丁寧さを保ちたいと思います。  

마태복음 QT42 20301월【이혼에 대해서】마태 19장 1~12

마태 19장 1~1219:1 예수께서 이 말씀을 마치시고 갈릴리에서 떠나 요단강 건너 유대 지경에 이르시니19:2 큰 무리가 좇거늘 예수께서 거기서 저희 병을 고치시더라19:3 바리새인들이 예수께 나아와 그를 시험하여 가로되 사람이 아무 연고를 물론하고 그 아내를 내어버리는 것이 옳으니이까19:4 예수께서 대답하여 가라사대 사람을 지으신 이가 본래 저희를 남자와 여자로 만드시고19:5 말씀하시기를 이러므로 사람이 그 부모를 떠나서 아내에게…

한국어 예배 (2021-02-28)

레위기 5:1-131 누구든지 증인이 되어 맹세시키는 소리를 듣고도 그 본 일이나 아는 일을 진술치 아니하면 죄가 있나니 그 허물이 그에게로 돌아갈 것이요2 누구든지 부정한 들짐승의 사체나 부정한 가축의 사체나 부정한 곤충의 사체들 무릇 부정한 것을 만졌으면 부지 중에라 할지라도 그 몸이 더러워져서 허물이 있을 것이요3 혹시 부지 중에 사람의 부정에 다닥쳤는데 그 사람의 부정이 어떠한…

日本語礼拝 (2021-02-28)

レビ記 5:1-131 人が罪に陥ったとき、すなわち、その人自身が見ていたり知っていたりする証人であるのに、証言しなければのろわれるという声を聞きながらも、それをしない場合、その人は咎を負わなければならない。2 あるいは、汚れた生き物の死骸であれ、汚れた家畜の死骸であれ、汚れた群がるものの死骸であれ、何か汚れたものに触れて汚れていたのに、そのことが彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、3 または、いかなるものであれ、触れれば汚れると言われる人間の汚れに触れ、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になって責めを覚える場合、4 また、害になることであれ益になることであれ、誓ったことが何であれ、人が軽々しく口で誓った場合、そのことを知ってはいたものの彼には隠れていて、後になってその一つについて責めを覚える場合──5 これらの一つについて責めを覚える場合には、自分が陥っていた罪を告白し、6 自分が陥っていた罪のために償いとして、羊の群れの子羊であれ、やぎであれ、雌一匹を主のもとに連れて行き、罪のきよめのささげ物とする。祭司は彼のために、罪を除いて宥めを行う。7 しかし、もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く。一羽は罪のきよめのささげ物、もう一羽は全焼のささげ物とする。8 彼はこれらを祭司のところに持って行き、祭司はまず、罪のきよめのささげ物となるものを献げる。彼はその頭の首のところをひねる。しかし、それを切り離してはならない。9 それから罪のきよめのささげ物の血を祭壇の側面にかけ、血の残りはその祭壇の土台のところに絞り出す。これは罪のきよめのささげ物である。10 祭司はもう一羽のほうも、定めにしたがって全焼のささげ物とする。こうして祭司はその人のために、陥っていた罪を除いて宥めを行う。そして彼は赦される。11 もしその人が、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽さえも手に入れることができないのなら、自分の罪のために、ささげ物として、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として持って行く。その人はその上に油を加えたり、その上に乳香を添えたりしてはならない。これは罪のきよめのささげ物であるから。12 その人はそれを祭司のところに持って行く。祭司は、その中からひとつかみを覚えの分として取り、祭壇の上で、主への食物のささげ物とともに焼いて煙にする。これは罪のきよめのささげ物である。13 こうして、祭司は彼のために、陥っていたこれらの罪の一つのゆえに宥めを行う。そして彼は赦される。その残りは、穀物のささげ物と同様に祭司のものとなる。」

マタイによる福音書 QT41 20210227土【失われた一匹の羊の正体】マタイ 18章 10~20

マタイ 18章 10~2018:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。18:11 1118:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」   昨日の本文の「天の御国ではだれが一番偉いか。」という質問にイエス様の答えは「弱者に配慮する者」でした。「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。10」これが文脈上の結論です。   そして、イエス様はこれを敷衍するために「失われた羊のたとえ」を話されます。百匹の羊を飼っている羊飼いが羊一匹を失ったとすれば、その羊飼いは九十九匹を山に残したまま失われた羊を探しに行くということです。九十九匹が残っていても羊飼いは、失われた一匹の羊に心を奪われてしまうからです。   それは、義務や責任の問題よりも、心の問題です。ですから、聖書では「雇い人」を否定的に描写します。雇い人とは報酬を受けて働いている人ですから悪い人ではありません。問題はお金を受け取った分その時間の仕事はしますが、それを大切にする心はないということです。   九十九匹の安全性を放っておいて一匹の羊を探しにいくことが合理的かという質問はあり得ますが、この比喩は失われた羊を見つける方法論ではありません。羊飼いの心を表しているのです。この比喩は、13節で終わったものの、14節から、このたとえを通して、イエス様がなさろうとすることを言われます。「このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。14,15」   「このように…もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」羊飼いが失った羊を探しに出て行くように罪を犯した兄弟の信仰を回復させろということです。失われた一匹の羊を描いた画家たちは皆かわいい子羊を描きましたが、イエス様が言われた失われた一匹の羊とは、関係の問題、道徳の問題、信仰の問題の理由で共同体から去ってしまった人です。   先に一匹の羊を探していくことが羊を見つける方法論ではなく、羊飼いの心であるといいましたが、方法は、15節〜17節に出てきます。「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」   繰り返し勧め、本音を確認する過程を経るということは、共同体においても本人においても大切なことです。九十九匹が大切であるように共同体全体は大切だからです。しかし、ここでより大切に読まなければならない点は、これらの回復が、本人で主体的に行うことができることではないということです。失われた羊は自ら戻ってきません。隣人が関心を持って訪ね、共同体が協力してとりなしながら説得し、神様の権威を委任されている教会が御言葉を持って勧め、警告しなければなられることです。   イエス様の方法論は、18節以降も続きます。「何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます」ということです。私が赦し、私が回復させるなら、天においても赦され、回復されます。しかし、私が放置し、放棄すれば、彼らの地においても天においても縛られます。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。20:23」   イエス様が言われる弱者保護は大きな福祉事業ではなく、共同体の外に出ていて見えなくなってしまった人です。その人がいなければもしかして共同体はむしろ平和になるかも分かりません。しかし、それを回復しなさいということです。羊がそうであるように共同体も互いに相違を認めて一緒に生きるのです。 イエス様は本文の最後においてこれらを達成することのできる最も完全な方法を教えてくださいなす。「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。18~20」   ここで、「何でも」というのは、アラジンのランプの願いではなく、どんな人のどんなに大きな罪であってもとりなしと愛の祈りがあるならという意味です。「心を合わせて→祈る→かなえてくださる→その中にいる」お祈り、勧めると、これがかなえられます。共同体の中に神様がともにおられます。   教会に通った人だけではありません。神様を離れたすべての人は回復しなければならないのではないでしょうか。新たに移転牧場にたくさんの失われた羊が戻ってくること願います。移転のために工事べきことが多くありますが、戻ってくる羊を迎えるとりなしの心をもって奉仕ができればと願います。  

마태복음 QT41 2021027토【한 마리 잃어버린 양의 정체】마태 18장 10~20

마태 18장 10~2018:10 삼가 이 소자 중에 하나도 업신여기지 말라 너희에게 말하노니 저희 천사들이 하늘에서 하늘에계신 내 아버지의 얼굴을 항상 뵈옵느니라18:11 (없 음)18:12 너희 생각에는 어떻겠느뇨 만일 어떤 사람이 양 일백 마리가 있는데 그 중에 하나가 길을 잃었으면 그 아흔 아홉 마리를 산에 두고 가서 길 잃은 양을 찾지 않겠느냐18:13 진실로 너희에게 이르노니 만일 찾으면…

マタイによる福音書 QT40 20210226金【視線が向かうところ】マタイ 18章 1~9

マタイ 18章 1~918:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。   「天の御国では、だれが一番偉いのですか。」という弟子たちの質問にイエス様は3節から7節で、「子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」と言われます。「子どものように自分を低くする人」と言われました。   「だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」とし、その文脈は、10節に行って、「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい…」という言葉に一段落されます。   疑問に思ったのは、その間に8節と9節が挿入され、その内容が「罪を犯すことに対する重大な警告」という点です。「手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい…目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」ということです。18章の文脈から読めば「手と足と目の罪」というのは弱者をさげすむということが明らかです。   ところが、この警告は、5章の「八つの幸い」に続く性的欲求を抱いたことに対する御言葉と同じです。十戒の姦淫禁止を解釈するときに、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」としましたが、それを警戒し、「目がつまずかせるなら、えぐり出し、手がつまずかせるなら、切って捨てなさい」と言われました。 というわけで5章に戻って読み直してみると、5章の流れも「最も小さい者、憎むの兄弟、性欲の対象となる女性、離婚される妻」という弱者に対する律法的解釈であることがわかりました。   今日の本文18章も「失われた一匹の羊という弱者を探しに出ていく羊飼い(12)」につながって「罪を犯した兄弟のための執り成し(20)」と「犯罪した兄弟の赦し(22)」「一万タラントを借りた者」の話しで18章全体が続きます。   19章、20章も変わりありません。肉体の弱い病人を癒し、社会的に弱い女性、妻と幼い子どものための権利をあげています。ですから弱者らはイエス様の中に入って来ますが、19章にある道徳的に経済的に弱くない富んでいる若者だけがイエス様の外の方にに出ていって消えます。   「弱者のために」という進歩的なスローガンと「イエス様に従う」という信仰の宣言は、政治家を支持することではなく、自分が向けている視線はどこにあるのか、自分の足はどこへ向かっているのか、自分の手は何に触れているのかが証明してくださいます。

마태복음 QT40 2021026금【시선이 향하는 곳】마태 18장 1~9

마태 18장 1~918:1 그 때에 제자들이 예수께 나아와 가로되 천국에서는 누가 크니이까18:2 예수께서 한 어린 아이를 불러 저희 가운데 세우시고18:3 가라사대 진실로 너희에게 이르노니 너희가 돌이켜 어린 아이들과 같이 되지 아니하면 결단코 천국에 들어가지 못하리라18:4 그러므로 누구든지 이 어린 아이와 같이 자기를 낮추는 그이가 천국에서 큰 자니라18:5 또 누구든지 내 이름으로 이런 어린 아이 하나를…

マタイによる福音書 QT39 20210225木【義務を履行させる奇跡】マタイ 17章 14~27

マタイ 17章 14~2717:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、17:15 こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。17:16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」17:18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」17:21 2117:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。17:24 彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」17:25 彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。17:27 しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」   マタイの元の職業が収税人だったからか、マタイは神殿税に関する出来事を記録しました。20歳以上のユダヤ人の男性であれば誰でも義務的に半シェケルの神殿税を納めなければなりませんでした。神殿税はエルサレム神殿の運営にかかる費用を充当しました。もちろん当時の神殿権力は腐敗していたため、本来の機能通りに運営されることはありませんでした。   その一つの証拠として、当時のラビは神殿税が免除されていました。既得権がつくった特権です。献金を出すように教える者は献金を出さず、税金を出すように命令する者は税金を出さず、金持ちは税金を払わず、貧しい人々だけが税金を払います。イエス様はユダヤ社会が認めていたラビではないので免除の対象となりません。そして手元には半シェケルの金もありませんでした。   イエス様に神殿税を徴収するということは、神様に礼拝をささげるという名目で、神様に税金を取り立てているようなものです。イエス様は、王は民に税金を徴収するが、息子には税金を払わせないのが当然であるならば、神殿は父なる神様の家ですから、父の子であるご自身も税金に対して当然免除の権利を持っているということをペテロに言われます。地位と権利を明確にされました。   しかし、イエス様は神殿税の免除の権利を主張せず、税金を出すことで、この問題を解決されます。そして、その方法が奇妙です。海に出て魚を釣り、その魚の腹の中にある1シェケルで、イエス様とペテロの分の神殿税を払わせました。魚を釣っその腹を開けてみると、その中にちょうど二人分の神殿税を払うことができる1シェケルがありました。   税金を出すための財源が用意されました。税金を納めないことのための奇跡ではなく、払うための奇跡が起こったのです。税金徴収員の心を変えたり、制度を変えて免除されるような奇跡ではなく、義務を履行することができるような実力が与えられる奇跡でした。   税金は法と制度が定めた範囲内でします。多く払う必要もなく、それを回避してもいけません。課された税金を出さないために祈ると、義務を履行することができるような良心と能力のために祈ることが同じことです。できれば免除を主張せず、義務を履行することができるように祈った方がいいのではないでしょうか。私たち一日の労働の中で一シェケルを抱いた魚を釣らせていただければ、私たちも与えられた義務と責任を果たすことができます。  

마태복음 QT39 2021025목【의무를 이행하게 하는 기적】마태 17장 14~27

마태 17장 14~2717:14 저희가 무리에게 이르매 한 사람이 예수께 와서 꿇어 엎드리어 가로되17:15 주여 내 아들을 불쌍히 여기소서 저가 간질로 심히 고생하여 자주 불에도 넘어지며 물에도 넘어지는지라17:16 내가 주의 제자들에게 데리고 왔으나 능히 고치지 못하더이다17:17 예수께서 대답하여 가라사대 믿음이 없고 패역한 세대여 내가 얼마나 너희와 함께 있으며 얼마나 너희를 참으리요 그를 이리로 데려오라 하시다17:18 이에…