요한복음 묵상 【모독 당하는 신성】 20250207(금) 에다가와 사랑의교회 최종석 전도사

요한복음 10:32-42 10:32 예수께서 대답하시되 내가 아버지로 말미암아 여러 가지 선한 일로 너희에게 보였거늘 그 중에 어떤 일로 나를 돌로 치려 하느냐 10:33 유대인들이 대답하되 선한 일로 말미암아 우리가 너를 돌로 치려는 것이 아니라 신성모독으로 인함이니 네가 사람이 되어 자칭 하나님이라 함이로라 10:34 예수께서 이르시되 너희 율법에 기록된 바 내가 너희를 신이라 하였노라 하지 아니하였느냐…

요한복음 묵상 【존재는 관계 속에서 성립한다】 20250206(목) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 10:22~31 10:22 예루살렘에 수전절이 이르니 때는 겨울이라 10:23 예수께서 성전 안 솔로몬 행각에서 다니시니 10:24 유대인들이 에워싸고 가로되 당신이 언제까지나 우리 마음을 의혹케 하려나이까 그리스도여든 밝히 말하시오 하니 10:25 예수께서 대답하시되 내가 너희에게 말하였으되 믿지 아니하는도다 내가 내 아버지의 이름으로 행하는 일들이 나를 증거하는 것이어늘 10:26 너희가 내 양이 아니므로 믿지 아니하는도다 10:27 내…

ヨハネによる福音書 黙想 【存在は関係の中で成り立つ】 20250206(木) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 10:22~31 10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。 10:23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。 10:24 ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」 10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、 10:26 あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。 10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。 10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。 10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。 10:30 わたしと父とは一つです。」 10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。   イエス様の羊になることは、自由意志による選択なのか、それとも神様の予定によるものなのか?この本文は、人間の自由意志と神の予定論の間にあった長年の課題を再び呼び起こします。しかし、問題が難しいときは、まず解決できることから考えるのがよいでしょう。確かなことは、良い牧者とその羊との間には、絶対的な信頼と安定が存在するということです。羊がどのようにして羊飼いの羊になったのかを認識論的に説明できないとしても、羊は現在、存在論的な安定と幸福の中にいます。たとえば、幸福な家庭において、それが運命的な必然によるものか、意志的な選択によるものかを悩むことはありません。形而上学的な起源ではなく、お互いの関係に集中するからこそ、今の幸福があるのです。重要なのは、自分が羊なのかそうでないのか、自分が属しているのか属していないのかを考えることです。 イエス様はここで、もう一つの本質的な関係について語られます。「わたしと父とは一つです 30」イエス様は、父なる神様との存在論的な一体性を語られました。人の子は人であり、神の子は神です。イエス様と神様の関係は、帰属の関係ではなく、存在論的な一体です。幸福な家庭が関係の中で幸福を得るように、イエス様もまた、神様との関係の中で幸福を得ています。そして、羊も牧者の中で幸福を得るのです。鶏が先か卵が先かを問わないように、羊飼いであるイエス様が羊について語られるときも、神の子であるイエス様が父なる神様について語られるときも、関係の中での安定と幸福をもって語られます。神様の選びなのか人間の意志なのかという問いは、それほど重要ではありません。今、神様との関係の中で幸福を感じている人は、改めて最初に戻り、その難しい問題を自分なりの方法で、自分の言葉で、自分の経験を通して解くことができるようになるでしょう。

요한복음 묵상 【나는 선한 목자라】 20250205(수) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 10:11~21 10:11 나는 선한 목자라 선한 목자는 양들을 위하여 목숨을 버리거니와 10:12 삯군은 목자도 아니요 양도 제 양이 아니라 이리가 오는 것을 보면 양을 버리고 달아나나니 이리가 양을 늑탈하고 또 헤치느니라 10:13 달아나는 것은 저가 삯군인 까닭에 양을 돌아보지 아니함이나 10:14 나는 선한 목자라 내가 내 양을 알고 양도 나를 아는 것이 10:15 아버지께서…

ヨハネによる福音書 黙想 【わたしは良い牧者です】 20250205(水) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 10:11~21 10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。 10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。 10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。 10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。 10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。 10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。 10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」 10:19 これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。 10:20 彼らのうちの多くの人が言った。「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」 10:21 ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」   イエス様は良い羊飼いとして、ご自身の命を羊のために捨てると語られ、その反対の意味として雇い人を批判されました。雇い人(hireling)とは、全責任を負うことなく、決められた時間や限られた役割の中で働く雇われた者のことを指します。したがって、雇い人という言葉自体が悪い意味を持つわけではありません。しかし、ここでは責任を負わずに権利ばかりを求める人、つまり自分に利益がなく、損失や危険が伴うと羊を捨てて逃げるような人を指します。当時のユダヤの宗教は、民を守ることができるはずもありませんでした。 社会人にとって、報酬や利益は誰にとっても重要なものですが、すべてがそのような仕組みで動くわけではありません。子どもへの愛は、見返りがなくてもより多く注ごうと努力するのが、普通の親の心です。もし親が金銭を受け取り、決められた時間と限られた役割のみを果たし、それ以外の責任を負おうとしなかったら、人々はその人が本当に親であるのか疑うでしょう。オーナーシップを持つ人は、常に全体に対する関心を失うことはありません。使命感を持つ人は、その報酬や利益がどのようなものであれ、責任を果たそうとします。責任を負おうとしない時代だと言われていますが、家庭、教会、職場のすべての共同体は、今もなお使命感を持ち、責任を果たす人を求めています。 しかし、ヨハネによる福音書10章で語られている良い羊飼い、真の羊飼いとは、良い牧師や悪い牧師のことを指しているのではありません。人間は誰も、人間を対象に良い羊飼い(Good Shepherd)となることはできません。私たちの羊飼いは、ただイエス様だけです。良い牧師とは、良い羊飼いであるイエス様に従い、駆け回る羊飼い犬(Sheepdog)のような存在です。誰一人として、十字架を背負い、代わりに死ぬことができる羊飼いがいなかったからこそ、イエス様が来られたのです。イエス様は報酬を得るために来られたのではありません。使命を持ち、全責任を負うために来られました。私たちを救い、最後まで責任を負うのは、人間ではなくイエス様です。人がイエス様の声を聞くためには、必死の努力をしなければなりません。

ヨハネによる福音書 黙想 【真偽の判別】 20250204(火) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 10:1~10 10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。 10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。 10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。 10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。 10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」 10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。 10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。 10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。 10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。   羊飼いが羊の囲いに入る時は、正当な出入り口を通るでしょう。しかし、強盗や盗人ならば門からではなく、塀を越えて入ってくるのです。盗人は盗むために、殺すために、滅ぼすために来ます。しかし、真の羊飼いは不法を犯さず、自分の責任の領域にあるため、正当な方法を取ります。羊は羊飼いを知っており、その声を聞いて従います。イエス様は、真の羊飼いは命を守り、命を与え、それをさらに豊かにしてくださるのだと語られました。 ヨハネの福音書10章は9章と関係を持ち、続いています。パリサイ人たちは自己矛盾に陥り、イエス様の奇跡を否定し、盲人を会堂から追い出しました。自分たちは律法の指導者であると主張しながらも、真理を無視し、律法を悪用し、善良な一人の人を再び窮地に追い込みました。それは羊の立場を顧みる羊飼いがすることではありません。不法に垣を越えて貴重な権利を侵害する強盗こそ、まさにパリサイ人たちなのです。 イエス様は善き羊飼いであり、真の羊飼いです。彼は羊から何かを得ようとするのではなく、羊を愛し、羊のために働かれます。羊はその声を聞いて従います。それによってすべてが明らかになります。9章で癒された盲人のように、信仰によって目が開かれた者はイエス様について行きます。しかし、パリサイ人たちは見ても理解できず、聞いても悟れません。権力と欲望がいかに恐ろしいものであるかが露わになります。自らを欺く者は、神の声を聞く方法がないのです。 自分を救ってくださったイエス様に従おうとした盲人は、再び危機に直面し、大きな不利益を被りました。それは指導者と呼ばれ、教師と名乗る偽物たちのせいです。偽物は常に存在し、最後まで存在し続けるでしょう。しかし、偽物を責めるのではなく、不利益の中でもイエスの声に従う羊として生きるべきです。盗人がいくら多くても、羊飼いの声は常に響いています。その声を聞くことができる羊は、盗人の後を追うことはありません。 不思議なもの、騒がしいもの、有名なものの中で、真の羊飼いの声を聞かなければなりません。注意深く分別し、見極める必要がありますが、自分が羊なのか、それとも山羊なのかも判断しなければなりません。その声を聞いているのか、いないのかを確かめることが大切です。前に立つ者は、真の羊飼いとは何なのかを考え、従う羊は、その声を聞くとはどういうことなのかを深く思索すべきです。本物は本物と出会い、偽物は偽物同士で集まるのです。

요한복음 묵상 【진위의 판별】 20250204(화) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 10:1~10 10:1 내가 진실로 진실로 너희에게 이르노니 양의 우리에 문으로 들어가지 아니하고 다른데로 넘어가는 자는 절도며 강도요 10:2 문으로 들어가는 이가 양의 목자라 10:3 문지기는 그를 위하여 문을 열고 양은 그의 음성을 듣나니 그가 자기 양의 이름을 각각 불러 인도하여 내느니라 10:4 자기 양을 다 내어 놓은 후에 앞서 가면 양들이 그의 음성을 아는고로…

요한복음 묵상 【맹목의 죄】 20250203(월) 에다가와 사랑의교회 조용길 목사

요한복음 9:35~41 9:35 예수께서 저희가 그 사람을 쫓아냈다 하는 말을 들으셨더니 그를 만나사 가라사대 네가 인자를 믿느냐 9:36 대답하여 가로되 주여 그가 누구시오니이까 내가 믿고자 하나이다 9:37 예수께서 가라사대 네가 그를 보았거니와 지금 너와 말하는 자가 그이니라 9:38 가로되 주여 내가 믿나이다 하고 절하는지라 9:39 예수께서 가라사대 내가 심판하러 이 세상에 왔으니 보지 못하는 자들은…

ヨハネによる福音書 黙想 【盲目の罪】 20250203(月) 枝川愛の教会 趙鏞吉 牧師 

ヨハネによる福音書 9:35~41 9:35 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」 9:36 その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」 9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」 9:38 彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。 9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」 9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」 9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」 ヨハネの福音書9章は、イエス様が先天性の視覚障害者を癒された出来事と、それを通して展開される「見ること」と「見えないこと」に関する霊的なメッセージです。イエス様は安息日に盲人を癒され、それがきっかけで、パリサイ人たちとの安息日をめぐる議論が始まりました。パリサイ人たちは証拠を確保するために、その盲人を呼び出して調査しました。しかし、彼はヨハネの福音書5章で登場した38年間病を患っていた人とは異なり、臆病な人物ではありませんでした。そのため、イエス様に不利な証言をすることはありませんでした。自分の目を癒してくださったイエス・キリストに対して、否定的な証言をしたり、事実を歪めたりすることはできなかったからです。パリサイ人たちは、彼が説得や誘導に応じなかったため、ついに彼を追放しました。「追放した」とは、彼を会堂から除名した、すなわちユダヤ社会から排除したことを意味します。これは、住民登録が抹消されるような社会的権利の剥奪でした。彼は再び、社会的な人間としての機会を失ってしまいました。 その知らせを聞いたイエス様は、彼を探し出して、「あなたは人の子を信じるか」と尋ねられました。すると彼は、「主よ、信じたいと思います」と答えました。そして、イエス様がご自身の正体を明かされると、「主よ、私は信じます」と言い、イエス様の前にひれ伏しました。しかし、彼が語る「信じる」という言葉は、改めて考えさせられるものです。見えない人は、信じなければならないことが多くあります。人々が教えてくれることを信じなければなりません。なぜなら、疑ったとしても、それを確かめる手段がないからです。しかし、彼は今や目が見えるようになりました。それでも「信じたい」と言い、「私は信じます」と告白します。彼が語る信仰とは、単に目で見ることとは何の関係もないものでした。 ここでイエス様は、救いの原則について語られます。「見えない者は見えるようになり、見える者は見えなくなる」とおっしゃいました。このような逆説は、聖書の至るところにあります。「神はこの世の愚かな者を選んで、知恵ある者を恥じ入らせる」(コリント第一の手紙1:27)「自分の命を救おうとする者はそれを失い、命を失う者はそれを得る」(マタイの福音書16:25)「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」(マルコの福音書10:31)「自らを高くする者は低くされ、自らを低くする者は高くされる」(マタイの福音書23:12)このような逆説が多いのは、人間が愚かであり、道理に従って生きるのではなく、逆行するからです。 イエス様はパリサイ人たちに、「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」と言われました。視覚障害を持ち、学問もなかった盲人は、イエス様を見ることができました。しかし、視力があり、学問のあるパリサイ人たちは、イエス様を見ようとしませんでした。信仰とは、必死のものです。時には、信念が信仰の最大の敵となることもあります。「知っている」という傲慢、「信じている」という自己欺瞞、「見ている」という錯覚──これらから抜け出せなければ、そのまま滅びに至るしかありません。 「盲目」という言葉があります。それは、物事をよく考えずに、ただひたすら何かを信じたり、従ったりする態度を指します。言葉の本来の意味は「目が見えないこと」ですが、日常では「思考の障害」「内省の障害」として使われることが多いです。理性的な判断や主体的な意識、批判的な思考ができないときに使われます。盲目的な信念は、自分自身を滅ぼす罪です。パリサイ人たちは、自らの盲目的な信念を「信仰」だと勘違いしていました。一方、盲人だった彼は、その盲目を脱し、イエス様の人格を信じようとしました。御言葉と内省を通らない信念や情熱は、刃物になり得ます。信仰と信念の違いは、御言葉の前に立つ姿勢と態度の違いにあるのです。 Amazing Grace I once was lost, but now I’m found Was blind, but now I see https://www.youtube.com/watch?v=znMkYqAYq-I

ヨハネの福音書 黙想 【目に見えても】 20250201(土) 枝川愛の教会 崔種碩 神学生

ヨハネの福音書 9:1-12 9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。 9:2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。 9:4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」 9:6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、 9:7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。 9:8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」 9:9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。 9:10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」 9:11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」 9:12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。  人は目に見えるものに頼ってしまう傾向を持っています。 そのため、何かを認識するために、その対象を見るという行為はとても重要で、大きな意味を持っています。 このようなことで、へブル人への手紙の記者は信仰を通して私たちの目に見えない神様、そしてその約束を信頼し、実際に目の前にあるものを見ているように認識することができると、信仰について説明しました。    その逆に言えば、私たちの目に見えていても、それが全部ではないということにもなります。 実際、私たちは目に見えるものに頼るあまりに、目に見えない本質的なものを見逃してしまうことも良くあります。 今日の箇所の弟子たちや、これまでの箇所の中で登場したユダヤ人律法学者たちがその例です。    彼らは目に見える「律法」を認識し、従っていました。 そのため、今日弟子たちは生まれた時から目の見えない人を見て、その原因がその人の罪、あるいは彼の両親の罪にあると推測しました。 それが彼らが認識していた律法であったからです。    しかし、イエスは目に見える律法を越え、より根本的なところに焦点を合わせました。 まさに神様の意図でした。    生まれた時から目が見えなかった人は、この事件を通して今までイエス様を目で見てきた者たちよりも正確に、確実にイエス様について知ることになったはずです。 他の人々は見られなかったイエス様の本質を、彼は目に見えるものに頼らなかったことで、より正確に知ることができたのです。    今日の箇所の最後の節では、人々がそのイエス様がどこにいるのか、目が見えなかった人に聞きます。 今も彼らはイエス様を目で見ることを望んでいるのです。 しかし、目が見えなかった人はイエス様がどこに行かれたのかは分かりませんでした。    しかし、一つ推測できることは、人々はイエス様がどこに行かれたか探し続けても、目が見えなかった人はこれ以上イエス様がどこに行かれたのか探さなくてもよかったでしょう。 目に見えなくてもイエス様が自分と共にしていることを知ることになったからです。 https://youtu.be/bNQ2CnFGtuU?si=zRuM5llyWRv8Q3SF