요한복음 묵상 【내가 곧 길이요】 20250220(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 14:1~14 14:1 너희는 마음에 근심하지 말라 하나님을 믿으니 또 나를 믿으라 14:2 내 아버지 집에 거할 곳이 많도다 그렇지 않으면 너희에게 일렀으리라 내가 너희를 위하여 처소를 예비하러 가노니 14:3 가서 너희를 위하여 처소를 예비하면 내가 다시 와서 너희를 내게로 영접하여 나 있는 곳에 너희도 있게 하리라 14:4 내가 가는 곳에 그 길을 너희가 알리라…

ヨハネによる福音書 黙想 【わたしが道である】 20250220(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 14:1~14 14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。 14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」 14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」 14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」 14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。 14:10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。 14:11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。 14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。 14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。 14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。   イエス様が「父の家に住む場所を用意しに行く」と言われたとき、トマスは「イエス様が先に行ってしまわれると、自分たちはその道を見つけることができないのではないか」と心配しました。トマスは物理的な意味での道について心配していましたが、イエス様はこう答えられました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。ヨハネ 14:6」 イエス様を伝えることを「伝道」と言います。それは「道を伝えること」です。私たちはイエス様について行って、どこかの道を歩むのではなく、イエス様ご自身が道なのです。イエス様を信じて何かをしなければならないのではなく、イエス様を信じることが信仰であり、救いなのです。イエス様とともに歩むことが、そのまま道となります。自分で道を作り、真理を探し、いのちを得ようとする人は、やがて忙しさに疲れ果て、最後には虚しさに陥ってしまいます。しかし、イエス様の中にいることが、「道」と「真理」と「いのち」を持つことなのです。私たちは、「イエスを信じる」ということが何を意味するのか、より真剣に考えざるを得ません。 今回は、ピリポが「父を見せてください」と言いました。トマスはイエス様に「道を示してください」と求め、ピリポは「神を見せてください」と求めました。しかし、その答えは、すぐ目の前におられるイエス様でした。イエス様は「わたしと父とは一つである」と宣言され、イエス様を見ることが、神を見ることであると教えられました。イエス様と共に歩むことが「道」であり、イエス様と共にいることが「神と共にいること」なのです。 現代では、イエス・キリストの唯一性が独善的だと見なされることがあります。しかし、イエス・キリストなしに天国へと続く道はなく、イエス・キリストなしに混沌とした偽りの世の中で真理を見出すことはできず、イエス・キリストなしにいのちを得ることもできません。すべての中で最も明確で、確実に確保された安全な場所、それはイエス・キリストの中にいることです。 イエスの中にいることとは、御言葉の中にいることを意味します。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネ 1:14」人が「イエスの中にいる」と言うならば、その人は御言葉の中に生きることによって、それを証明しなければなりません。イエスの中にいるとは、自らの言葉と人格を通して、聖書と深く交わっている状態のことなのです。

ヨハネによる福音書 黙想 【新しい戒め】 20250219(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 13:31~38 13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。 13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。 13:33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。 13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」 13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」 13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」 13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」   イエス様が与えられた新しい戒めは、「互いに愛し合いなさい」というものです。古い戒めは、条文として記された律法でしょう。イエス様の意図は、律法の条項をすべて守ろうとする宗教的な努力ではなく、互いに愛し合うという人格的で関係的な要求です。 この言葉は難しいものです。律法を守ろうとしたことのある人、あるいは兄弟を愛そうとしたことのある人ならば、それがどちらも不可能であることを悟るからです。私たちは「律法ではなく信仰だ」と簡単に言いますが、その信仰がすなわち愛であるならば、愛を実践することは律法を守ることよりもさらに困難かもしれません。だからこそ、人々はむしろ決められたものを守るというやり方、すなわち律法主義的な信仰の中で、自分の信仰を確認しようとするのです。 ここで言われている愛とは、どのような愛でしょうか?守る力がないのに、無限に守らなければならない律法と同じように、実践する力がないのに、無限に愛し続けなければならないということでしょうか? どこまで愛せば、この愛に該当するのでしょうか? それは、兄弟を受け入れ、寛容に接する愛ではないでしょうか?無理に引き寄せて多くのことをしてあげる必要はありません。拒絶せずに受け入れるだけで、愛することができます。好きになれなくても、憎まないだけで愛することができます。非難せず、悪口を言わないだけでも、愛することができます。 実際の教会共同体で起こる争いは、「もっと良くしてあげないこと」が原因ではなく、「非難し、憎むこと」から始まるものです。あの人はそういう人だと認め、受け入れ、ともに生きること。それこそが、新しい戒めを守る愛なのです。

요한복음 묵상 【새 계명】 20250219(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 13:31~38 13:31 저가 나간 후에 예수께서 가라사대 지금 인자가 영광을 얻었고 하나님도 인자를 인하여 영광을 얻으셨도다 13:32 만일 하나님이 저로 인하여 영광을 얻으셨으면 하나님도 자기로 인하여 저에게 영광을 주시리니 곧 주시리라 13:33 소자들아 내가 아직 잠시 너희와 함께 있겠노라 너희가 나를 찾을터이나 그러나 일찍 내가 유대인들에게 너희는 나의 가는 곳에 올 수 없다고 말한…

ヨハネによる福音書 黙想 【イエス様に受け取ったパン切れ】 20250218(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 13:21~30 13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」 13:22 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。 13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。 13:24 そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。 13:25 その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」 13:26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。 13:27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」 13:28 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。 13:29 ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。 13:30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。   イスカリオテのユダはイエス様を裏切ります。この本文は解釈や理解が難しいものです。物語の流れは分かりますが、その構造について説明することができません。ユダが自らの意志でイエス様を裏切ったのか、それともイエス様がユダを利用されたのか。ユダの中にサタンが入ったのであれば、なぜイエス様はそれを止められなかったのか。彼はもともとそのような役割を定められていたのか、それとも彼自身の意志の結果なのか。彼は今どこにいるのか――どのような答えを出しても、その反対の問いに完全に答えることはできません。神様のパズルは神様だけがご存じであり、私たちはその一部分しか見ることができません。そのため、すべてに自信を持って答えられないこともあります。 しかし、私たちはイスカリオテのユダの役割、すなわちイエス様が十字架へ向かう道には、肯定的であれ否定的であれ、多くの役割や出来事が必要だったことを知っています。「イエス様が無実の罪で死なれた」というのは、イエス様に罪がなかったことを意味しますが、「十字架で死なれたことが不当であった」という意味ではありません。なぜなら、イエス様はそのために来られたからです。そして、イエス様はその死を通して贖いを完成されるのです。したがって、人々の陰謀や裏切りさえも、救いの歴史を成し遂げる上で一つのピースとなったことは確かです。しかし、それが強制されたわけではないでしょう。そのピースを握りたくなければ、握らなかったはずです。もし人が神様からの使命を受け入れなければ、神様は別の人を通して働かれます。自由意志は、使命の前にも滅びの前にも、同じように与えられています。 ユダはイエス様の預言どおり、一つのパン切れを受け取り、外へ出て行きました。ヨハネによる福音書には聖餐に関する記述はありませんが、他の福音書を参考にして時間の流れを考えると、ユダが受け取ったパン切れはこれから始まる聖餐で用いられる過越しのパンだったでしょう。それは本来、キリストと結ばれるための主の御体ですが、ユダにとってはイエス様を裏切り、売ることのしるしとなりました。同じパンでも、その用途は異なっていたのです。 ユダがイエス様を売ったからといって、その計画が水泡に帰し、状況が覆ったわけではありません。神様の救済の歴史は、壮大な流れの中で進んでおり、ユダはその一切れの人生を生きただけなのです。なぜユダだったのか、それに対する神様のご計画というのは分かりません。しかし、私が知っているのは、私の信仰と人生もまた、一つのピースであるということです。人間の善と悪、信仰と不従順は、神様のパズルを変えることはできません。私たちはただ、自分のピースがどこに収まるべきなのか、恐れをもって生きなければならないのです。一切れのパン、銀三十枚を手にして裏切る人生を歩むべきではありません。信仰のに立ち、真実と良心の一切れとなり、恥じることのないピースとして生きていくことを願います。

요한복음 묵상 【예수님께 받은 한 조각】 20250218(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 13:21~30 13:21 예수께서 이 말씀을 하시고 심령에 민망하여 증거하여 가라사대 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 너희 중 하나가 나를 팔리라 하시니 13:22 제자들이 서로 보며 뉘게 대하여 말씀하시는지 의심하더라 13:23 예수의 제자 중 하나 곧 그의 사랑하시는 자가 예수의 품에 의지하여 누웠는지라 13:24 시몬 베드로가 머릿짓을 하여 말하되 말씀하신 자가 누구인지 말하라 한대 13:25…

요한복음 묵상 【서로 발을 씻기는 것이 옳으니라】 20250217(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 13:12~20 13:12 저희 발을 씻기신 후에 옷을 입으시고 다시 앉아 저희에게 이르시되 내가 너희에게 행한 것을 너희가 아느냐 13:13 너희가 나를 선생이라 또는 주라 하니 너희 말이 옳도다 내가 그러하다 13:14 내가 주와 또는 선생이 되어 너희 발을 씻겼으니 너희도 서로 발을 씻기는 것이 옳으니라 13:15 내가 너희에게 행한것 같이 너희도 행하게 하려하여 본을…

ヨハネによる福音書 黙想 【互いに足を洗い合う】 20250217(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 13:12~20 13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。 13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。 13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。 13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。 13:16 まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。 13:17 これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。 13:18 わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。 13:19 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。 13:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」   古代中東では、サンダルのような履物を履いており、土ぼこりで足が汚れると、家に入る前に足を洗わなければなりませんでした。奴隷制度があった時代、主人の足を洗うことは奴隷の役割でした。客を迎える際に足を洗ってあげることは歓待の意味を持ち、奴隷を使う家庭では奴隷が主人や客の足を洗いました。 ところが、イエス様は弟子たちの足を洗われました。それは弟子たちにとって、受け入れ難いほどの畏れ多いことでした。洗足が終わった後、イエス様はその意味を語られ、弟子たちに互いの足を洗うようにと命じられました。奴隷がすべきことをイエス様ご自身が模範として行われたのですから、互いに足を洗うようにという命令に、誰も異議を唱えることはできませんでした。 教会では、洗足式は珍しくありません。仕える決意を込めて、牧師が聖徒の足を洗うこともあれば、教会学校の教師が子どもたちの足を洗うこともあります。そのたびに、謙虚に自らを低くし、他者に仕える決意が新たになります。足を触れ、洗ってあげることは、謙遜であり、尊重であり、親しさの表れです。 しかし、それはあくまで儀式であり、イベントです。一年に一度の洗足式では、「足が汚くて洗えない」と言う人はいませんが、「あの人が嫌だからこの教会にはもう来たくない」と言う人は数え切れないほどいます。洗足式はできても、兄弟の憎しみを洗い流すことは難しいのです。 聖餐式が、単に物理的な意味でパンとぶどう酒を食べることではなく、キリストの血と肉が聖徒の体の中で結びつく化学的な作用であるならば、洗足式は水で兄弟の足を洗う物理的な洗浄ではなく、赦しと受け入れによって互いを包み込む関係の浄化を意味します。あの人を受け入れ、抱きしめることができない洗足式は、無意味なのです。 韓国語では、悪い行いをやめることを「手を洗う」と言いますが、日本語では「足を洗う」と表現します。争いをやめ、互いの足を洗って対立や分裂から「足を洗う」べきではないでしょうか?いわゆる保守と進歩に分かれて争うキリスト教徒たちが、キリストの教えに従って広場にたらいを持ち寄り、洗足式をしてみるのはどうでしょうか?

ヨハネによる福音書 黙想 【広場を通るろばの子】 20250212(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 12:12~19 12:12 その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、 12:13 なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」 12:14 イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。 12:15 「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」 12:16 これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。 12:17 さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。 12:18 群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。 12:19 それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」     時は過ぎ越しの祭りであり、すべてのユダヤ人がエルサレムに集まっていました。イエス様がエルサレムに入られると、人々はナツメヤシの枝を手にし、「ホサナ!」と叫びながらイエス様を歓迎しました。イエス様の人気は最高潮に達していました。しかし、その人気は政治的な人物を歓迎するものでした。長年の圧政に疲れ果てたユダヤ人たちは、ローマからユダヤを救う政治的英雄を待ち望んでいたのです。 イエス様はエルサレムに入る際、ゼカリヤ書9章の預言を成就するために、子ろばに乗って入られました。小さなろばに座るイエス様の姿は、ご自身が政治的英雄ではないことを雄弁に物語っていました。馬に乗り、高いところから人々を見下ろすのではなく、人々の目線に合わせて挨拶し、子ろばの行列を進まれたのです。弟子たちは、なぜ子ろばなのか理解できず、それを不満に思ったかもしれません。しかし、後になってその意味を悟ることになります。 ナザロの奇跡を目の当たりにした多くの人々がその出来事を証言しながら、イエス様の行列に加わりました。そして、人々の歓声はますます高まっていきました。しかし、パリサイ人たちはイエス様の人気に危機感を覚えました。彼らは政治的な理由でイエス様を警戒し、人々は政治的な理由でイエス様を歓迎していました。しかし、イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入られたことは、彼らの期待とは全く異なるものでした。 イエス様がエルサレムに向かわれたのは、政治的な勝利を得るためではなく、罪の代価を支払うための法的手続きを遂行するためでした。イエス様は軍隊を率いてローマと戦うことなく、罪を背負い、十字架で死なれる道を選ばれました。人々はイエス様が政治的に勝利することを望みましたが、イエス様は死ぬためにエルサレムへ向かわれたのです。 キリスト教の政治勢力化は、最も基本的な誤解です。イエス様は政治を通じて正義を実現するために来られたのではありません。政治は正義を扱う場ではなく、人々の生計を支える仕組みであり、そこには複雑な利害関係が絡み合っています。各々の正義の尺度は誤解や扇動を生み、敵意や暴力を生み出すだけです。 今、政治目的で動員されたキリスト教徒は、お互いに殺せと叫び合っています。その叫びの中を、イエス様は静かに子ろばに乗って通り過ぎておられます。ご存じでしょうか?かつて政治的な目的でイエス様を熱烈に歓迎した人々が、すぐに十字架につけろと叫んだことを。今、広場では正義が叫ばれているのではなく、政治的権力を求める人々によって扇動された群衆がいるだけです。信仰が政治的利益の道具として利用されてもよいのでしょうか?私たちは、壇上で叫ぶ者たちの怒りや扇動に巻き込まれるのではなく、子ろばに乗られた、小柄なイエス様の謙遜と献身を見つめ、従わなければなりません。

요한복음 묵상 【광장을 지나는 나귀 새끼】 20250213(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 12:12~19 12:12 그 이튿날에는 명절에 온 큰 무리가 예수께서 예루살렘으로 오신다 함을 듣고 12:13 종려나무 가지를 가지고 맞으러 나가 외치되 호산나 찬송하리로다 주의 이름으로 오시는 이 곧 이스라엘의 왕이시여 하더라 12:14 예수는 한 어린 나귀를 만나서 타시니 12:15 이는 기록된바 시온 딸아 두려워 말라 보라 너의 왕이 나귀 새끼를 타고 오신다 함과 같더라 12:16…