詩篇 黙想 【下り坂で】 20240304(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

詩篇 44:9~2644:9 それなのにあなたは私たちを退け卑しめられました。あなたはもはや私たちの軍勢とともに出陣なさいません。44:10 あなたは私たちを敵から退かせ私たちを憎む者どもは思うままに略奪しました。44:11 あなたは私たちを餌食となる羊のようにし国々の間に散らされました。44:12 ご自分の民を安く売り渡しその代価で何の利益も得ませんでした。44:13 あなたは私たちを隣人のそしりの的とし周りの者の嘲りとし笑いぐさとされます。44:14 私たちを国々の間で物笑いの種としもろもろの民の間で笑いものとされるのです。44:15 私の前には絶えず辱めがあり恥が私の顔をおおってしまいました。44:16 それはそしる者とののしる者の声のゆえ敵と復讐する者のゆえでした。44:17 これらすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れずあなたの契約を無にしませんでした。44:18 私たちの心はたじろがず私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。44:19 あなたはジャッカルの住みかで私たちを砕き死の陰で私たちをおおわれたのです。44:20 もし私たちが自分たちの神の御名を忘れほかの神に向かって手を伸べ広げたなら44:21 神はそれを探り出されないでしょうか。神こそ心の秘密を知っておられるからです。44:22 あなたのために私たちは休みなく殺され屠られる羊と見なされています。44:23 起きてください。主よなぜ眠っておられるのですか。目を覚ましてください。いつまでも拒まないでください。44:24 なぜ御顔を隠されるのですか。私たちの苦しみと虐げをお忘れになるのですか。44:25 私たちのたましいはちりに伏し私たちの腹は地についています。44:26 立ち上がって私たちをお助けください。御恵みのゆえに私たちを贖い出してください。   「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。」オスカー·ワイルドが言ったそうです。歴史はリズムを持って興亡盛衰を繰り返します。人の目には何かが発展して興るようですが、その裏にはすでに衰退が準備されていて、逆に希望を失ったと思うと予期せぬ復興が訪れることもあります。ふりかえてみれば真に恥ずかしいのは衰退の悲しみではなく、興の傲慢です。どう考えても人生には傲慢になれるような根拠がなく、とはいえ卑屈でなければならない理由もありません。   自分に与えられた時代を受け入れることが従順ではないでしょうか。自分が生きる時代は自分が選びませんでした。ただその中に投げ込まれ、その中で生きていきます。時代の華やかさを追わず、興亡盛衰に一喜一憂しません。どんな状況でも恥ずかしくないように生きることを誓うだけです。神学校に入る頃、時代のキリスト教はすでに変曲点を通り過ぎ、下り坂を下っていることがわかりました。それを幸いと思いました。上に跳ね上がる泡の一部ではないことは、献身の慰めでした。   詩篇44編が歴史において何ページかに当たるかは正確ではありません。ただ、歴史のサイクルの中で以前の栄光を失った時であることは明らかです。異邦に踏みにじられ、侮辱されています。そのため、詩人は過去の栄光を振り返り、嘆いています。傲慢は失敗を生み出したと思いますが、だからといって卑屈である必要はありません。卑屈が終われば再び傲慢になりますから。傲慢にならないという誓いは、悲惨な現実でも悲惨に押しつぶされずに生き抜くことで証明しなければなりません。   表題で、この詩の著者はコラの子孫であると明らかにしています。アイロニーですが、コラの子孫は喪失の時代を生きていたがゆえに、その喪失が大きければ大きいほど、神様に近づいています。神様が後ろに隠しているものが見えませんか?そのおかげで、コラの子孫は神様のもとに近づいています。失ったのが呪いではなく、神様に近づいたのが幸いです。だから、コラの子孫の時代は恵みの時代です。へりくだった貧しい心をもって切に嘆願できる霊性は、神様がその時代に与えた喪失という恵みのゆえです。泡が取り除かれると、大小の実体がはっきりと現れます。中身あるものにあり続けたいと願います。「失ったものは絶対に消えません。ただし、その喪失から得たものを覚えます。カール·ユング」

시편 묵상 【내리막길에서】 20240304(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

시편 44:9~2644:9 그러나 이제는 주께서 우리를 버려 욕을 당케 하시고 우리 군대와 함께 나아가지 아니하시나이다44:10 주께서 우리를 대적에게서 돌아서게 하시니 우리를 미워하는 자가 자기를 위하여 탈취하였나이다44:11 주께서 우리로 먹힐 양 같게 하시고 열방 중에 흩으셨나이다44:12 주께서 주의 백성을 무료로 파심이여 저희 값으로 이익을 얻지 못하셨나이다44:13 주께서 우리로 이웃에게 욕을 당케 하시니 둘러 있는 자가 조소하고…

詩編 黙想 【目に見えるもの】 20240302(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 43:1-5 43:1 神よ私のためにさばいてください。私の訴えを取り上げ不敬虔な民の言い分を退けてください。欺きと不正の人から私を助け出してください。 43:2 あなたは私の力の神であられるからです。なぜあなたは私を退けられたのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。 43:3 どうかあなたの光とまことを送りそれらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山あなたの住まいへとそれらが私を連れて行きますように。 43:4 こうして私は神の祭壇に私の最も喜びとする神のみもとに行き竪琴に合わせてあなたをほめたたえます。神よ私の神よ。 43:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。  キリスト者にたちは希望があります。それはイエス様が再び来られるということ、そしてそのイエス様が来られる時に裁きの中から私たちを救い出してくださるという希望です。  そのような希望があるにもかかわらず、私たちは今もなお日々の中で出会う不義と抑圧の中で悲しみと苦しみの時間を過ごし、心が崩れてしまうこともあります。それは、私たちの目の前に見えるものが神様の希望ではなく、世の中の現実であるからです。  目を閉じて祈るということは、私たちにはあまりにも当然で、目を閉じずにどのように祈れるのか理解できないこともあるかも知れません。しかし、目を閉じて祈ることは各地域の特徴だと言われています。 アメリカの教会などでは、目を閉じずに祈るのが一般的な地域もあるようです。  何が正解かはわかりませんが、個人的には目を閉じて祈ることが私たちにとってより有益だと思います。私たち人間は目に見えるものを意識してしまう存在であるからです。  聖書は、神は霊であると証ししています。従って、私たちの目には見えない方であることが当たり前です。そのため、聖書は私たちが神様を見ることができる一つの道を提示してくれています。それは信仰で見ることです。  私たちが祈るときに、私たちは目を閉じるだけであってはなりません。私たちの中にある信仰の目を開けて神様を見ること、それが私たちが直面している現実の苦難を乗り越える唯一の方法です。  その信仰の目で世の中を見る時、私たちには現実の問題ではなく、そのすべての問題を治める神様を見ることができるでしょう。その時に私たちの賛美が回復され、その神による希望が回復されるのです。 https://youtu.be/sgYgHSJP-q8?si=1UAA5Td2t72nH-Jq

시편 묵상 【눈에 보이는 것】 20240302(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 43:1-5 43:1 하나님이여 나를 판단하시되 경건하지 아니한 나라에 대하여 내 송사를 변호하시며 간사하고 불의한 자에게서 나를 건지소서 43:2 주는 나의 힘이 되신 하나님이시거늘 어찌하여 나를 버리셨나이까 내가 어찌하여 원수의 억압으로 말미암아 슬프게 다니나이까 43:3 주의 빛과 주의 진리를 보내시어 나를 인도하시고 주의 거룩한 산과 주께서 계시는 곳에 이르게 하소서 43:4 그런즉 내가 하나님의 제단에…

詩編 黙想 【神様を探し求めること】 20240301(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

詩編 42:1-11 42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 42:2 私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。 42:3 昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。 42:4 私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。 42:5 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。 42:6 私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。 42:7 あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。 42:8 昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。 42:9 私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」 42:10 私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。 42:11 わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。   私たちがこの世を生きていく間、私たちの隣に共にいるすべての人々が神様を知ることを求め、私たちもそのために頑張らなければなりませんが、必ずしも私たちの願い通りにはなりません。そのため、今も私たちのそばには神様を知らない人々が共にしています。  そのような人々と暮らし、一度は言われるかもしれない言葉、「神はどこにいるのか、神などいない」 神様を知らないから言える言葉です。しかし、その言葉が神様を知らないその人たちだけの言葉ではないでしょう。  今日の詩編記者の告白のように、神様は私たちが暮らしているすべての日に、すべての場所に共にしておられます。しかし、私たちがその時に神様が共におられると自覚することは簡単ではありません。  私たちの日々の中に神様がおられることを忘れて生きていくからこそ、私たちは寂しがり、恐れ、うなだれてしまうのです。神様を忘れいるため訪れてくるその苦難の中で、私たちは「神はどこにいるのか」と言いながら神様を探してしまうのです。  神様を知らない者たちが言う「神はどこにいるのか」とは少し違うかもしれませんが、私たちも結局、神様を正しく知っていないため、神様は今どこにおられるのかと言い、神様を誤解してしまうのです。  神様を探し求めるということ、それは過去の私たちに起こった神様の恵みを再確認することではありません。今この瞬間に、私たちと共におられる神様を見つめること、その神様に目を向けることが神様を探し求めることです。  神様が特別な時だけ訪れてくるお方であるなら、私たちが目を向けても神様は見えない時もあるかみ知れません。しかし、神様はいつもその場におられます。いつも私たちと共におられるので、私たちが直面している世の中のことから目をそらして神様を見つめるなら、私たちはいつも神様を見ることができます。そのようにいつも神様と共に生きて行くことができるでしょう。 https://youtu.be/ikdWPBdaqd0?si=sB-1Kp4QptVULbdd

시편 묵상 【하나님을 찾는다는 것】 20240301(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

시편 42:1-11 42:1 하나님이여 사슴이 시냇물을 찾기에 갈급함 같이 내 영혼이 주를 찾기에 갈급하니이다 42:2 내 영혼이 하나님 곧 살아 계시는 하나님을 갈망하나니 내가 어느 때에 나아가서 하나님의 얼굴을 뵈올까 42:3 사람들이 종일 내게 하는 말이 네 하나님이 어디 있느뇨 하오니 내 눈물이 주야로 내 음식이 되었도다 42:4 내가 전에 성일을 지키는 무리와 동행하여 기쁨과…

マルコの福音書 黙想 【信じられない】 20240223(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 16:9-20 16:9 〔さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。 16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。 16:11 彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった。 16:12 それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された。 16:13 その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった。 16:14 その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである。 16:15 それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。 16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。 16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、 16:18 その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」 16:19 主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 16:20 弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。〕  人という存在は本当に頑なな存在です。そのため、弟子たちさえもイエス様が何度もよみがえりについて言われたにもかかわらず、彼らは十字架で死なれたイエス様がよみがえたということを自分の目で見るときまで信じられなかったのです。    当然に、これは弟子たちだけの問題ではありません。 私たちと私たちの周りの人々もやはり、イエス様の福音を聞いても、その力を体験する前までは人間の理解を越える福音を完全に信じることはできません。    そのような私たちに、イエス様は一つの課題を出してくれます。それは全ての造られた者に福音を宣べ伝えろという命令です。    私たちは、その福音を信じることがどれだけ難しいことで、驚くべきことであるかを知っています。私たちがその道を歩いて福音を信じるようになっているからです。 福音を知識で知ることを越えて信じる以前に福音に対する私たちの態度がどうだったのか、その福音を伝えてくれた者たちをど思っていたのかよく知っていて、福音を伝えるということが恐ろしく感じられるかも知れません。    このような難しい課題を出してくださった後、イエス様は天に上げられ、神様の右の座に着かれたと聖書は証ししています。しかしそれと同時に、弟子たちが福音を伝える所に主が共に働いてくださったことも明確に証ししています。    イエス様はその課題を出してから、採点のために答案を待っているだけの先生ではありません。その課題を一緒に解いていき、進めなくなった時には道を示してくれる先生のようなお方です。    福音を信じることが人の力だけで可能なことではないことを私たちは各自の経験を通してすでに知っています。そこで神様が一緒に証ししてくださらなければ、いくら私たちが完璧な言葉で福音を伝えたとしても彼らが福音を信じることは不可能でしょう。    そのため、私たちは常に神様が共に働いてくださることを祈らなければなりません。 私たちの力で人を説得するのではなく、神様が彼らの中で確かめてくださることを求めることが、その福音を伝えるために立派な台本を準備することより優先されなければなりません。そして、その時間を通して、私たちと共にしてくださるそのイエス様の福音をより深く知っていくようになるでしょう。https://youtu.be/AIvLEBfQ8J8?si=FiGb94YsgmmsSnqw

마가복음 묵상 【믿지 못하다】 20240223(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 16:9-20 16:9 [예수께서 안식 후 첫날 이른 아침에 살아나신 후 전에 일곱 귀신을 쫓아내어 주신 막달라 마리아에게 먼저 보이시니 16:10 마리아가 가서 예수와 함께 하던 사람들이 슬퍼하며 울고 있는 중에 이 일을 알리매 16:11 그들은 예수께서 살아나셨다는 것과 마리아에게 보이셨다는 것을 듣고도 믿지 아니하니라 16:12 그 후에 그들 중 두 사람이 걸어서 시골로 갈…

マルコの福音書 黙想 【悔い改めへのアラーム】 20240217(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

マルコの福音書 14:66-72 14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。 14:67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」 14:68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。 14:69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」 14:70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」 14:71 するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。 14:72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。  キリスト者にとって抜けてはならないことはいろいろありますが、悔い改めはその中でも重要なことです。私たちがキリスト者として生きていく中で、瞬間の悔い改めから劇的な回心など、私たちの罪を神様の御前に告白することを通して神様に赦されるからです。    しかし、自分の罪を自覚することは簡単ではありません。いつか、ある青年集会で私たちの罪に対する情熱的な説教が語られた後、教会に来て数ヶ月ぐらい経っていた兄弟に質問をしたことがあります。このような説教を聞いたらどんな気持ちになるのか、理解できるのかなどの質問でした。    その兄弟の答えは簡単でした。自分がなぜ罪人なのかも分からないし、その罪というのが具体的に何なのかも分からない。だから、このような説教を聞いても理解もできないということでした。    すでに罪に慣れている私たち人間には、自分の罪に自ら気づくことが不可能なので、この問題はその兄弟だけの問題ではないでしょう。私たち皆が一度は経験したはずの問題、今後も経験していく問題であるのです。そのため、神様は私たちが私たちの罪に気づくことができるように、そこから罪の問題を解決してくださるようにいつも隣で助け、教えてくださっています。    今日の箇所でのペトロは、イエス様が自分に言われた言葉を覚えていました。しかし、それでも彼は自分が3回イエス様を否定する瞬間までも、その罪に気づけませんでした。しかしその時、鶏の二回目の鳴き声が聞こえてきました。    鶏の鳴き声を聞いて、ペトロは自分の罪に気づきました。ペトロにとって鶏のその鳴き声は単純に物理的な時間を知らせるアラームを越えて、彼に悔い改めの時間を知らせるアラームであったのです。    忙しい日常の中で、私たちは悔い改めるどころか、神様の存在さえも忘れてしまって生きていく時が良くあります。なので、私たちにも一つのルーチンのようなものがあると良いと思います。ペトロが罪に気づいて悔い改めることができるように知らせてくれた鶏の鳴き声のように、私たち一人一人にも私たちを悔い改めに導く何かが必要です。    神様は私たちが悔い改めることを望んでおられます。それは私たちの罪がけしからなくて、喧嘩した後先に謝ることを待っているようなことではなく、私たちを赦してくださるためにその悔い改めを望んでおられるのです。そして、その悔い改めに至る道まで準備してくれます。時には御言葉で、賛美で、礼拝で、時には日常の中で私たちを悔い改めに導く神様の信号にいつも耳を傾けて生きていくことが大切です。  https://youtu.be/k1PIYMIRIsE?si=T8kHFJgfUwLE3NV9

마가복음 묵상 【회개의 알람】 20240217(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

마가복음 14:66-72 14:66 베드로는 아랫뜰에 있더니 대제사장의 여종 하나가 와서 14:67 베드로가 불 쬐고 있는 것을 보고 주목하여 이르되 너도 나사렛 예수와 함께 있었도다 하거늘 14:68 베드로가 부인하여 이르되 나는 네가 말하는 것이 무엇인지 알지도 못하고 깨닫지도 못하겠노라 하며 앞뜰로 나갈새 14:69 여종이 그를 보고 곁에 서 있는 자들에게 다시 이르되 이 사람은 그 도당이라 하되 14:70 또 부인하더라 조금…