マタイによる福音書 QT38 20210224水【行くべき道】マタイ 17章 1~13

マタイ 17章 1~1317:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。17:8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。17:9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」17:10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」17:11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。17:12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」17:13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。   イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネと一緒に山に登りました。そこで二つの出来事が起きますが、まずはイエス様の御姿が変わって顔が太陽のように輝き、衣が光のように白くなったこと、それからもう1つは、天から、イエス様の言葉を聞きなさいという御声が聞こえた出来事です。   変貌したイエス様は、モーセとエリヤと一緒に会話する神秘的な姿で現れます。モーセは律法であり、エリヤは預言書です。旧約の律法預言書がイエス様、すなわち新約と話し合うのです。それからイエス様だけが残ります。旧約がイエス様を証ししているということでしょう。この光景を見たのは、ペテロとヤコブとヨハネであって、彼らは皆新約聖書の著者になります。(ヤコブの手紙の著者がどのヤコブなのが明らかではありません。)   神様の栄光が光で満ちている場所は恍惚したものです。ペテロは、光に満ちているそこにとどまりたかったことでしょう。感動したペテロは、イエス様とモーセとエリヤのために幕屋を三つ造りたいと言います。幕屋を造るというのは、ペテロの信仰告白の上に「わたしの教会を立てる」と言われたイエス様の御言葉を覚えていたからかもしれません。   しかし、イエス様は弟子たちに行くべき道を示します。イエス様はエルサレムに行かなければなりません。ペテロはとどまりたかったですが、イエス様は、栄光の場所を離れ、苦しみと死の場所に移動しなければなりません。   『まだ行くべき道』 (The Road Less Traveled)のスコット・ペックは「愛とは、他人の精神的な成長を支援する目的で、自分自身を拡大させていこうとする意志である。愛は感情ではなく、意志である」と言いました。イエス様の苦しみと死の意志は、神様の愛のゆえです。今週から四旬節に入っています。私たちの罪のために苦しみを受けたキリストを黙想するということは、苦難を考えることではなく、その中にある愛を受けるということです。

마태복음 QT38 2021024수【아직도 가야할 길】마태 17장 1~13

마태 17장 1~1317:1 엿새 후에 예수께서 베드로와 야고보와 그 형제 요한을 데리시고 따로 높은 산에 올라가셨더니17:2 저희 앞에서 변형되사 그 얼굴이 해 같이 빛나며 옷이 빛과 같이 희어졌더라17:3 때에 모세와 엘리야가 예수로 더불어 말씀하는 것이 저희에게 보이거늘17:4 베드로가 예수께 여짜와 가로되 주여 우리가 여기 있는 것이 좋사오니 주께서 만일 원하시면 내가 여기서 초막 셋을 짓되…

マタイによる福音書 QT37 20210223火【教会が建てられる現場】マタイ 16章 13~28

マタイ 16章 13~2816:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」16:20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」   イエス様は弟子たちを連れてピリポ・カイサリアに行かれました。イエス様は、ご自分に対する世の評価がどのようなものかを尋ねました。弟子たちは、誰かはバプテスマのヨハネであると、また誰かはエリヤ、もしこくエレミヤのような預言者であると思っていると答えました。するとイエス様は、再び尋ねます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。15」   教会の中では決まった答えをすることができるかのしれません。しかし、不慣れな環境の中で突然アイデンティティに関して単刀直入な質問を受けるというのは本音が求められることのなります。心の中に用意されていた内容がなければ、慌ててためらったりもします。神様が信仰の告白を求めるときに、それに反応するためには、心の中に用意されていなければなりません。   多くの人が神様を信じず、それを告白せずに、社会的、宗教的な意味で、キリスト教を理解しようと思いますが、決して信仰の知識に至ることはできません。信仰の外からでは、信仰の中で起こることを把握することができないからです。神様を知ったから信じるのではなく、信じた時に知ることができます。信じることで知ることができ、神様を知るときに信仰は確かなものになります。   弟子たちが黙っていたとき、ペテロが答えます。「あなたは生ける神の子キリストです。16」明確な信仰告白です。三位一体の御子なる神様であることと救い主であるキリストであることを告白しました。教会の中でも、これを告白することに躊躇している人はいるかもしれません。他の弟子たちのように、誰かの告白を引用することはできますが、自分とイエス様の関係を告白まではできないからです。   イエス様は、この告白がペテロから出てきたものではなく、神様から与えられたものであると言われます。イエス様はペテロの信仰の意志を喜ばれたのではなく、その告白の中にある神様の恵みを喜ばれたのです。神様が信仰を開いてくださらなければ、人が救いにふさわしい信仰を得ることことはありません。教会が建てられたのは、建物が建てられたのではありません。信仰の告白があって、その上に、神様が教会を建てるのです。   イエス様はその告白を基礎とし、その基礎の上に「わたしの教会を立てる」とされました。ペテロの上に立てられたのではなく、信仰の告白の上に立てられたのです。それからイエス様は信仰の告白という基礎のうえ、ビジョンを共有されます。そのビジョンというのは、苦難と死と復活です。十字架を通らなければそれに至りません。   ペテロが告白した生ける神の子は、十字架で死ぬために来られたのです。それが主はキリストであると告白したイエス様の使命です。ペテロは、イエス様が生きておられる神の子であると告白しましたが、十字架の死については認めていませんでした。栄光は望んでいましたが、犠牲については考えていませんでした。しかし、キリストの救いは犠牲を通し成し遂げられます。   神様の御子、キリストであることを告白したペテロは、苦難と死というイエス様の言葉に対して抗議し、否定しましたが、苦難と死の犠牲なしに、神の子、キリストが救うために来られた目的を達成することはできません。そういうことで、イエス様は、信仰を告白する弟子たちに求めておられます。「それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。24,25」信仰の告白が生きていてそれに従う生き方の従順があることを願います。  

마태복음 QT37 2021023화【교회가 세워지는 현장】마태 16장 13~28

마태 16장 13~2816:13 예수께서 가이사랴 빌립보 지방에 이르러 제자들에게 물어 가라사대 사람들이 인자를 누구라 하느냐16:14 가로되 더러는 세례 요한, 더러는 엘리야, 어떤이는 예레미야나 선지자 중의 하나라 하나이다16:15 가라사대 너희는 나를 누구라 하느냐16:16 시몬 베드로가 대답하여 가로되 주는 그리스도시요 살아계신 하나님의 아들이시니이다16:17 예수께서 대답하여 가라사대 바요나 시몬아 네가 복이 있도다 이를 네게 알게 한 이는 혈육이…

マタイによる福音書 QT36 20210222月【膨らんだもの】マタイ 16章 1~12

マタイ 16章 1~1216:1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。16:2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、16:3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。16:5 さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」16:7 すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。16:8 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。16:9 まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。16:10 七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。16:11 わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」16:12 そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。   イエス様はパリサイ人とサドカイ人たちの傍若無人を相手せず、船に乗って渡っていきます。弟子たちがパンを持ってきてないということで慌てていたときにイエス様はパリサイとサドカイのパン種に用心しなさいと言われます。禅問答のような言葉に、弟子たちは聞き取れません。弟子たちは、パン種という言葉が出てきたので、イエス様がパンについて言われていると思いました。   パン種とはパンを膨らませる時に使うイーストです。聖書の中でパン種は良い意味でも、否定的な意味でも使われますが、本文では、否定的な意味で使われています。パリサイ人というのは時代を代表する宗教であり、サドカイというのは政治的な群れです。マルコを参照にすると、この部分を「パリサイ人とヘロデのパン種に気をつけなさい」となっていますが、これは政治を言わためでありますから、サドカイであれ、ヘロデであれ、その意味が変わりません。つまり警戒しなければならないパン種は、時代の宗教的かつ政治的ま論理です。   政治的、神学的な見解が異なるこの二つの群れは、本来ならば互いに協力することはありません。ただし、イエス様を攻撃し、殺そうとすることにおいては一つになっています。それは、イエス様の働きと教え、それが社会に及ぼす影響が、既存の宗教と政治が享受していたことを脅しているからです。イエス様は、奉仕の精神を失い、利益の支配集団になってしまった宗教と政治に対してパン種と言われたのです。   一方、弟子たちの関心は経済にありました。彼らは五つのパンと二匹の魚、七つのパンと二匹の魚の奇跡をすでに経験した後です。まだ空腹でもないのに、未来にある空腹を心配してで慌てていました。とことが、そのパンというのは、イエス様が与えられたものです。イエス様がそばおられるにもかかわらず、また、パンのことで心配をしているのです。   宗教と政治と経済、これすべては人のために存在します。しかし、歴史の中で人を殺し、押し付けたのは、経済と宗教と政治の論理でした。すべて良いものですが、人がそれを悪くものにします。それがパン種です。パン種が入ると膨らみます。   お金に酔い、権力にも酔うように信仰にも酔います。意味もなく膨らんでしまいます。しかし、それは歪んで変質してしまった信念であり、キリストに従う信仰ではありません。私たちが生きている時代は確かに変わっています。急激に変化しています。信仰が本来にあるところに戻らなければ、それは時代のパン種になり、信仰の足を引っ張ることになるかもしれません。      

마태복음 QT36 2021022월【부풀려진 것들】마태 16장 1~12

마태 16장 1~1216:1 바리새인과 사두개인들이 와서 예수를 시험하여 하늘로서 오는 표적 보이기를 청하니16:2 예수께서 대답하여 가라사대 너희가 저녁에 하늘이 붉으면 날이 좋겠다 하고16:3 아침에 하늘이 붉고 흐리면 오늘은 날이 궂겠다 하나니 너희가 천기는 분별할줄 알면서 시대의 표적은 분별할 수 없느냐16:4 악하고 음란한 세대가 표적을 구하나 요나의 표적 밖에는 보여 줄 표적이 없느니라 하시고 저희를 떠나…

한국어 예배 (2021-02-21)

히브리서 5:1-101 대제사장마다 사람 가운데서 취한 자이므로 하나님께 속한 일에 사람을 위하여 예물과 속죄하는 제사를 드리게 하나니2 저가 무식하고 미혹한 자를 능히 용납할 수 있는 것은 자기도 연약에 싸여 있음이니라3 이러므로 백성을 위하여 속죄제를 드림과 같이 또한 자기를 위하여 드리는 것이 마땅하니라4 이 존귀는 아무나 스스로 취하지 못하고 오직 아론과 같이 하나님의 부르심을 입은 자라야…

日本語礼拝 (2021-02-21)

ヘブル人への手紙 5:1-101 大祭司はみな、人々の中から選ばれ、人々のために神に仕えるように、すなわち、ささげ物といけにえを罪のために献げるように、任命されています。2 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。3 また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。4 また、この栄誉は自分で得るのではなく、アロンがそうであったように、神に召されて受けるのです。5 同様にキリストも、大祭司となる栄誉を自分で得たのではなく、「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と語りかけた方が、それをお与えになったのです。6 別の箇所でも、「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、とこしえに祭司である」と言っておられるとおりです。7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、10 メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

マタイによる福音書 QT35 20210220金【救われる資格】マタイ 15章 21~28

マタイ 15章 21~2815:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。   イエス様がツロとシドン地方に行かれたときにシリア・フェニキア出身の異邦の女性が、悪霊につかれた娘を連れてきてイエス様に助けを求めました。しかし、イエス様は、いつもと違って沈黙してから「イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。…子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われます。ユダヤ人ではない理由で拒絶されたのです。   侮辱的かつ差別的な言葉を聞き、さらに拒絶された彼女は「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」と答えます。イエス様はこの信仰を大きく賞賛し、娘をいやしてくださいました。この事について女性の謙虚さが救いの条件になったと思いますが、女性は、おそらく以前から十分に謙虚だったと思います。病んでいる子供に何もしてあげられない親にとって、自尊心のようなものはありません。娘に悪霊が入った瞬間から侮辱的、差別的な人生になりました。そういう意味で彼女は謙虚にならざるえない人だったのです。   イエス様が認め、賞賛された信仰は、神様に対するの知識なねかもしれません。自分は、神様の恵みを受けるに値する対象ではないということ、それにもかかわらず、「助けてください」と恵みを求めば、神様は恵みを与えてくださる方であることを信じたのです。   何の資格もない者が憐れみ深い救いを経験します。救われるのが当然だと思ったユダヤ人は、かえって救われませんでした。救いは、予期せぬ喜びです。何の資格も、功労もなく受けるものです。救われるべき何かをしたことがありません。   結果的に女性と娘は食卓からパンくずを食べたのではなく、子とされたのです。信仰は、ユダヤ人とギリシヤ人に差別はありません。救われる資格は、心の門を開け、求めるすべての人にあります。「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。ローマ10:12」

마태복음 QT35 20210220토【구원의 자격】마태 15장 21~28

마태 15장 21~2815:21 예수께서 거기서 나가사 두로와 시돈 지방으로 들어가시니15:22 가나안 여자 하나가 그 지경에서 나와서 소리질러 가로되 주 다윗의 자손이여 나를 불쌍히 여기소서 내 딸이 흉악히 귀신들렸나이다 하되15:23 예수는 한 말씀도 대답지 아니하시니 제자들이 와서 청하여 말하되 그 여자가 우리 뒤에서 소리를 지르오니 보내소서15:24 예수께서 대답하여 가라사대 나는 이스라엘 집의 잃어버린 양 외에는 다른데로…