民数記 黙想 【レビ人の職務】 20250312(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

民数記 1:47~54 1:47 しかしレビ人は、彼らとともに父祖の部族ごとに登録されることはなかった。 1:48 主はモーセに告げられた。 1:49 「レビ部族だけは、ほかのイスラエルの子らとともに登録してはならない。また、その頭数を調べてはならない。 1:50 あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびすべてそれに付属するものを管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これに仕え、幕屋の周りに宿営しなければならない。 1:51 幕屋が進むときはレビ人がそれを取り外し、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。資格なしにこれに近づく者は殺されなければならない。 1:52 イスラエルの子らは、軍団ごとに、それぞれ自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、 1:53 レビ人は、あかしの幕屋の周りに宿営しなければならない。わたしの怒りがイスラエルの会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋に関わる任務に当たる。」 1:54 イスラエルの子らは、このようにし、すべて主がモーセに命じられたとおりに行った。 民数記のヘブライ語のタイトルは「荒野で」です。しかし、韓国語での「民数記」という名前は「民の数を数える」という意味を持っています。これは、出エジプトしたイスラエルの民が荒野で軍隊を編成するために、2回にわたって人口調査を行ったことに由来します。最初の人口調査は民数記1章で行われ、2回目の人口調査は26章で再び実施されます。 民数記1章では、神がモーセにイスラエルの子孫の人口を調査するよう命じました。この調査は戦闘力を持つ20歳以上の男子を対象に行われました。そのため、各部族から族長が代表として選ばれ、最終的に603,550人が集計され、軍隊が編成されました。 しかし、レビ族は軍隊の徴集から除外されました。これは、レビ族がアロンの子孫として祭司の職務を遂行しなければならない特別な役割を担っていたからです。彼らは幕屋を管理し、緊急時には幕屋を守ることに専念しなければなりませんでした。この規則は非常に厳しく、レビ人でない者が幕屋に近づくと殺されるべきとされていました。 私たちはしばしば祭司の役割を宗教的な職務だけに限定して考えますが、当時の社会は政教一致の社会でした。したがって、レビ人や祭司は単に儀式を執り行うだけでなく、社会の秩序を維持し、共同体の聖さを守る役割を果たしました。彼らの使命は共同体の中で神の臨在を守り、イスラエルの民を霊的に導くことでした。 レビ人の使命は特定の職業に限定されるものではなく、社会全体に分配された召命でした。兵士は戦争を遂行し、法律家は法律を執行し、医療者は治療を担い、教育者は教えを担当するように、レビ人は共同体が神の前で聖さを保つことを助ける役割を果たしました。すべての人々が神の共同体を聖く守るために、選別された生き方をしなければならないのです。 今日の民主主義社会において、レビ人の役割を文字通りに適用することはできません。しかし、新約聖書ではレビ人の使命がどのように変化したのか、そして私たちはそれをどのように解釈すべきかを理解することが重要です。そのために、へブル人への手紙7章以降とペテロの手紙第一の2章を読まなければなりません。旧約と新約が矛盾しているのではありません。それらの間でイエス・キリストがなされた働きを深く理解することが鍵となります。

민수기 묵상 【레위인의 직무】 20250317(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

민수기 1:47~54 1:47 오직 레위인은 그 조상의 지파대로 그 계수에 들지 아니하였으니 1:48 이는 여호와께서 모세에게 일러 가라사대 1:49 레위 지파만은 너는 계수치 말며 그들을 이스라엘 자손 계수 중에 넣지 말고 1:50 그들로 증거막과 그 모든 기구와 그 모든 부속품을 관리하게 하라 그들은 그 장막과 그 모든 기구를 운반하며 거기서 봉사하며 장막 사면에 진을 칠지며…

ヨハネの福音書 黙想 【終わらない記録】 20250315(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 21:15-25 21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」 21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」 21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。 21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」 21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。 21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。 21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」 21:23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。 21:24 これらのことについて証しし、これらのことを書いた者は、その弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている。 21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんある。その一つ一つを書き記すなら、世界もその書かれた書物を収められないと、私は思う。  今日の箇所の中には、イエス様がペテロに三度「わたしを愛していますか」と尋ねられた御言葉、イエス様がペテロに尋ねられた愛(アガペ)とペテロが答えた愛(フィレオ)の違い、イエス様から羊を託されるペテロ、ペテロの将来とヨハネの将来についての御言葉など、多くの内容が記されています。そして、ヨハネの福音書という一つの記録の中にも、今まで多くのことが記されていました。    しかし、非常に膨大で深い内容を取り扱っているヨハネの記録は、まだ終わっていません。ヨハネの記録に記すことができなかったイエス様が行われた多くの御業があるからです。そして、その御業は、今この瞬間にも増え続けています。    その記録は、今も私たちの日々の中で、人々の心の中で、記され続けています。たとえそれがヨハネの福音書のような一つの福音書として記録されることはなくても、確かにこの瞬間にもイエス様は働いておられるからです。    私たちの信仰の記録は、ある瞬間にとどまり、その記録が終わってしまってはなりません。世の終わりまで私たちと共におられるイエス様が、私たちの隣で今も働いておられます。イエス様についての私たちの記録は、消えてしまってもならない、常に更新されなければならないものです。    私たちがイエス様の働きをすべて記録することはできないでしょう。時には忘れてしまったり、イエス様の働きに気づくことができなかったり、自らの記録を残すことに心を奪われてしまう時もあるでしょう。しかし、確かなことは、その瞬間にもイエス様は働いておられるということです。人がすべてを証しすることができない、イエス様ご自身の終わらない記録を、絶えず増やしいっておられるのです。 https://youtu.be/l8-Dp_psNhA?si=JP9oDr4Faw1vFnk8

요한복음 묵상 【끝나지 않는 기록】 20250315(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 21:15-25 21:15 그들이 조반 먹은 후에 예수께서 시몬 베드로에게 이르시되 요한의 아들 시몬아 네가 이 사람들보다 나를 더 사랑하느냐 하시니 이르되 주님 그러하나이다 내가 주님을 사랑하는 줄 주님께서 아시나이다 이르시되 내 어린 양을 먹이라 하시고 21:16 또 두 번째 이르시되 요한의 아들 시몬아 네가 나를 사랑하느냐 하시니 이르되 주님 그러하나이다 내가 주님을 사랑하는 줄…

ヨハネの福音書 黙想 【思い出】 20250314(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 21:1-14 21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。 21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。 21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。 21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」 21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。 21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。 21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。 21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。 21:10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。 21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。 21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。 21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。 21:14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。  以前、ある講義の中で特別な経験をしたことがあります。その先生が学生たちに求めたのはこのようなことでした。「二人ペアになって、お互いのために祈る時間を持ってください。ただし、いつものように祈り課題を分かち合って祈るのではなく、互いの初めての出会いの時から、今までの思い出を振り返り、自ら相手のために祈ってみてください。」  私はすごく独特な祈り方だなと思いながらも、その方法がすごく気に入りました。ただ現実的で表面的な、いつの間にか定型文になってしまったお祈りではなく、心からその人のことを思いながら祈ることができ、相手との思い出を振り返ることで、これまでの自分と、今の自分のことを振り返ることができる時間であったからです。  このように、人間にとって‘思い出’とは、力強く、独特な力を持っています。当時は大したことではなかったかもしれない出来事が、振り返ってみれば大きく大切な出来事になっていたり、忘れられない瞬間になっていたり、当時は大きく感じられた出来事が、振り返ってみると大したことではなかったと感じたりします。そして、時には、当時も衝撃的だった出来事が、振り返ってみるとさらに衝撃的になることもあります。  このようなことを誰よりもよくご存知の神様は、時々この「思い出」を用いてご自分の人を立ち返らせ、成長させられます。その代表的な例が、今日の箇所のペテロです。  今日の箇所では、当時のシモン、今のペテロが初めてイエス様の弟子として召された時の姿をそのまま再現しています。後悔と悲しみに陥っていたペテロは、神様のみこころによって再び自分の最初の召しの瞬間、その思い出の時間と場所に呼ばれました。そして再び彼の前に、この場所で彼を召されたイエス様が現れました。  推測するに、この出来事はペテロにとって、イエス様の最初の召しの時よりも強烈に彼の心に刻まれたでしょう。初めて弟子として召された時よりも、さらに切実で確実に、使徒ペテロとしての召しに応えるようになったでしょう。  時々、イエス様への私たちの心が薄れていく時があります。そのような時、今までイエス様と共に過ごしてきた思い出を振り返ってみましょう。その時の喜びと感動、その時の決心は、これまでの思い出の時間を経て、さらに大きくなって私たちを迎えてくれます。また、後日、思い出として今を振り返ることになる時のために、今、神様との時間を大事にし、神様から与えられたものを存分楽しみながら生きていきましょう。 https://youtu.be/0ta5dCwn3ZE?si=kwm9VjR16Ve2aOiR

요한복음 묵상 【추억】 20250314(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 21:1-14 21:1 그 후에 예수께서 디베랴 호수에서 또 제자들에게 자기를 나타내셨으니 나타내신 일은 이러하니라 21:2 시몬 베드로와 디무로라 하는 도마와 갈릴리 가나 사람 나다나엘과 세베대의 아들들과 또 다른 제자 둘이 함께 있더니 21:3 시몬 베드로가 나는 물고기 잡으러 가노라 하니 그들이 우리도 함께 가겠다 하고 나가서 배에 올랐으나 그 날 밤에 아무 것도 잡지…

ヨハネによる福音書 黙想 【見たから信じたのですか】 20250312(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 20:24~31 20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。 20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。 20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」 20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。 20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。   イエス様は復活され、弟子たちはすでにその姿を目撃し、トマスにその事実を伝えました。しかし、トマスは自分の目で見て手で触れて確かめるまでは信じることができないと言いました。イエス様はトマスのもとに来られ、それを確かめさせ、目で見させ、手で触れさせたうえで、このようにおっしゃいました。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである。」 イエス様は、目で見ることや手で触れることよりも、さらに重要な信仰の根拠があることを示しておられるようです。 弟子たちが伝えた情報よりも、もっと重要な根拠は御言葉です。トマスだけでなく、すべての弟子たちも、イエス様がすでに語られていたその御言葉を信じていませんでした。現実に戸惑っていただけでした。目の前にイエス様がいるのでその存在を認めてはいましたが、復活と福音を真に信じていたわけではありません。今、彼らの前におられるイエス様が何を意味するのか、まだ理解していませんでした。 神を信じるということは、神を目で見たり手で触れたりすることではなく、神の御言葉を通して神と出会うことです。福音もまた、見るものや触れるものではなく、神の約束を信じる信仰によって福音の中に入ることです。言い換えれば、聖霊が来てそれを悟らせてくださるときに、はじめて福音を理解し、信じることができます。私たちはトマスのように触れることもできず、直接見ることもできませんでしたが、それでもトマスと同じように聖霊が臨んでくださり、福音とは何かを悟るようになりました。その意味で、ヨハネの福音書20章の時点にいる弟子たちよりも、私たちのほうが福音をより深く理解し、正しく信じていると言えます。 トマスの時代の信者たちは、どれほど多くの苦難と迫害を受けながら、その福音を人々に証明しなければならなかったことでしょうか。この時代においても、自分自身を見つめ、イエス・キリストの十字架と復活の恵みを見出した人は幸いです。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人たちは幸いである。」 私はこの言葉を叱責ではなく、預言として受け取りました。私たちの周りには、いまだに目で見ることも手で触れることもできない人々がたくさんいます。しかし、その中にも、信じる人々はまだ多く残されているのです。

요한복음 묵상 【본 고로 믿느냐】 20250313(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 20:24~31 20:24 열 두 제자 중에 하나인 디두모라 하는 도마는 예수 오셨을 때에 함께 있지 아니한지라 20:25 다른 제자들이 그에게 이르되 우리가 주를 보았노라 하니 도마가 가로되 내가 그 손의 못자국을 보며 내 손가락을 그 못자국에 넣으며 내 손을 그 옆구리에 넣어 보지 않고는 믿지 아니하겠노라 하니라 20:26 여드레를 지나서 제자들이 다시 집 안에…

ヨハネによる福音書 黙想 【聖霊を受けなさい】 20250312(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 20:11~23 20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。 20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。 20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」 20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。 20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」 20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。 20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」 20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。 20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」   マリアが墓の前で泣いていると、復活されたイエス様が現れました。マリアは復活されたイエス様を見ました。しかし、マリアはイエス様を一目で見分けることができませんでした。エマオへ向かう弟子たちも同じでした。しばらくイエス様と会話を交わしましたが、イエス様だとは気づきませんでした。 弟子たちはイエス様を認識できず、朝に空の墓を見ましたが、その状況を解釈することができませんでした。その日の夕方にも、弟子たちはイエス様の残党として逮捕されるのではないかと恐れていました。扉が閉まっているとき、扉を開けずに室内に入ってこられたイエス様は、弟子たちに復活された御体を見せ、確認させてくださいました。 弟子たちは喜びましたが、その感情は依然として超現実的で、困惑したままであるように思われます。見て経験しても、まだ信仰には至っていないようです。疑ったのはトマスだけではありませんでした。イエス様を実際に見た人々も、復活を理解できませんでした。 23節には、「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」と記されています。このような権威と使命を授けられたにもかかわらず、それに対する反応は記録されていません。 イエス様はその言葉を述べられる前に、聖霊を受けるようにと言われました。イエス・キリストが遣わされる霊なしには、イエス様を見分けることも、イエス様がなされたことを理解することもできません。目の前にしても信じることができません。しかし、聖霊を受けるならば、分かるようになります。思い出されるようになり、記憶と御言葉と現実が結びついて、復活を悟るようになるでしょう。そして、その復活と自分自身の関係も理解できるようになるのです。

요한복음 묵상 【성령을 받으라】 20250312(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 20:11~23 20:11 마리아는 무덤 밖에 서서 울고 있더니 울면서 구푸려 무덤 속을 들여다보니 20:12 흰 옷 입은 두 천사가 예수의 시체 뉘었던 곳에 하나는 머리 편에 하나는 발 편에 앉았더라 20:13 천사들이 가로되 여자여 어찌하여 우느냐 가로되 사람이 내 주를 가져다가 어디 두었는지 내가 알지 못함이니이다 20:14 이 말을 하고 뒤로 돌이켜 예수의 서신…