ヨハネによる福音書 黙想 【私はイエスを知らない】 20250305(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 18:15~27 18:15 シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、 18:16 ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。 18:17 すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。 18:18 しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。 18:19 大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。 18:20 イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。 18:21 なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」 18:22 イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。 18:23 イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」 18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。 18:25 さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。 18:26 大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」 18:27 ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。   ペテロがイエス様を否認する場面は、聖書の中でも最も悲しい瞬間の一つです。彼はこの記憶を生涯抱え、深く嘆いたことでしょう。そして、この本文を読む私たちも、その場面を思い浮かべるだけで深い悲しみを感じます。信仰の英雄譚として語られたならばよかったのかもしれませんが、ペテロには誇れるものは何もありませんでした。彼は誰よりも熱心にイエス様に従いましたが、身の危険を感じた途端にイエス様を否認してしまいました。それは単なる過ちではなく、ペテロが自身の弱さと人間的な限界を悟る過程だったのです。 しかし、この悲しみと恥の感情は、もしかするとペテロが自らの使命を果たすための前提となっていたのかもしれません。信仰は、神様の恵みのうちに罪を自覚し、キリストの救いの必要性を認識することから始まります。福音を受け入れた信仰者には誇るべきものは何もありません。私たちは皆、自分の小ささ、弱さ、悪を認識し、罪を認めるその惨めさの中で、信仰を始めるのです。 逆説的ですが、ペテロは朝、鶏の鳴き声を聞くたびに、福音へと立ち戻る準備が整っていったのでしょう。もはや自ら誇れるものも、自信を持てるものも何もありませんでした。彼の内にあった情熱さえも、信仰ではなかったことを悟りました。今や、彼はただイエス・キリストの憐れみと救いの成就に頼り、福音の前で自分自身を透き通るように映し出していました。この本文は、ペテロにとっても、私たちにとっても、それを知るだけで十分であることを語っています。偉大さや誇り、強さや能力を信仰の前面に押し出そうとする人々によって、キリスト教信仰は常に危機にさらされてきたのです。 厳密に言えば、ペテロは信仰を捨てたのではありません。しかし、彼はヨハネによる福音書18章の時点で、自らの信仰を完全に理解できず、弱さの中で揺れ動いていました。彼は確かにイエス様に従っていましたが、なぜイエス様を信じなければならないのかを明確には理解していませんでした。だからこそ、彼が三度繰り返した 私はイエスを知らないという言葉は、文字通りに捉えれば間違いではありませんでした。経験的に見ても、ペテロはまだイエス様が誰なのかを完全には理解していなかったのです。 しかし、ペテロは今、自分が何者であるかを学んでいる最中です。彼は、自らの弱さ、臆病さ、偽善的な姿を知ることになります。しかし、イエス様が誰であるかを知るには、もう少し時間が必要でした。しばらく経てば、イエス様が約束された聖霊が訪れ、イエス様が誰であり、何を成し遂げられたのかを示してくださるでしょう。自己を知ることと、イエス・キリストを知ることは密接に関係しているからです。  

요한복음 묵상 【나는 예수를 모릅니다】 20250305(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 18:15~27 18:15 시몬 베드로와 또 다른 제자 하나가 예수를 따르니 이 제자는 대제사장과 아는 사람이라 예수와 함께 대제사장의 집 뜰에 들어가고 18:16 베드로는 문 밖에 섰는지라 대제사장과 아는 그 다른 제자가 나가서 문지키는 여자에게 말하여 베드로를 데리고 들어왔더니 18:17 문 지키는 여종이 베드로에게 말하되 너도 이 사람의 제자 중 하나가 아니냐 하니 그가 말하되…

ヨハネによる福音書 黙想 【父がわたしに下さった杯】 20250304(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 18:1~14 18:1 これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。 18:2 一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。 18:3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。 18:4 イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。 18:5 彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。 18:6 イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。 18:7 イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。 18:8 イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」 18:9 これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。 18:10 シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。 18:11 イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」 18:12 一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、 18:13 まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。 18:14 カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。   イスカリオテのユダはイエス様を売るために出て行き、兵士たちや大祭司の護衛たちを連れてきました。これは、イエス様を大祭司に引き渡すためでした。ペテロは剣を抜き、大祭司のしもべマルコの耳を切り落としましたが、イエス様はペテロを止め、ご自身を自ら捕えさせ、縛られたまま連れて行かれました。イエス様はユダを制止することもなく、兵士たちに抵抗することもありませんでした。しかし、ただ剣を抜いたペテロだけは止められました。ペテロの心情は理解できますが、この物語の流れを最も妨げる存在はペテロだったからです。 では、イエス様が捕らえられたことについて、誰を責めるべきでしょうか?イスカリオテのユダがイエス様を売ったからでしょうか?大祭司が殺害を企んだからでしょうか?イエス様を見捨てて逃げた弟子たちを非難すればいいのでしょうか?私たちはこれまで、誰かを責めたり非難したりする視点でこの物語を読んできました。しかし、イエス様は裏切られなければならず、捕らえられなければならず、引き渡されなければならなかったのです。この物語が進む理由は、私の罪のためです。私の罪のためにユダはイエス様を売り、私の罪のために大祭司は殺害を企み、私の罪のために兵士たちは出動し、私の罪のために弟子たちは逃げ、イエス様は捕らえられました。イエス様はこれを「父が与えられた杯」と言われました。 いまヨハネによる福音書18章を読んでいる私たちは、全知的読者の視点に立っています。この物語がどのように展開し、その出来事がどんな意味を持つのか、すでに知っています。では、この視点に立った私たちは、イエス様を応援することができるでしょうか?私の代わりに死ぬために捕らえられていく姿を、どう応援できるでしょうか?私の代わりに死ななければならない道を進んでいる誰かを非難することも、応援することもできません。非難する資格がないだけでなく、応援する図々しさもありません。この物語の中で、私はどこかに立っていなければなりません。ただ、戸惑いながら、イエスが父から受けた杯を取るのを見つめているだけです。

요한복음 묵상 【아버지께서 주신 잔】 20250304(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 18:1~14 18:1 예수께서 이 말씀을 하시고 제자들과 함께 기드론 시내 저편으로 나가시니 거기 동산이 있는데 제자들과 함께 들어가시다 18:2 거기는 예수께서 제자들과 가끔 모이시는 곳이므로 예수를 파는 유다도 그곳을 알더라 18:3 유다가 군대와 및 대제사장들과 바리새인들에게서 얻은 하속들을 데리고 등과 홰와 병기를 가지고 그리로 오는지라 18:4 예수께서 그 당할 일을 다 아시고 나아가 가라사대…

ヨハネによる福音書 黙想 【つながる関係】 20250303(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 17:20~26 17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。 17:21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。 17:22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。 17:23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。 17:24 父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。 17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。 17:26 わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」 ヨハネの福音書17章の祈りは、イエス様の大祭司的祈りと言われます。祈りを超えて、教会と信仰の本質を説明する神学的宣言の役割を果たしています。17章は、すべてが関係の中で説明されます。神様とイエス様、イエス様と弟子たち、弟子たちと未来の不特定多数の聖徒たちとの関係です。イエス様と神様は互いに「私のうちにおられる」と言われることで、三位一体的関係を表し、イエス様と神様が本質的に一つであることを語っておられます。 世は神様を知りませんが、イエス様は神様を知っておられます。そして、イエス様を通して弟子たちは神様を知るようになります。弟子たちは福音を伝え、それによって将来救われる聖徒たちは再びこの関係へとつながります。結局、聖徒は神様との関係へと結びついていきます。すべての関係は有機的につながっています。福音の中にある聖徒は、イエス様が神様と結んでいる親密な関係の中へと招かれた存在であり、それはすなわち、聖徒の交わりが神様との交わりという関係へとつながることを意味します。 神様がイエス様に与えられた栄光とは、神様の本質と臨在です。イエス様は弟子たちに、そして弟子たちを通して聖徒たちにそれを分け与えられました。ここで重要なのは、三位一体のように聖徒も一つになることです。神様とイエス様が一体の関係の中で一つであるように、聖徒たちも教会を通して分裂することなく、一つとなるべきです。教会共同体は、個々の存在が集まった集団ではなく、有機的な関係を持つ神様の国の共同体であるべきです。 神様がイエス様のうちにおられ、イエス様が聖徒たちのうちにおられるという連合関係の根拠を通して、聖徒は一つになることができます。神様とイエス様と聖霊様は三位一体の連合を成し、イエス様と聖徒はキリストとの連合を成し、聖徒同士の連合は神様を現します。これは組織的な効率性のためではなく、共同体の中に一体となる三位の神様がおられるということを世に対する証しとするためのものです。教会の一致は、世に神様を現す聖徒のしるしです。イエス様の祈りは、神論、キリスト論、聖霊論、教会論を包括し、教会と信仰の基礎を教えておられます。

요한복음 묵상 【이어지는 관계】 20250303(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 17:20~26 17:20 내가 비옵는 것은 이 사람들만 위함이 아니요 또 저희 말을 인하여 나를 믿는 사람들도 위함이니 요17:21 아버지께서 내 안에 내가 아버지 안에 있는 것 같이 저희도 다 하나가 되어 우리 안에 있게 하사 세상으로 아버지께서 나를 보내신 것을 믿게 하옵소서 요17:22 내게 주신 영광을 내가 저희에게 주었사오니 이는 우리가 하나가 된것 같이…

ヨハネの福音書 黙想 【神の子の祈り】 20250301(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 17:1-8 17:1 これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。 17:2 あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。 17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。 17:4 わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。 17:5 父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。 17:6 あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。 17:7 あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。 17:8 あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。  イエス様は弟子たちを教えられた後、彼らのために祈られました。 これまでイエス様が待っていたその時、今日の祈りの始まりでイエス様はその「時が来ました」と祈られます。 その時はイエス様が十字架につけられる時、それと同時にご自分の人々にご自分がなさることを明らかに教えられる時であったのです。    その時の始まりをイエス様は祈りをもって、神様のために、そして人々のための祈りで始めておられます。 神様が御言葉を通して教えてくださった最大の戒め、神を愛し、隣人を愛すること、その戒めの実践の模範を示しておられるのです。    聖書は神の子であるイエス・キリスト、そしてそのお方の御霊である聖霊を通して私たちが「神の子どもとなる特権」を得たと語っています。 私たちが三位一体の神様であるイエス様そのものになるわけではありませんが、世界が始まる前からともにしていた三位一体の神様の交りの中に私たちを神の子どもとして加えてくださったのです。    イエス様がまさにこの神様の子供になった者たちの模範となります。 そして今日の祈りも同じです。 神様の子供はこのように祈るべきなのです。    私たちの祈りは現実のこと、目の前に迫ってきた苦難や、そのことへの希望などに簡単にその時間も、内容も奪われてしまいます。 忙しい日常の中で祈ることを後回しにし、ようやく確保できた祈りの時間さえも、現実の問題のために祈り、そのまま終わってしまうことが起こりうる弱さを持っている存在が、私たち人間なのです。    しかし、イエス様はご自分のその‘時’をお祈りで始められました。 そしてその内容は、目の前に迫ってきた十字架の苦痛を乗り越えるための祈りでも、神様への不平不満でもなく、神様のための祈り、そしてご自分の人々のための祈りでした。    神様の子どもであるイエス様のこのような姿を私たちが見習わなければならない理由は、私たちがまさにその方によって、神の子供になった者たちであるからです。 https://youtu.be/UB9rZKw7s1M?si=3UQtK5JqUwCm9JK_

요한복음 묵상 【하나님 자녀의 기도】 20250301(토) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 17:1-8 17:1 예수께서 이 말씀을 하시고 눈을 들어 하늘을 우러러 이르시되 아버지여 때가 이르렀사오니 아들을 영화롭게 하사 아들로 아버지를 영화롭게 하게 하옵소서 17:2 아버지께서 아들에게 주신 모든 사람에게 영생을 주게 하시려고 만민을 다스리는 권세를 아들에게 주셨음이로소이다 17:3 영생은 곧 유일하신 참 하나님과 그가 보내신 자 예수 그리스도를 아는 것이니이다 17:4 아버지께서 내게 하라고 주신…

ヨハネの福音書 黙想 【凱旋】 20250228(金) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 16:25-33 16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。 16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。 16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。 16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」 16:29 弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。 16:30 あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」 16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。 16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。 16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」  現代のように通信技術が発達されていなかった昔の時代、戦争の勝敗を知るためには必ず誰かがそのお知らせを伝えに来なければなりませんでした。 そのため、ある人たちは不安に怯えながら、ある人たちは期待を持ってそのお知らせを伝えに来る人を待っていたでしょう。    イエス様が来られる前の時代、すでに多くの人が罪と闘いながら、いずれ神様が勝利されることを待っていました。 そこにはすでに神様が勝利されたことを確信していた人たちもいます。 しかし、彼らが直接その勝利を見ることはできませんでした。 ただ、信仰でその勝利を確信していただけです。 彼らは勝利のお知らせを聞いたのではありません。 ただ圧倒的な戦力の差で、この戦いは勝つしかないと確信していたのです。  そして、今の私たちもなお、いつも私たちの目の前にある罪の問題と戦っています。 私たちはそのような霊肉の苦難の中で、何を希望として生きていけるのでしょうか。 それは、そのすべての問題をイエス様がすでに打ち勝ったということ、その勝利のお知らせです。  私たちはその勝利の知らせを聞くために遠くに行かなくても良いです。 これ以上比喩を通してその勝利を予測しなくてもいいです。 その勝利したイエス様が送ってくださったご自身の霊が、私たちにその勝利のお知らせを伝え、イエス様が勝利されただけでなく、私たちもなおその戦いで勝利したことを伝えてくださるからです。  今の私たちが信じるべきことは、徹底した分析により予測された勝利、比喩を通して予想される勝利ではなく、勝利されたそのお方が送ってくださった聖霊が、私たちに伝えてくださった確実な勝利のお知らせ、その「良い知らせ」なのです。 それがまさに「福音」です。  私たちはこの良いお知らせによって、やがてこの世の中に生きていきながらも、イエス様の中で平安を得て、勇気を持つことができるのです。 https://youtu.be/oA7pzzRheFc?si=62LvYPYJMmTZG6Rb

요한복음 묵상 【승전보】 20250228(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 16:25-33 16:25 이것을 비유로 너희에게 일렀거니와 때가 이르면 다시는 비유로 너희에게 이르지 않고 아버지에 대한 것을 밝히 이르리라 16:26 그 날에 너희가 내 이름으로 구할 것이요 내가 너희를 위하여 아버지께 구하겠다 하는 말이 아니니 16:27 이는 너희가 나를 사랑하고 또 내가 하나님께로부터 온 줄 믿었으므로 아버지께서 친히 너희를 사랑하심이라 16:28 내가 아버지에게서 나와 세상에…